水の神様を訪ねる 118 岡田金比羅様と水除堤

ハザードマップでは海抜12mほどでしょうか。

想定浸水深が「二階の軒下まで浸水する程度」の濃いピンク色に塗られた岡田地区を、南西から北東へとところどころ不自然に曲がりながら県道278号線が貫いています。

地図では集落を星状に囲むように道があるので、このあたりは微高地でしょうか。

 

マップを最大に拡大しても、拝殿の壁に「西日本豪雨水位」が表示された岡田金比羅様は描かれていないようです。

 

近くに「建物内に西日本豪雨時の写真を掲示してあります」と案内書があったので、「盛土」のような場所に立つ金比羅様を訪ねてみることにしました。

 

 

*「水除堤(みずよけづつみ)と金刀比羅宮(ことひらぐう)」*

 

境内に石碑と説明板がありました。

 この金刀比羅宮が立っている丘は、かつて全長680mにわたって岡田の陣屋町を取り囲み、町を洪水から守る役目を果たしていた水除堤の一部で、高さは3.7mある。現在では部分的にしか残っていないが、先人たちの水害とのたたかいを物語る貴重な遺跡である。当初は灌漑用水の堤防だったが、陣屋町として整備後は水害防止の堤防として二度目の役目を果たした。

 水害常襲地のこの地域を守ってきた水除堤も、明治26年(1893年)の大洪水ではこれを超え、5箇所も破堤した。その後、18年もの歳月をかけた高梁川大改修後は大洪水の危険性は減り、昭和の前期頃までは残っていた水除堤も次第に取り払われていった

 金比羅宮の創建は、いつ頃、誰の手によるものか定かではないが、境内の常夜灯に天保9年(1838年)と刻字されていることから、おそらく同年代か、それより以前であると推測できる。江戸時代、庶民の間で金比羅参りなどが盛んな頃、伊東侯の家紋である角雷(かどいかづち)が使われているが、江戸期から使われていたものなら、伊東の殿様も岡田陣屋町の安泰を願ったものと考えられる。

 甚大な被害をもたらした平成30年(2018年)の西日本豪雨の時には、拝殿まで濁水が押し寄せた。

               2023年(令和5年)3月

〜福武教育文化振興財団・岡山大学・水島工業高等学校・岡田小学校・まび創成の会〜

(強調は引用者による)

 

なんと「盛土」と思った場所が水除堤であったとは。

 

明治13年(1880)の水害、明治17年(1884)の高潮被害、そして明治26年(1893)の未曾有の惨害がきっかけとなって高梁川改修が行われ、その後一世紀ほどすぎて川を付け替える必要がある被害に再び見舞われたのでした。

 

もし先人が築いた水除堤を残していたら、そんな想いでこの真新しい説明板が作られたのでしょうか。

 

 

*拝殿の向こうに田んぼが見える金比羅様*

 

参道の外から見ると不思議な建物です。

お寺の棟門のような拝殿で、小さな祠があります。筒抜けになっている構造で、その向こうに田んぼが広がっています。

あの三輪山を御神体都する大神神社のように、まるで田んぼやその向こうにある高梁川と小田川の合流部あたりが御神体かのようです。

 

拝殿の中は懐かしい土壁で、中で腰掛けられるように木板がはられていました。

この中まで浸水した線が示され、土壁の下の部分の色が違っています。それでも土壁というのは案外水害に強いのですね。

壁には当時のたくさんの写真が貼られていました。

この位置から見える周囲の住宅地が2階まで泥水に浸かっていたり、大きな醤油樽が流されていたり、そして境内に仮設住宅があった写真など、災害資料館のような拝殿でした。

 

*「真備町水害史」*

 

拝殿の向かって左側の「西日本豪雨水位」の表示に気が取られていたのですが、拝殿を出ると、反対側の壁にも小さな説明板があることに気づきました。

 

      真備町水害史

 享保年間(1770年頃)より大正時代までの高梁川の洪水を拾ってみると18回を数える。これがいつも川辺あたりより逆流して湖水となる。 川辺村民は古くは今の清音に住んでいた人たちが、そこはたびたび洪水となるので川辺に移り住んだという。しかるにその川辺も後には大変なことになった。岡田の殿様は江戸初期、川辺に居たが、このために神楽土手を築いて川辺の民家を護った。

 明治13年7月1日、高梁川右岸堤防、現大字市川部落付近が大決潰。高梁川の水かさ2丈6尺に達したという。次に明治19年、高梁川右岸堤防、市川部落が決壊し、市川西部の砂山は当時の被害のあとをのこしている。

 明治26年には未だかつてに大洪水。秋祭りをしていた川辺には384戸あったのが、一瞬にして19戸残して押し流されてしまった。高梁川右岸堤防秦地内が決壊、続いて下流の富原が決壊、下原の下流もまた、小田川右岸、左岸みな決壊した。高梁川の水位14メートルという。

 この時の出水は大変なもので川辺の堤防の天より、1.5メートルぐらい高かったという。もちろん現在より堤防は低かった。

屋根の上で流れつつ救いを求めるもの、老若男女の泣き声、さながらこの世の地獄であって、家は遠く瀬戸内の塩飽島や、丸亀、多度津まで行って軍艦に救われたり悲しい物語は数限りがない。

後に高く堤防を築き、排水機などにより水害を防ぐ方策ができていて、ただ古人の苦労は話の種となるのみで、高梁川大改修と付帯事業との恩も知る人ぞ知るのみ。思い返せば明治には三大水害があった。

 

案内板には釘を打ち直した跡があるので、これは2018年以前から掲げられていたのでしょうか。

 

祈る言葉も見つからず、ただただ頭を下げて金比羅様をあとにしました。

 

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら