さあ、地図で見つけた「水の小径」を歩いてみましょう。
入善町中央公園から入善用水に沿って1kmほどの区間でしょうか。どんな道でしょう。
中央公園の前は美しい街路樹が続きすぐそばにやはりエメラルドグリーンの水が滔々とながれています。これが入善用水で、1mほどの畦道を隔ててもう一本小さな水路が分水されています。
後ろを振り返ると、立山連峰からまっすぐ流れてきたかのようにダイナミックな風景でした。
まだ遊歩道らしき道ではなかったのですが、しばらく歩くと水路のそばに大きな説明板がありました。
これがこの国の用水路を歩く醍醐味ですね。
*「入善用水の沿革」*
「水土里(みどり)ネット入善」の「水をたたえる豊かな大地。それは森と用水のめぐみ」と入善用水路の沿革が書かれていました。
入善用水は、貞享4年(1687年)の開削と言われ、裏山新村荏原前から取り入れ、取り入れ口には閘門を備えていた。
然し、荏原前に取り入れ口を設けたのはかなり後年のことで、それまでは黒部川の河道の変動により、墓の木、中ノ口等から導水していたといわれる。
本用水の始めの頃は、54ヶ村、5,000石、1,700町歩にわたってかんがいしていたようであるが、椚山、青木両用水の開削によって本用水のかんがい区域は新屋、入善、小摺戸、椚山、上原の旧5ヶ村約1,100町歩に整理された。
本用水は取り入れ後、浦山新を迂曲しつつ縦断して小摺戸地内を通り、次いで新屋上村、向島、神林、上田を経て入善市街地に入る、この間、浦山新地内で古郷用水、小摺戸地内で荒川用水、新屋地内で上原・青島両用水、神林地内で町川を分岐し、入善市街では、寺田川、高登川、踊場川に3分する。
これら本支線は、殆ど黒部川の波流または氾濫流路を繋ぎ、整備して樹枝状の用水系統に仕上げたものと思われる。従ってその川幅も広狭一定せず、河道も曲折が甚だしかった。
「河道の変動」、まだ黒部川が一本の川ではなく昨日流れた場所も今日は本流になり渡れずの時代ですね。
そして洪水により田畑の形が変わるので測量が必要という時代は、水路もまた変わってしまったことでしょう。
昔の人はどうやって「樹枝状」に張り巡らされた水路の場所や水路名を記憶し、管理していたのだろう。
こういう説明板の前で立ちすくむことが増えました。
説明板の後半に、先ほどそばを歩いた黒東合口用水路についての説明がありました。
大正14年、当時の黒部川電力株式会社が、黒東6用水と用水使用契約を締結し、これにもとづいて黒東合口用水水力発電事業を実施するに当たり、下流3ヶ村(旧入善、旧上原、旧椚山)の所用水量は黒東合口用水から分水を受けることになり、一方上流2ヶ村(旧新屋、旧小摺戸)の必要水量は右岸連絡水路を通じて分水されることになった。
本用水は、昭和から平成にかけて圃場整備事業及びかんがい排水事業などにより二次改修工事が行われ、現在は入善土地改良区が維持管理にあたっている。
(黒部川沿岸用水誌より)
簡潔ながら歴史やどの地域なのかがわかる説明ですね。「黒部川沿岸用水誌」という記録もあるとは。読んでみたいものです。
*水の小径*
ゆるやかな下りを入善用水路沿いに歩いていると、まるで林のように続く「水の小径」の区間になりました。
春先の田んぼへの供給量も増える時期だというのに、小川を模した人工の流れには豊かな水がながれています。
渓谷のようだったり野原を流れる小川のようだったり、遊歩道の風景が変化しています。
途中、小水力発電の場所もあり、この地域のジオラマのようです。
現実の生活を知らなければ、ジオラマとして再現できないですからね。
地図で見つけた場所を行き当たりばったりで訪ねましたが、おそらく他の用水路でも水の歴史を学びながら美しい水辺の風景を歩けたことでしょう。
すべての水路沿いを歩いてみたくなりました。困りましたね。
*おまけ*
1687(貞享4)年はどんな水の歴史があった年か検索したら、AIが教えてくれました。
日本各地で農業用水の開削や治水のための放水路などの水路網が完成しました。
当時、松江藩で開削された「高瀬川」や岡山の「百間川」などの歴史的な水路事業が代表的です。
代表的な水路として「高瀬川(松江)」、「百間川(岡山)」、「筑後川の水利(福岡県・佐賀県)」と「芹谷野用水(砺波)」の4つが挙げられていました。
筑後川の水利は沿岸の干拓地(クリーク)」のあたりでしょうか、それとも山田堰のあたりでしょうか。
そして「高瀬川」はあの斐伊川水系のどのあたりでしょう。
そしてこの時代の農業はどんな変化が起きていたのでしょう。興味は尽きませんね。
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