さあ、次の湧水を訪ねようと漁港のそばの名水公園を出ようとしたら、石碑があり「上善若水」が目に入りました。
黒部のお酒だったっけと思うほど、「上善如水」というと日本酒がまず思い浮かんでしまいますが、あれは新潟でしたね。
碑文をよく読んで、ああそういうことだったのかと恥入りました。
謙譲と寛容
上善若水、水善利萬物而不争。庭衆人之所悪、故幾於道、天唯不争、故無咎。
老師道徳径。
上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪む所に處る。故に道に幾し。夫れ唯だ争わず、故に咎め無し。
最上の「善」は、ちょうど水のようなものである。水は、よくあらゆる物に利益を与えているが、他と争うことはない。
そして一般の人が憎み嫌う(低い)所に落ち着いている。
だから「道」に近いのである。
人間も、ただ只管に他と争わなければ、その災難も無い。
平成元年十二月 龍生書 贈 宮野修三
なんと、「謙虚と寛容」という意味を持っていたのですね。
もう少し「上善若水」を検索してみると、AIが教えてくれました。
「上善は水のごとし(上善水の如し)は、古代中国の思想家「老子」の言葉で、「最も理想的な生き方や態度は、水のようなものである」という意味です。
水のように生きるとは、具体的に次のような3つの優れた性質(徳)を指します。
・柔軟性:水は丸い器にも四角い器にも収まるように、どんな状況や環境にも逆らわず、しなやかに自分を適応させます。
・謙虚さ:水は誰からも嫌われる「低い場所」へ自然と流れていきます。自分を誇示せず、へり下る態度を示します。
・他者への貢献(無争):水はすべての生命(万物)に恵みを与えながらも、決して他のものと争うことがありません。
老師は、この「他に利益を与えながらも自分を主張せず、状況に合わせて柔軟に生きる」という性質こそが、争いのない最高の生き方であると説きました。
(青字強調は引用者による)
なんだか心に染み入りますね。
さあ、次の湧水を訪ねてまた水に清められることにしましょう。
公園の入り口には富山らしいチューリップが植えられ、どこも掃き清められています。さきほどの障がい者施設の皆さんでしょうか。
私も、残りの人生はこういう仕事が与えられたらいいなとますます思いを強めました。
*「地下にしみていた水が30年たって湧き出す」ような*
さて、1989(平成元)年にこの石碑を建てた方々は、もしかしてこれからは「自分が大事」「他人の存在が目に入らない」「謝れない」という時代やさらに政治家までが「ちょっと気晴らし」で戦争や争いを起こし、その機に乗じて利益を得ることを躊躇わない時代になることを感じ取っていたのではないかと思えてきました。
それまでの時代の「みんなで豊かになろう」とか「謙虚」「謙譲」「寛容」という言葉が地下に消えて、まるで地下水が30年程度で湧き上がってくるかのように、その言葉を再び必要とする時代が来るかのようですね。
ああ、それを「時代は繰り返す」というのか。
そうやって「人類の為」という普遍性を深めてきたのかもしれませんね。
*おまけ*
1980年代ごろからの自己啓発ブームは金融経済とか株主経済と表裏一体だったのだろうなと、最近確信が持てるようになってきました。
猫も杓子も高校生までスタートアップだとか起業とかの時代になってしまいましたからね。社会経験も少ないのに「自分は万能」「すごい自分を見て見て」という時代になってしまいましたからね。
そしてそれが現代の「政治・経済」や「骨太」の正体。
そのあとの長い人生に何が残るのだろう。
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