美味しい魚料理を食べて元気になりました。午後からお天気が崩れるので、早めに魚津の街を散策しましょう。
せっかくなので魚津漁港のそばにある魚津埋没林博物館に立ち寄ってみることにしました。
魚津埋没林は、今から2000~1300年前頃に、現在の魚津漁港周辺に広がっていたスギ原生林跡です。1930年(昭和5)の魚津港建設工事の際、海岸の砂浜を1m程度掘り下げた土中から、200株以上の樹根が発見されました。発見された樹根の大部分はスギで幹の直径が2m以上、推定樹齢500年以上の巨木も見つかっています。魚津埋没林の発見から、約2000年前の魚津の漁港付近はスギ原生林の広がる風景だったことが明らかになっています。
「魚津埋没林はこうしてみつかった」という説明もありました。
1930年ごろは、現在の魚津港の場所は広い砂浜でした。その砂浜の波打ち際に木の切り株のようなものがあることは以前から知られていましたが、その意味はあまり考えられていませんでした。1930年に魚津港の工事が始まり砂浜が掘り下げられると、そこから大小200株を越える樹木の根が姿を現し、当時の魚津中学校の山家基治(やまやもとはる)教諭が調査・報告したことから魚津埋没林の研究が始まり、広く知られることになりました。
当時の砂浜の風景と波打ち際の樹根の写真もありました。
砂の下にはたくさんの歴史がありますね。
訪ねてみたのは何か湧水についても知ることができるかなと期待したのでした。
海岸の湧水地帯に生きるスギ林
魚津埋没林から出土した植物や昆虫から、埋没林が生きていた当時、スギ林の中や周囲は湧水などの水が豊富な環境があったと推定されます。海岸の湧水地帯にスギ林が成立している様子は、現在の黒部川扇状地末端に見られる"杉沢の沢スギ”(国指定天然記念物)によく似たものだったと考えられています。
小学生の頃の秘密の基地だった雑木林には湧水があったけれど、スギ林は水の気配もなさそうな人工林だと思っていました。
「海岸の湧水地帯にスギ林が林立」、見てみたいものです。
残念なことに今回は、入善駅と西入善駅の中間にある杉沢の沢スギは時間がなくてあきらめたのでした。
*年輪を数える*
入り口だったか、「年輪を数えてみよう」という大きな輪切りの展示があり写真を撮っておきました。
「使用材、ベイスギ(ヒノキ科北米産)」だそうですが、「1992年埋没林博物館完成」と表示されている部分が一番外側でしたが、どれくらいの樹齢の木でしょうか。
中心部から3分の1ぐらいのところの「1669年寛文東行記(最古の蜃気楼の記録)」から始まり、主な出来事を年輪に貼り付けてありました。
1797年 喜見城之図(蜃気楼絵図)
1787年 寛政の改革
1841年 天保の改革
1867年 大政奉還
1871年 新川県庁が魚津町に置かれる
1918年 米騒動がおこる
1930年 埋没林が発見される
1945年 第二次世界大戦終結
1964年 東京オリンピック
1970年 万国博覧会(大阪)
1992年 埋没林博物館完成
「寛政の改革」「天保の改革」そして「米騒動」が載る年輪図は、「庶民の年表」のようですね。
そして「1918年米騒動」は年輪の中心部から見たら外側に近く、ごく最近の歴史のように見えました。
博物館の楽しみは資料を見つけることですが、「魚津でおこった米騒動」を購入しました。
さあ、魚津の街をぐるりと歩いて「米騒動発祥の地」も訪ねることにしましょう。
外に出ると、漁港と埋没林博物館の境のあたりに大きな石碑が見えました。
「出漁遭難者の碑」でした。
「魚を食べすぎているのでは」という葛藤とともに、「ヒトの食べ物を得る仕事」も命懸けですね。
そして私たちの食べ物をとってきてくださるだけでなく、水難救助を支えてこられた漁師の方々です。
*おまけ*
「年輪を数える」が実感を伴う年代に入ったこの頃。
この年輪の写真を見ると、中心部から外側に向かってどうして幅がこんなに違うのだろうと検索したら、年輪年代学を初めて知りました。1年単位で照合できるようになったのが1970年代だそうですから、専門的な知識や技術が確立するのは気が遠くなる時間が必要ですね。
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