米のあれこれ 161 「米が食べられなくて困った時には、みんなで行動する」

大町公園の米騒動のモニュメントのそばにあった説明板に、「米騒動」のイメージとは違うことがもうひとつ書かれていました。

   全国に広がった米騒動

 富山県は、江戸時代から、米が高くなった時に藩が米を貸し与えたり、明治時代には町が白米を給付したりしていた。そのため、町に救済を願い出る行動が、明治時代から行われていた。大正七年(一九一八年)七月二十三日の魚津の米騒動はすぐに「富山日報」により県内に大きく報道された。そのため二〇市町村で米騒動が起き、五三〇〇人が参加した。八月には、富山県内各地に広がった米騒動が、「女房達の一揆」「女一揆」などの名で全国に報道されると、富山県外でも米騒動が起こった。全国では、青森、秋田、沖縄県を除く、一道三府四十県、約五〇〇ヶ所で米騒動が発生し、約七〇万〜一〇〇万人が参加したと言われている。

(青字強調は引用者による)

 

資料「魚津で起こった米騒動」ではこうかかれていました。

富山県では、米が高値になった時、江戸時代には藩が米を貸し与えたり、明治時代には生活に困った人たちを助けるきまり(町が白米を給付するなど)が作られたりして来ました。

米が食べられなくて困った時には、みんなで行動するということが昔から行われていました。また新聞がいち早く米騒動を知らせたことによって、県内一円に広がったと考えられています。

(青字強調は引用者による)

 

「米が食べられなくて困った時には、みんなで行動する」

この一文が、公園内にあった石碑とつながりました。

 

 

*「社会福祉の先覚 横山源之助先生」*

 

公園の片隅に古い石碑があり、「先覚者」の文字が見えたので引き寄せられるように近づいてみると、「社会福祉の先覚」と彫られていました。

 

 郷土の生んだ先覚者 横山源之助  

  明治4年(1871)〜大正4年(1915)

 

 下新川郡魚津町で生後間もなく、佐官職の養子に出され、魚津明里小学校(現大町小学校を卒業、創立第一期生として富山中学(現富山高校)に入学した。しかし一年を待たず中退、弁護士を目指して上京し、英吉利法律学校(現中央大学)に進学したが、学資の援助が途絶えて学業を断念。失意の時期に二葉亭四迷、松原五郎らの知遇を得、独自の志を実践した。

 明治27年(1894)、記者として横浜毎日新聞社に入社、貧民層を照らす優れたルポタージュで注目され、明治32年(1899)に「日本之下層社会」「内地雑居後之日本」の名著を出版した。過労で同社を退社、故郷魚津で静養中の明治34年(1901)に請われて農商務省嘱託となり調査活動に専念した。その成果「職工事情」(明治36年=1903、農商務省刊)は、わが国の資本主義経済を知る上で欠かすことのできない古典的資料となっている。

 自らも貧しく、大正4年(1915)東京で病死、享年44歳。

近代日本と資本主義社会の生成期の社会学、経済学、労働問題を、貧窮した生活者の立場からジャーナリスト・ルポ作家の文学的手法で現代に遺した。それらは必携の資料「横山源之助全集」(全9巻・別巻2、平成18年=2006、法政大学出版局刊)として受け継がれている。

 この碑は長く新金屋公園にあったが、全集刊行によって郷土魚津にも取材した業績が明らかにされたのを機に、横山源之助の絆の地として米騒動発祥の現地に移すものである。

 

亡くなられてから90年後に全集が発行され、2008年にこの公園に石碑が移されたようです。

 

2006年から2008年ごろ、ちょうど医療がなりふりかまわぬ『亡国の使徒』によって変質し始めた頃で、骨太と言う言葉に疑問が出た頃でした。

 

 

*「横山源之助と貧民救助制度」*

 

その石碑の横に説明板がありました。

    横山源之助と貧民救助制度

 横山源之助は明治29年(1896年)夏から30年(1897年)にかけ、小作人生活事情を中心とした「地方の下層社会」他を報告するため、魚津に滞在した。その時、明治22年(1889年)、魚津に大きな米騒動があり、その騒動をきっかけに一種の貧民救助制度が創設されたことを聞き、そのことを書いたのが「世人の注意を逸する社会の一事実」である。

 横山が評価した一種の救済制度とは、魚津町が誕生した明治22年(1889年)魚住町議会で議決された「貧民救助規定」と同23年(1890年)に議決された「貧民救助方法」である。その後改正を経て、いくつもの米騒動の時に適用された。この制度は太平洋戦争後に生活保護法が成立するまでつづけられた。

(青字強調は引用者による)

 

江戸時代からの「米が食べられなくて困った時には、みんなで行動する」という風土があり、それが明治時代にはいって幾度かの米騒動から「貧民救助規定」「貧民救助方法」になり、太平洋戦争後には生活保護法へとつながっていった。

 

そしてこういう土地柄だったから、横山源之助氏のように生活の視点から書いて世に伝えようという人が現れたのでしょうか。

 

「お米」が社会福祉につながる。

それが瑞穂の国ですね。

 

 

*おまけ*

 

ここ半世紀ほどの万能感にあふれ、自分を大きく見せる時代には、自分が救済される側になる可能性が誰にでもあることを直視したくない人が増えたのでしょうか。

だから成金が権力を持つ世の中は絶望の世界になるのだと思うこの頃。

 

 

 

 

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