驚くほど詳細なWikipediaの魚津市の年表や説明を、時間を忘れて読んでしまいました。
観覧車のそばにある魚津水族館の歴史にも驚きました。
1913年9月1日- 一府八県連合共進会の第2会場として下新川郡魚津町大町(現・魚津市新角川)に初代魚津水族館創設(現存する日本最古)。
1914年5月- 魚津水族館が魚津町に払い下げられ、以来1918年-1930年に民間により運営していたのを除いて、ずっと町立の水族館として運営してきた。東京帝国大学の水産動物研究所も併置されており、多くの国内外の学者が訪れた。
(強調は引用者による)
てっきりイベントや話題性で人を集める町おこしや観光の風潮になってから造られたのだろうと思っていたら、1913年(大正2年)に創設されていたとは。
明治時代からの水産資源研究の一環でしょうか。
それとも飛鳥時代から漁業をする人が定着したことで、何か脈々とつながることがあるのでしょうか。
水族館が建てられたのは、魚津の米騒動よりも前だったのですね。
1918年7月23日-ロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵へ日本が動く中、戦争特需を狙った売り惜しみで米価が暴騰。7月22日、疲弊していた魚津の主婦たちが魚津港から北海道への米の輸送の動きを察知し、更なる米価高騰を防ぐため、翌23日、米の船積みを中止し、住民に販売するよう嘆願した米騒動が大町で起る。騒動は連鎖的に全国へ広まり、最終的には軍により鎮圧されるが、寺内正殿内閣が退陣して原敬率いる立憲政友会内閣の誕生に至る。
その後、戦争へと進む中、「1944年3月- 魚津水族館が太平洋戦争の影響で閉館」とありました。
*昭和天皇の戦後巡幸*
年表の続きには、終戦直後に昭和天皇がこの地を訪ねられたことが書かれていました。
1947年11月1日-昭和天皇の戦後巡幸。魚津漁港を視察。港で漁民に言葉をかけ、国鉄魚津駅では早場米の積み出し作業を視察した。
(強調は引用者による)
漁港でどんな言葉をかけたのでしょう。
そして戦後巡幸、言葉は知っていたけれどどんな感じだったのでしょう。
Wikipediaの「昭和天皇の戦後巡幸」を読んでみました。
1946年から1954年にかけて、道路状況などまだ快適な旅とは言えない時代に精力的に全国各地を回られていることに驚きました。
1947年9月のカスリーン台風の被災者へのお忍びの行幸は、この戦後巡幸の合間だったようです。
1948年の巡幸がないのですが、Wikipedia「昭和天皇」の「戦後巡幸」にこう記されていました。
GHQでは天皇巡幸について当初から疑問視しており、また「神ではない、ただの猫背の中年男性」「戦争で父や夫を失ったのだから石の一つでも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していた者も多かった。しかし、日本人が日の丸の旗を振って熱狂的に歓迎する巡幸の様子を見て大いに驚いたとされる。
新憲法施行を2日後に控えた1947年(昭和22年)5月1日の会見では、昭和天皇は「戦災者や引揚者、遺族は戦争の犠牲者で、一番気の毒に思っているので激励したいと思う」とし、今後も巡幸を続ける考えを明らかにした。同年6月には、福島県の磐城炭鉱磐城鉱業所で、初めて炭鉱に入って裸の鉱夫を激励した。
天皇は各地で熱狂的な奉迎を受けた一方、ガソリン不足が深刻な中で大規模な車列を組むことや、極東軍事裁判の渦中において「天皇制存続キャンペーン」をしているというGHQ民生局からの批判もあり、この余波で宮内府長官ら主要幹部が交替する事態となったことから、1948年(昭和23年)に巡幸は中断された。しかし、各地から行幸の要請が宮内府(当時)に殺到し、1949年(昭和24年)1月1日に日の丸(国旗)掲揚の制限が解除されたことや、随行員規模を四分の一程度に縮小することで、同年5月から再開された。
(強調は引用者による)
昭和天皇は戦争へと突き進んだ時代を失敗と認め、その責任の取り方に葛藤されていらっしゃったのですね。
*「そんな時代でもないであろう」の意味*
そうそう、2020年にJR高山本線の車窓から偶然見つけた「昭和天皇植樹の碑」は、この魚津を訪ねた戦後巡幸の時だったとつながりました。
1947年11月、昭和天皇が富山県へ戦後行幸を行なった。その際、天皇は林業に関心を示し、富山県細入村(現:富山市西笹津)の高山本線沿いの斜面でタテヤマスギの植樹を行なった。それまで天皇による公式行事での植樹は、枯死した際に責任が関係者に及ぶことを危惧し忌避されていたが、「そんな時代でもないであろう」ということとなり、全国で初めて行われることとなった。
今から6年ほど前はまだ、「厳格に神格化され絶対的な天皇制」があったのだと思っていました。
そのイメージとは全く違う「主」の姿をようやく知りましたが、なぜこうした記録が目に入ることもなく私は生きてきてしまったのでしょう。
この戦後巡幸の国民の熱烈な歓迎の記録はなんだろうと思い、昭和天皇の人となりを知らなさすぎたと反省しながらWikipediaを読み始めました。
その行間を読めるほどの知識はないのですが、「天皇制の権威に疑問も持たずに戦争に反対しなかった国民」というイメージもまた間違っていたのだと思い始めました。
時代は違えども国民の多くは「戦争をしたがっているのは誰か」が見えていたのではないかと、今が重なりました。
でも現場の狂気には抗えないものですからね、いつの時代にも。
それにしても、魚津漁港で言葉をかけられた方々は何を思い、その後の生活で昭和天皇の存在はどんな感じで生き続けたのでしょう。
*おまけ*
最近、何かの記事で「昭和天皇は唯一沖縄行幸が叶わなかった」ことを知りましたが、Wikipediaの「戦後巡幸」にその記録がありました。
沖縄県について
戦後巡幸が行われていた昭和20年代当時、同地はアメリカ合衆国による統治下にあったため、巡幸は不可能だった。
戦後は、沖縄県が沖縄戦による民間人被害が甚大であったことや、遡って琉球処分に対する県民感情から、1972年(昭和47年)の本土復帰後の記念植樹や翌1973年(昭和48年)の復帰記念沖縄特別国民体育大会(若夏国体)への行幸を行うことができなかった。
その後、皇太子明仁親王(当時)の尽力もあって、沖縄県民と皇室の関係が改善され、1987年(昭和62年)秋の第42回国民体育大会(海邦国体)では、ついに天皇自身の行幸が実現する予定だった。しかし、同年9月18日には大量吐血となる等、天皇自身の不例が続き、同月28日には沖縄行幸が正式に中止された。同年10月24日、皇太子明仁親王が名代として国体開会式に出席した他、平和記念堂で昭和天皇の「おことば」を代読した。天皇は、沖縄県民の労苦をねぎらい行幸断念を「誠に残念でなりません」とした上で、回復次第「できるだけ早い時期に訪問したい」と表明した。
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇は崩御し、沖縄行幸はついに叶わなかった。1921年(大正10年)の皇太子時代に欧州を歴訪した際、その往路、3月6日に沖縄本島に寄港し、6時間余り滞在したのが、結果として生涯唯一の訪問となった。
(強調は引用者による)
失敗を無かったことにしないそれが帝王学かもしれない、そう思うことがまたひとつ増えました。
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