魚津への昭和天皇の戦後巡幸の記録から昭和天皇の人となりを知りたくなり、Wikipediaの「昭和天皇」を読み始めました。
人物関係を覚えるのは苦手なので学生の頃は歴史が嫌いだった私には、皇族やら政治家やら軍人やら登場人物が多すぎてまるで夏休みの宿題のような苦行です。
ふと「皇居の畑で芋ほりをしていたとき」という一文が目に入りました。
・皇居の畑で芋掘りをしていたとき、日本では滅多に見ることのできない珍しい鳥であるヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情の分からない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。
主語は書かれていないけれど当然「天皇」ですから、「皇居に畑があるのか」「天皇が芋掘りをするのか」と、それこそ「事情が分からない侍従」のように驚きですね。
もう一度、最初からWikipediaを読み返すと、乃木希典の質実剛健の教えから「徒歩で通学、また継ぎ接ぎした衣服を着用することもあった」少年時代が印象的でした。
戦前から戦後の昭和天皇の葛藤を時系列で読むことも初めてでしたが、もしかすると皇居に芋畑があったのはこの箇所に関係しているのでしょうか。
・宮内省と宮殿の間にある大善寮で調理された食事は、御文庫(戦争後半から天皇皇后が暮らした建物)に車で運ばれ、当直侍医の「おしつけ」(毒見)を受ける。開戦直後から食糧事情が厳しくなった上、生真面目な昭和天皇が闇物資を仕入れることを禁じたため、戦争末期の食事はかなり貧しかった。主食は配給の米に丸麦や外米を混ぜたものを日に一度だけ、他の2食はうどん、そば、すいとん、代用パン、イモ類など。物資を囲い込み、贅沢を続けた軍部とは大違いだった。
(強調は引用者による)
昭和天皇について、本当に知らなさすぎました。
そして初めてとても身近に感じられました。
*「私は、平和努力というものが第一義になることを望んでいた」*
私の中の「昭和天皇像」が違っていたとしたら、第二次世界大戦あたりの「天皇の戦争責任」も「歴史認識」も違っているかもしれません。がぜん興味が出ました。
まず、頭を殴られるようなショックを受けたのは、以下のことを全く知らずに来てしまったことです。
開戦
1941年(昭和16年)9月6日、第6回御前会議で、対英米蘭戦は不可避なものとして決定された。
御前会議ではあくまでも発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、37年前の1904年(明治37年)に自身の祖父たる明治天皇が日露戦争開戦の際に詠んだ御製を引用した。
「四方の海にみなはらからと 思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
四方の海(にある国々)は 皆兄弟姉妹/同胞と思う世に なぜ波風が立ち騒ぐのだろう
昭和天皇は晩年、1985年(昭和60年)の天皇誕生日に際する取材に対し、引用した理由について、議題の第一が開戦、第二が平和であったことに対し「私は、平和努力というものが第一義になることを望んでいた」と述べた。また『宣戦の詔書』中の「豈朕カ志ナラムヤ(豈に朕が志ならむや)」の一文は天皇本人が書き入れたと言われる。
(青字強調は引用者による)
そして時局収拾のために、あらかじめローマ教皇との親善を図るように取り計らっていたそうです。
*昭和天皇の「敗因に対する考え」*
戦後間もない時期に、疎開していた長男、皇太子の継宮明仁親王(現上皇)へ送った手紙の内容の記録もありました。
「国家は多事であるが、私は丈夫で居るから安心してください。今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じすぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎで 科学を忘れたことである 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦の独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」
(青色強調は引用者による)
ここまで預言者のように時局が見えていたのに、天皇陛下ですら時代の狂気に抗うのが難しいということでしょうか。
*「私は立憲君主であって、専制君主ではない」*
Wikipediaの「昭和天皇」の最後の方に、1981年のインタビューの記録がありました。私が二十歳ごろですが、全く記憶にないまま今まで来てしまいました。
1981年(昭和56年)4月17日・報道各社社長との記念会見
[記者]八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
[天皇]皇太子時代、英国の立憲政治を見て以来、立憲政治を守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。
私が自分で決断したのは二回(引用註:二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
天皇の一言で何でも決まる絶大な権力のイメージでしたが、Wikipediaの記録を読むと「臣下の決定」を重んじる姿勢が随所にあり、それゆえにローマ教皇とあらかじめ繋がりを強めて早期の戦争終結を図っていたことも不可能になってしまったのでしょうか。
訪英して立憲政治を学んだことが人生の中で楽しかったことだったのに、戦争という理不尽な時代の判断をせざるを得なくなったのですね。
現天皇陛下の理不尽さへの忍耐強さも、立憲政治を守っておられるからでしょうか。
そして自由主義とか立憲民主主義といった思想だけでは「強大な権力を持とうと暴走する人たち」を止めることはできないという葛藤も。
「皇居に畑があった」から、思わぬ歴史の見方の広がりを得ました。
そして「歴史は繰り返す」がやはりひしひしと感じられるこの頃です。
「事実とは何か」まとめはこちら。
天皇制のまとめはこちら。
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