立山橋を渡ると目指す水神社がありました。
常願寺川の堤防とその水神社の間には、幅10mほどでしょうか、常西合口用水が滔々と流れています。
反対側を見ると、富山地鉄大川寺駅のすぐそばの線路の下から流れてきているようです。水神社に参拝する前に、そちらを訪ねてみましょう。
そばには小さな公園があって色とりどりのチューリップが植えられ、噴水と東屋があります。チューリップの似合う富山ですね。
水神社横の用水路は静かな水面でしたが、道路を隔てただけで轟轟と音が聞こえてきます。
線路の向こうに二つの水路のトンネルが見え、そこから勢いよく白波を立てながら水が流れ出ています。
立山橋を渡るときに左岸に水力発電所が見えましたから、もしかすると横江頭首工からの水が2~3km下流の両岸分水工で常東合口用水と常西合口用水に分水された後、左岸側では発電に利用されてここへと出てくるのでしょうか。
治水だけでなく利水の施設にも圧倒されることばかりですね。
*全国で初めての「合口用水」*
常西合口用水のそばに建つ水神社に参拝しましょう。
地図で見つけて、いつかこの場所を訪ねることができたらと思っていました。
真っ黒な屋根の社殿に松の緑が美しい神社です。道路から境内へは数段低い場所にありました。
立派な玉垣があり、そばに石碑があります。
この玉垣は常西用水開鑿の九十周年記念事業の一環として建立したもので、常西水神社の広大無辺の御神徳を偲びとこしえに崇め奉らんとするものである。
昭和五十八年三月
1891年(明治24)の大洪水のあとデ・レーケの調査が行われたが、当時は土砂に対応するには経済的に不可能なので常願寺川改修を選択した。それがこの常西合口用水の開鑿だと、立山カルデラ砂防博物館を見学して理解できました。
農林水産省の資料にその説明があります。
1891年、常願寺川の両岸には多数の取水口があり、特に流れの速い左岸側では、洪水の度に氾濫により甚大な被害が発生していたことから、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが、治水計画と合わせて左岸にある12の用水の取水口を廃止し、上流の安全な箇所に統合取水口を設置する「用水の合口化」を提唱し、翌年には工事に着手しました。
当時のかんがい面積は約5,000haにおよび全国でも初めてとなる大規模な合口事業でしたが、蓄積された災害時の記録等の活用や1万人以上の作業員を動員するなどして、わずか2年という短期間で完成させました。
(農林水産省「『常西合口用水』が富山県初の世界かんがい施設遺産に認定・登録!」より、青字強調は引用者による)
デ・レーケはその治水技術だけでなく当時の農民の置かれた社会状況まで把握した上で計画したようですが、「常願寺川から直接取水口をつくっていた方法から常願寺川の内側に幹線水路をつくりそこから分水する方法へと変える」にあたって、どうやって当時の人たちに説明・納得してもらえたのでしょう。
公共事業というのは、さまざまな住民の葛藤の調整に時間が必要ですからね。
関心は尽きないですね。
*「常西用水土地改良区」と昭和16年建立の常西水神社*
常西水神社を検索したら、常西用水土地改良区のサイトにありました。
水利組合の制定
明治25年 上滝町(かみだきちょう)外十六カ町村組合の設立
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水利組合法の制定
明治43年 常西合口用水普通水利組合の設立
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土地改良法の制定
昭和27年 常西用水土地改良区の設立
前身の水利組合ができたのは、1891年(明治24)の大洪水とデ・レーケの調査の翌年ですね。
「水利組合」、田んぼや用水路を訪ね歩くようになってよく目にするようになった言葉ですが、「1890年頃から、水争い防止のための水利組合の設立が各地で活発化した」という時代とちょうど重なります。
そのサイトによれば、常西水神社を建立したのは1941年(昭和16)だそうです。
本用水組合は、長い歴史を有しながら水神を祈る神社を持たなかったので、合口用水開鑿50年ならびに紀元2600年を記念して上滝地内に神社を建設する計画を立てました。
「合口用水」が住民の生活を向上させたと実感した半世紀を経て、水神社が造られたのでしょうか。
*普遍性へ*
「広大無辺の御神徳」
九頭竜川の黒龍(くろたつ)神社で初めて知った言葉でした。
場所や土地の広さだけでなく、夢や心、仏の慈悲などが際限なく広がる
困難な状況だからこそみんなで豊かな地域をつくろうとか、他に利益を与えながらも、自分を主張せず、状況に合わせて柔軟に生きるとか、何か普遍性の生まれる時代が感じられる言葉ですね。
「水の神様を訪ねる」まとめはこちら。
デ・レーケのまとめはこちら。
内需拡大のまとめはこちら。