世界はひろいな 22  <村に外国人がやってきた>

先日の記事ではテレビ東京の番組について辛口のことを書きましたが、けっこうテレビ東京は好きです。
もやさまとか「アド街ック天国」とか、映し出されているのは平凡な街の風景や住民の姿ですが、たくさんの人の毎日の生活の積み重ねで社会が成り立っているのだなあと、なんだかしみじみするのです。


「Youは何しに日本へ?」も録画してみています。
「日本が好き」「日本は素晴らしい」といったナルシシズムな視点はほどほどに少なくて(もっとなくしてもよいかも)、日本を訪れる理由がほんとうにたくさんあることを知りました。



最近はわたしの住む街もあたりまえのようにたくさんの国から来た方々が隣近所で生活しているし、新宿や渋谷を歩いているといろいろな国の言葉が飛び交っています。
皆、いろいろな思いがあって日本に来ているのだと、あの番組のおかげで見方が変わりました。


<外人から外国人へと、言葉に対する意識が変化した>


1960年代の日本では、外国から来て住んでいる方や旅行者を見かけることは少なかったのではないかと思います。


私が初めて「外国人」を意識したのは、小学生になる頃に父の転勤で米軍基地があるところに住んだ時でした。
風貌が似ている韓国や中国の方々を意識する機会もまだなかったので、私にとって外国人といえば米軍の兵士でした。


たまにバスに乗り合わせる事がありましたが、米軍兵士が乗るとバスの中にちょっと緊張が走るのを子どもながらに感じていました。
怖いというより「外人だ」という感じです。
あの頃のほとんどの日本人にとっては、外国人というのはたまに見かける程度であり、自分の日常の生活の外にいる「外人」だったのでしょう。


観光庁「訪日外国人 旅行者数及び日本人海外旅行者数の推移」のグラフをみると、平成元年でもまだ200万人台ですからこの二十数年でようやく「開国」した感じかもしれません。


「外人」は差別的な意味合いを含むので。「外国人」と言い方が変わって来た時期と重なり合うグラフですね。


<自分自身が「外人」として乗り込んだ>


1980年代から90年代にかけて、今度は反対に私自身が東南アジアやアフリカの小さな村に「外人」として入っていくことになりました。


東南アジアのある国に住み始めた頃は、しゃべらなくても一見して「その国の人ではない」ということがわかるようで、「日本人か」としょっちゅう聞かれました。


しばらくすると次第に身のこなしがその国の人に近くなったのか、「日本人か」と聞かれるよりはむしろ中国人(華僑)・ベトナム人あるいは韓国人と聞かれることが多く、市街地ではそれほど違和感をもたれませんでした。


アフリカではこちらに書いたように、肌の色の違いは隠せませんから、明らかに「外の人」でした。


あのバスに乗り合わせた米軍兵士も、こんな感じを味わっていたのだろうなと理解しました。


<「外人が村にやってくる」ということ>


住んでいた東南アジアの市街地では、私自身がその国の人になったかのようになじんでいたのですが、やはり自分は「外人」であることを意識させられるのが村を訪れる時でした。


1980年代半ばに軍事独裁政権が倒れて民主化されたといっても、地方の村は依然として大地主と軍・警察の力が強く、自由に外国人が訪れることはできませんでした。
必ず事前に村長あてに訪問の目的を知らせて許可をもらう必要があり、村に入るとまず村長に「表敬訪問」をしなければなりませんでした。


たとえ「開発と人権問題」に関心があったとしても、それが知られれば許可はおりません。
なによりもそうした民主化を押し進めようとする草の根運動が村に入る事を警戒しています。
村のNGOのリーダーがサルベージされることが頻発していました。


私の場合は「村の保健医療や『自然なお産』の様子を学びたい」ということを理由にしていました。
助産師で良かったと思いました。


村長の許可を得て村に滞在させてもらったにも関わらず、軍に家を包囲されたこともありました。


その家の人が真っ青になって「外に出てください」と言うので出てみたところ、家の周りは十数人のフル装備の兵士に囲まれていました。
「何の目的があってこの村に来たのか」と尋ねられました。
私はパスポートを見せ、村長にも事前に許可をもらっていることを説明しました。


私はあの赤い表紙のパスポートには絶大な力があるという自信(根拠のない自信)があり、私たちに危害を加える事はなく、おそらく嫌がらせだけだろうと踏んでいました。


長い長い十数分が過ぎ、兵士は去って行きました。


辺境の地の政府軍兵士の鋭い眼光、狂気を帯びたような眼と、恐怖にひきつった村の人たちの顔は忘れられません。


私が村に入った事でこれだけの緊張をもたらしたことに申し訳ない気持ちと、帰国してからもしばらくはあの村の人たちの安否が気がかりでした。
どんなにその国の実情に心を痛めて正義感で行動しようとしても、我と彼には超えられない境界線があり、私はやはり「外人」でしかなかったのでした。




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