専門性とは 12 答えを急がない

大阪から奈良へと大和川をたどった散歩でしたが、散歩を終えた時点ではまだ大和川の歴史の全貌が見えるような資料には出会えませんでした。

川や用水路からその地域の歴史をとらえるような視点は少ないのでしょうか、数少ない貴重な川の資料館さえ閉館してしまう時代です。

 

ところが、私の地図では名前さえない小さな川の資料から、大和川の歴史の全体像がわかる資料に出会いました。

 

大和川の付け替えの歴史だけでなく、三国ヶ丘という見晴らしの良い場所のそばに大和川の河口があるのは、そこが泉北(せんぼく)台地と上町(うえまち)台地のちょうど間だということもこの資料の中の地図ですぐにわかりました。各地の放水路と同じですね。

 

また大阪府内の鉄道網が複雑で、駅が交差していないと乗り継ぐために天王寺まで戻るか駅間を徒歩で移動する必要がある理由も、この資料で漠然とですが見えてきました。

路線が西側に集中していて東側は「疎」なのは、西側が台地であり東側はかつては河内湾から潟になりそして水田地帯になった場所だったこと、そして大和川右岸でJR大和路線近鉄大阪線がV字で通っているのはそこが天井川だった旧大和川の流路に沿った地域らしいことも見えてきました。

 

そして大和川付け替えまでの紆余曲折だけでなく、現代にもどのような影響があるかまでそこに生活する人の視点で網羅された内容に圧倒されました。

 

どんな方がこの資料を書かれたのだろうと思いながら読むと、最後に書かれていました。

私にとっての「大和川の付け替え」

 

大和川の付け替え」の教材化

 「大和川の付け替え」については、私の胸中には特別な思いが存在します。と言うのも、50年近く前の1972(昭和47)年度、私が所属していた市の小学校教育研究会部で「大和川の付け替え」の教材化に取り組んだ体験があったからです。教師3年目のまだ新米の頃でしたが、各校から集まった部員が協同で調査・研究の作業に力を注ぎ、まとまったカリキュラムと学習資料を完成させたことは、今でも貴重な経験として強く印象に残っています。

(「Web 風土記 ふじいでら」、「藤井市の川と池」)

 

私が小学生から中学生の頃、教科書にするために始まった資料作りだったようです。

 

昭和53度版の教科書から掲載されたもののその後教科書会社が撤退したそうで、「教科書と言えども、売れてなんぼの出版業界ですから、編集企画や教材事例の選択は重要な要素でした」とあっさり書かれている胸中はいかばかりでしょうか。

 

 教科書執筆にしても、資料集編集にしても、膨大な時間と手間を費やして取り組みました。今となってはよい体験、よい思い出ですが、当時を振り返ってみると、少しでも良い教材を提供したい、その一心でエネルギーを注ぐことができたものと思います。

まさに世の中はそこに暮らす市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つものだと、先人の記録に圧倒されました。

 

おそらく半世紀ほどの間、「わかったと思ったら、またわからなかったこと知らなかったことが増え」て、資料の内容も見直されたり充実していったのではないかと想像しました。

 

 

*何をどのような視点で伝えるか*

 

あちこちを散歩すると、たとえば石碑の難しい漢文をなんとなく読めるのも、歴史上の人物関係を覚えるのは不得手で歴史が嫌いだったのにそれが今になって資料を読むのに役立つのも、学んだことが生かされているから理解できたのだと思うこともたくさんあります。

 

膨大な歴史をどのように子どもたちに教えるか、これもまた大変な作業ですね。

 

この大和川の資料の中で、そうそう、私もそう思っていたと頷首した箇所がありました。

 明治政府以来、徳川支配の江戸時代をことさら遅れた時代だったとイメージ化させようとする日本史教育が続いていました。私の中にも小学生以来そのようなイメージが出来上がっていました。しかし、実際の江戸時代の文化・学術の水準は、私の想像をはるかに超える高いものでした。近年、江戸時代の暮らしや文化についての関心が高まり、江戸時代そのものの見方、捉え方を見直そうとする動きも盛んになってきました。江戸時代の庶民の識字率の高さは、世界的に見ても相当高いものであったことが知られています。寺子屋の普及率もかなりのものでした。それらがあってこそ、明治に入ってからの急速な近代化や西洋文化の受容が可能であったのです。決して、明治期になったとたんに近代的進歩が始まったわけではありません。私たちは、先人達の残した歴史をもう少しつぶさに知る必要がありそうです。

 

江戸時代どころか佐賀の干拓をはじめ稲作のために干拓したり、ため池や周濠や水路ををつくったり、それが十数世紀ののちにも存在していることにも圧倒されます。

 

江戸時代には利根川やこの大和川が付け替えられ、見沼の田んぼを初め各地で新田開発が行われていますが、この「土地づくり」と「川の付け替えによる治水・利水の技術」がなければ明治時代に入って工業化は成し得なかったことでしょう。

 

何より公共事業の基礎になる概念が行基さんの時代にはあったからこそ、明治時代には「人類の為に」という雰囲気になり、新たな技術や知識を外国から吸収できたのだと思うようになりました。

 

最近のハリボテの政治家ばかりに将来が不安になっていましたが、こういうさまざまな分野の真の専門家が各地にいるのだと希望の光が見えてきたのでした。

すごい先人の記録に出会えました。

 

 

 

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