行間を読む 213 近江鉄道日野駅と日野商人

近江日野商人の街並みが残る場所までバスを利用することにしました。

バスの時間まで少しあります。

 

駅舎のそばに日野駅鉄道資料展示室があるのに気づき、立ち寄ってみました。

 

日野駅 鉄道ミュージアム

 

日本最古級の現役木造駅舎 100年の歴史を未来につなげたい

日野商人ら44名が発起人となり明治29年(1896年)に近江鉄道が設立され、明治33年(1900年)には日野駅が開業しました。

大正期に駅舎の改修がされましたが、築100年を超える数少ない木造駅舎です。駅は通勤や通学、人生の旅立ちの出発点など、想い出のつまった場所として、多くの皆さんにこよなく愛されて来ました。

しかし、長年の風雪により老朽化がすすみ、駅舎の存続が危ぶまれる事態となりました。

 

多くの皆さんの思い入れのある駅舎の存続に危機感を抱いた日野町と地元住民は、平成28年(2016年)に「日野駅利用促進活性化懇話会」を組織し、近江鉄道に協力を呼びかけ、今の姿を後世に残そうと「近江鉄道日野駅再生プロジェクト」をすすめました。

 

駅舎の改修では、「木造駅舎のやさしい木の温もり」「懐かしい雰囲気」が失われないよう、柱の一本一本に至るまで生かせるものをすべて生かした「再生工法」を用い、過去の記憶を残し、思い出を未来に繋げることとしました。

 

写真を撮った時はよく読んでいなかったのですが、この駅舎もまた日野商人と深い関わりがあるものだったようです。

 

「駅は通勤や通学、人生の旅立ちの出発点など、思い出のつまった場所」

便利さや安全性と引き換えにこうした風景や生活がなくなっていくのを受け入れなければいけないのも仕方がないのですが、その場所が生活の一部でも「地元住民」とみなされないくらい巨大な街は悲しいですね。

 

 

近江鉄道

 

2020年に初めて近江鉄道に乗りました。美しい水田地帯を走る列車に、いつか全路線を乗ってみたいと思っていた夢が今回ほぼかないました。

 

3月中旬に乗ったのですが、4月から近江鉄道が変わるような内容のポスターが車内にありました。

Wikipedia「近江鉄道」「概要」にその経緯が書かれています。

2019年2月4日、鉄道事業赤字問題で、鉄道の存続について検討している滋賀県と沿線5市5町の会合が東近江市役所で開催され、地域公共交通活性化再生法に基づく法定協議会を、10月に設置する方針が示された。その後、自治体の支援により存続した場合とバス転換した場合の比較検討を実施した結果、2020年3月に全線の存続が決定した。

その後、運営方法の検討が行われ、2024年度の上下分離方式への移行が決まり、運行は近江鉄道が引き続き担い、施設は県と沿線10市町で構成される一般社団法人近江鉄道管理機構が保有・管理することとなった。2024年4月1日より、「上下分離」によって従来の近江鉄道の資産は近江鉄道線管理機構に移管され、近江鉄道は鉄道事業の運営のみを行う(第二種鉄道事業者)形態に移行した。

 

こうした地方鉄道には厳しい時代ですが、前回近江鉄道に乗った時には廃線の危機の最中だったようです。

今回また乗ることができたことは僥倖でした。

 

 

*「辛苦是経営」*

 

日野駅鉄道資料展示室には、開通当時の写真や古い機械類などが展示されていました。

その時にはぼんやりと「さすが近江商人の財力だなあ」と思いながら眺めていたのですが、帰宅してからもう一度Wikipediaの「歴史」を読むと、全く違っていました。

 

近江鉄道は会社設立当初から資金難に悩まされた。終着駅が深川から貴生川に変更されたのも、距離の短縮によって建設工事費を削るためであった。1898年(明治31年)1月に西村捨三が代表取締役を辞任した際には「辛苦是経営」という教訓を残しており、現在も近江鉄道本社ビル脇にこの言葉を刻んだ石碑が建てられている。一部沿線住民から「近鉄」をもじって「貧鉄」とあだ名されたり、「上り列車は『借金々々』とはしり、下り列車は『足らん足らん』と走る」と冷やかされたりしたこともあるという。

 

赤字路線に対して「空気を運んでいる」と馬鹿にする「コスト重視の現代」の風潮は嫌だなと感じていたのですが、昔からそんな雰囲気があったのですね。

 

2020年に初めて近江鉄道を利用したときに西武鉄道の古い車両が使われていたのを見て、当時は古い車両はこうして地方で再利用されるのかと思っただけでしたが、今回の散歩で西武鉄道近江商人の流れを汲む企業だったことを知りました。

 

展示の中に「二代目社長 庄野玄三」の写真があったのですが、近江日野商人の「日野合薬」を読むと、初代庄野玄三は「元禄14(1701)年に合薬の製造販売を始め」とあります。

鉄道の歴史は、それぞれの地域のことを知ることができて面白いですね。

 

ああ、今度は近江鉄道のひと駅間を歩いてみたい、また無謀な計画ができてしまいました。困りましたね。

 

 

*おまけ*

 

今回はたまたま3日間全てを1デイスマイルチケットを利用できました。乗る側にしたら平日にも使えるとうれしいですが、鉄道を支えるためにはどんな方法がいいのでしょう。

 

 

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散歩をする 516 日野商人街道へ

いよいよ今回の散歩も最終日で、また漆黒の夜空が少しずつ明るくなっていく様子を眺めていました。うっすらと明るくなるとものの1~2分で山の形が見え始め、15分ぐらいで家がだいたい見える明るさになりましたが、この刻々と変わる空の色を言葉で表現できないのがもどかしいですね。

 

テレビから気候変動とか環境保全とか、森の守り手とか守りびととか聞こえてきたのですが、なんだか浮いた表現だなと思いながら聴いていました。

 

別のチャンネルにすると、なんと松田丈志氏が日南の海でカツオ一本釣りに挑戦している番組でした。「魚を根こそぎとらない伝統漁法」というナレーションに、1980年代半ば、東南アジアの小さな漁村で出会った漁師さんに、「根こそぎ魚をとって高級な魚は日本へ行くから、魚がとれなくなった」ときいたあの日を思い出しました。

日本でも、とりすぎないようにと時代の波に抗っていた方たちもいらっしゃるのでしょう。

そして今は魚そのものが高級で手が出ないものになってしまいました。

 

漁業にとっての「三方よし」はどうしたらよかったのか、「タンパク質が足りない」時代を支えた遠洋漁業から記憶を行きつもどりつ考えながらチェックアアウトしました。

 

最終日は、地図で見つけた日野商人街道のあたりを歩いてみる予定です。

 

 

近江鉄道日野駅へ*

 

犬上川そして愛知川を渡ると五個荘の美しい田んぼや家々の風景の中を近江鉄道が走ります。

もっと沿線を歩いてみたいものだと車窓の風景に釘付けになっているうちに、近江八日市駅に到着。

 

ここで14分の停車時間があるので、週末だけの一日乗車券を購入しました。無人駅からチケットなしで乗車したのはこのためで、窓口で伝えると900円で1日乗り放題です。すでにここまで700円ですからとてもお得ですね。

 

JR琵琶湖線に比べると、山あいを走る電車という感じで切り通しがあったり開けて遠くまで緩やかに下るように水田地帯が見えたりしながら列車が進みます。

日野川支流の沿線には、滋賀県らしいどんとした日本家屋の美しい集落が見えます。

その田園地帯に工場が点在しています。琵琶湖沿岸の農業用水の歴史や干拓の歴史とあわせながら、戦後の人口増加の中で次男以下の土地を持つことが厳しい「余剰人口」は出稼ぎに出なければならなかったほんの半世紀前を乗り切ってきたのだろうかと、また知らない歴史が出てきました。

 

そして国内の富を生み出してきたのは、こうした時代の葛藤を乗り越えてきた国民一人一人の生活によるものだと思いを馳せながら車窓の風景を眺めることが増えました。

 

9時30分、日野駅に到着しました。

「日野商人街道」どんな風景があるのでしょう。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

水のあれこれ 369 川なのか水路なのか、白鳥川

岩倉コミュニティ水防センターの歴史はわからなかったのですが、ここにも隅に東屋がありました。

座ると、先ほど歩いてきた下羽田地区の田んぼがずっと広がっているのが見えます。

ああ、なんと美しく落ち着いた風景でしょう。一日中いや一年中でもここに座ってみていたいものです。

 

近くに何かの石碑がありました。

  侍井湯の由来

 古来この流域は、岩井明神池を源流として四分、四分、二分の割合をもって用水を配分していた。

 其の後、流域は盛んに開田が行われ用水もだんだん枯渇してきた。

ある年未曾有の旱魃に見舞われ打つ手もなく諏訪大明神に願をかけたが雨は降らなかった。

 時の社守、豪族の侍井五郎助なる者が屏風岩の下で数十日間水乞祈願をかけたが雨は降らなかった。

 疲れ果てて、うたた寝をすると諏訪神社の南の社有地(現侍井湯)の岩間に水の湧く音がした。五郎助は、神のお告げと早速その地に池を掘った。すると溢れんばかりの湯水が湧き出した。

 其の後誰云うことなくこの池を侍井湯又は、五郎助湯と呼ぶようになった。

 爾来その功により諏訪神社の社守は、西村(馬淵)の弊村右より出る様になったと伝承されている。

 又、この末路は東横関、若宮、遠くは土田町まで至っていたと記せられている。

 

現在は南の山側に沿って白鳥川が流れているのですが、かつてはこのあたりから湧き出していてこれより上流の白鳥川は後に造られたのでしょうか。

ちなみに、岩倉水防センターの北側を流れるのが御沢川で、1kmほど東にある御沢神社にある池のあたりが水源でしょうか。

 

琵琶湖周辺の山から流れてきた水が川になっていると思い込んでいたのですが、もっと複雑なようです。

そして、その湧き水だけでは水不足にも陥っていたようです。

 

 

一級河川白鳥川はどこからどこへ*

 

琵琶湖は淀川水系で、琵琶湖に流れ込む河川はすべて一級河川になることを数年前に知りました。

 

この地域を流れる白鳥川も一級河川の扱いになりますが、頼みの綱のWikipediaにはこの川の説明がありません。

でもきっと先人の記録があるはずです。名前もわからない水路のような川まで詳細を読むことができましたからね。

 

で、やはりありました。ブログのタイトルがないのですが、「淀川」「琵琶湖」「琵琶湖疏水」そしてなんと「大和川」まで、実際に上流から河口まで歩いた記録です。

 

白鳥川

 

 滋賀県・湖東地方を流れる、琵琶湖に注ぐ川。

一級河川の起点は蒲生郡蒲生町川合の下川原、南木。

北西流、東近江市(旧八日市市)西縁を流れ近江八幡市中央部を貫流近江八幡市南津田西端で琵琶湖東岸に注ぐ。

灌漑水路の性格が強く、最後まで高い堤は持たない。

 白鳥川の始まりは、日野川支流・佐久良川堤下の小流。

布引川を源流とする文献もあるが、現在は木村地区の橋標に「白鳥川」とある。

川相は、日野川水系の右岸地域に広がる田地を流れる水路状。

上写真のグリーンベルトが佐久良川の堤。写真は川合と木村の境付近。

下写真の奥の山なみは雪野山。山向こうに日野川が流れている。

 

 八日市市に入り上羽田町の広大な農地を流れた後、川は独立峰の雪野山に寄っていく。

上写真は古墳群や多聞院のある付近の山裾を流れる白鳥川。この付近から水量を増し川幅が広がる。

上しゃしん左の橋は雪野山ふるさと街道の橋。道はこのあとトンネルとなり竜王町へ抜けている。

この橋の下はツバメのお宿になっている。

上写真右の遠景に見える山は瓶割山。

 

 川は雪野山の北端をめぐり近江八幡市へ入る。

この付近には分流があり、岩倉団地を巻くように流れてまたすぐ本川に戻る。

 上写真は馬淵町の北端付近、近江八幡駅の南方。

上左写真の奥に霞む橋梁は新幹線、右写真遠景の山は八幡山

 上写真は2号・大津能登川長浜線から。

左は小船木橋から上流望、右は河畔の田地。

 上写真は八幡堀へ通じる道の橋から。

上左写真の山なみは右が雪野山、左は瓶割山。

上右写真奥の山は対岸の湖西の山なみ。

この付近から流れが緩くなる。

 南津田町付近では流れは完全に止まり、風向きによっては上流側に波が立つ。

上写真右、奥の山は八幡山

 

 

すごい、まるで「植物の持つ特性を変えない」で描くボタニカルアートのように、川を科学的な文章で描いているようですね。

 

そして初めての場所を歩いていると、見ている方向によっても姿を変えるのであの山は何というのだろうと混乱することがしばしばありますが、山の名前も詳細に書かれています。

 

そして白鳥川が「灌漑水路の性格が強い」「最後まで高い堤は持たない」そして、河口から数百メートルのあたりで「流れが完全に止まる」ということがわかりました。

 

ところで水源はどのあたりだろうと地図で確認すると、上羽田町の田園地帯から忽然と水路が描かれていました。

河口付近の近江八幡干拓地らしい場所まで、いつ頃、どのように水路や田んぼが造られて、いつ頃から「白鳥川」と呼ばれるようになったのでしょう。

 

それにしてもこの先人の記録を読んでいたら、やはり琵琶湖の全ての川や水路をたどってみたいという壮大な計画に火がついてしまいそうです。困りましたね。

 

 

*おまけ*

「侍井」は、「まちい」「まつい」「もちい」「たいい」などの読み方があるようですが、この場合はどの読み方かわかりませんでした。

日本語はほんと、難しいですね。

 

 

 

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散歩をする 515 近江八日市から岩倉コミュニティ水防センターへ

五個荘地区を訪ねたあとのニッチな散歩の計画は、近江八日市近江清水地区の水路沿いを歩いたあと、近江鉄道市辺駅まで電車に乗り、そこから山に挟まれたところに水路が複雑に描かれている岩倉コミュニティ水防センターのあたりまで歩く予定でしたが、お腹が空きました。

 

五個荘でお昼ご飯を食べそびれたので、ここから目的地まで歩き切るためには食べておいた方がよさそうです。こんな時には便利なマップで開いているお店を検索し、太郎坊駅で下車しました。

海のない場所ですが、新鮮で美味しい海鮮丼をえいっと奮発して食べて元気になり、また歩き始めました。

 

目の前にまるで天狗の鼻のように突出した岩山がそびえていて、中腹に神社が見えます。

交通量の多い国道421号線を避けて近江鉄道の南側の農道を歩くと、どこまでもその天狗の鼻が少しずつ形を変えて見えました。

 

市辺駅の手前から小学校の角を曲がると、「ダム用水路管理区域」と囲いのある中に何かの石碑がありました。そこから100mほど離れた水路からの暗渠のようですが、地図でその水路をたどってみると東へ8kmぐらいでしょうか、池之脇町のあたりで忽然と消えました。

愛知(えち)川左岸の支流沿いですが、これも上流の永源寺ダムからの農業用水のようです。

 

ここから広大な農地へと入り、ところどころに集落があります。

どこまでも平らで、琵琶湖の対岸の残雪の残る山頂が見えました。

「下羽田開発」というバス停があり、近くに「開発地蔵」と石柱のある地蔵堂がありました。

地図でみると東側から「上羽田」「中羽田」「下羽田」とあるようです。「羽」というのは川沿いに出っ張った場所ですが、近づいてきた山裾に川が流れているようです。

「開発」は「新田開発」「開作」などと同じ意味でしょうか、そしてこの地域にはどんな「開発」の歴史があるのでしょう。

 

ここも麦でしょうか、芝生のように緑色一色になった畑が整然と広がっています。道端にはヒメオドリコソウや菜の花が咲き、うぐいすが鳴き、どこまでも歩けそうな気分になるのですが、さすがに2万4000歩を過ぎて疲れました。橋のコンクリートに腰掛ける怪しい人になって、しばし休憩。

 

そこからその水路沿いに歩くと、公園が見えてきました。

 

 

美野里池*

 

目的地の岩倉コミュニティ水防センターの200mほど手前に、池か貯水池のような水色の場所が地図にあります。

 

池の周りは芝でおおわれ、池を眺められるように東屋があり、想像していなかった美しく整備された公園が田んぼに囲まれてありました。

近くの田んぼではトラクターで田おこしの最中で、その後ろに鳥が集まっています。

東屋に腰掛けて目の前の山の木々や池の周囲の柳の新芽を眺め、輝いている水面をしばらく眺めました。

なんと心落ち着く風景でしょう。

 

地図で見つけた場所をどんなところだろうと実際に歩くと「僥倖」に巡りあう、これだから散歩はやめられませんね。

 

そばに池の説明がありました。

美野里池(みのりいけ)

白鳥川中流1期地区 水質保全対策事業

この池は、琵琶湖の水を汚さないために、農業排水に含まれる水質を悪くする物質(チッ素やリンなど)を少なくすることを目的に造られました。事業は、平成19年度から平成27年度にかけて実施しました。

発生源対策

水田から水路へもれ出る排水を少なくする

→畦畔(けいはん)漏水防止工(埋設遮水シート)等

再利用対策

排水をもう一度農業用水として活用する

→反復かいがん施設(水中ポンプ、送水管)

浄化対策

浄化池の有する多面的機能を活用する

→浄化池整備

 

ああ、本当に勉強になりますね。

子どもの頃はまだ「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚だったのに、いつのまにか環境に配慮するという意識が生活に根づきました。

その驚異的に変化する時代のまっただ中を生きてきたはずが、浦島太郎の気分になるのはなぜでしょう。

 

 

*岩倉コミュニティ水防センターに到着*

 

東屋で一休みし、公園のすぐそばの川沿いを歩き始めました。対岸の小高い悪石岩の山裾に明神池と神社があり、「雪野山山系散策路入口」と山の方へ案内があります。

地図ではその北側を流れる2本の水路と川が近づきながら流れている狭い場所です。

 

川よりも一段高い場所に広場と建物、そして住宅地が広がる場所でした。

「水防センター」、何か水害の歴史が記録されているのだろうかと周囲を歩いてみましたが、複雑な水路に囲まれた場所で、「想定浸水深 0.5m未満」の表示とゲートボール場がありました。

 

この地域の歴史はわからないままでしたが、複雑な水路に潤された田園を歩くことができ満足して近江八幡行きのバスに乗りました。

 

美しい田園風景を眺めながら新幹線の高架橋をくぐり、近江八幡駅に到着。

ここからはJR琵琶湖線米原駅彦根方面へと戻ることにしました。

車窓からはずっと麦畑が見えます。能登川の手前に美しい水路を見つけました。その奥は五個荘です。歩いてみたくなりました。困りましたね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた風景を歩いた記録はこちら

 

 

水のあれこれ 368 「享保の川奉行の掟」のある清水川

五個荘の街並みと田んぼと水路はもっと時間をかけてみたかったと、後ろ髪をひかれながら国道石塚バス停から近江八日市駅に向かいました。

 

県道209号線沿いに走り、東海道新幹線の高架橋を過ぎるとじきに左手は広い水田地帯、右は小高い山が迫ってくる場所になりました。

地図ではこの五個荘木流町(きながせちょう)あたりで南側から流れてくる水路が集まっています。このあたりも愛知川の段丘の上という感じでした。

歩いてみたいと思う風景が続き、また市街地になり近江八日市駅に到着しました。

 

八日市清水の分水路らしい場所まで歩く計画ですが、駅の南側に「清水川緑地」という公園があるようなのでそこを目指しました。

 

 

*清水川散策路*

 

緩やかに蛇行する住宅街の道を歩くと、小さな川がありました。地図ではこの少し上流から忽然と始まる川です。

 

そばを歩き始めると木の案内板があり、そこから数段の石段を降りて水辺を歩けるようになっているようです。

 

その木の案内板の内容は、読みやすいように要約も書かれていました。

蒲生郡小脇郷澤堀さらへ

氏度出来候上者土砂塵芥

一切掃込申間敷候惣而澤

川筋麁抹之儀仕間敷候

違乱之者於有之者可為

曲事者也

 享保十四己酉 二月 川奉行

 

(要約)

 

蒲生郡小脇郷澤堀を浚へたるについて

毎度出た土砂又はゴミは

一切澤堀へ掃込まない総べて澤川筋は粗末にしてはならない

違反したものがあった場合は処罰をする

 享保十四年己酉(一七二九年)

 二月  川奉行(河川を管理監督する役人)

 

 

水路の幅は数十センチでしたが、水が流れています。

のんびりを歩いていると、反対側の住宅地から石段があって、かつては水辺を生活用水としていた跡もあります。

 

どこまで続くのかなと楽しみにしていると、数十mほどで上の車道に戻る石段になりました。

そこにゴミが捨てられていたので「(えい不届者め)」と思いながら線路を渡って反対側へと歩くと、「新清水川」として真っ直ぐ伸びて清冽な水がその先の水田地帯へと流れていました。

 

 

*清水川湧遊プロジェクト*

 

八日市清水、暗渠だけかなとちょっと落胆し始めたのですが、なかなかすてきな用水路と家並みのある街でした。

とまとめてこの記録を終えようと思ったのですが、当日「清水川湧遊プロジェクト」とメモしていたのが気になって検索してみました。

 

まず「清水川(しみずがわ)」と思ったら、「清水川(しゅうずがわ)」と読むことを知りました。「八日市清水」は「しみず」で良いようです。

ほんと、日本語は難しいですね。

 

そしてその歴史を知ることができました。

 

地域住民の力と支援で清水川湧水地に清流戻る

滋賀報知新聞、2010年3月30日)

 

沿岸のサクラも美しい市街地の親水公園に

◇東近江

 かつての清流を取り戻そうと地元住民の取り組みで再生した清水川湧水地(東近江市八日市清水一丁目)の完成を祝う竣工式が二十七日、清水会館で行われた。

 清水川湧水地は、下流域のかんがい用水を引くために造られたもので、江戸時代の愛知川節分水古地図にも記載され、昭和四十年ごろまでおよそ三百年余りの長きにわたり、水田を潤す農業源水として役割を果たしてきた。

 愛知川ダムの完成により、水田用水としての役割が薄れ、と同時に地下水系の変化により水位が下がり、かつて満々とたたえていた清水は枯れ、川底にはゴミや雑草が目立ち、街中の美しい水辺景観は失われていった。

 こうした状況を住民の力で改善し、かつての美しい姿を取り戻そうと整備計画が進められ、護岸の石積みの積み直しなど修景が行われた。平成十九年には、住民組織の「清水川湧遊会」が立ち上げられ、清流を取り戻す事業「清水川湧遊プロジェクト」がスタート。

 TOTOの水環境基金や同社滋賀工場からの社員ボランティアの支援、市のまちづくり建設資材支給事業補助金第一号を受けて、地下水をポンプで汲み上げて湧水地に送水する水路や深かった川床を盛り上げ、止水シートの上に清水が曲線に流れるように石積みの小川を造るなど、各方面の支援と住民らの自力で延長八十五メートルの清流を二年かけて蘇らせた。

 竣工式に招かれた西澤久夫市長は「住民自身の手でこのような大がかりな工事が行われたのは、東近江市になって初めてではないかと思う。お見事と申し上げたい。このまちをよくしていこうと思う住民みなさんの力の結集が実を結んだのだと思う」と祝辞を述べた。

 完成した清水川湧水地は、これまでと違って子供たちが安全に遊べるように造られ、もうすぐ咲く護岸沿いの多品種のサクラ並木や秋の紅葉が清流の水面に映る市街地の親水公園として生まれ変わった。

 

あの日歩いた「延長八十五メートル」の散策路は、こんな歴史があったようです。

検索しなかったら知らないままで終わっていました。

 

そして1980年代から90年代あたり、こうしたそれぞれの地域の中の静かなうねりで日本各地の川がきれいになり始めたのかもしれませんね。

 

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた風景を歩いた記録のまとめはこちら

記録のあれこれ 180 五個荘から水路をまわるニッチな散歩の計画

今回の散歩でもっとも悩んだのが、五個荘を訪ねたあとどこへ向かうかという2日目午後の計画でした。まあ楽しい悩みでしたけれど。

 

ひとつの案は、琵琶湖沿岸の干拓地を歩こうかというものでした。

愛知(えち)川をたどると、河口付近の右岸に水路でぐるりと集落が囲まれた環濠集落のような場所があり、その名も「新海町」に目が止まりました。

琵琶湖の岸まで300mほどでしょうか。いつ頃の干拓で、どのような歴史があるのでしょう。

 

さらに西へ2kmほど、大同川右岸にも水路に囲まれた「栗見新田町」があり、その左岸が2020年に訪ねた大中(だいなか)地区です。

琵琶湖の干拓地を歩きつくしてみたい、無謀な計画がいくつもありますからね。

 

ただ、コミュニティバスの時間から今回は無理そうとなりました。ついつい干拓地を歩く時には気が大きくなってどこまでも歩けそうな計画になりやすく、バスがなければ歩けばいいじゃないかとも思ったのですが、さすがにお隣の大中地区をバスで訪ねたときの広大さがブレーキをかけてくれました。

 

では、五個荘の後どこへ行こうか。

そういえば、近江鉄道五箇荘駅から近江八日市駅間はまだ乗ったことがなかったような気がします。

近江八日市駅の周囲を地図で見ると、その名も八日市清水のあたりで水路が扇状に分水されているように見える場所がありました。

ここを見てみよう。

 

そのあとどうするか。

西側にあの瀬戸内海の小島のように小高い場所が点在する中に水田地帯が開け、その水路が小高い場所との間を抜けるような場所に「岩倉コミュニティ水防センター」があるのを見つけました。

そうそうあの「隘路」はこういう場所も含まれるかもしれませんね。

 

山側から押し寄せてくる水が山に阻まれているようなイメージの場所です。

そこに水路が集まり、集落もある。

ぜひどんな場所なのか見てみたい。

 

近くにはバス停もあり、1時間に1本はバスもありそうです。

新幹線の線路から1.5kmぐらいの場所にあるこの場所の水の歴史が何かわかるかもしれません。

計画ができました。

 

ということで、今回は散歩の計画を立てる段階の葛藤の記録でした。

 

 

*おまけ*

 

最近、散歩の計画を立てるのが上手くなったと自画自賛したくなるのですが、むしろどの地域を歩いても圧倒される歴史、言いかえると生活の積み重ねがあるからですね。

 

 

 

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生活のあれこれ 52 「三日天気が続けば、はねつるべ」

愛知(えち)川流域の田んぼに水を行き渡らせるようになった1972(昭和47)年の永源寺ダムについて、「水土の礎」にこんな話がありました。

 

9. 永源寺ダムとほ場整備に感謝

 愛知川右岸愛荘町東円堂地区には明治時代、東円堂では「三日天気が続けば、はねつるべ」といわれ、水利は「はねつるべ」によって地下水を人力で揚水するのが常であった。そのために水田三、四枚ごとに必ず井戸があり、「はねつるべ」を用いた。「1日に1cmぐらいの減水の場合、1畝あたり50〜200回の水汲みを必要とした」(『愛知川水利史』)というから、大変な労力であった。

 

高校生まで一時期過ごした家の前には水田がありました。朝は水が波なみとあるのに、午後になるともう土の表面がひび割れるくらい水がなくなるのを当たり前のようにみていました。

翌朝には水路からまた水が送られているのでそんなもんだと思っていたのですが、「1畝あたり50~200回の水汲み」とは。

 地域の古老はいう「いま振り返れば、稲作に従事するわれわれには、水利に関して二つの革命がありました。一つは永源寺ダム完成による用水整備のおかげで大規模なほ場整備が進み、併せて安壺川(*あんこがわ、引用者)の改修、中部排水路の整備により安心出来る集落となり、農業も大きく変わった。これに遡る最初の大革命は、動力による灌漑用の揚水ポンプができたこと。大正時代の末頃でしょうか。あの大変な『はねつるべ』から解放されたのですから、どんなにありがたかったことか。昭和6年か7年にきつい大旱魃があって、やかんに水を入れてヒビ割れにかけたそうです。旱魃の最中、その程度では何ほどの足しにもならないですが、しかし気持ちはよくわかります。

 

現代でも梅雨時の田んぼの水不足が聞こえてくるとその地域のニュースが気になっていますが、農業用水がまだ整備されていなかった時代の過酷さは想像できないものですね。

 

 

*水利慣行が人間関係を形成する*

 

あちこちの水田地帯を歩くようになって、昭和に入ってもまだまだ各地で水争いがあったことを知りました。

 

「水土の礎」にその上流から下流への水利慣行について書かれていました。

2. 稲作社会は「水社会」

 畑作農業とは異なり、自然流下型灌漑方式をとる水田では、地域の上下流によって、水利用の難易・優先順位が定まり、上流は常に下流に対して優位に立ち、このために下流側は水利的には常に不利な立場に立たされる。一方、古く開発された水田は、新しく開発された水田に対し、水利的に常に優位な立場に立つことが出来る。この上流優位、古田優位の原則は、水田開発が進むにつれ、より強固なものとなるが、同時に下流地区・新田地区からの水に対する要求も強くなり、種々の約束が行われることとなる。これがいわゆる「水利慣行」の成立である。この慣行は、程度の差こそあれ、わが国の水田地帯ではどこでも見られる一般的な慣行であり、時として水利条件の厳しいこの水利慣行に縛られて種々の人間関係が形成されてきたのである。このような、水利開発が基本となって、基本的なわが国の政治・経済体制が形成されてきたと考えられる。

(強調は引用者による)

 

「厳しいこの水利慣行に縛られて種々の人間関係が形成されてきた」ことの例として、こんなことが書かれていました。

4. 永源ダムによる恩恵

 この厳しい水利環境のために、独特の人間関係・社会関係が形成されてきたように思われる。例えば、井堰関係に長年たずさわっている古老の話によると新郷井では、川上と川下では縁組は全く行われなかったようである。同一井堰をめぐる上下流の対立の厳しさが社会制度に影響した実例と言える。

(強調は引用者による)

 

「水争い」「水利慣行」、言葉を知っているだけでその生活史を何も知らなかったと痛感しました。

 

 

*農業用水の整備は労力の軽減だけではなかった*

 

永源ダムの恩恵では、続けて立ち退きのことも書かれていました。

このように不安定な水源では水争いが絶えなかったため、安定水源を確保し食糧増産を図る必要から、昭和27年(1952)に永源寺ダム建設計画が樹立された。このダム湖底には佐目、萱尾、九居瀬、相谷集落の213戸の家屋が水没となり、大昔より住み慣れた故郷を離れるには忍びがたいことであったが、格別の理解と協力によって隣近所それぞれ移住先は異なったが移転された。

 そのおかげで昭和47年(1972)に大貯水湖「永源寺ダム」が完成し、水利環境は改良され水事情は一変した。

 

ああ、やはり立退は…と感情移入しそうになったところで、こんな見方があるのかとハッとさせられました。

水利環境の改善は、単に水田用水を確保し、土地及び労働生産性の向上に寄与するばかりでなく、広く地域社会の発展、さらには人間関係の改善、人格の矯正にまで有効に働くことが理解できよう。まことに水利環境の改善の効果は偉大なのである。このことこそ、水利開発の最も大きな役割として評価する必要があるのではなかろうか。

 

水利環境の改善は、「広く地域社会の発展、さらには人間関係の改善、人格の矯正まで有効に働くことができよう。」

 

なぜこの国にデモが似合わないのか、なぜ半世紀以上前と同じ、水田が健在でどっしりとした家々があるのか

葛藤や争いを乗り越えた水利慣行の歴史に答えがあるのかもしれない、そんなことをこの箇所から思いました。

 

 

*おまけ*

 

30年ほど前に「反対運動が高まると、外から活動家が入り込むことで住民の亀裂が深くなる」と伺ったことを思い出しました。

 

 

 

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米のあれこれ 89 段丘の上の五個荘の田んぼ

とびとびになりましたが、また3月中旬の散歩の記録です。

 

新幹線で広々とした入江干拓地を通過したあと、小高い場所に挟まれた場所を抜けるとまたしばらく広大な水田地帯が車窓から見えます。そしてまた小高い山が近づくあたりで美しい日本家屋の五個荘の集落が見え始め、水量のある美しい川を渡ります。

これが愛知川で、あいち川ではなくえち川と読むことを今回初めて知りました。

 

ふらりと立ち寄った公園で知った「地域用水」の説明から検索してみたら、「水土の礎」に「滋賀県 国営愛知川農業水利事業」の説明がありました。

 

 

扇状地が開けた場所より下流の方が段丘の上*

 

念願のあの水田地帯を歩くことができて、ふと「台地のよう」と感じたことが当たっていたことが「水土の礎」を読んでわかりました。

 

1. 愛知川地域の水利環境

 

 愛知川地域は、水利的に観て二つの地域に大別される。一つは、愛知川中下流域に開ける沖積平野の下の地域(下の段)であり、一つは愛知川の上流から扇状に開ける沖積平野より10~30m高い沖積台地・段丘(上の段)である。前者は低地であるが故に、水が得やすく早くから水田が開かれていた地域である。ここに、いわゆる10ヶ井堰と呼ばれる池田井・外井・高井・青山井・鯰江井・駒井・吉田井・愛知井・黒内井・安壺井があり、中でも駒井、高井などは朝鮮からの帰化人によって築造されたものといわれている。

(強調は引用者による)

 

地図で確認すると東海道新幹線の通るあたりから10数キロ南東に、愛知川の扇状地が始まる地域があり、航空写真で見ると見事な水田地帯が広がっています。

ぜひ歩いてみたいものですね。

そのあたりの上流の方がむしろ段丘の下側で水を得やすく、五箇荘のあたりは段丘の上だったようです。

 

ただ、上流の水を得られやすい方が安定した田んぼだったかというと、そのどちらも厳しい歴史があったことが書かれていました。

これらの井堰も愛知川の洪水によって度々流され、安定した取水を行うのは容易ではなかった。後者は、台地の上に立地するために、古くから水利の便が悪く、水田が開けたのは江戸時代以降といわれ、近年まで大豆、茶などの畑作と稲作とが輪作で行われている。ここには数多くの溜池が存在するが、これは、彦根藩の築造によるものが多いとされている。

 

あの大同川もたどっていくと建部瓦屋町のため池が水源のようです。

近江商人」「豊かな街」というイメージから、かなり古い時代からの水田地帯だと思い込んでいました。

 

 

「近年まで大豆、茶などの畑作と稲作とが輪作で行われている」

「近年」とはいつ頃だったのでしょう。

どうやら1972(昭和47)年に完成した永源寺ダムだったようです。

 

そのおかげで昭和47年(1972)に大貯水湖「永源寺ダム」が完成し、水利環境は改良され水事情は一変した。それまで愛知川の10ヶ井堰から取水していた用水は、永源寺ダムから統一して送水され、愛知第一・第二・蒲生・神崎の4幹線水路によって末端の水田まで送水されることとなり、全域のほ場整備も完了した。

 

1970年に大阪万博を見るために新幹線でこの辺りを通過したとき、そしてその数年後に修学旅行で京都・奈良へ向かうために通過したときでは風景が大きく変わっていた可能性があるのですね。

 

風景が記憶にないのがほんと残念ですが、あの幻想的な春は麦の穂、夏は稲穂の広がる美しい集落の風景は現代に入ってからだったのでしょうか。

まあ、「現代」とはいつのことを指すのか世代によっても違いますけれど。

 

 

 

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鵺(ぬえ)のような 29 「先進国」とか「新しいこと」への焦り

これだけマイナンバーカードについての問題が明確になってきても、いまだに「新しいことに適応できない人がデジタル化を遅らせる」という意見が書き込まれると、あ〜あという感じ。

 

「デジタル敗戦」とか「デジタル後進国」といった言葉で「遅れていく」という不安が煽られたのに、「全国民がICチップ付きの身分証明証を取得できるというのは世界でもほとんど例がない取り組みであり、デジタル社会で優位に立てる」と後から言われても、もう煽られた気持ちはなかなか鎮められないですからね。

 

『法の下の平等』に反するということです。G7(先進7カ国)でほかにIDカードと保険証を一体化している国はありません。

最初にこのことを知っていれば、他の国々では「デジタル化と人権」についていろいろな失敗やリスクが議論されたのだろうなと慎重になりそうですけれど。

 

「例のない取り組みをしている」というプライドのために政府は法的な手順を無視してゴリ押しし、さらに「2025年までに『誰一人取り残されない』デジタル社会実現のための工程表」ができているのですから、あな恐ろしや。

 

 

*「いつか来た道、いつか行く道」*

 

年齢層が高いと「新しいことについていけないから」という一方的な見方をされるのですが、どちらかというと今まで似たような社会の雰囲気をなん度も感じてきたからではないかと、あれこれ思い出しています。

 

いつの時代にも、「社会が良くなるなら、古い考えを捨てていかなければ(自分は他の人と違って新しいことを取り入れている)」と思い込んだことが、10年か20年ぐらいすると違っていたのではと思うことがありますからね。

してもしなくても結局は変わらなくても、あるいはしなかった方がよいことまでしてしまう、そんな現場の狂気がいったん吹き荒れると鎮静するまでに10年ぐらいかかり、何がおかしかったのか気づくまでには30年ぐらい必要という感じでしょうか。

 

デジタルに疎いと蔑まれても、今慎重にしなければという点では譲れない。

きっと「デジタルに弱い高齢者は」と書き込んでいる人たちも、いつか行く道ですからね。

 

 

*「先進国」ってなんだろう*

 

他の国々で「こんなデジタル社会が実現している」という映像を見ると、心がざわついて「日本もなんとかしないと」という気持ちになるのでしょうか。

 

国の隅々までインフラが整備されているか、それを利用できるだけの経済力を持つ人がどれくらいの割合かという現実の問題を考えると、そういう国はごく一部の特権的な人が国民の生活を支配する力をますます持ってしまったのだろうなと私には思えるのですけれど。

 

20代の頃から「先進国」という言葉に引っ掛かりがあるのですが、それは新植民地主義が批判され始めた頃から、かつての「宗主国」の代わりに使われてきたのではないかと漠然と思っていましたが。

 

だから「先進国」「後進国」で何かを煽られることには注意が必要そう、そんな経験ですね。

 

「日本は物価が安いから旅行先に選んだ」と言われ、「日本人は金を払えないから」と魚も海外へ輸出されるようになりましたが、これも「先進国」「後進国」で煽られてきた成れの果てですからね。

 

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

記録のあれこれ 179 マイナンバーカードの「法的なリスク」

6月22日まで行われた厚労省の「健康保険証の交付義務を削除する省令改正案のパブコメには5万件をこえる意見が寄せられたとあったので、きっとさすがに現行の健康保険証の廃止は見直されるだろうと思っていました。

 

ところが、さらに「紙の介護保険証廃止を検討 厚労省、マイナカードを活用」(日本経済新聞、2024年7月8日)という報道がありました。

 

2018年ごろはまだ両親の介護の最中で、始まったばかりで実態はわからないけれどマイナンバーカードに介護保険証や預金がリンクされたら便利なのにと思いつつ、同じ記事で書いたように高齢者がそのカードを作ることの家族の大変さという矛盾した葛藤がありました。

 

一番の問題は、「住所が変わったら作り直さなければならない」ことでした。

高齢者というのは介護度により生活の場が変わるので、時には県外の施設まで居住地が転々と変わることを実感しました。

そのたびに役所に出向いてマイナンバーカードを作り替えなければならない可能性に気が遠くなりましたが、任意でしたし日常ではほぼ出番のないカードでした。

 

ところが2022年、政府は健康保険証の事実上の義務化を打ち出し、マイナンバーカードも義務化していくための外堀を埋めるようなことを始めました。

 

便利か不便かといった問題ではなく、自由がどんどんと失われていくような独裁的なやりかたは将来に禍根を残すはずと思うのに、その法的な問題に切り込んでくれる記事はなかなか見かけません。

日本は本当に法治国家だったのだろうか、この国には国民のことを守る法律の専門家はいないのだろうかと思っていたところ、ようやくこんな内容を求めていたというものが出てきました。

 

 

マイナンバーカードの法的なリスクとは*

 

今後の参考のために全文記録しておこうと思います。

 

「マイナ保険証のリスクは「セキュリティ技術面」だけじゃない!? 国民の生命をおぼやかしかねない致命的な"法的問題点"とは

(弁護士JPニュース、2024年7月12日)

 

健康保険証について、政府は12月をめどに「マイナ保険証への一本化」を進めている。また、7月8日には厚生労働省が、介護保険証についてもマイナカードへの一体化を進める方針を明らかにした。

 

しかし、紙の保険証を廃止して「マイナ保険証への一本化」をすることには様々なリスクが指摘されている。そのなかにはセキュリティ技術面でのリスクだけでなく、法的なリスクもある。どのようなものか。元総務省自治行政局行政課長で、弁護士でもある神奈川大学法学部の幸田雅治教授に話を聞いた。

 

マイナ保険証の矯正は「憲法41条違反」の疑い

紙やプラスティックの保険証を廃止してマイナ保険証への「一本化」をすることについては、法的にみてどのような問題点があるのか。

 

幸田教授によれば、マイナ保険証への一本化は憲法41条に違反するという。同条は「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」と定めている。

 

幸田教授:「憲法41条は国会を『唯一の立法機関』と位置付けています。これは国会に法律を作成する権利を独占させるものです。

この規定については、『法律』とはどのようなものを指すかが問題となりますが、判例・実務も学説も、最低限『国民の権利を制限し義務を課する法規範』は必ず含まれるという理解で一致しています。

つまり、『国民の権利を制限し義務を課する法規範』については、人権保障の見地から、国会が決めなければならないことになっています。これを『侵害留保原則』といいます。

もちろん、一定の例外は認められています。それは、国会が法律で行政機関に『委任』した場合です。すべて国会の議決が必要だというのは現実的ではないからです。

ただし、判例・学説によれば、その場合、委任は相当程度、個別具体的に行うことが要求されています(最高裁昭和49年(1974年)11月6日判決等参照)。

しかし、マイナ保険証の強制については、委任の根拠となる法律の規定がなく、委任立法の要件さえ満たしていません」

 

さらに、幸田教授は、マイナ保険証によって、国民の以下の3つの「人権」が侵害されるリスクがあるという。

・医療アクセスを求める権利(憲法13条、25条参照)

法の下の平等憲法14条参照)

・情報プライバシー(憲法13条)

 

幸田教授:「それぞれの人権の内容については後述しますが、マイナ保険証への一本化はこれらの人権を侵害する危険性があります。したがって、憲法41条に照らせば、少なくとも法律で委任事項について相当程度、個別具体的に定めなければならないはずでした。

それなのに、政府は、厚生労働省の省令の『療養担当規則』で、2023年4月以降のマイナ保険証のオンライン確認の義務化を決めてしまいました。

療養費担当規則に違反すれば、最悪の場合、保険医療機関の指定を取り消しのペナルティを受ける可能性があるというものでした。

もし保険医療機関の指定が取り消されると、事実上、その医療機関保険診療を取り扱うことができなくなり、廃業を迫られることになります。

その結果、その医療機関を従来『かかりつけ医』として利用してきた人々にとっては、生命がおぼやかされる危険性があるのです。

 

私の信頼する歯科の先生も保険診療をやめました。自費でも安価に設定した歯科健診を細々と続けてくださっていて、今も患者さんが途切れることがありません。

 

あ、もしかして政府が分娩の健康保険適用を焦るのは、自費診療だとこのマイナ保険証のペナルティ対象から外れてしまうからでしょうか?現在の保険診療の中では自費診療が中心の特殊な背景を持つ周産期医療をがっちりと政府が支配するためではないか、ちょっと穿った見方ですけれど。

 

 

河野太郎デジタル担当相の"憲法地方自治無視"の「暴走」

また、幸田教授は、憲法が保障している地方公共団体自治権憲法92〜95条参照)が蹂躙(じゅうりん)されているとも指摘する。

 

幸田教授:「重大な問題は、河野太郎デジタル担当相が2022年10月に唐突に、保険証を2024年秋に廃止し、マイナカードと保険証を一体化した『マイナ保険証』に一本化するという方針を発表したことです。

そもそも、国民健康保険業務は市町村の業務であるにもかかわらず、自治体にまったく相談も協議もせずにこのような方針を打ち出すことは、まさに地方自治の侵害にほかなりません。

自治体の業務に関わる政策について、このようなことはいまだかつて一度としてありませんでした。河野氏の暴走であり、憲法や一般的な法治主義に反し、到底許されない行為と言わざるをえません

 

2023年成立の『改正マイナンバー法』でカバーされなかった"致命的欠陥"

紙の保険証の廃止・マイナ保険証への一本化については、2023年6月にいわゆる「改正マイナンバー法」が成立した。そして同年12月に施行日が2024年12月と決定され、現行の保険証が廃止されることになった。

これによって、前述した憲法41条違反の瑕疵(かし)がカバーされたとは言えないだろうか?

 

幸田教授:「マイナ保険証のオンライン確認の義務化について、『療養担当規則』に委任する法律の規定が定められたわけではないので、憲法41条違反の瑕疵はまったく治癒(ちゆ)されていません。

そもそも、法律で定める前に閣議決定などで既成事実化し、あとから法律で追認するという手法自体に問題があります。

また、前述のように、法律による政令・省令への委任は、相当程度、個別具体的なものでなければなりません。『白紙委任』は許されないのです。

ところが、具体的な運用に関する細かい事項は、ほぼ白紙委任に近いといわざるを得ません。個人情報漏えい防止や、マイナカードを取得していない人のため必要な措置を講じることなどの付帯決議が採択されていますが、付帯決議には法的拘束力がないため、憲法との関係では何の意味も持ちません。

昔は、委任事項を定める政令は、国会の場で法律と一緒に審議され、その内容が明らかにされていました。国会議員、とくに与党の議員は本来の役割を果たしているとは言えません。また、内閣法制局にも問題があります

 

このように、幸田教授によれば、紙の保険証廃止・マイナ保険証への一本化は、国民の人権を侵害する危険性があるにもかかわらず、立法による規律が不十分であり、憲法41条違反の欠陥があるという。

そして前述した通り、幸田教授は、マイナ保険証への一本化により侵害される国民の「基本的人権」として以下の3つを挙げている。

・医療アクセスを求める権利(憲法13条、25条参照)

法の下の平等憲法14条参照)

・情報プライバシー権憲法13条)

以下では、これらの権利がどのように侵害される危険性があるか、検討を加える。

 

国会議員には、こうしたことに疑問を呈した方はいなかったのでしょうか?

 

切実な「医療アクセスを求める権利」の侵害のリスク

まず、「医療アクセスを求める権利」とはどのようなものか。

 

幸田教授:「『医療アクセスを求める権利』とは、病気になった場合に速やかに必要な医療サービスを受けることができる権利です。

たとえば、離島に住んでいる人が本土に行くのは、多くは医療のためです。必要なときにすみやかに医療機関を利用できることは、人間らしい生活を送るための前提なのです。

憲法の条文でいえば、『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』(幸福追求権・13条)、『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』(生存権・25条)ということになります。

日本が批准している『国際人権規約』では『健康に暮らす権利』がうたわれています。また、日弁連も2023年の人権擁護委員会で『医療アクセスを求める権利』の保障に関する決議を行なっています。

大規模災害後の復興で重要とされる要素として、『医・職・住』という言葉がありますが、『医療アクセスを求める権利』は人間らしい生活をする上で最も重要なことといえます」

 

幸田教授は、マイナ保険証の事実上の義務化により「医療アクセスを求める権利」の侵害がすでに現実化していると指摘する。

幸田教授:「すでに報道されているのでご存じの方も多いと思いますが、医療機関の端末でマイナ保険証を提示して、資格確認でエラーが出て手間取ってしまい、結果として受診が遅れて亡くなった事例が発生しています。

また、マイナ保険証は、高齢者・障がい者の方にとって使いにくいものです。

さらに、地方の医療機関では、マイナ保険証導入に対応できないという理由で廃業するところが出てきています。

全国保険医団体連合会(保団連)の調査では、マイナ保険証の導入が義務化された前月の2023年3月に、全国で約1100の医院が廃業しています。また、2024年いっぱいまでに約1000の医院が廃業を決めているとのことです。

このままでは、地域医療が崩壊してしまうおそれがあります

 

マイナンバーカードに対応するための設備費が爆増して医療機関の経営を圧迫している話が聞こえてきますが、同じことが介護施設にも起こるのであれば、何十年もかけて築いてきたこの国の医療・福祉・介護がものの1~2年で崩壊することになりそうですね。

あ、そのあとに「ヒト」への医療や福祉を「骨太」の機会とばかりに虎視眈々と狙っている人たちが切り込んでくるのでしょうか。

 

「デジタル化」への誤解が「法の下の平等」を侵害する

法の下の平等」(憲法14条)についてはどうか。

 

幸田教授:「マイナ保険証が事実上強制されると、マイナカードを持っていない人あるいは持っているけれども健康保険証との紐づけを行なっていない人が不利益に扱われることになります。

これが『法の下の平等』に違反するということです。G7(先進7か国)でほかにIDカードと保険証を一体化している国はありません。

政府は『資格確認証』を交付することによって対応するとしています。しかし、保険証そのものではない以上、マイナ保険証を有していない人が事実上の不利益を被るおそれがあります。

端的に、紙の保険証を継続指定使えるようにすれば済むことです」

 

幸田教授は、政府・厚生労働省が推進する『医療DX(デジタル・トランスフォーメーション)』の背景にIT化・デジタル化への根本的な誤解があると指摘する。

 

幸田教授:「デジタル化を推進する目的は、本来、国民に利便性の高い手段を提供し、選択の幅を広めることにあります。

台湾でIT担当相を務めたオードリー・タン氏も、デジタル化は『国民へのエンパワーメント(力を付与すること)』だと述べています。

しかし、日本では、デジタル化の目的について『デジタル社会の実現に向けた重点計画』や『オープンデーター基本計画』などで『手続きのデジタル化』や『データの利活用』のみが強調される傾向があります。それでは、デジタルに対応できない人、対応が難しい人が置き去りにされるおそれがあります。

また、マイナ保険証によって、国民はかえって不便になってしまいます。

紙の保険証もマイナ保険証も、どちらも利用できるようにすることが、選択肢を広げます。選択の範囲を狭めるのは、デジタル化の趣旨にも、法の下の平等にも反するといわざるを得ません

 

 

セキュリティ面での「法的欠陥」も‥‥

情報プライバシー権憲法13条)の侵害については、セキュリティ技術面での脆弱(ぜいじゃく)性がよく指摘される。すでに、身に覚えのないチャージがされる事件や、偽造マイナカードが使用される事件など、不正が多発している。

 

幸田教授はデータセキュリティ、サイバー攻撃への防御といった技術面に加え、法的観点からきわめて重大な問題があると指摘する。

 

幸田教授:「マイナンバー制度の下では、情報が一元的に管理される恐れがあります。

諸外国のマイナンバー制度では、権限ある者による不正な名寄せや不正利用ができないようにするため、情報連携に第三者機関を介在させるしくみがあります。ところが、日本にはそれがありません。「個人情報保護委員会」はそこに関与する権限を持っていないのです。

権限がある者がその気になれば、すべての情報に不正にアクセスし、または不正利用できる状態といっても過言ではありません。

また、それを外部からチェックすることも困難です。

政治家に対する不信が広がり、時の権力に忖度(そんたく)する官僚が跋扈(ばっこ)している現状では、この点はきわめて深刻な問題と言わざるを得ません

 

マイナ保険証のリスクについては、従来、主に情報セキュリティの技術面からの指摘が行われてきた。しかし、法的観点からも、看過できないリスクが存在するということである。

今回、話を聞いた幸田教授は、地方自治制度を所管する総務省で行政課長を務めた経歴があり、かつ、弁護士として憲法・法律に精通している。その立場からの指摘はきわめて大きな意義を持つものであり、重く受け止めなければならないだろう。

(強調は引用者による)

 

 

2016年ごろからの漠然としたマイナンバーカードへの疑問というか不信感が、少しずつ見えてきました。

 

 

 

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マイナンバーとマイナンバーカードについての記事のまとめはこちら

失敗とリスクについての記事のまとめはこちら

「デジタル」についての記事のまとめはこちら

 

そして問題の根源はやはりあの問題とか骨太とかが、日本の社会に深い闇と強行的に政策を実現させる雰囲気を作り出したのだろうなと思うこの頃ですね。