水のあれこれ 196 「東京水道発祥の地」

今回の絶対に都県境を越えない散歩はどこに行こうか、都内はだいぶ散歩し尽くしたしと思いながら地図を拡大したり縮小したりしていると、「あれ?こんなところにあったっけ?」と思うようなものを見つけることがあります。

 

それが「東京水道発祥の地」の印でした。

あの淀橋浄水場跡の近くです。

玉川上水への関心から、東京の水道への関心につながり、現在の新宿中央公園のあたりも淀橋浄水場の歴史の跡を探して歩いたこともあります。この散歩も記録に残していませんでしたが。

 

まだ見落としていたものがあるようです。

 

ということで7月中旬に出かけてみました。

 

 

*「恋弁天」*

 

地図では、新宿住友ビルの西側にその印がありました。

都庁まで地下道を歩いて、住友ビルの正面の地上に出ました。

地上に出ると、蝉の声が聞こえました。1970年代ごろに植えられた街路樹が、まるで昔からあったかのような風景です。

 

玄関の前に小さな祠があり、それかなと思って近づいてみましたが、それは「新宿住友ビル 出雲大社」で、その前には「恋弁天」がありました。

恋はみづもの 水あれば

心は狂い 花が咲く

その昔よりこの地は

沼や池 水豊かなる里

水を求めてひとあつまり

さがしたという

いらい弁天をおき 水をまつる

ゆえに 新宿の弁天たちは

恋には 水をささぬとの伝え

 つくりびと 流 政之

 うまれどし  一九七五年

 

私が探しているものではなかったのですが、こんな「水」に対する気持ちもあるのですね。

 

 

*「東京水道発祥の地」*

 

ビルの西側へと歩いてみましたが、それらしきものはありません。

真夏の日差しに涼みたくなって、住友ビル1階の広場のような場所へ入ってみました。

 

ふと目がいったその先に、水道管のようなものが見えました。

近づくと「昭和十二年」という文字がだいぶ摩耗している水道管の連結部分で、その隣に「東京水道発祥の地」という説明文がありました。

まさか、屋内にあったとは。

 

 首都東京、この大都市の発展のかげには、古くからその生活を支える水の確保に大変な努力がはらわれてきた。

 すでに300年も前の江戸時代初期(1654年)、ふくれあがる江戸の水不足をまかなうため、玉川上水が開かれ、江戸からおおよそ50キロメートルも離れた羽村から多摩川の水が市中に引かれた。

 時は変わって明治となり、首都が東京に移されるや、発展する都市に不可欠な近代水道の建設が急務となった、

そして、明治28年(1890年)、ここ旧東京府南豊島郡淀橋町に84万平方メートルの敷地を求め、玉川上水によって導かれた多摩川の水をここで沈でん・ろ過のうえ、200万人の市民に浄水を供給できるという、当時としては、画期的な規模の淀橋浄水場が建設されることとなった。

 明治31年その一部が完成し、神田、日本橋地区へ給水が開始され、ここに東京の近代水道が誕生した。

 以降、明治、大正、昭和と東京の歴史とともに歩み続けた淀橋浄水場は、昭和40年(1965年)東村山浄水場にバトンを渡し、給水開始以来60数年の歴史を閉じ、その跡地には新しい東京の象徴ともいうべき超高層ビルの街に生まれ変わることとなった。

 ここに展示されているものは、内径 1,000ミリメートル蝶型弁といい、かつて淀橋浄水場で使用されていたものである。

 東京は、今、この超高層ビルの街が象徴するように、ますます発展しようとしている。そして、この大都市が必要とする水も、遠くはるか200キロメートルも離れた利根川上流にまで求めている。

 ここに展示された蝶型弁から、かつてここに都民の水をまかなうため、満々と水をたたえた浄水場があったことを、思い起こしていただき、合わせて大都市における水がいかに大切であり、またその確保が大変困難なものであることをご認識いただければ、はなはだ幸いです。

 1974.4       元東京都水道局長 元淀橋浄水場長   小林重一

 

1974年にはこの記念碑がつくられていたのですね。

それから10年後、1980年代半ばにはこのあたりの高層ビルも増えて、この住友ビルの隣には半地下の開放空間がありました。

そこには当時、まだ珍しかったバイキング形式の新しいパン屋さんがあって、テラス席で友人と食事をした記憶があります。

 

あの頃は、この場所がどんな場所でどんな歴史があったのかも考えたこともなく、友人と世界の難民や海外医療協力を熱く語っていたのでした。

今でいう「意識高い」と、現実の行動のちぐはぐさですね。

 

そんなちょっと若気の至りのような気恥ずかしさも思い出しながら、東京水道発祥の地をあとにしました。

 

 

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落ち着いた街 17 下北沢駅の高低差が大きくなって8年

孤独のグルメ Season9」があっという間に終わってしまいました。

この番組だけは、録画したものは1年間は消さないで何度も観ています。

 

そして時々、過去の再放送があるので、それも楽しみです。

 

最初に五郎さんが映った場面で、「あ、この場所は見覚えがある」ということが増えました。

これもあちこちを歩きまわっているからですね。

善福寺川和田堀公園にある釣り堀と、そのそばにある五郎さんが入った食堂のあたりもそうでした。

その近くに静かな湧き水があって、そこでしばらく水を眺めていたことがありました。

 

と、過去の記事を検索したら、善福寺川の源泉にある善福寺公園に行ったことは書いたのですが、和田堀公園の湧き水は書き残していませんでした。

その時に、どのようにその場所が見えたのか、やはりそのつど記録に残すことは大事ですね。

 

 

*下北沢の10年ひとむかし*

 

孤独のグルメ Season1」で下北沢の回がありましたが、まず懐かしい駅舎の風景に一気に回想モードになりました。

 

現在のように地下に線路が入ったのはまだわずか8年前なのに、なんだかもうすでにセピア色の風景です。

一階の小田急線のホームから、ぐるりと古い階段を迂回するようにして井の頭線の乗り換え口があっった時代です。

そうそう、あの頃は小田急線と井の頭線の乗り換えには改札がなかったですね。

 

Season1のその時点の風景が大事な沿線の記録になっていることに、ちょっとめまいがしそうでした。

 

下北沢の街の雰囲気も好きで時々、隅々まで歩いていたのですが、子どもの頃から利用していた小田急線があの頃には想像もつかない近未来の駅舎になりました。

地下2階まであるのですからね。

あとは井の頭線の駅舎が工事中ですが、駅舎の完成形に近づいているのでしょうか、それともまだまだ未来形があるのでしょうか。

 

少しずつ少しずつ改修工事が行われて、馴染みの駅舎がなくなる寂しさとどんな駅舎になるのだろうという楽しみと半々でした。2013年にはちょっとおしゃれな外観にためらいもあったのですが、いつの間にか下北沢の街に馴染んでいますね。

 

小さなお店が結集している街の風景は大事ですね。

そこにはやはり時間の積み重ねと、一人一人の人生が詰まっていますからね。

 

それにしても「沢」に地下のトンネルを通すのは大変だったのでしょうか。

 

 

 

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孤独のグルメ」を観て書いた記事のまとめはこちら

あわせて「10年ひとむかし」もどうぞ。

 

行間を読む 128 谷戸の上に街ができる時代

鶴見川源泉を守る運動は、その15年後にも引き続いていったようです。

環境省「鶴見川源流」の「対象地域の概要」にその経緯が書かれていました。

 

 鶴見川源流域の970haは町田市北部丘陵と呼ばれ谷戸田を中心とした農業が営まれていました。都市基盤整備公団(現 独立行政法人都市再生機構)は、最源流を含むその一部で、多摩ニュータウンに続く宅地造成を計画しましたが、平成15年7月に事業の中止を決定、町田がそのあとを受け「農とみどりのふるさとづくり」としてまちづくりを推進することとなりました。

 その源流域の中心部に位置するのが「泉のひろば」がある約70haの田中谷戸で、中央部の導水(源流の泉/源流泉のひろば)を起点に、下手には幅広い谷地形(中央の谷)が展開し、上手には北の谷(北の入り谷戸)、源源流の谷戸(長谷戸)、中央上手の谷(溜まり池の谷戸)、南の谷(芦田谷戸)が配され、2次河川に対応する2次の小流域となっています。中央上手の谷の一部を除き地形、森ともに残っています。

 

数年前に初めて谷戸とか谷津という言葉を知ったのですが、なぜこの言葉を知らなかったのだろうと、人生で何かを見落としてきた気分になる言葉です。

 

それ以降、車窓の風景からもいつも谷戸や谷津を見落とさないように眺め、そこからその地域の生活や歴史の一端が見えてくるような魔法の言葉です。

 

 

谷戸の上に街ができるという驚異的な変化の時代*

 

この鶴見川源泉は町田市にあります。

子どもの頃から小田急線で町田を何百回と通過してきたので、なんとなく沿線の風景の変化が記憶に残っていますが、小田急線は神奈川に入ると両側が小高い丘陵に挟まれた場所を通過するイメージです。

そしてところどころ、大きな駅があってその周りはビルがありましたが、ほとんどの駅は周辺にわずかにお店があるくらいで普通の住宅地になり、すぐに田園風景や森林の風景でした。

80年代ごろからでしょうか、山肌にぎっしりと家が立ち並ぶ風景へと代わり、さらにここ20年ぐらいでしょうか、高層マンションもぼちぼちとできてきました。

 

この源泉の北側は、京王相模原線の南大沢駅方面へとつながっています。この日の散歩では、計画の段階では南大沢駅まで歩こうかとも思っていましたが、暑さのためにやめました。

京王線も比較的よく利用する路線ですが、相模原線はあまり乗ったことがなく、最近、ぼちぼちとその駅周辺を散歩のコースに入れています。

 

 

昨年のお正月に、名前に惹かれて上谷戸親水公園を訪ねました。

本当に美しい谷戸が残されていました。

帰り道はバスで谷戸の上へと向かうと、京王相模原線若葉台駅の近くの尾根沿いにまるで要塞のように立つマンション群の裏手で、あっと声が出そうなくらい驚いたのでした。

 

この半世紀は、谷戸の上に街ができるという驚異的な変化の時代であったことを実感しました。

 

 

そして私の頭の中の地図の東京西部は半世紀ほど前のままで止まっていて、だからなかなかこの地域の地名や駅名を覚えられないのだとわかりました。

 

 

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運動のあれこれ 41 鶴見川源流を守る

広場のように開けた場所に鶴見川の源泉があり、その周囲に昔からここで農業を営んでいる方々でしょうか、家と田畑が広がってその周囲を林が囲んでいる風景は、半世紀以上前の子どもの頃に戻ったような気持ちになりました。

 

源泉だから大事に守ってこられたのだろうと思いながら、この地について何か資料がないかと検索してみたところ、環境省の「東京都町田市 鶴見川源流」が公開されていました。

 

 

その中の「導水事業の概要」に、平成元年(1989年)にこの源泉が枯れたことが書かれていました。

 鶴見川の源泉流域は、町田市上小山田地区の300ha規模の山林・田園地帯で、最大水源である。平常時に日量1300トンを湧出する源流の泉(湧水:現「鶴見川源流泉のひろば」の地域)と周辺の谷からの絞り水も併せ、鶴見川の源流を形成していました。平成元年1月、近くを通る川崎市の水道用トンネルの改修工事が原因で源流の泉が枯れる事態に到り、地元の市民団体が魚類の救出を行うとともに、川崎市、町田市に緊急対応を要請するなどの取り組みにより、いずみの保全に成功しました。

 その後、町田市は平成6年湧水の保全・活用及び源流域の紹介等を目的として、市民要望を取り入れ設計した「鶴見川源流泉のひろば(2,000㎡)を開設し、以降市民団体と協働で管理を行なっています。

 

平成元年1月には源泉が枯れ、それを農業用水として利用していた農家の皆さんから苦情が出たとのことですが、この年の田植えは無事にできたのでしょうか。

また用水の枯渇から水生生物の絶滅が危惧され、鶴見川源流自然の会の方々がハヤなどの緊急救出作戦キャンペーンをしたことも記されています。

幸いに、平成2年1月には水道用トンネル改修工事が終了して湧水が復活したそうですが、こんな大変なことも、当時の私は知らずに生活していました。

 

 

このような経緯から「源流の生きものたちの賑わいを支え」という言葉になっていったのでしょうか。

 

 

30年前に湧水が枯れたことがとても信じられないような悠久の世界に見えた風景でしたが、こうした運動があったことを帰宅してから知りました。

 

 

 

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水のあれこれ 195 鶴見川上流と源泉

間があきましたが、7月中旬に、二つの池の蓮を見に行くという欲張った散歩の続きで、この日はさらに欲張ってもうひとつ行く場所を決めていました。

 

薬師池公園の北側に鶴見川が流れています。

地図で見ると、鶴見川の旧河道と思われる蛇行した水色の線が描かれていたり、途中で複雑な水色の形の箇所があって「鎧堰跡」とあります。さらに2~3kmのところに鶴見川の源泉があります。

4年ほど前に購入した「東京湧水 せせらぎ散歩」で知った場所で、いつの間にかこの本に紹介されている場所はほとんど訪ねたのですが、この源泉はまだ行っていませんでした。

 

都内でも神田川の源流をはじめ、善福寺川妙正寺川石神井川、白子川など、現在の住宅地のど真ん中にその川の始まりがあり、気軽に「源流」を見に行くことができます。

鶴見川の源流となるともっと山の中にあるようなイメージでしたが、その本を見ると周囲に水田が広がっています。

どんな場所なのだろう、いつか見たいと思っていました。

 

鶴見川の遊歩道を歩く*

 

薬師池公園を出て民権の森公園の方へ上り坂を歩くと野津田神社があり、そこからは鶴見川へ向かって下り坂になります。

GPSで確認しながら歩いたのですが、一本道を間違えると別の谷底へと向かうことになるくらい「多摩丘陵の南部で非常に起伏が激しく」(Wikipedia「薬師池公園」)を実感しました。

 

鶴見川沿いには遊歩道があり、静かな道をのんびりと歩くことができました。

左岸側は住宅地が広がっていましたが、途中、右岸側に小さな水田があり稲が大きく育っていました。

その水田の向こう側が蛇行していたので、旧河道のようです。

 

しばらくすると、地図で見つけた「鎧堰跡」がありました。

「鎧堰の歴史」

 鎧堰は、永禄八年(千五百六十五年)に八王子城主、北条氏照侯の印判状を得て武藤半六郎が構築した。北条氏照天正十八年(千五百九十年)豊臣秀吉小田原城攻略による落城で秀吉から切腹を命ぜられた。しかし、この鎧堰はその後長い間地域の人々に守られ今日まで四〇〇年以上に渡って野津田地区で八町八歩(約八七〇〇〇平方メートル)の水田に豊かな農業用水を供給して人々の生活を支え親しまれてきた。河川整備に伴う鎧堰の撤去に際し、歴史を記す。    平成二十一年

 

十四世紀に「関戸合戦」で多数の兵が犠牲になり、「鶴見川でもその屍が折り重なって堰となった」とその名の由来が記されていました。

今の平和な川の風景からは想像もできない歴史ですね。

 

しばし鎧堰の放水路の流れを眺めてから、また歩き始めました。

 

*源流近くまでバスに乗る*

 

「源流まであと5km」という表示がありました。

地図では2~3kmぐらいに見えたのですが、5kmはあるようです。

猛暑日になりそうな暑さですし、町田駅から薬師池公園に向かう途中のバスになぜか星占いがあって、「楽しいことが目白押し、疲れすぎないように」とのことでしたから、一休みすることにしました。

 

冷やし中華」の文字に惹かれてお店に入りました。餃子も美味しそうです。本当は生ビールがあれば最高ですが散歩の途中ですし、何より緊急事態宣言下で酒類の提供は中止でした。

 

食べて元気になり、ここから上り坂なのでバスを利用することにしました。

鶴見川の両岸には遊歩道がないような地形です。

 

終点で降りて、またGPSをつけながら歩きました。

周りは静かな山林と田畑が点在する場所ですが、橋本や南大沢方面への抜け道になっているのか、車がひっきりなしに通って行きます。

 

急に目のまえが開けるような場所に出て、水田が広がっていました。

その途中に池のような場所があったのですが、GPSとずれているのか行きすぎてしまいました。

そこが源泉でした。

当地は、鶴見川の源流部・町田市上小山田田中谷戸に位置し、一日約1,300トンの地下水を湧出する「鶴見川源流の泉」です。この安定した清流は、源流の生きものたちの賑わいを支え、水田の用水としても大切に利用されつつ、中下流の街にむけて、多摩丘陵をかけおります。      町田市下水道部

管轄は「下水道部」なのでしょうか。

 

まるで子どもの頃に遊んだ秘密基地のような場所です。秘密基地といっても、家のすぐ裏にある野原にこんこんと泉が湧いていたのでした。

 

「源流の生きものたちの賑わいを支え」

なんともいい表現ですね。

 

しばらく水が湧き上がっている池を眺め、満ち足りた思いでバスに乗りました。

 

 

 

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生活のあれこれ 1 生活とは何か

新しいタイトルを思いつきました。

 

9年前にブログを始めた頃から「生活」と言う言葉は気になっていたのですが、しだいに「こんなことを書いてみたい」と思っていたのだと言うことがおぼろげながら見えてきました。

 

「生活」と言う言葉はそれこそ日常生活で当たり前のように使っているけれど、そもそも「生活」とは何か、沼へ落ち込むようにわからない言葉になってきました。

「生活という言葉がわからないこと」が見えてきた感じです。

 

ブログを始めて10ヶ月ほど過ぎた頃、「看護の本質」というタグをつくってみますという大胆な記事を書きました。

その後、ブログのタグを整理したのでなくしましたが、いやはや、あの頃は自分の経験を言語化することにちょっと気負っていました。

 

そのうちにケアとは何か、看護とは何か、看護とは「基本的欲求に対する援助」という学生時代に最初に学んだことに戻ってきました。

 

そして看護の仕事は「日常生活を整える」あたりかな、と。

ただ「〇〇を整える」という表現は、ちょっと違う方向へ行きそうなので要注意ですけれど。

 

そのうち、動物園や水族園、あるいは植物園に行くようになり、生活史という言葉を知りました。

その生物の生活史はただひたすら観察するという原始的な方法で観察され、そしてそのものの持つ特性を変えずに記録されていることがつながりました。

 

ヒトの看護は、このヒトの生活史という視点がないままだから、思いつきや個人的な体験談が跋扈するのだと思いました。

そして看護だけでなく、経済もまたヒトの生活史を基本にしていないから、思いつきや信念が繰り返されるのかもしれない。

 

そして、一人一人が試行錯誤しながら「生活」を築き上げているのに、その実態を知らないから政治も迷走するのかもしれない。

 

 

では、生活とは何だろう。

またそこにぐるぐると戻って、深淵の中へと引きずり込まれそうになります。

でもそれが、社会の現象を知るときに、さまざまな葛藤の原因にもなっているのだと漠然と思うようになりました。

 

 

「生活」とは何か、たぶんまた不定期に描きそうなテーマです。

 

 

 

 

鵺(ぬえ)のような  8 「大和魂」

この感染症でマスクが日常生活の必需品になりました。

 

通勤や外出時に必要なので毎日最低一枚、仕事中は自分にあったちょっと高めのものを使用し、夜勤の長時間労働や超忙しくて走り回って大汗をかく時には交換しますから、結構な枚数を購入しています。

大雑把に計算しても年間、2万円近い金額がマスクのための支出になっています。

まあ、外出自粛なのでその分支出が減って、とんとんというところでしょうか。

 

せめてこの非常時だからマスクや手洗いに必要な商品は、個人や職場でも無課税とか軽減税率の対象にしてくれたら、少しは消費税について見直そうかという気持ちにもなったのですけれどね。

 

7月には20年度の税収が過去最高になったというニュースもありました。

財務省は5日、2020年度の国の一般会計の税収は、前年度より2兆3801億円多い60兆8216億円で過去最高だっと発表した。19年10月に税率が10%になった消費税の増税分が初めて年間を通じた所得税を抜いて最大となった。

朝日新聞デジタル、2021年7月6日)

 

年間の所得税に近い消費税を支払っているのに消費税分を含んだ給与額で所得税社会保険料が計算されているのですから、二重に取られているようなのは気のせいでしょうか。

さらにずっと社会保険をきちんと支払ってきたのに、若い頃の計画ではあり得なかった、年金だけでは生きていけなくて、自分も「事故物件」の当事者になるかもしれない大きな不安もありますね。

 

それでも隅々までインフラが整備され、この未曾有の事態でも誰もが医療費を心配せずに治療やワクチンを受けられるような国への信頼もあるから、税金や社会保険料を納めています。

 

*まさか、そんな信念があったとは*

 

これだけのお金を預かり管理していくのですから、私のように数字が苦手な凡人にはわからない、経済の理論があるのだと思っていました。

 

先日の「財政次官、モノ申す「このままでは国家財政は破綻する」」を、無料の部分だけですが読んでみました。

最近のバラマキ合戦のような政策論を聞いていて、やむにまれぬ大和魂か、もうじっと黙っているわけにはいかない、ここで言うべきことを言わねば卑怯でさえあると思いました。

 

かつて松下幸之助さんは、「政府はカネのなる木でも持っているかのように、国民が助けて欲しいといえば何でもかなえてやろうという気持ちでいることは、為政者の心構えとして根本的に間違っている。

 

この部分だけで、経済学というのは理論化のための方法論のない、仮説をそのまま社会に実験していくもので、さらに失敗が社会に対して与えたことに対して責任をどうやってとるかという仕組みがないのではないかという印象が、さらに強くなりました。

 

感染症の専門家会議の方々が「大和魂で乗り切ろう」なんて言う国でなくてよかった、感染症と数理に基づいて助言してきたことは、ほんと、大事なことでした。

改めて、個々の思い込みや信念から効果があると言う方法ではなく、科学的に検証するシステムを模索し、失敗を認め、報告するリスクマネージメントが浸透した時代で良かったと思いました。

 

 

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水の神様を訪ねる 43 不忍池と辯天堂

7月中旬に早朝の不忍池の蓮を見に行きましたが、近所に住んでいたら毎日でもこの辺りを散歩したいと思いました。

30年以上前にこの近くに住んだのに、あの頃は池を眺めるなんて全く関心がなく、歩いたのは1~2回でしょうか。

もったいないことをしました。

 

2015年に上野動物園にパンダを観に行ったことから、気が向くと不忍池周辺を歩いています。

 

 

早朝に蓮を見に行った2週間ほど前にも、ふらりと行きました。

池の真ん中に辯天堂があり、今回はそれが目的です。

たまにそばを通ってその説明板も読んだ記憶があるのですが、もう一度読んで見て、そうだったのかと印象に残りました。

 

不忍池(しのばずのいけ)辯天堂(べんてんどう)は、江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正(1536~1643)によって建立されました。

天海大増上は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味しました。例えば「寛永寺」というお寺の名称は「寛永」年間に創建されたことからついたのですが、これは「延暦」年間に創建された天台宗総本山の「延暦寺」というお寺を見立てたものです。

こうして天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、また元々あった聖天(しょうてん)が祀られた小さな島を竹生島に見立て、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して島を大きく造成することで竹生島の「宝厳寺(ほうごんじ)」に見立てたお堂を建立したのです。

琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。

昭和20年の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、お堂は昭和33(1958)年に復興し、また昭和41(1966)年には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が奉納されました。

 

不忍池辯天堂ホームページ「不忍池辯天堂の歴史」より)

 

昨年、琵琶湖を一周したり瀬田川や琵琶湖疏水を訪ねたので、「琵琶湖と竹生島に見立て」という一言に惹きつけられました。

 

 

*都心に広大な池があること*

 

辯天さまは「音楽と芸能の守り神」さまだそうで、また境内にある大黒天は「福を授ける神・福を招く神」さまだそうですから、水の神様とも違うようです。

 

不忍池に行く時には千代田線を利用することが多いのですが、Wikipedia不忍池の「変遷」にこう書かれています。

1967年9月19日には、不忍池と地下鉄千代田線の建設現場を仕切る柵が崩れ、約3万トンの水がトンネルに流れ込む事故が起きている。復旧業はすみやかに行われて同月24日は水を入れなおした。

地下鉄のある風景が当たり前すぎるようになった自分を戒めるために、今も千代田線のこの区間に乗るたびに思い出しています。

 

さらに時代は進んで、水深1mに満たないこの池を埋め立てて、大きなビルを建てることも可能になったのではないかと思います。

 

ところが、こんなに広大な池が整備されながら残され、ふらりと立ち寄ってはこの風景を楽しむことができます。

ですから、あの辯天さまも水の神様だと勝手に思っています。

 

そうそう、カワウの日本の大コロニーは不忍池と琵琶湖の竹生島ですから、ヒトだけでなくカワウや他の生物にも琵琶湖と共通点がある池なのかもしれませんね。

 

 

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散歩をする 335 早朝の不忍池と昼の薬師池公園の蓮の花を見に

6月初旬、ふらりと立ち寄った府中市郷土の森の博物館で「検見川発掘日記」の展示を見ることができました。

 

3回目の緊急事態宣言中でしたから、解除になったら蓮の花を見に行こうと楽しみにしていました。昨年は大きな公園などが軒並み立ち入り禁止になっていたので、一度も蓮の花を見に行くことができませんでしたからね。

そして、昨年9月に新潟の潟町駅の前の池に蓮の果托が広がる風景に、「来年は感染症が落ち着いて、またあちこちの蓮を見にいけますように」と思ったのでした。

 

地図で見つけた佐賀江川沿いの蓮池神社と蓮池公園にはきっと蓮が一面に広がっているに違いないと、訪ねるのを楽しみにしていましたが、これは近くまで行ったものの暑さで断念しました。

ただ6月下旬だと、まだ葉ぐらいかもしれませんね。

 

今年こそはどこかに蓮の花を見に行こうと思って楽しみにしていましたが、日に日に感染状況が酷くなっていったので、今のうちに行こうと思い立ち、7月中旬に出かけました。

 

*早朝の蓮の花を見に行こう*

 

蓮の花の説明を読むと、たいてい「早朝が良い」と書かれています。

そういえば蓮の花を見に行くのはいつも午後でしたが、いつもの出勤の時間に家を出れば、7時台の不忍池を見ることができるではないかと思いつきました。

以前のような超満員の通勤電車だったら行こうとは思わなかったのですが、今は以前に比べれば空いていますからね。

 

以前はふらりとその日の気分で上野動物園へ出かけて、不忍池の蓮やカワウの定点観測という口実でビールを飲んで池を眺めていました。

不忍池の3分の1ぐらいは上野動物公園内で他の部分は上野恩賜公園になっていますが、早朝の上野恩賜公園はどんな雰囲気なのだろう。それも見てみたいと思いました。

 

のんびりしていたら着いたのが8時過ぎになってしまいましたが、一面、青々と蓮の葉が揺れています。

どこからともなく良い香りがして、ミンミンゼミの声も聞こえて来ました。

花はあの広い池に数えるほどしかまだ出ていませんでしたが、泣きそうになるような風景でした。

 

 

*薬師池公園の蓮の花*

 

この日は欲張って、もうひとつ蓮の花を見に行きました。

不忍池のそばから千代田線に乗ればそのまま小田急線の町田まで行けますから、いつか行こうと思っていた薬師池公園も訪ねることにしました。

 

今度は通勤ラッシュの電車に乗りました。郊外へ向かう電車も、この時間は満員です。

でも出勤とは違う休日の気楽さで、ちょっと電車内でうつらうつらしていました。

 

町田駅からバスに乗り薬師池公園バス停で降りると、目の前に広大な公園の森がありました。

少し坂道を登ると公園の入り口があり、そこからは今度はすり鉢状に下り坂の道を降りると、池のそばに出ました。

公園のある場所は多摩丘陵の南部で起伏が非常に激しく、公園付近は谷戸(暖沢谷戸)となり、東側・南側・西側は丘陵地の急な斜面で、北側は鶴見川に向けて緩やかな下りとある。

(Wikipedia「薬師池公園」「地理」)

 

「暖沢谷戸」、なんとなく広く日当たりの良い谷戸というイメージの名前ですね。

 

あまり人と行き交うこともなく静かな園内を歩いて大賀ハスの咲いている北側の池までいくと、バードウォッチングでしょうか、三脚を立てた人たちや蓮を見る人が集まっていました。

不忍池よりはこちらの方が開花していて、しばし幻想的な花の風景に惹きこまれていきました。

 

「沿革」を読むと、私が生まれた頃に「町田市が薬師池公園などを都市計画に決定」とあります。

昨年来、鎮守の森が守られ、公園が整備されていることに今まで以上に感謝することが増えました。

 

こうした公園などを守ることに少しでも協力できたら、きっと一世紀後二世紀後の社会への遺産になるかもしれない、そんなことを考えながら不忍池と薬師池公園の二つの池の蓮を一気に見た満足感で公園を後にしました。

 

 

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事実とは何か 84 事故物件の話が孤独死に

たまたまつけっぱなしにしていたテレビで、「事故物件」についての番組がありました。

ちょっとおどろおどろしい音楽や映像で、そこで亡くなった方や残された家族への負担や戸惑いが語られ、そして高齢者が家を借りるのがどんなに難しいかも語られていました。

 

身につまされますよね。

ちょうどこの数年、私も自分の最期に向けて色々と考えて、調べ始めていましたから。

行政も以前に比べて高齢者向けのサービスがあることがわかりました。

しかも、たとえ一人暮らしになっても、ほかの親族の手を煩わさなくて済むような公的なサービスまで出て来たことに、希望の光を感じました。

 

ただ問題は、準備したくても「65歳から受付」「抽選制」といった壁と、どんな方法があるのかを知りたくても、まだ現役で働いている私が気軽にいけるような相談窓口がないことです。

歳をとるための準備講座のようなものもあるのですが、ちょっと怪しい方向に連れ込まされそうなので、公的なものがあるとありがたいですね。

 

それと、例えば無事に見守り付きの高齢者住宅に当選して入居でき、一人暮らしでも行政の緊急時の支援サービスや入院時や死去時の書類手続き代行サービスを申し込めて一安心と思っても、どこが終の住処になるのかわからないのが高齢者になるということです。

 

いつまで生きるのか、全くもって予測不能ですからね。

 

 

*誰もが一人で自分の最期を準備する必要がある*

 

母はようやく公的な特別養護老人ホーム、しかも昔では考えられない個室が基本の施設に入れたかと思うと、体調が悪くなると別の病院への入退院で移動し、そしていつ戻るかわからない施設への住居費も発生することになります。

年金だけでは終の住処にも入れないし、「終の住処」というのは究極の言葉だと思うこの頃です。

 

あの番組で、「年金では払えないから」とお風呂もついていない部屋を斡旋されていた80代の女性が映っていましたが、この方に必要なのは見守り付きの公的な住宅ではないかと思えました。

 

ところが、なぜか事故物件の話から孤独死の話になり、「話を聞く人がそばにいることが大事」という締めくくりになってしまいました。

具体的な解決方法は、「高齢者の住宅問題支援窓口」のQRコードが映っただけでした。

 

現に切羽詰まっている高齢者のどれだけが、この番組を見てQRコードにアクセスすることでしょうか。

なんだか違和感だけが残りました。

 

*違う視点から作られた番組だった*

 

翌日、NHKの「「事故物件」はダメなのか?孤独死自死が増える社会で」(NHK NEWS WEB、2021年10月5日)を読んで、違和感の謎がわかりました。

 

今年、社会人になった著者が「事故物件はいやだけれど、どんな需要があるのだろう」という疑問から調べたものだったようです。

その視点もまた「当事者」ではあるのですが、高齢者の住宅問題を混ぜてしまったからわかりにくい話になったのだと理解できました。

 

その年代の方にすれば、「自死」「孤独死」あるいは高齢者になって一人暮らしということも途方もなく不安や恐怖感を感じるのかもしれません。

 

ただ、長く生きればそれは想像上の不安ではなくなり、現実の解決しなければならない問題になるのです。

 

60代になったばかりの私にすれば、残された家族や親族の手を煩わさないための住宅や手続きの問題を、今の元気なうちに計画するための相談できる窓口が欲しい。

そこに切り込んでくれたら嬉しいのですけれど。

 

 

 

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