事実とは何か 70 非常時の「事実」とはなんだろう

6月1日、今までNHKの左端から上端にあった文字スーパーが消えました。

 

NHKの「特設サイト 新型コロナウイルス」の「時系列ニュース」を見直すと、4月7日に7都道府県に緊急事態宣言が出されたので、たしか文字スーパーはその時以来画面にあったのだと思いますが、この辺り、すでに記憶がありまいになっていますが、ブログを読み返したら、やはり緊急事態宣言の日からでした。

 

2ヶ月近く、今までに経験したことのない緊急事態宣言下の生活をしていたのかと、少し夢でも見ているような気持ちです。

まだまだ気を抜いてはいられないのですが、次の段階に進んでいることを感じますね。

 

*非常時や災害時の「事実」とは*

 

私自身は東日本大震災から目が行くようになったテレビの文字スーパーですが、災害時のライフライン情報や短期・中期・長期視点を把握するのに助かっています。

またネット上の報道でも、たとえばNHK NEWS WEBの「特設 新型コロナウイルス」とは別に「時系列ニュース」のサイトがあることで、いつのことだったのか確認しやすくなりました。

 

今回、2月ごろからの各局の放送やネット上の情報の出し方をみて、報道関係の方々にとっても初めてで先が読めない状況の中で、工夫されたり、社会の声を取り入れているのかなと印象に残ることがいくつもありました。

 

以前のように「スクープ!!!」「こんなに大変!!!」あるいは批判ありきの煽るような放送内容が減り、非常時にはどのように生活をしたらよいのか、誰が何に困っているのか、どのような情報が必要なのかなど、わかりやすい説明を心がけてくれる番組も増えた印象でした。

特に夕方からのニュース番組は、おそらく元々ニュースを淡々と伝えるスタイルだったからか、専門家会議や政府、厚生労働省、あるいは各自治体の方針などを伝えやすかったのではないかと感じました。

 

 

ただ、マスクについての考え方一つでも、2月12日の厚生労働省のマスクについてのお願いにある「風邪や感染症の疑いがある方々にご使用いただくのが何より重要です」から、刻々と変化しています。

その早さは医療従事者でも判断に戸惑うほどですから、根拠の変化がわかるような説明があるといいなと思いました。

 

こうした非常時の緊張と高揚感の中で、ふと「理由はなんだったっけ」と立ち止まることがあります。

未知のことだらけですから、正解というよりは「いまの時点ではこの方法で」という根拠と考え方の変化がいつ起きたのか、そういう連続した事実が見えるような報道だと私自身はとても参考になります。

 

 

こうした文字スーパーをテレビで見る状況になるたびに、非常時の事実とは何か、考える機会になっています。

 

 

「事実とは何か」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

 

 

 

 

 

散歩をする  220 大崎から品川へ

琵琶湖から淀川水系を歩いた記録はまだ途中なのですが、書いているうちにむしょうに新幹線を見に行きたくなりました。

通勤途中の駅での乗り換えで新幹線が見えるのですが、以前なら少なくとも1~2本は見ることができたのに、最近は10分ぐらいいても通過しないことがありました。

 

緊急事態宣言発出後、乗車率が下がり、ゴールデンウイークあたりでは誰も乗っていない東北新幹線が東京駅を出発する映像もニュースで流れました。

5月28日以降、JR東日本が本数を4割削減するとしていた東北・上越北陸新幹線などは、緊急事態宣言の一部解除で乗客が徐々にが増えていることから通常ダイヤのままになったことが5月22日の日テレニュースで伝えられていました。そのニュースに「東海道新幹線も、減便している定期列車を来月1日から全て通常運転に戻す」と書かれていたので、やはり、通勤途中のホームで見かけなくなったのは偶然ではなかったようです。

 

東京でも緊急事態宣言が解除になる少し前に、新幹線を見に散歩をしてみようと思いたちました。

 

いつもだいたい品川駅から東海道新幹線に乗るのですが、出発した直後の車窓の風景があまり記憶にないので、どんなところを走っているのだろうと興味が湧きました。

 

*大崎から御殿山*

 

以前、目黒川河口から天王洲アイルまで歩いた時に、目黒川の上を通過する新幹線を見ました。その時に、初めて「ああ、ここを通過していたのか」と思ったくらい、それまでは新幹線にも関心がそれほどありませんでした。

 

今回は、ここからスタートして品川駅まで歩くことにしました。

 

大崎駅を出て、目黒川沿いに出ます。木々の緑が鮮やかで、初夏の草花も美しい季節です。

歩道沿いの樹木もよく手入れされているように見えました。

近隣の商業施設はまだ休業していましたが、やはり川辺を歩く人はぼちぼちといました。

時々すれ違う程度でしたから、マスクはビニール袋に入れて手に持って一応持ってますとアピールして歩きました。30度近い日だったので、熱中症が怖いですからね。

 

しばらく歩くと、山手通りと御殿山通りの交差点です。「山」と付くだけあって、ここから左手に続く御殿山通りは結構な上り坂でした。

どうやら新幹線や山手線、東海道線京浜東北線そして横須賀線はこの御殿山を切り崩したところを走っていたようです。

Wikipedia御殿山に、「明治期には鉄道敷設のために東西に分断された」とあります。また、途中で「八ツ山」という地名を見た記憶があるのですが、それについてはこう書かれています。

北方の高輪には三菱開東閣で有名な八ツ山(土砂採取され、現在は山はない)がある。 

 

城南五山という小高い場所があったのですね。

日本で初めて蒸気機関車が走った頃の海のそばを通っている絵が印象に残っていたので、片側は小高く反対側は海だと思い込んでいたのでした。山を切り崩していたとは。明治以降の土木技術はすごい変化だったのですね。

 

さて、その交差点に立って新幹線を待ったのですが、他の列車は頻繁に通過するのになかなか新幹線は通らず、10分ほどしてようやく見ることができました。

やっと1本きたと喜んでいたら、続けて、上下の新幹線が目の前で交差するように通過していきました。幸せ!

 

その間にも、3回ほど真上をJALが飛行していきました。4月3日から都心低空ルートに変更されたからでしょうか。 新幹線よりも多く見るとは意外でした。

 

*御殿山から品川へ*

 

交差点でぼーっと立っている怪しい人になりそうでしたから、ぼちぼちと歩くことにしました。

 

御殿山通りの上り坂を歩いていくと、住宅と住宅の間に、新幹線が通過していくのが見えました。途中で通りは右に曲がることをあらかじめ地図で見ていたのですが、その新幹線に惹かれるように、一本間違えて住宅街の行止りの道に入り込んでしまいました。

御殿山通りは街路樹や植え込みがよく手入れされていて、ところどころに木製のベンチが置かれてまるで絵のような通りです。

右に曲がると、すぐにミャンマー大使館があり、反対側には大きなマンションで、それぞれが木に囲まれていました。

どこからか水が流れる音が聞こえてきます。マンションの庭園の池のようです。地図には暗渠が描かれていますが、三田用水の一部でしょうか。その辺りから少し下り坂になり、陸橋があります。

 

品川を出る全ての路線を見ることができるその陸橋で、しばらく列車の通過を見ていました。

 

御殿山通りはこの陸橋から少し下り坂になって、第一京浜まで続いているようです。昔の小高い丘を感じながら歩き、今度は第一京浜沿いに品川へと歩きました。

 

第一京浜の陸橋では、新幹線の部分はトンネルのようになっています。

品川を出てすぐにこんなところを通過していたのかと、次に乗る時には見逃さないようにしたいものですね。

 

この陸橋は御殿山通りのような保護の網がなく、あまり端に近づいて見ていると列車に飛び込む人のように見えてしまうので、車道側によってしばらく新幹線の通過を眺めていました。ここから大崎方面に向かって緩やかにS字にカーブしながら西大井方面へと向かう場所です。

気づいたことを下を向いてiPhoneにメモをしていたら、いつの間にか新幹線が通過しています。他の列車の走行音は遠くからわかるのですが、新幹線は小さなヒューっという音を聞き逃すといつの間にか目の前をすぎてしまいます。

 

ああ、なんだろう、この充実した時間は。

もう一本、もう一本とキリがなく、いろいろな列車と航空機も見続けて入られそうです。

 

夕方になり、風が強くなってきました。やはり海が近いのですね。

地形や気候、さまざまな専門知識の積み重ねで、この複雑な陸と空の交通網があるのだと、なんだか圧倒された散歩でした。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

記録のあれこれ  70 コスタ・アトランチカ出港

「コスタ・アトランチカ」

ダイヤモンド・プリンセス号の名前は覚えたのに、なかなかこの船舶の名前は覚えられないまま、出港するニュースが5月29日に伝えられました。

長崎に停泊 集団感染のクルーズ船 全員の陰性確認 31日出港へ 

(2020年5月29日 18時11分   NHK NEWS WEB)

 

新型コロナウイルスの集団感染が確認された大型クルーズ船について、長崎県は、船に残る全員の陰性が確認されたとして31日、長崎港を出港し、フィリピンに向かう予定になったと明らかにしました。

三菱鉱業長崎造船所の香焼工場に停泊しているイタリア船籍の大型クルーズ船、「コスタ・アトランチカ」では、当初いた620人余りの乗組員のうち149人の新型コロナウイルスの感染が確認されました。

29日行われた長崎県の記者会見で、福祉保健部の中田勝己部長は大型クルーズ船について、29日までに船に残る全員の陰性が確認されたとして、31日午前11時に長崎港を出港し、フィリピンに向かう予定になったと明らかにしました。

一方、感染が確認され、現在、長崎市内の指定医療機関に入院しているクルーズ船の乗組員4人は退院までは市内にとどまり、その後、出国する予定だということです。

中田部長は「入院患者が退院するまで県としてしっかり対応したい。出港を持ってゴールということでなく、今後も、可能な限りの感染経路の特定やクルーズ船を受け入れるうえでの体制整備を進める」と話しています。

 

ダイヤモンド・プリンセンス号の動向を毎日緊張感を持って追っていた2ヶ月ほどでしたが、3月25日に横浜港を出港して本牧埠頭の工場へと移動したときには、ニュースを追っているだけの身でもカクンと力が抜ける安堵感でした。

 

そして、日本は海に囲まれた国であることに再び緊張したのが、コスタ・アトランチカ号で4月20日に乗組員の感染が確認されたニュースでした。

 

入退院のデーターを見直すと、全国の「人工呼吸/ICU」が4月1日が「60人」だったのに対して、20日までには「231人」と急激に増えていき、医療の受け入れが逼迫していく危機感が強くなっていった時期でした。

 

乗組員の皆さんの中で感染者と重症者が増えたら、九州全体で受け入れるのだろうか。地域の医療も大変なことになるでしょうし、何よりも船上で、そして外国で感染症にかかられる方々の不安も大変だと遠くから心配になりました。

自衛隊の活動の記録を読み直すと、4月23日から25日まで「長崎港停泊中の外国船籍におけるPCR検査のための検体採取支援を実施」していました。

また、当時、全国で自衛隊が感染拡大防止のためのさまざまな支援活動を実施していたなかで、5月2日から14日まで「長崎市内においてCT診断車による医療機器材などの支援」を実施していることが書かれていましたが、これもコスタ・アトランチカ号に関連したものなのかと思いながら読んでいました。

 

その後、関連したニュースが少なかったのですが、あまり重症者が出なかったのは比較的体力のある乗組員だけが乗船していたからではないかといった話や、クラスター班の方が遠隔で健康チェックをしたことを見かけました。

関係したさまざまな業種の方々の、緊張と責任の重さはいかばかりだったことでしょう。

 

ダイヤモンドプリンセス号の経験を生かしながら試行錯誤されたのだろうと思いますが、「人を救命する、できるだけ良い状態にする」ことがいつも目標にあって、現実の中でできる限りをするこの社会に、いつからか大きな信頼感を感じるようになりました。

あの東日本大震災の経験も大きかったかもしれません。

 

無事に、コスタリカ・アトランチカ号が出港した。

よかった点、次回に生かす点、だれか事実を追って全体像をまとめてくださるとうれしいですね。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

発達する 29 「幼鳥は水に入らない」

換羽の時期に葛西水族園のペンギンのプールに行くと、水槽の端に驚くような量の羽が溜まっています。掃除をしても、してもしても追いつかないほど、溜まって行くのかもしれません。

 

ロワの泳ぎについて考えていたら、ロワの換羽の写真が葛西水族園のつぶやきにありました。

5月下旬には、すでに肩のあたりから顔にかけてあの茶色の羽が残っているだけで、体幹はすっかりオウサマペンギンに変身しています。

まるで手品を見ているようですね。

 

そしてあの一羽の幼鳥から、どれくらいの茶色い羽が抜けるのでしょうね。

 

以前、オウサマペンギンの幼鳥の写真を初めて見たときに、成鳥よりも大きく見えたことも驚きでした。

今、換羽の写真を見ると「中身」は同じくらいの体格なので、あの茶色い羽は着ぐるみのように体を大きく見せて、他の種をビビらせることも役目なのかもしれないと想像したのですが、事実はどうなのでしょう。

 

*「幼鳥は水に入らない」*

 

換羽の写真から、またまた小学生のように疑問や想像がふつふつと湧いてきました。

 

昨日の記事で、ロワの泳ぎ方を「バタ足を推進力にするヒトの子どものよう」だと感じたことを書いたのですが、それは決してローリングが未熟だからではないのではないかとふと思いつきました。

 

あのモフモフの茶色い羽自体が、泳ぐときにはものすごい抵抗になりそうです。

換羽の途中から見える成鳥の羽と体は、ヒトで言ったら高速水着のような性能なのではないかと思いつきました。

 

あの茶色い羽の下で水に入る日のために着々と準備が進められ、平均時速8.4km、水深220mまで潜るようになるのですから、ほんとうに不思議な世界です。

 

そう考えると、ロワはあえて抵抗のある羽のまま、まだ泳ぐ段階の前から泳げるのですから、これもまたすごい能力と言えるのかもしれませんね。

自然下では「幼鳥は水に入らない」という発達段階が環境によっても変化するなんて、どんな体のしくみなのか、興味が尽きないですね。

 

 

 

「発達する」まとめはこちら

 

観察する 68 ロワの泳ぎ

葛西臨海水族園に通うようになって6年が過ぎました。たくさんの魚の存在に圧倒されに行っています。

 

昨年、8月にオウサマペンギンが生まれました。

 葛西臨海水族園では、2019年8月6日(火)にオウサマペンギンの「ソラ」と「レイ」の間にヒナが生まれました。産まれたヒナは、フランス語で王様を意味する「ロワ」と命名しました。

 ロワは11月7日(木)から屋外の展示場に登場しました。すでに両親と並ぶ大きさですが、幼鳥特有の茶色いフワフワの羽毛に全身覆われ、大きく高い声で両親にえさをねだる様子などが観察されています。

   (東京ズーネット 「オウサマペンギンのひなの名称が『ロワ』に決まりました」2019/12/12、より)

 

両親を超える大きさの茶色い幼鳥の写真に、またまた動物界の不思議に惹きつけられました。

ぜひ、みてみたいと12月下旬に行ったのでした。

本当に、親よりも大きくて色も茶色のままなので、なんだか威圧感があるペンギンがのしのしと歩いているように見えました。

 

3ヶ月ほどでで成鳥よりも大きくなることも驚きましたが、先日、5月27日の葛西臨海水族園tweetも、へ〜っと驚く内容でした。

当園では、東京工業大学などと共同で流体力学に関する研究を行っています。

その一環でペンギン展示場のプールにカメラを設置したところ、オウサマペンギンのヒナ、ロワの泳ぐ姿が映っていました!

本来ヒナは水に入らないため、飼育下ならではの光景です。 

 

映像には、他のフンボルトペンギンに混じって、あの茶色いロワが水中を泳いでいる姿がありました。

自然界だとまだ水に入らないのに、飼育下だと泳ぐのは何故なのでしょう。不思議ですね。

 

いや、その前に「本来ヒナは水に入らない」という一文に、そこまで生活史が観察されていることにも圧倒されました。

そしてペンギンの泳ぎが学問的に分析されていることもすごいですねえ。

 

ロワの映像を何度かみているうちに、ああ、やっぱり子どもの泳ぎ方だと思えてきました。

他のフンボルトペンギンは、1〜2回フリッパーを動かすだけでぐーんと体が進んでいくのに対して、ロワはずっとフリッパーを上下させて進んでいます。

バタ足を推進力にするヒトの子どもと同じようでした。

 

ストリームラインを維持して推進力をつけひょいっと抵抗もなく浮上する動きというのは、ペンギンの世界でも練習が必要なのかもしれませんね。

 

 

それにしても、ロワはいつ、何がきっかけで水に入ったのでしょうか。

 

 

「観察する」まとめはこちら

 

 

 

 

記憶についてのあれこれ 155 ブルーインパルス

5月29日、東京の上空をブルーインパルスが飛行すると気づいたのが、12時半近くでした。

ああ残念。自宅からはとても見えません。

でも、当日、たくさんの方々が美しい写真をネットにあげてくださっていたので、まるでそこで一緒に見ているかのようでした。

 

子どもの頃に、ブルーインパルスの飛行を見たことがあります。

でもそれが本当の記憶なのか、それとも他の人から聞いた話をつなげた空想話だったのが、急に自信がなくなりました。幼児の頃の記憶話はあやしいですからね。

 

Wikipediaブルーインパルスの歴史を読んでみました。

私の頭の中には「ブルーインパルス」「小牧基地」と記憶が残っているのですが、小牧基地で実施されたのは1971年のようです。私自身はもう少し幼児に近い年齢だった気がするので、もしかしたら、「1966年11月6日に入間基地で開催された第1回航空宇宙ショー」だったかもしれません。ほんと、記憶はあいまいですね。

 

先日と同様にたくさんの人が集まり、みんなで空を見上げていた日のことをかすかに覚えています。

 

自衛隊設立と飛行チームができた頃*

 

自分が生まれた頃の記憶は当然ないので、当時の社会はどんな感じだったかを知る機会は少ないものですね。ひょんなことから、もしかすると当時の人にはこんな想いがあったのか、そういう時代だったのかと歴史が繋がることがあります。

 

ブルーインパルスの「自衛隊設立後」にこんなことが書かれています。

第二次世界大戦終結した後しばらくは、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の「301号訓令」によって、日本では航空機の製造や研究などが許されない時期が続いた。これが解除されたのはサンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復した1952年で、同年10月には保安隊が発足し、翌1953年1月からは保安隊航空学校において操縦教育が開始された。さらに、1954年には自衛隊法が成立し、保安隊は自衛隊に改組されることになり、同年7月には航空自衛隊が発足した。 

 

その5年後には伊勢湾台風に多くの自衛官が派遣されました。

士官学校を卒業し終戦を迎えた私の父は、白が黒に、黒が白に変わっていく時代に生きる目標を見失い、精神的にも不安定になった数年を経て、違う社会をつくることを目指していた時期だったのでしょう。

 

そして自衛隊が発足して10年ちょっとたった頃、私は大人の腰ぐらいまで浸水した中、自衛官に助けられ、そして大空を見上げてブルーインパルスをみたのでした。

 

*「皆様へ」*

 

今回のブルーインパルスについて、防衛省防衛大臣tweetが印象に残りました。

医療従事者の皆様へ、経緯と感謝の気持ちを全国の一人でも多くの皆様にお届けするため   (防衛省 航空自衛隊

 

新型コロナウイルス感染症に対応中の医療従事者の方々をはじめ、多くの皆様へ敬意と感謝をお届けするため   (河野防衛大臣

 

 

このような国全体の非常時に、「医療従事者の皆様へ」でも「日本国民の皆様へ」でもなく、「等」「皆様へ」であることにちょっと安堵しました。

 

鵺のような何かが暴走しないために、「国のため」から「国民のため」へと変化した。

後の時代に生きる私には当たり前のような言葉でも、父の世代が大きな葛藤から得た教訓だったと思えるのです。

そして今、「皆様へ」という時代になった。

 

 

 美しく飛行するブルーインパルスをみんなで見ることができるのは、未曾有の感染症拡大で大変でも平和だからこそなのだと、いろいろな記憶が戻ってきました。

 

 

「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

10年ひとむかし 67 映像を見ながら会話する

テレビ電話での会議という話題があっても私には無縁の世界でしたが、4月に入るとテレビスタジオに人が集まらないようにテレビ電話での映像が増えました。

最近ではだいぶ見慣れたのですが、電話が怖い私にとっては、それをしなくてよい職業でよかったと心底思ったのでした。

 

電話で話すだけでも苦手で、用件だけ伝えて早く切りたいのにずっと相手と表情を見ながら話し続けるなんて、考えただけでも疲労感に打ち砕かれそうになりました。

 

ところが、新型コロナウイルス感染症で面会が制限されたことで、「施設に入所している人や終末期の患者さんと家族がテレビ電話で面会」といった話題がちらほらと出てきて、その場合は必要なこともあるかもしれないけれど、テレビ電話導入に関しては美談だけにしないで慎重にしてほしいなと思っています。

 

*通信システムの劇的な変化*

 

そういえばテレビ電話なんてもう古い言葉なのかとWikipediaをみたら、まだ現役の言葉のようですね。

 

「テレビ電話が初めて、人々の前に現れたのは1970年に開催された大阪万博」だそうで、夢の超特急といい、当時は驚異的に変化する時代に入り始めていたのですね。

それでもまだ庶民の電話は黒の固定電話で、「3分10円(当時の10円は高かった)」「夜8時以降は電話をかけてはいけない」といった時代でした。

 

1990年代から携帯、インターネットへとさらに劇的に変化し、直接会話しなくてもメールでやりとりできることは助かりました。

メールだったら相手も都合の良い時間に返信してくれればよいのですが、数年前に出たLINEは「既読」かどうかわかるようで、居留守も使えないシステムなのに世の中に広がったことに驚いたのでした。

ゆっくり考えて後で返信しにくく、すぐに返信を求められ、延々と会話が続くような方法を求める人もいるのですね。

 

*テレビ電話*

 

ところで、周囲ではほとんど使っている人を見ることがなかったテレビ電話ですが、2000年代に入ると色々と開発されていたのですね。

ただ「テレビ電話機の専用サービスはスマートフォンのように普及はしなかった」と書かれています。

アプリが入っているのは知っていたのですが、常にオフにしていました。

 

Wikipediaに、「テレビ電話自体の文化的・心理的・環境的な問題」に「プライバシーやセキュリテイに関する問題」がまとめられていました。

・相手の顔を見ながら話すので、時と場合によっては緊張してしまう。見知らぬ相手や、突然掛かってきた場合には特にそうである(この場合、いきなりテレビ電話の画像表示をさせるのではなく、ユーザに選択させるようなユーザインターフェイスが重要であり、一部端末ではそのような機能を実装している)。

・特に女性の場合は、相手がある程度以上に親しい間柄でもない限り、自宅ですっぴん顔で画面に出ることに抵抗がある。テレビ電話の映像性能の高品質化により、この傾向に拍車がかかる。「キャラ電」はこのような事情への対策機能と言えるが、テレビ電話の存在意義からいっそ本末転倒という意見もある。

・背景として周囲の様子も一緒に映るため、自宅で汚い部屋の場合はみっともない、オフィスであれば機密情報が映る怖れがある、外だと居場所がわかってしまう、と言った問題がある。

・その結果、相手がテレビ電話をとれる状態にあるか、かける側はわからないため、いきなりテレビ電話を使ってかけることは通常躊躇され、よって実際の利用率が低迷することに繋がる。

 

すっぴんも部屋の背景も構わないし、守らなければいけない機密もないけれど、まとめた用件以外の長い会話を相手の顔を見続けながらすることから逃れられないことへ、恐怖感を感じています。

今までの電話なら、受話器で会話しながら、別のこともできたのですけれど。

 

テレビ電話の普及は、限定的にしてほしいものです。

いやはや、こんな電話の悩みというか不安が出てくる時代になるとは。

 

 

 

「10年ひとむかし」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

 

正しさより正確性を 21 マスクの作用と副作用

記録を読み返すと、4月は家の外に全く出なかった日が6日もありました。それ以外の通勤や短時間の外出、そして勤務中はずっとマスクをつけている生活です。

5月に入り、少しずつ散歩のリハビリを始めました。近所や川沿いに5000歩くらいから始めて、今は1万数千歩ぐらいのペースに復活してきました。

 

ところが最近は気温・湿度とも上がってきているので、10分も歩くとマスクの中が汗だくになり、息苦しさも尋常ではありません。

いったんつけたマスクや顔をあまり触りたくないけれど、あまりの暑さに堪え兼ねて、人がいないところでは外すようにしました。

ああ、風が顔に当たることがこんなにも爽やかだったなんて!

 

でも自粛後はいつも休日並みの人が出歩く住宅街ですし、ジョギングをする人や自転車の人も増え、前後左右からすぐに人が現れますから、慌ててマスクをしまたはずすの繰り返しです。

 

これからの散歩は大変だと思っていたら、5月26日に厚生労働省から「令和2年度の熱中症予防行動について」が出されました。

「適宜マスクをはずしましょう」と書かれていました。

・気温・湿度の高い中でのマスク着用は要注意

・屋外で人と十分な距離(2メートル以上)を確保できる場合には、マスクをはずす

・マスクを着用している時は、負荷のかかる作業や運動を避け、周囲の人との距離を十分にとった上で、適宜マスクをはずして休憩を

 

 

*マスクの作用と副作用*

 

「気温・室温の高い中でのマスク着用は要注意」

 

マスクの意味とか効果(作用)もまだまだよくわからないけれど、そういえばマスクのデメリット(副作用)って考えたこともありませんでした。

 

ここ2カ月ほどいつになく頭痛が続いていて、毎日のように鎮痛剤を内服しています。最初はすわCOVID-19感染か脳血管障害かとドキドキしたり、いや気圧の変化だと慰めたりしていたのですが、2〜3週間が過ぎて、私の場合マスクのせいだと確信しました。耳の後ろも痛いですし、最近は時々、耳の閉塞感も起こることがあります。

 

みなさん、どのような不快な「症状」があるのでしょうか。

 

医療・看護系の本でも、マスクが体にどのような影響を及ばすのか、記述されたものを見た記憶もありませんでした。

マスクの中に自分の呼気がたまりやすいのですから、酸素不足になりそうぐらいは想像がつくのですが。

 

*「2メートル」はどこからくるのだろう*

 

良いタイミングで出された厚生労働省の呼びかけでしたが、「人と十分な距離(2メートル)」に、ああそれでは近所の散歩でも無理ですし、なぜ2メートルなのだろうともやもやしています。

 

例えば4月27日に国立感染症研究所感染症疫学センターが出した「新型コロナ感染症 濃厚接触者の新しい定義」では、「患者(確定例)の感染可能期間に接触した者のうち、次の範囲に該当する者です」として、以下のように更新されました。

*感染可能期間とは、コロナウイルス感染省を疑う症状を呈した2日前から隔離開始までの期間

*患者(確定例)と同居あるいは長時間の接触(車内、航空機等)があった者

*適切な艦船防護無しに患者(確定例)を診察、看護もしくは介護していた者

*患者(確定例)の機動分泌物もしくは体液等の汚染物質に直接触れた可能性が高い者

*その他:手で触れることのできる距離(目安として1メートル)で、必要な艦船予防策無しで、患者(確定例)と15分以上の接触があった者

 

濃厚接触者の定義からすると、街中で人とすれ違ったぐらいでは感染するわけではなさそうなので、やはり当初から言われている「3密」と手洗いが基本、電車や屋内、会話をする場面ではマスク着用あたりが妥当だろうと理解していました。そしてマスクをしていても、会話は静かに、必要最小限にでしょうか。

 

ところが、ここにきて「2メートル」という数字に、距離を取れない道で前からマスクをしていない人が歩いてくれば、不安になり批判的に捉える心理につながりやすく混乱しそうな気がしますね。結局は暑くても、我慢して、人がいるところではマスクを外せない気持ちになりそうです。

 

すれ違う程度の往来はどう捉えるのだろう。

たぶんそのあたりの情報の混乱が、マスクをつけるかつけないかについて好きか嫌いかが正しいか間違っているかに、人の気持ちを向かせてしまうのではないかと。

 

ほんと、非常時には白か黒かを選択させるような踏み絵の場面が増えますからね。

たかがマスク、されどマスク。

正確な情報に基づいて、判断する訓練が必要ですね。

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事のまとめはこちら

 

 

散歩をする 221 宇治川と平等院

再び中書島駅から宇治線に乗り、次の目的地の平等院へと向かいました。

途中でまた読めない駅名、黄檗駅がありました。「おうばく」だそうで、黄檗宗大本山があることからきているようです。

山側には茶畑が広がっていて、ああ、宇治茶の産地はこの辺りなのだとつながりました。

 

反対の車窓に、京都大学防災研究所と書かれた建物が見えました。

1953年(昭和28年)8月1日、京都大学防災研究所宇治川水理実験所として設立。水と土に関する災害の防止・軽減を目的とし設立されたが、1996年に防災研究所が全国共同利用の研究所として位置付けられるのに伴い、本実験所も「水理実験」に限らず多くの分野の施設を擁し、所内外の研究機関、一般企業、学校などに開かれた共同利用施設として位置付けることとなり、2002年に「宇治川オープンラボラトリー」と変更した。 

 

黄檗駅の「駅周辺」に、その施設があるあたりについてこんなことが書かれています。

一方、駅の所在する五箇所地区(駅周辺および西側一体)は低地に位置しておりたびたび水害が発生している。第2室戸台風で広範囲が浸水したほか、近年では1986年と2008年に床下浸水、2012年8月の集中豪雨では当駅と三室戸駅間にある「京滋バイパス」との交差部が浸水したことに伴い同バイパス不通および、当駅と木幡駅の間で交差する弥勒次郎川が宇治川よりの天井川の堤防が決壊し住宅8戸全壊・約500戸浸水、翌2013年にも台風18号による浸水被害が発生している。

京都大学の防災研究所がこの地に造られた8年後に、 第2室戸台風が上陸したようです。

当時の状況はどのようだったのでしょうか。また、地図をみるとその隣に宇治駐屯地もあるようです。

 

訪ねた日は春うららかな陽気で、川沿いに花が咲いていました。

宇治川の川面が輝いて美しい車窓の風景からは、荒れ狂う水の流れはとても想像できなかったのでした。

 

宇治川沿いを歩く*

 

宇治線の終点宇治駅は、おしゃれで新しい駅舎でした。こんな春の陽気は、人を川辺に誘うのでしょうか。京都市内よりはいくぶん、観光客が多い印象でした。

 

駅の目の前に宇治川が流れています。

中学の修学旅行の記憶がどこかに残っていないかと探しながら歩いたのですが、どうも平等院以外は記憶になくて、宇治川の記憶も全くありません。

こんなに美しい川だったのかと、川べりを歩きながらまず上流へ向かいました。

 

宇治神社、そして宇治上神社を訪ね、さらに上流へと歩くと観流橋があります。関西電力宇治発電所からの水が勢いよく宇治川へと合流している上を歩くと、足がすくみそうになりました。

ここは蹴上発電所と同じく、琵琶湖の水を利用した発電所だそうで、大正2年(1913)に運転開始されたことが関西電力のホームページに書かれています。

ここからさらに1kmぐらい上流に天ヶ瀬ダムがありますが、時間がないので今回は断念。

 

前日から見た琵琶湖や瀬田川の流れが、途中で利用されあるいは制御されながら宇治川になり、下流へと流れていく。

緑深い山あいから宇治川が流れてくる光景を見ることができただけでも、満足しました。

 

 

平等院へ*

 

宇治川にはたくさんの水鳥がいましたが、水面にとどまることができないのか流されていました。穏やかそうに見えるのですが、流れが速そうです。

せっかくなので平等院を参拝することにして、橋を渡って対岸へと向かいました。

 

宇治川のすぐそばに建てられていることが、意外に感じました。高台でもなく、ほんとうに川のそばでした。洪水が起きれば浸水しそうな場所です。

検索すると、実際に2012年の近畿豪雨の時に境内をぐるりと土手のように囲む庭園が崩れたりしたようです。

平等院の池は、小さな谷津にできたものだったのではないかと見える地形でした。

 

中洲のように宇治公園があって、平等院のある左岸側への水の流れを減らしているように見えましたが、晴れた日でも琵琶湖の方から勢いよく宇治川が流れてくるのをみると、なぜこの場所を選んだのか不思議です。

 

そしてここから1kmほど下流に、1世紀前ほどまで巨椋池が広がっていました。

一面、蓮の花が咲いている風景はこの世とは思えない美しさだったのだろうか、だから選ばれたのだろうか、そんなことを想像しながら平等院を後にしました。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

水のあれこれ 135 三栖閘門と宇治川

琵琶湖疏水が鴨川に合流する場所を見たあとは、三条駅から京阪本線に乗り三栖閘門(みすのこうもん)へと向かいました。

琵琶湖疏水宇治川に流れ込むところを訪ねてみる」と昨日書いたのですが、実はそれに気づいたのは、家に帰ってもう一度琵琶湖疏水の図を見直していた時でした。

 

Macの地図では冷泉放水口までは「琵琶湖疏水」と書かれているのですが、それ以降は川の名称になっているので、疎水が宇治川までつながっていることに気づかなかったのでした。Wikipediaの説明文をしっかり読めばわかるのですが、いかんせん、内容がまるであの旧約聖書の民数記の幕屋のような記述で、どうも私の頭には入らなかったのでした。

 

行く前に地図を見ていたら、宇治川の川辺に気になる水色の部分があって、「三栖閘門」と「伏見港公園」が目にとまりました。京都の土地勘が全くないので、この辺りが伏見だと初めて気づき、そして閘門があることに興味が出たのでした。

そして、巨椋池の目の前でした。

 

*三栖閘門と伏見港公園*

 

中書島駅を降りると、目の前に満開の大きな白蓮の木が見えて、伏見港公園が広がっていました。中を歩いて数分ぐらいで、三栖閘門が見えました。

残念ながら三栖閘門資料館は感染対策のために休館でしたが、運河を渡りながら宇治川の堤防から宇治川を眺めました。

対岸が元巨椋池なのですが、堤防で向こう側は見えません。ただ、空を遮るようなものもない広大な土地が広がっているのはわかりました。

 

Wikipediaでは三栖閘門の説明がなく、月桂冠のホームページに「港町伏見と三栖閘門  伏見城外濠と宇治川との水位差を調整する運河」という記事を見つけました。

400年前、伏見城とその城下町が造営された際、伏見の街の南側にあった大遊水池・巨椋池の中に大堤防が築かれ、宇治川の流れを北上させ、伏見丘陵の南を迂回させました。街中にも水を引き入れ、城を囲う外堀としました。これが現在の濠川であり、琵琶湖疏水の水流を鴨川運河から招じて宇治川へと運んでいます。

江戸時代あたりからの土木の歴史は、全国、目覚ましいものがありますね。

 

水位差を調整、船舶を昇降し宇治川へと通行させた三栖閘門

伏見の街を水害から守るため、1922(大正11年)、宇治川右岸の観月橋から三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。そのことに伴い1929年(昭和4年)、三栖閘門(みすこうもん)が建設され、宇治川と豪川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し船を行き来させていました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通行していたといいます。しかし昭和30年代に入って、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少して行き、1962年(昭和37年)、ついに淀川の舟運はなくなってしまいました。さらに1964年(昭和39年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

 

三栖閘門の計画ができたのも、1904年からパナマ運河工事に関わった青山士氏の影響も大きいのではないかと想像したのですが、その当時の雰囲気はどんな感じだったのでしょう。

そして私が生まれた頃は、この閘門が役割を終えたという驚異的に変化する時代でした。

 

*木幡池と宇治川

 

中書島駅から今度は宇治線に乗り、宇治駅を目指しました。

宇治線は、途中、宇治川に対して大きく「つの字」を描いて山側を走っています。散歩の当日は「宇治川が見えなくなって残念」ぐらいしか感じなかったのですが、今、このブログの下書きを書いている時点で、そこに水色の池のような場所があることに気づきました。

ええ、行く前にも何度も同じ場所を地図で眺めていたのに、目に入っていませんでした。

 

何気なく、木幡駅を検索したら、そこに歴史が書かれていました。

京阪宇治線開業と同時に設置された駅、周辺が宇治川山科川と合流する扇状地で駅西側に木幡池がある水害多発地帯だった。現在のように宇治川の堤防が強化され、山科川の堤防設置と宇治川の堤防が強化され、山科川の堤防設置と宇治川との合流地点を桃山南口駅の西側移設されたのは昭和になってからだった。

 

年表には1965年までの水害が書かれています。

宇治川周辺の水色の部分をなんとなく選んで歩いたのですが、帰宅してからいろいろとその歴史がつながってきました。

 

それにしても、中書島(ちゅうちょしま)とか木幡(こわた)とか巨椋(おぐら)池とか、京都近郊の地名は読み方がわからなくて本当に難しいですね。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら