米のあれこれ 99 伊予西条の干拓地へ

散歩の1日目、7月なので午後7時半ごろまでは明るいのですがさすがに35度以上の中を歩く気力も体力もなく、早々にホテルへと向いました。

その途中にも地図では「うちぬき」と示された場所があるのですが、残念ながらわかりませんでした。とにかく涼しいホテルへと歩き、5時にはチェックインしました。

 

部屋の眼下に田んぼがあります。ここもまた干拓地です。すぐ近いところに中央構造線の山が見え、その山裾からすぐに田んぼが始まっているのが見えました。

この田んぼと県道13号線道で隔てられた地域は工場地帯で、日が暮れるに従って明るくなって別の世界になりました。

 

カラスも家に帰る頃で、山の方ではなくなぜか海側へと向かって行きました。

ホテルの部屋は8階で、鳥たちはだいたいこの高さを飛んでいるようです。これが鳥瞰(鳥の目で見た世界)でしょうか。

ぼーっと窓の外の風景を眺めている間、1時間に数台の救急車が近くの病院へと入っていく音が聞こえました。

 

*禎瑞地区へ*

 

伊予西条を訪ねてみようと思ったきっかけは、地図で海岸線の干拓地らしい場所を眺めていたら承水路の近くに「西条のベネチア」と書かれていて、その堤防をたどると「龍神社」があったことでした。

ここをぐるりと歩いてみたい。そのあと南側の「新開」がつく田んぼも歩いてみたい。

 

2日目の朝7時前、まだ涼しい時間に出発しました。

その地域までは徒歩しかないのですが、稲の香りに包まれながら田んぼ沿いを歩くのは楽しいものです。集落を抜けると、3~4km離れた山の端まで田んぼが続いているのが見えるのは圧巻です。

 

田んぼの近くにある家の外の蛇口から水が勢いよく出続けています。それがそのまま水路へと流れているところを見ると、これもまた「うちぬき」の一つでしょうか。

 

豊かな水に癒されてのんびりと歩いていたのですが、まだ27度ぐらいなのに1時間ほど歩いただけでもう汗が止まらなくなってきました。

昨年9月に丸亀市内のため池と田んぼを歩いた時のような状況になったので、すぐに近くのコンビニエンスストアに避難しました。イートインのないお店でしたが、「涼んでいって」と言ってくださったのでありがたく飲み物を買ってしばらく休ませてもらいました。

これでは今日の計画のほとんどをあきらめることになるでしょうか。

 

元気になってまた歩き始めました。

川風を感じるようになり、大きな川が見えてきました。河口の方まで見えます。

昨日、車窓から美しいと感動した加茂川です。この川の伏流水がこの地域の豊かな水の風景を作り出しているそうです。

 

橋の対岸が禎瑞(ていずい)地区で、堤防より低い位置に集落があり、嘉母神社が見えてきました。

 

境内に「客土記念碑」と彫られた大きな石碑がありました。

散歩をするようになって種々の石碑を見るようになりましたが、「客土」は初めてです。

そばにその経緯が書かれたもう一つの石碑がありました。1946(昭和21)年の南海地震による地盤沈下で満潮時には1mほど田んぼが湛水してしまう事態になり、排水機設置を始めそれに対応した事業の記念碑のようです。

 

そのほかに「禎瑞新田開拓二百十年記念」(昭和59年)、「禎瑞新田開拓二百二十年記念」(平成8年)そして「禎瑞新田開拓二百三十年記念」(平成18年)の石碑もありました。

 

手水も盆の真ん中から水が湧き出しています。その上に「西条打抜音頭」が掲げられていました。

伊予の西條は 御城下町かよ

石鎚山から 流れる加茂川

神の水だよ その又地獄の

岩を打抜く わしらの誇りの

打抜く家業は 先祖代々

打出す清水は 水晶の如く

夏は氷か 冬は湯の水

飲めば玉水 長寿の秘訣よ

今は開けて 製紙に絹麻

人絹工業の もとでとなるかよ

こうなりやあとあと わしらの稼業も

機械の力に とられて仕舞うか

そうなりゃわしらも 金棒かついで

地獄巡りや 石鎚詣りで

罪をほろぼし 極楽浄土え

生れ替って 水の都の

伊予の西條え

 

手水一つにもその水の歴史と、工業化(産業化)との葛藤の歴史が書かれていました。

 

さて、禎瑞新田の周りの堤防沿いにぐるりと歩くと1時間以上かかりそうです。この暑さで木陰もない堤防の上は危険だと思い、禎瑞新田や周辺の「新開」地区を歩く計画は断念しました。

 

それでも山裾から広がる広大な美しい水田地帯と、加茂川、そしてその伏流水がうちぬきとして水路へと流れている風景です。

全国津々浦々、水田は健在ですが、こうして地下水による干拓地があることを知っただけでも来た甲斐がありました。

 

 

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工業地帯についてのまとめはこちら

 

 

 

 

専門性とは 14 「橋から飛び込むと、なぜ命を落とすのか」

ハロゥインと聞くと「雑踏警備」という言葉が浮かぶ、シュールなニュースが飛び交う季節になってしまいました。

 

「ミナミのハロウィーンは日本人よりも外国人の方が盛り上がった!?「日本のハロゥイン大好き!」 戎橋は雑踏対策で立ち入り禁止に」(2024年11月1日、MBSNEWS)の動画が目に入りました。「戎橋(えびすばし)」はなんと読むのかわからなかったのですが、あの川へ飛び込む道頓堀がある場所だとその動画で知りました。

 コロナ前のハロウィーンでは、若者が次々と道頓堀川に飛び込んだり、大勢が一斉にジャンプしたりしたことから、戎橋が大揺れ。お祭り騒ぎは朝まで続くことが恒例でした。

 そのため今年は、本来グリコの看板がよく見える道頓堀橋では暗幕が掛けられました。午後7時すぎ、人通りが多くなってきたことから大阪府警の警察官約200人が雑踏対策をスタート。

 

ちょうど水難事故の解説を読み直していて、「橋から飛び込むと、なぜ命を落とすのか たまたま『一回の失敗』という落とし穴がある」(2024年7月17日、YAHOO!JAPANニュース)を読んだ後でした。

 

「橋から飛び込むと、なぜ命を落とすのか」

水深が浅そうなので打撲もあるかもしれないし、溺死やそのあとの感染症も怖そうです。川の水は相当汚なさそうですしね。

 

 

*「たまたま『一回の失敗』」という専門的な視点*

 

その解説では素人の思いつきをはるかに越える内容が書かれていました。

 

 水の季節本番です。橋から川に飛び込むとスリルがありそうです。飛び込み動画も散見されます。そこには楽しそうに繰り返して飛び込む様子が映っていたりしますが、その一方で死亡事故のニュースも聞きます。なぜ橋から飛び込んで命を落とすことになったのでしょうか。

 

死亡事故の例

 

 友人らと橋上から川に飛び込んでいた外国人男性 3時間後川の中で発見も死亡 厚木市鹿間市間を流れる相模川 神奈川

7日午後4時ごろ、厚木市座間市を流れる相模川で、外国人男性の行方が分からなくなった。男性は約3時間後に川の中で見つかり、死亡が確認された。当時男性は友人らと橋の上から川に飛び込んで遊んでいたという。

FNNプライムオンライン2024/7/8(月)8:32配信

 

 この事故を扱った他の記事では「飛び込んで1人が上がってこない」「橋から水面までは約18メートルほどあった」(いずれも神奈川新聞)と、より詳細な情報が公開されています。

 ほかにも痛ましい事故が発生しています。高知県四万十川では2019年9月に大学生2人が死亡しています。橋から川に飛び込んだ女子大生が溺れ、助けようと飛び込んだ男子学生が溺れました。2人とも深い川底に沈んでいたのを発見されています。

 毎年繰り返される、川への飛び込みで命を落とす事故。これまでの調査により、一連の事故には、ある共通項がみられることがわかってきました。ひとつは友人らと飛び込んで遊んでいたこと、もうひとつは潜ったきり水面上に顔を出さなかったことです。その共通項を詳細に調べていくと、隠された落とし穴に行きつくことができました。それは「たまたま一回の失敗」が重大な事故につながったという落とし穴です。どういうことでしょうか。

 

友人らと飛び込んでいた

 川での水難事故では、かなり慣れている、つまり成功体験を積んでいる人がまず何かしらのチャレンジをする傾向にあります。例えば、今回の題材となっている橋からの飛び込みがそれにあたります。友人同士で遊びに来ていれば、最初に飛び込んだ人のしぐさをマネしてチャレンジする人も出てくるわけです。目の前で友人数人が川に飛び込み、そして何事もなかったように岸に泳いで戻ってくれば、それを眺めていた人の心の中に、なんとなく擬似的な成功体験が発生することになります。それで恐る恐る、自分も飛び込んで見たら「できた」となり、それがリアルな成功体験を形成していくことになります。

 そうやって何回か成功体験を積んでいったとします。ところが命を落とすことになった人には、とうとう最期の時が訪れるのです。どういう時かというと、「叫んで周囲にアピールした時」です。「いくぞ」「愛しているよ」「きもちいい」など、最初にうちは恐る恐る無言で飛び込んでいたはずなのに、慣れてくると何かしら声に出して飛び込んでしまうのです。

 そうすると何が起こるのか、こちらの記事に掲載されている動画「検証(2)」をご覧ください。

「飛び込み」に潜む危険 沈み込んだ先の”魔の時間”に何が・・・

 動画では、叫びながら高いところから水に飛び込むと、水の中で潜る深さが深くなっていることがわかります。この現象は物理で簡単に説明することができます。人間のかさ比重は空気を肺にいっぱい吸っていると0.98程度で、これなら真水に対して浮きます。一方、声を出して空気を肺から出してしまうとかさ比重が1.03程度まで増えてしまいます。これでは真水に沈むことになります。だから、声を出さなければ飛び込み後にすぐに浮き上がってくるのに、声を出したら沈む一方になるのです。

 本当は怖いのが、根拠のない成功体験なのです。友人が成功したから、自分も成功したから、「次の飛び込みも大丈夫」ではないのです。ここに隠れた落とし穴があるのです。

水面上に顔を出さなかった

 前述した検証(2)の動画では、飛び込み後に深さ3.8mのプールの水底にまで潜り着底したから、それ以上潜ることはありません。もしこれが5mの深さであったら、当然そこまで潜ることになるでしょう。

 飛び込んで命を落とす人は、浮き上がってきて水面に再び顔を出すことがほぼありません。それはなぜかというと、途中で気絶していて、自力で浮上することが困難だったということです。ではなぜ気絶してしまうのでしょう。

 それは、当然深くまで潜ったことが第一原因なのですが、要するに水面に顔を出すまで呼吸が持たなかったからです。飛び込む時に叫べ場、肺の中の空気は少なくなります。その状態で水底から上がるのに例えば30秒かかってしまったら、普通の人では呼吸は持たないことでしょう。ましてや川の底の方では濁りによってどの方向に水面があるのか判別つきにくいですし、川の底より水面に向かうと、上に行くほど流れが速くなり、垂直に浮上することができなくなります。一言で言えば、浮上に時間がかかるようになります。

 このようにして息こらえが持たなくなり、最後の呼吸を水中で試みればそのまま窒息し気絶することになります。空気は肺の中にほぼ残らないので自然と浮上することがなく、残念ながら川底に沈んでいるところを発見されることになるのです。

(赤字強調は引用者による)

 

「橋から飛び込む」

そういう状況があるのかと、初めて知りました。

そして、やはり水難救助にも数学と物理が大事ですね。

 

 

*興奮する状況は危険*

 

最後の「ではどうすればよいのか」では、「川には飛び込まないこと。泳がないこと」と至極簡単なことが書かれています。

それでも「どうしても勢いで飛び込んでしまって、『しまった』という時には次の動画のようにクリオネのように羽ばたいて水面にでてきてください。水面に出たら背浮きになって呼吸を確保します」と、丁寧に対応策が書かれています。

 

ここが社会にリスクマネージメントを徹底させることが難しいところかもしれませんね。

冒頭のニュースの動画でも、橋の上で「飛び込めよ」と友人を煽っている様子が映っていました。

 

別のニュースのコメントに斉藤秀俊氏がこう書かれています。

飛び込みながら叫ぶと、水中深く潜ります。そしてなかなか水面にあがってこられません。動画撮影の横で飛び込むと音も欲しくなり飛び込み中に声を出したくなりますが、ご法度です。(強調は引用者による)

 

 

自己顕示欲の強い時代根拠のない自信に満ちた人が、目立ちたい、人に影響を与えたいという興奮をひろげますからね。

なかなかそういう時には、失敗を繰り返さないための平易な言葉は耳に入らない。

 

それでも粛々と、事故を検討し分析して社会に呼びかけている方々がいらっしゃるのだとしんみりとしたのでした。

 

 

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事実とは何か 113 「誰もが水難から生還するにはどうしたらよいか」

今回の散歩の初日、加茂川の伏流水が生み出した美しい伊予西条の風景に夢か幻を見ているかのような気持ちでホテルに着きました。

 

その地域の放送を楽しみにしているのですぐにテレビをつけると、その加茂川の名前がニュースで出てきました。小学生が川で亡くなられたという悲しい事故でした。

「美しい!」と車窓から眺めた同じ頃その川の上流で水難事故があったことに、水の美しさに浮かれて怖さという現実を忘れていたとハッとしました。

 

テレビの画面にはその河川敷が写り、「ここでのおよぎきけん」という表示が映し出されていました。

それはきっと、「危ない場所なのに」「そばにいた人も目を離したのでは」と正しいことを言いたくなる気持ちにさせるだろうな、でも答えはそれだけではないだろうなとなんとなく危うさを感じました。

 

 

*斉藤秀俊氏の解説を読む*

 

水難学を知ってからは、気になる水の事故は斉藤俊秀氏の解説を読むようになりました。

 

とりわけため池や用水路の事故では、「ため池や用水路を放置しているなんて」「蓋をしろ」「柵をしろ」と言ったコメントがたくさん書き込まれるので、ちょっと心が痛くなりながらどうしたらよいのだろうと頭の中を整理するために解説を読みます。

なんといってもこの国の千数百年の歴史がある農業の大事なインフラですからね。

 

そしてプールや水遊びの事故も気になります。

今年も7月に入ると急に暑くなったせいでしょうか、川や海での事故のニュースが増えて解説も増えました。

ポイントは、平日の午後の事故という点です。毎年7月は夏休みまでの間、平日の午後の子どもの水難事故が多発します。(7月5日)

しっかりとした海水浴場での事故。

水遊びは膝下までの水深に留めるのがまずは水難事故防止の第一歩。(7月21日)

今の時期に一番起こりやすい事故が起きました。日頃から馴染みのある川。特に水かさは増えておらず穏やか。気温が高くて、川が気持ちよさそうに見える。

(子どもたちだけで川に近づかないために)「水辺に出かけるなら家の人達と週末に出かけようと、約束するのも一つの手段です」(7月26日)

 

 

どの解説も、当事者を責める言葉がなく再発防止の視点で書かれています。

お悔やみの言葉というのは難しいのですが、亡くなった方やそばにいた人達、ご遺族に鞭打つような言葉がないことに救われます。

そしてその事故の状況や対応についてわからないことはわからないとしながら、「水辺」と言っても多様な状況があり、それぞれの何が事故につながりやすいかが書かれています。

 

「水難学会」の会長挨拶を再掲します。

水難にあったらどうすればよいか、様々な解説がなされました。しっかりとした研究がなされないから、検証もされず妄想に基づいた解説がおこなわれる風潮がありました。昔は正しかったかもしれませんが今は違っているという解説もありました。ひとりの妄想におどらされることなく、誰もが水難から生還するにはどうしたらよいか。その答えを出すためにはさまざまな分野の専門家が建設的に議論する立場が必要です。一般社団法人水難学会はそのために設立されました。

 

こうした活動が末長く発展していき、社会に浸透していきますように。

 

 

 

 

 

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水のあれこれ 384 水のあふれる伊予西条

今治駅に到着し、ここから今夜の宿泊先の伊予西条駅へと予讃線で戻ります。

ふと、また方向感覚がおかしくなりました。山が南側にあると、どうやら感覚がズレるようです。

 

予讃線の車窓に翌日訪ねる計画の干拓地が見えて、じきに伊予西条駅に到着しました。

今回の散歩は、この「うちぬき」を地図の中で見つけたことで計画ができあがったのですが、駅前の案内図に「うちぬき」の場所が描かれています。

猛暑ですが、ホテルまでそれをたどって歩くことにしましょう。

 

駅前の道を西へと歩き始めると、「駅前干拓地線」という石柱が建っていました。やはり干拓でできた土地のようです。

とちゅう、「うちぬき」と表示がありましたが残念ながら水は出ていません。

ちょっと不安になりながらさらに歩くと、西条市総合文化会館の先に池のような場所が見えてきました。

 

大きな池があり、水面が輝いています。

その向こうの中央構造線の奥に見える山々の中でも、ちょっと目立っているのが石鎚山でしょうか。

湧水のようなので近づいてみたいのですが、横断歩道を渡るのもためらう暑さです。

その流れがこちら側へと続いている場所には木陰のある遊歩道が見えたので、逃げ込むようにそちらに向かいました。

 

 

*ほたるの泉の遊歩道を歩く*

 

石積みの水路の続く遊歩道で、国分寺崖線の湧水東久留米の湧水富士市の湧水熊本市の上江津湖あるいは柿田川湧水群などを思い出すような、のぞきこむだけで清流だとわかる水と涼しげな水草が青々と揺れています。

 

木陰のある遊歩道のベンチに腰掛けて、しばらく水面を眺めました。

木陰があれば35度の気温でも歩けそうです。

 

また元気になって水路沿いを歩くと小さな石碑がありました。

ほたるの泉

この泉は石鎚山系を源とする加茂川の伏流水が湧き出ています

昭和六十年一月四日名水百選に指定されました

平成三年吉日  西条市

予讃線の車窓から見えたあの美しい加茂川は、こんなに豊かな伏流水を生み出しているようでした。

 

住宅地の中を美しい水路が続いていて、探検するような気持ちで歩いていると数十メートルで広い池のような場所に出ました。

そしてその先の図書館のあたりまで、清らかな水をたたえた浅い池のような場所が続いています。

ガマの穂が水辺に生え、水草と白い水中花が見えます。

その風景は息が止まるかのような美しさでした。

 

図書館の西側には板張りのテラスが続いていて、夏の日差しをさえぎるようにベンチがありました。

またそこに座ってしばらく透き通る水底を眺めていると、子どもの頃に遊んだ裏庭の湧水にひき込まれるような感覚が呼び起こされました。

それが半世紀後に湧水を訪ね歩くようになり、またひとつすばらしい場所に出会いました。

 

清流とは何か

答えのない問いとともに湧水に惹かれているのですが、その周囲を大事に守ろうというヒトの気持ちがなければ守ることはできない、ということは朧げながら見えてきました。

だからこそ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の湧き出る泉のある場所となるのかもしれません。

 

地図では小さな河川しかないのに、こんなに豊かな水が湧き出る場所でした。

 

 

 

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落ち着いた街 62 海城から水路をたどって今治駅へ

2021年ごろはまだ海城という言葉さえ知らなかったのですが、川や干拓地を歩くようになって海城や水城に遭遇するようになり関心がでてきました。

私の場合、武将の歴史よりは「その堀や城の水はどこからきたのか」ということなのですけれど。

 

 

地図を眺めていて気になっていた今治城の美しい堀が目の前にあります。

 

日本屈指の海城(うみじろ) 今治城

 今治城は、江戸時代のはじめ頃、築城の名手、藤堂高虎が瀬戸内海に面した海岸に築いた名城です。軟弱な地盤(砂浜)にも関わらず、伊予半国(現在の愛媛県の約半分)20万石の大名にふさわしい城郭を技術の粋を結集して築き上げ、高虎の代表作となりました。広大な城郭とその城下町は、その後の今治市の発展の基礎となりました。

 今治城の特徴は、広大な水堀と高い石垣です。全国的にも大変珍しい海水を引き入れた海岸平城(ひらじろ9で、日本三大水城(みずじろ)の一つに数えられています。堀は潮の干満で水位が変わり、海の魚の泳ぐ姿を見ることができます。

 現在の天守は、昭和55年(1980)に市制60周年を記念して再建されたもので、内部は歴史史料館と自然科学館になっており、最上階からは市街地や瀬戸内海の島々、西日本一の高さを誇る石鎚山などが眺望できます。

 また、御金櫓(おかねやぐら)は郷土美術館、山里櫓(やまざとやぐら)は古美術館になっており、鉄御門(くろがねごもん)・武具櫓(ぶぐやぐら)は木造の復元建物として内部公開しています。

 

真っ青な夏空に浮かぶ白い雲と、遠くに見える山なみと、そして美しい石垣と広い堀の水面。

今写真を見返しても、ため息が出る優雅な姿でした。

 

 

*美しい水路と小さな記念碑*

 

もっと今治市内を歩いてみたいと思ったのですが、さすがに35度を超えて危険な気温です。

木陰は涼しいのですが、歩くと朦朧としてきそうです。

 

水路をたどって駅の方へと戻ることにしました。ホテルのそばに小さな水路に遊歩道が整備されていて、のぞき込むと美しい水で小さな魚が泳いでいます。

 

どこから来る水路でしょう。かつてはこのあたりも田んぼだったのだろうかと思いながら、しばらくその水路沿いを歩いていると、総合福祉センターの木のそばに小さな石碑がありました。

 

建設記念碑

 人々がたすけあい

互いに手をたずさえ

幸せになることこそ

福祉の道であり

その起点がここにある

果てしなく続くこの道を

あなたも わたしも

ともに歩もう

 これは福祉センター建設

のいしづえをなした

故日野福松氏夫人 シゲル

さんをはじめ

日本自転車振興会 市当局

ならびに市民の多大の協力

により建設したものである

 昭和四十九年四月一日

社会福祉法人 今治市社会福祉協議会 会長 安岡喜久一

 

朦朧としながら歩いていたのに、この文章に思わず泣きそうになりました。

 

ごく最近建てられたかのように石面が輝いている石碑でしたが、1974(昭和49)年ですからちょうど半世紀前のものでした。

私が中学生の頃、こうして人類の為からさらに福祉の実現へと大きく動き始めた時代だったのですね。

 

今治城が建った17世紀初頭の人たちからは想像もしない社会が、長い時間と葛藤を超えて具現化した。

一世紀後も何世紀後も、この石碑が遺っていますように。

 

ゆったりとした住宅地を抜けて、今治駅へと戻りました。

いつか、暑くない日にもう一度歩いてみたいものです。

 

 

 

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記憶についてのあれこれ 179 瀬戸内海の造船所

工業化への時代の葛藤からしだいに解き放たれて工業地帯まで見て歩くようになったこの頃ですが、造船所とか港湾地帯は昔からちょっと好きでした。

 

海とは無縁で育ったのにどこからその関心は始まったのだろうかと思い返しているのですが、10代終わり頃から20代前半の多感な時期に仲が良かった友人の影響かもしれません。

昨年9月に丸亀市内を歩いたのも彼女が育った街であり、そのお父様が船に関する仕事をされていたことが記憶に残っていたことも理由の一つでした。

先代池の向こうに夕日が瀬戸内海に落ちていく風景とともに、沿岸のドッグの明かりがしだいに存在を増していくのを眺めていました。

 

あの時に丸亀市の沿岸部を列車で通過した際、「今治造船」と大きく鉄の柱に描かれているのが見えました。

 

それで、今回の散歩では造船所のそばを通る路線バスに乗ったのでした。

子どものように「かっこいい!」と心を震わせながら眺めたのですが、あの場所にはどのような仕事専門性があり、どのような生活があるのでしょう。

巨大な港湾の施設に圧倒されただけでなく、私が生きてきた世界とは全く違う雰囲気に惹きつけられた、そんな感じでした。

 

 

*「今治造船」*

 

 

今治造船という名前もいつ頃からか知っていましたが、何がきっかけだったのかはもうわかりません。

 

相生(あいおい)の造船所とか瀬戸内海の水夫(かこ)とか、いつの間にか瀬戸内海について記憶に残るものが子どもの頃から増えていました。

瀬戸内海は私の海の原点ですからね。

 

さて、その今治造船業もきっと昔から、昔というのは平家だの源氏だのの頃からの生業が発展したのだろうと思っていましたがどんな歴史があるのでしょう。

 

Wikipediaを読むと、明治の終わり頃に会社となったようです。

1901年に檜垣為治が檜垣造船所を創業したのが始まりである。1933年には為治の息子である檜垣正一らが「檜垣造船有限会社」を設立。1940年暮れには、檜垣造船、村上(実)造船、渡辺造船、村上造船、吉岡造船、黒川造船の6社が合併して「今治造船有限会社」が誕生した。当時は木造船であっても厳しい資材統制があったため、業界での生き残りを賭けての会社併合であった。その後、1943年に今治造船有限会社は今治船渠株式会社と合併し「今治造船株式会社」が誕生した。今治船渠は1940年、「国策に沿って今治にも設備の充実した造船所を作ろう」というねらいで、今治市内の無尽会社、鉄工会社、建築、電業会社、呉服屋など、今治でも上位にランクされる商工業者の出資によって生まれた造船所であった。

 

あの遠洋漁業に出かけていたような大きな木造船を造っていたのでしょうか。

 

戦後の工業化の流れで、大きく発展したのかと思ったら少し違いました。

戦後、今治造船は仕事が無く、従業員の多くが離散。1943年8月には檜垣一族も退社し、今治造船で現場総監督を務めていた檜垣正一は檜垣造船所を設立した。時代が木船から鋼船へ移行する中、檜垣正一は檜垣造船所を吸収合併し、今治造船の再建を図った。愛媛汽船社長の赤尾柳吉を社長に迎え、今治造船は1955年4月に再出発することとなった。1959年には檜垣正一が社長に就任した。

船舶が大型化する中で、波止浜地区では湾の大きさや深さなどから大型船建造が困難であるため、1970年には香川県丸亀市に進出。1971年には三菱重工業と業務提携を締結。この提携は三菱重工業から設計技術供与を受ける見返りに、丸亀事業本部の売上げの一部を「指導料」をして支払う片務的な業務提携であった。

1970年代後半と1980年代後半の2度の「造船不況」で造船業が不況に陥る中、幸陽船渠や岩城造船、西造船など経営不振に陥った中小の造船所を買収して傘下に収めて規模を拡大、200年3月には約140億円を投じて愛媛県西条市に国内最大級の新造船用ドックを完成させた。国内では日立造船有明工場以来、25年ぶりとなるドッグの新設であった。

 

丸亀市今治造船は、大型船造船のために進出したものだったのですね。

 

そして私が友人と出会った頃は、「造船不況」という時代だったとは。

あれから半世紀近く経って、波止浜(はとはま)のドッグの向こうにしまなみ海道の大きな橋が見えたのは奇跡のように思えてきました。

 

香川の大久保甚之丞のように「郷土の先覚者」の一人だったのでしょうか、今治城の入り口に今治造船のどなたかの大きな銅像が建っていたのを思い出しました。

あまりの暑さのために写真を撮り忘れたのは痛恨のミスでした。

 

 

 

 

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こんな地図があるといいな 14 半島の名前がわかる

MacやiPhoneのマップを使うようになって、一日とかかさず地図を眺めています。

 

時々忽然と川や寺社の名前が消えることがありましたが、刻々と詳細で重層的な地図に進化していることを感じます。

いつ頃からでしょうか、海岸線に薄い緑色の岩礁地帯が描かれるようになったのを、今年のあの能登半島地震の直後に気づきました。

また、海岸線を拡大していくとけっこう小さな岬の名前まで載っています。見やすいように小さい文字でも太い字になっているのも助かります。

 

そして岬だけでなく、こういう場所には「鼻」とつくことを初めて知りました。

日本語で岬を表す表現には、崎、埼、碕、角、鼻がある。

菜切祥生によると「鼻」は「埼」や「碕」と同じく、「岬」よりも小規模な地形に付けられている。

Wikipedia「岬」「概念」より)

 

おそらく紙の地図しかなかった時代には、岬よりも小さい「鼻」の地名を載せるスペースもなく割愛されていたのでしょう。

 

 

*半島名がないのは残念*

 

ところが、Macのマップでは、拡大しても縮小しても半島名が見当たりません。

 

今治の先の北側へ出っ張った部分が高縄半島だと知ったのは地図ではなく、偶然、コトバンクの「馬刀潟村」に書かれていたからでした。

 

今までの散歩でも全国あちこちの半島を歩いてみました。

宇土(うと)半島なのにありもしない三角半島と勘違いするようなこともたまにありますが、国東半島が「くにさきはんとう」で大分にあることを知っていたのも、全国の大概の半島名も知っているのも、小学生から高校生までの間に使っていた地図で覚えたのだと思い返しています。

 

とても詳細なMacのマップに半島名がないことで不便を感じたのが、地形そのものがなんだかわからないほど半島や岬が入り組んだ長崎を見ていた時でした。

この一つ一つの出っ張りの名前はなんだろう、どこがどういう名前の半島なのだろう、と。

そこから日本各地だけでなく、世界中の半島はなんという名前なのだろう。

 

以前なら本屋さんへGo!だったのですが、最近は重くて小さい文字の地図はつらいので、ぜひぜひインターネット上で簡単に見ることができるといいなと切望しています。

 

ところで半島ってなんだろうとWikipediaを読んでみました。

半島(はんとう)とは、3方位が水(海・川・湖など)に接している陸地のこと。「半島」とは『訂正増訳采覧異言』にある言葉で、その語源はオランダ語のハルフエイラント(蘭:halfeiland・「半ば、半分」を意味するhalfと「島」を意味するeilandの2語による造語。現代オランダ語ではschiereilandの方が一般的)またはラテン語のパエニンスラ(ラテン語:paeninnsula・「ほぼ、半ば」を意味するpaeneと「島沢」を意味するinsulaの2語による造語=「ほぼ島のようなもの」)とされている。

Wikipedia「半島」)

 

地図や地形の言葉ひとつとっても長い歴史があり、世界は広いですね。

 

 

「こんな地図があるといいな」まとめはこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

生活とデジタルについてのまとめはこちら

 

 

落ち着いた街 61 今治から波止浜、波方をぐるり

今治といえば、海のそばに建つ今治城を見てみたいと思っていました。

ただ、この日の予想最高気温は35度を超えそうなので、できるだけ歩かない散歩を計画しなければなりません。

 

地図を眺めていると燧(ひうち)灘が終わる西側のあたりが半島のようにでっぱっていて、「波止浜」「波方」「馬刀潟」といった地名や、干拓地かと思う場所に「中堀」「内堀」「地堀」そして「門樋バス停」がありました。水路の先には波方駅のそばに沢池があります。

このあたりをぜひ見てみたいと思っていると、どうやらぐるりとその半島の先を回るバス路線があるようです。

 

しかも今治駅に到着して10分後に発車するバスは、「ドッグ前」を通過する路線のようです。

そこには今治造船所があるようです。

 

瀬戸内海を訪ねるようになって、海に沿って様々な暮らしや産業がある風景を見ることが楽しみになりました。

かつては工業化と自然な景観との葛藤が大きかったのですけれど。

 

「波」のつく土地にはどんな風景があるのだろう。この路線で車窓の散歩をすることにしました。しかもぐるりとまわった後、今治城の近くも通るようです。

 

せとうちバス波方ループ線の車窓から*

 

今治駅まえのバス停には、予想以上の人が待っていました。同じ方向へ向かうのかなと思っていると、しまなみ海道を通って福山まで向かう高速バスが到着しました。

瀬戸内海の島々を眺めるのに瀬戸大橋線だけではなくこの手があったのかと、また次の計画が浮かんできました。困りましたね。

 

循環バスには私一人だけで、途中でポツリポツリと乗客が乗降車しながら進みます。

その名も「大新田町」を過ぎ、県立今治病院に立ち寄ると緩やかな上り坂になり、ため池や美しい瓦に魚の鴟尾(しび)のある屋根が多いようです。

すぐにまた下り坂になると、遠くに大きな橋が見えました。サイクリング車が通り過ぎて行きます。体力のある時に、瀬戸内海を自転車で訪ねてみたかったですね。

 

造船所も少し見えました。

高齢の方がバス料金の支払いに手間取っていますが、運転手さんものんびり待っていて、バスの中にも緊張感が走ることもない、こんな生活の方が幸せですね。誰もがいつかいく道ですからね。

 

車窓に海が見え始め、「はとはましんでん」の案内板がありました。「波止浜」をなんと読むのか確認しないまま家を出たのでした。

地図ではこの辺りも大昔はきっと小島が干潟でつながっていたのを干拓して入江になったのだろうなと想像していた場所が、目の前に広がり始めました。

 

大きなタンカーが今治造船所の前に停泊しています。

路線バス内だったので写真を撮るのをためらっていたのですが、思わず「(かっこいい)!」とタンカーや湾内の写真を収めました。

 

また上り坂になり美しい集落と大きな鉄鋼センターが見えます。

再び下ると、バスは海岸線に沿って夏の空に美しい瀬戸内海の島々、そして石積みの防波堤が見えました。

大好きな瀬戸内海そのものです。

 

またバスはグイグイと小高い場所へと上り、じきに九十九折(つづらおり)の道を下ります。

全国各地の路線バスの運転手さんの技術に敬意ですね。

 

 

波方の馬刀潟*

 

九十九折りの先に、見てみたかった場所があります。

地図では「潟」がつく地名で、おそらく小高い場所がかつての島だった干拓地ではないかと。

全国の潟をめぐるという無謀な計画もありますからね。

 

車窓からは潟の痕跡は全くわからない場所でした。

馬刀潟村(まてがたむら)

[現在地名]波方町馬刀潟

高縄半島の北端、宮崎岬が西に突出する付根付近、北側に位置する。東は森上(もりあげ)村、西は宮崎村、南は小部(おべ)むらに接し、北は海に面している。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六八七)には村名はみられず、波方村の一部であった。江戸中期頃波方村から分離独立したものと推測される。なお天保郷帳(一八三四)にも村名はない。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六〜四一)頃の村高は二三石七升八合の小村である。田畑面積は五町五反で、「新田畑」と記されているところから、新田村として波方村から独立したものである。

コトバンク、「日本歴史地名大系」より)

 

「馬刀潟」、てっきり「ばとうがた」だと思っていました。「馬刀」とはマテ貝のことのようです。

波方」は「なみかた」のようですが、かつてははがたと読んでいたそうです。ほんと日本語は難しいですね。

 

この説明のおかげで、今治の先のあのでっぱった地域は「高縄半島」だと知りました。

 

 

*沢池から門樋、そして今治城へ*

 

馬刀潟から高縄半島の西側の海岸線をしばらく走ると、また上り坂になって沢池が見えました。けっこう大きなため池です。

ここからドッグの入り口の波止浜まで水路が通って「門樋」があるのだと思いますが、水門はわかりませんでした。いつ頃の用水路でしょう。

ちなみに「門樋バス停」は「もんぴ」で大丈夫でしょうか?

 

また県立今治病院にたちよって市街地の風景になり、今治駅からは街路樹の美しい道路を通って海岸線へ出ました。

「造船とタオルの街」の案内板があって、大きなスクリューのモニュメントが見えました。

 

1時間15分、580円の車窓の散歩が終わり、13時ちょうどに今治城前で下車しました。

外は35度、少し立っているだけで朦朧とする暑さですが、今治は歩いてみたくなる街ですね。

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

工業地帯についてのまとめはこちら

 

 

 

 

 

散歩をする 536 燧(ひうち)灘の車窓の散歩

岡山駅から特急しおかぜに乗り今治まで2時間10分の車窓の散歩です。

品川から岡山が3時間で、岡山から今治が2時間かかるのですが、それでも子どもの頃の宇高連絡船しか四国へ渡る手段がなかったことを考えると、瀬戸大橋で結ばれたのは驚異的に変化する時代でした。

 

瀬戸内海の美しさに惹き込まれているとじきに宇多津駅に到着、ここで高松からのいしづち号が連結されて香川から愛媛の海岸線を走ります。

懐かしい丸亀の風景をながめ、多度津からは海岸線へと入りました。屋根瓦が美しい家が続き、海の中に嶋津神社が見えました。この辺りで一日中、瀬戸内海を眺めていたいものです。

 

*校歌からまだまだ知られていない歴史を探す*

 

帰宅して風景を懐かしく思い出しながら地図を見直していると、「三野津湾」と表示されました。

ここから線路は内陸へと曲がり、あの香川用水東幹線水路の支線で潤されている田園地帯へ入ります。

美しい集落と田植え直後の田んぼに白鷺がたたずみ、畑には葱坊主が大きくなっている夏の風景でした。

 

頼みの綱のWikipediaには「三野津湾」の説明がなかったのですが、2019年5月の「広報みとよ」に興味深い記事がありました。

校歌の謎を綿密に調査 研究発表会で日本一を獲得! 三野津中学校

 

文献と地形図をヒントに現地調査を繰り返す

♪入り江も広き 良港の 昔を偲ぶ 新田(しんでん)に♪

 三野津中学校の校歌にはこのような歌詞があります。

三野町はほとんど海に面していないのに、なぜ校歌では『良港』と歌われているのだろう?『新田』とは何のことだろう?そう疑問に思って3人で調べることにしました。

 三野津中学校2年の綾直弥さん、関隼人さん、田中遥基さんは、昨年7月から2カ月間にわたり、校歌の謎を解明しようと調査に打ち込みました。調査では、三野町の歴史を町史で調べたり、町内約15地点の現地を確認したりしたほか、市の文化財担当者への聞き取りにも挑戦。

 そうして調べた結果、古代には、現在の宗吉かわらの里展示館付近まで広がる大きな三野湾があったことがわかりました。また、高瀬川の土砂が堆積して土地が広がり、江戸時代前半には開拓によって三野津湾が新田へと生まれ変わったことを知ります。

 3人は、3月に東京で開催された「第17回全国中学生徒地域研究発表会」で調査内容を発表。テーマの着眼点が評価されたことに加え、発表の練習を重ねてきた成果を発揮し、ステージ発表部門で見事1位を獲得しました。

 次はGPS機能を使って、より正確な古代の海岸線マップを作りたいと話す3人。今後も地域の不思議解明に向けて意欲を見せてくれました。

 

地図では丸い山がポツポツとある地域で、かつては島だったのだろうかと気になっていた場所でした。

内陸のようで、やはり干拓地だったようです。いつか歩いてみたいものです。

市井の人の正確な記憶と記録によって成り立つ世の中ですが、中学生が校歌をヒントに自力で調べるのですからすごいですね。

 

 

*燧灘へ*

 

観音寺を過ぎて、昨年9月に暑さで諦めた三豊干拓地が見えました。

箕浦のあたりで海がぐんと近づき、海岸線に田んぼも見える風景です。

ここからが、今回の散歩の目的でもある燧灘です。

午前10時ごろ、海は深い青色に輝いていました。

 

川之江には、おそらく島だったのだろうと思われる小さな小高い場所に川之江城跡があり、山との間を列車が抜けていきました。

このあたりからの沿岸部は、干拓地というよりは埋め立て地のようで工場があります。

大きな川はないのに、すぐそばの山から水量の多い水路が見えます。「三島紙屋町」は製紙工場の敷地そのもののようでした。

 

美しい川が見えました。関川で、そこを過ぎると列車は山あいに入り、抜けると新居浜です。

この辺りも干拓による土地でしょうか。

新居浜は浜辺の街かと思っていましたが、山がすぐそばです。

まるで衝立のように真っ直ぐの山すそが続いています。これがみてみたかった中央構造線でした。

 

どこまでもゆったりとした水田地帯と落ち着いた街並み、そしてダイナミックな山並みが続きます。

 

山に挟まれた場所を抜けると宿泊予定の伊予西条駅を一旦過ぎ、美しい加茂川を渡りました。

このあたりから、翌日に歩く予定の「新開」「新田」と地名がついた広大な干拓地が続きます。

水路を見逃さないように、まばたきも惜しんで車窓の風景を眺め続けました。

 

また山あいをしばらく走り、水田地帯が再び見えて11時35分今治駅に到着。

2時間10分の充実した車窓の散歩が、あっという間に終わりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

工業地帯のまとめはこちら

 

 

つじつまのあれこれ 54 調剤薬局で保険証の提示さえしたことがなかったのに

いつも処方されている薬をもらいに薬局へ行くと、「ジェネリックにされますか」と尋ねられました。そうだった確か今月から仕組みが変わったのですね。

後発医薬品ジェネリック医薬品)があるお薬で、先発医薬品の処方を希望される場合は、特別の料金をお支払いいただきます。

厚生労働省、「令和6年10月からの医薬品の自己負担の新たな仕組み」)

 

ジェネリックだと安くなるのは同じですが、先発品を希望すると今までの料金以上の値段になるという仕組みです。ジェネリックに誘導したいとしてもちょっと強引だし、実質の値上げですね。

「将来にわたり国民皆保険を守るため、皆さまのご理解とご協力をお願いいたします」と書かれていますが、昨今のとにかく医薬品の出庫調整が続く状況を見ると、ほんとうに薬の値段や製造のシステムはこれで大丈夫なのかな、ほんとうに国民皆保険を守るつもりはあるのかなと不安ですね。

 

そして全ての患者さんに説明をしなければならないでしょうから、薬局の方も大変そうです。

 

 

*マイナ保険証導入の実情*

 

そんな時に、マイナ保険証についてやはり「薬局で働く人たちが矢面に立たされる」という記事がありました。

 

薬局でもマイナ保険証の機械が導入されるのを見て、いつ、誰に対して薬局では保険証が必要なのだろうと不思議に思っていましたが、しだいに薬局でしつこくマイナンバーカードの提示を求められる話がニュースになり始めました。

さいわいにして私が長年利用している薬局では、初めて利用した時に保険証を提示したのだと思いますが、以来今まで保険証の提示を求められたことはありません。

 

薬局の実態はどうなのだろうと知りたかったことが書かれていたので、参考のために記録しておこうと思います。

「マイナ保険証"薬局グループ経営者"が語る導入の"実情"・・・「いま、現場で起きていること」とは」

(弁護士JPニュース、2024年10月26日)

 

現行の健康保険証を廃止しマイナンバーカードに統合する「マイナ保険証への一本化」が12月2日に迫っている。マイナ保険証については、政府が「医療の質の向上」「不正利用防止」といった「メリット」を強調してきている。

他方で、医療関係者や様々な分野の専門家から、それらについての数値的根拠の不足、情報セキュリティ面での難点、情報プライバシーの侵害、不正利用の助長のおそれ、利便性の後退、国民皆保険制度との整合性等の問題が指摘されている。また、医療現場でのトラブルも報告されている。

 

そんななか、編集部に、首都圏で10店舗以上の薬局を経営するグループの代表をつとめるX氏からメールが届いた。「マイナ保険証のメリットは一定程度のものはありますが、しかしバラ色に遜色ない優れものでもないです・・・」

 

メールの内容は、薬局経営者・薬剤師としてマイナ保険証の実務に携わる立場から、マイナ保険証により実際に得られた「メリット」を具体的に紹介する一方で、政府がPRする「メリット」の内実について疑問を呈し、かつ「マイナ保険証への一本化」が行われた場合の懸念点を率直に指摘するものだった。

 

X氏のグループがマイナ保険証を導入した経緯はどのようなものか。それにより得られた「メリット・デメリット」は何か。現場で何が起きているのか。X氏にインタビューを行った。

 

マイナ保険証のシステム導入は「やむにやまれず」

X氏の会社ではすべての薬局でマイナ保険証によるオンライン資格確認のための顔認証付きカードリーダーを導入している。導入のきっかけは、厚生労働省の施策に加え、導入しなければ政府が推進する「医療DX(※)」の流れに取り残され、薬局の経営が苦しくなるとの懸念からだという。

※医療DX:保健・医療・介護の各段階で発生する情報やデータを、クラウドなどを通して、業務やシステム、データ保存の外部化・共通化・標準化を図り、より良質な医療やケアを受けられるように、社会や生活の形を変えること(出典:厚生労働省

 

X氏:「薬局の経営はどんどん厳しくなっています。まず、『大手ドラッグストアチェーンが儲かっている』という理由で、”調剤報酬”が下げられています。

また、毎年の薬価改定で薬価差益が減少し、利益が縮小してきています。

そんななか、処方箋1枚あたりに『加算』を受けられるさまざまなしくみが設けられています。加えて、期間限定で所定のシステムや機器を導入した場合に受け取れる『補助金』の制度もあります。

たとえば、マイナ保険証のシステムや、電子処方のシステム、レセプト(薬局が保険者に提出する診療報酬明細書)のインターネット請求等を導入した場合には『医療DX推進体制整備加算』と、行政に対する申請によりそれぞれの設備導入にあたっての『補助金』を受けられます。

今の薬局業界は、それら『加算』『補助金』をすべて受けなければ十分な収益を得られず、経営が立ち行かなくなる構造になっているのです。

もちろん、機器の導入にはお金がかかります。たとえば機器の導入に1台あたり100万円かかった場合、国から2分の1の50万円、東京都から4分の1の25万円を受け取れても、残りの25万円は『持ち出し』になります。

しかし、補助金には期限が設けられており、その期間中に導入しなければ後々どんどん不利になります。

マイナ保険証のためのシステムも、そのためやむを得ず導入しました」

 

政府は「医療DX」を推進しており、その枠組みを前提とした収益構造、つまり、薬局がそこに参画しなければ経営が成り立たなくなるしくみの構築を進めていることがうかがわれる。

政府のPRと違う?マイナ保険証で実際に得られた『メリット』とは

マイナ保険証で実際に得られたメリットにはどのようなものがあるのか。政府はマイナ保険証のメリットとして「デジタル化による利便性」「なりすまし等の身分を偽っての不正利用の防止」等を挙げている。

しかし、X氏が挙げた「メリット」は、それらのいずれでもなく、知人の薬局で「同一人物による睡眠薬の複数回入手」が1件、発覚したというものだった。

 

X氏:「その患者さんは、別々の医療機関で診察を受け、その処方箋をもとに、複数の薬局で別々に『1日1錠服用・1ヶ月分』の処方を受け、1ヶ月あたり合計200錠を超える薬剤を入手していました。

マイナ保険証の場合、レセプト(診療報酬明細書)のデータが反映されるまで1ヶ月以上かかるので、直近1ヶ月半くらいの薬剤のデータは分かりません。今回はそれ以前の月のデータより、毎月にわたって複数回入手していたことがわかりました。

日本では、どこの医療機関に受診しても良いことになっているので、同じ症状で複数の医療機関に受診し、同一内容の諸将戦を複数受け取ることができてしまいます。

このような薬剤の”不正な複数回入手"は、おそらく「お薬手帳」では発覚しようがないものです。デジタルデータだからこそ分かったことです。

ただし、こういうケースは極めて稀だと思います。ふつうは保険組合の側のチェックで発覚します。本件の睡眠薬は安価なものだったので、見過ごされた可能性があります」

 

このことは広い意味での「デジタル化によるメリット」「不正利用防止のメリット」と言えるかもしれない。しかし、政府がPRしてきている内容とはかなりのズレがあり、かつ、保険組合のチェック漏れも介在した異例のケースと評価せざるを得ないだろう。

政府がPRする『医療情報の共有』のメリットは?

では、政府がPRするメリットはどこまで享受できているのか。まず、「医療情報の共有」についてはどうだろうか。X氏は、薬局はともかくとして、医療機関の側での体制整備が間に合っていない実情があると指摘した。

 

X氏:「今、デジタル庁が、全国の医療機関電子カルテ情報・電子処方箋情報を共有できるシステムを、来年の運用を目指して構築しています。

それが実現すれば、理屈の上では、たとえばAの医療機関が処方した薬の情報をタイムラグなしにBの医療機関で確認できるようになるはずです。

私たち薬局では、電子薬歴(※)を含め、調剤に関わるPCのシステムを導入していて、いろいろなところでDXが進んでいます。しかし、医療機関の場合、電子カルテさえ導入が進んでいないところもまだたくさんあります。また、仕様もバラバラです。

特に開業医においては、かなり高齢の方もいて機械の導入がされていないところもあるし、実際には相当長い時間をかけなければ統合が進まないのではないかと思います」

※電子薬歴:処方歴・副作用歴・指導歴・疑義紹介の内容等、調剤に関する患者情報を集積して電子的に記録したもの

厚労省の『マイナ保険証推進チラシ』で触れられていない『タイムラグ』の問題

政府は、マイナ保険証のメリットとして「医療情報の共有化で質のよい医療が受けられる」という点を強調している。

つまり、マイナ保険証の利用により、各医療機関や薬局において、患者本人の了承のもので過去の治療内容や処方された薬剤のデータを閲覧でき、スピーディかつ的確な医療が提供されるようになるという。

 

しかし、X氏は「最も重要な欠陥について、国民に対して説明していない」と批判する。

X氏:「マイナ保険証を利用した医療情報の共有には、大きなタイムラグがあります。

薬剤師の立場からすると、このことはマイナ保険証利用の大きな欠陥と言わざるを得ませんが、厚労省のマイナ保険証を推進するチラシでは一切触れていません。

薬局の薬剤師は、処方箋に基づいて調剤をするときは必ず、現在服用している薬剤の情報を参考にします。それができなければ、薬の飲み合わせや、類似の薬を含む重複投与の有無の判断に支障をきたしてしまいます。

ところが、マイナ保険証のしくみでは、集積されるデータが月単位のレセプト(調剤報酬明細)の情報のみだからです。

どういうことかというと、薬局が、調剤報酬の保険者負担分を請求するには、翌月の10日までに、患者さんの調剤実績の1ヶ月分のデータを専用のインターネット回線を用いて

国保連合会などの「審査支払機関」に送信するしくみになっています。

マイナ保険証で確認できるのは、その情報です。つまり、薬剤の情報が反映されるには、最短でも2週間、最長で6週間程度のタイムラグがあるということです。

例えば10月30日に受診した場合は、マイナ保険証のみでは9月30日までの薬剤情報しか確認できません」

「タイムラグ」は患者の命に関わる最大問題

薬局と薬剤師の立場からみて、このタイムラグは看過できない重大な欠陥だという。

 

X氏:「薬剤はその患者さんの病状によって変更されることがあります。

患者さんが別の病気で異なる医療機関に受診した場合、マイナ保険証のみでは、受診日によっては直近の情報を確認することはできません。

直近に出された薬で患者さんの具合が悪くなっても、何の薬かわからないのです。現時点で最も役に立つのはアナログデータの「お薬手帳」です。なんでも「デジタル」であれば優れているというわけではありません。

東京都のある区のホームページでは、そういう欠陥があることに触れず、「お薬手帳の提示も不要になります」とまで記しているところもあり、重大な問題です。

また、救急医療でのマイナ保険証のメリットの実証実験のことが報道されましたが、直近の薬剤情報が確認できなければ診断・治療が全くできないことになります。

残念ながら医師会、薬剤師会などの職能団体は、こういった問題についてのコメントをほとんど出していません。

マイナ保険証を利用しさえすれば質の高い医療が受けらるかのような、誇張とも取れる表現は、実態と著しく反しています」

 

「デジタル化」を推進する場合、問われるのはその内実である。「デジタル化」と銘打てばなんでも優れているわけではないこと、設計に欠陥のある「デジタル」がむしろ有害でさえあることは論をまたない。

現時点では、タイムラグが生じない点ではアナログな「お薬手帳」のしくみのほうが優れていると評価せざるを得ないだろう。

政府がPRする「なりすまし等による不正利用防止」のメリットは?

次に、X氏は、政府がPRする「なりすまし等による不正利用防止」のメリットについても、自身の実務経験をもとに疑問を呈する。

 

X氏:「私も職務上、マイナンバーカードを持っていますが、『顔認証』はかなり面倒でエラーもあるので、4桁の暗証番号を入力します。私どものグループの薬局を訪れる患者さんもそういう人が多いです。

もし、他人にマイナンバーカードを手渡して4桁の暗証番号を教えれば、その他人がなりすまして資格確認をパスできます。

また、薬局で40年近く働いていますが、『なりすまし』や『使い回し』は一度も経験がありません。

医師の処方箋をパソコンで偽造して持ち込まれたことが過去1,2回ありましたが、これはマイナ保険証とは関係がありません」

 

この『なりすまし』『使い回し』は実際にどれだけ行われているのか。編集部で信頼できる情報の有無を確認したところ、2023年5月19日の参議院の地方創生・デジタル特別委員会で、厚生労働省が『なりすまし受診』『健康保険証の偽造』などの不正利用の件数は2017年~2022年の5年間で50件だったとのデータを示していた。これによれば「年平均10件」ということになる。

 

なお、一時期、インフルエンサーの「ひろゆき」氏が、「保険情報の誤りや不正使用は年間600万件にも上っており、その処理のための経費は1000億円を越える」という情報を拡散して話題になった。

しかし、その出典とみられる「保険証確認のためのデータ交換基準に関する研究(総括研究報告書)」の原文を確認すると、その文章の直後に「多くは単純な保険証番号の間違い」「資格停止後の保険証の利用も少なくない」と明記されている。「なりすまし」「使いまわし」については一切言及されていない。

「医療DX加算」での「締め付け」も

今年6月に診療報酬の改定があり、「医療DX加算」(医療DX推進体制整備加算)という制度が始まった。薬局でのマイナ保険証の利用率が一定程度に達していれば加算を受けられるしくみになっている。

X氏は、この制度が薬局に対する「締め付け」になっていると説明する。

 

X氏:「加算される点数は、マイナ保険証の利用率が5%なら4点、10%なら6点、15%なら7点です。9月いっぱいで経過措置が切れ、10月から運用されます。

これは、マイナ保険証の利用率をあげるためだけの加算となっています。

先ほど述べたように、最近は、調剤報酬の加算をできる限り算定しなければ、収益が減り、経営が苦しくなる一方です。なので、私たちも、マイナ保険証の利用率を高めなければ、収益に関わります。

グループの各店舗の管理者に対しては、最低5%(4点加算)を目指して声掛けをするように指示しました。そのためのビラも作りました。

また、窓口では患者さんにマイナ保険証を持っているどうかを聞いて、持っていると答えた人に提出をお願いするということを必死になってやりました。

マイナンバーカードを作りたくない』という人や『マイナンバーカードを持ち歩きたくない』『個人情報を知られたくない』という人もいます。『なんで出さなくちゃいけないんだ』と怒る患者さんもいました」

 

マイナ保険証の使い方に不慣れな患者のために、本部事務局から薬局に顔認証付きカードリーダー操作の援助の使い方を教えるスタッフを派遣したこともあったという。

 

X氏:「私たちは、無用なトラブルは避けたいし、何より患者さんの意思を尊重したいと考えているので、本当はそういう働きかけはしたくないのです。

しかし、背に腹は代えられないので、患者さんへの働きかけをしました。結果として、私のグループの店舗ごとのマイナ保険証の利用率は、低い店舗で4%、高いところで15%でした。4%の店舗については10月から加算が受けられません。

来年1月からは、達成しなければならない利用率の数値が倍になります。利用率10%で4点、20%で6点、30%で7点になるということです。

私たちとしては、せめて4点を取らないと、収益が下がってしまいます。しかし、マイナ保険証を使いたくないという患者さんの気持ちはよく分かりますし、個人の意思は尊重したいと思っています。板挟みの状態です。

『DX』は本来、デジタル化の力を最大限活用し、利便性を向上させて人の暮らしの質を高めることをいうはずです。

しかし、今進められている『医療DX』は、多くの置いてけぼりになる人を生み出します。国による管理体制の強化と、企業によるビッグデータ収集と、市場開放を優先していおり、歪んだ構造になっていると訴えたいのです。

"大臣・官僚"ではなく"薬局で働く人たち"が『矢面』に立たされる

患者の側としては、マイナンバーカードの取得も、保険証のマイナンバーカードへの紐付けも任意のはずである。にもかかわらず、薬局に対し、「調剤報酬の加算」をテコにして、マイナ保険証の利用を促すための働きかけを事実上強制する手法がとられていることになる。

他方で、厚生労働省の発表によれば、9月末時点でのマイナ保険証の利用率は13.78%にとどまっている。この数字は、政府によるマイナンバーカードのメリットのPRが功を奏していないことを端的に示している。

実際に、薬局経営者で薬剤師であるX氏は、マイナ保険証の導入によるメリットがあることは一部認めてはいるものの、政府がPRするメリットとはズレがあると話す。

また、日本に暮らす人であれば全員が加入することになっている健康保険の資格確認の方法を、任意取得であるはずのマイナンバーカードに「一体化」するという制度設計についても、国民の理解を得られているとは言い難いだろう。

その状況下で、マイナ保険証の利用率向上のために、それを推進する担当省庁の大臣や官僚ではなく、薬局の経営者やそこで働くスタッフが患者とのやりとりの矢面に立たされている。X氏の薬局グループで起きていることは、薬局業界全体の問題であることが推察される。

10月27日の衆議院総選挙の後に発足する新政権が、マイナ保険証への一本化という現在の政府方針についてどのような態度を取るのか、注目される。

 

そもそも、薬局によっては「医療機関で健康保険証を提示して処方箋が出されているので、薬局ではそのつど提示する必要はない」というところもあるのに、なぜいきなり必ずマイナ保険証を薬局で見せなければいけなくなったのでしょう。

それなのに頻繁にマイナ保険証を提示させて「利用率」を上げることによって、薬局への加算が増える?

 

つじつまがあいませんよね。

 

そして「多くの置いてけぼりにされる人」というより、そういう情報をお金やポイントにするシステムだから抵抗しているのですけれど、ね。

「医療DXもどき」には囲い込まれたくないですからね。

 

 

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