水のあれこれ 344 「谷が鹿の角のように入り組む」

大崎駅から歩き始めた時に、空を見上げたら11月初旬だというのに入道雲が見えました。暑くなりそうと思った通り、東海道新幹線沿いの起伏のある場所を歩いているうちに汗が出てきました。

 

ようやく少し平らな場所になり、湘南新宿ラインの踏切を渡ると今回の散歩の2番目の目的地であるしながわ中央公園がありました。

新幹線の車窓に突如として現れたヘリポートに最初に気づいたのはいつだったか記憶にないのですが、近くを通るのが東急大井町線だったことを頼りに、あとで地図で確認するとどうやらこの公園内のようでした。

 

青山公園に隣接する在日米軍赤坂プレスセンターのヘリポートもそうですが、どんな緊急時に備えるのだろう、周囲はどんな場所なのだろうと気になっていました。

 

*古戸越川の流れていたあたりらしい*

 

「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」によると、現在の文庫の森や戸越公園はかつての熊本藩主細川家の戸越屋敷で、その池から古戸越川が流れ、しながわ中央公園のあたりを流れていたようです。

 

地図では平地にしか見えないしながわ中央公園ですが、北側から歩き始めると微妙に坂道になりトラックのある方が高くなっていました。

坂道から少し窪んだような場所にヘリポートがあり、東急大井町線の方へと少し下り坂のようにも見えます。車窓から一瞬で過ぎるよりも、実際にははるかに広い場所でした。

11月でしたが地域の盆踊りがそのヘリポートで開かれていて、その後ろの高架橋に新幹線が通過していくちょっとシュールな風景です。

すごい、新幹線見放題の場所だとしばらく立ち止まりましたが、住民のみなさんは盆踊りに夢中のようでした。

 

新幹線の高架橋を挟んで西側300mほどのところに文庫の森があり、そこが古戸越川の水源だそうで、そこからこのヘリポートのあたりでぐいと北東へと流れを変えて、目黒川右岸の住友不動産の高層ビルがある高台の手前でまた東へと曲がって海へと流れていたようです。

 

 

Wikipedia武蔵野台地は今までも何度も読んだのですが、「東部の舌状台地群と、その上にひろがる都心市街」に書かれていた「谷が鹿の角のように入り組み」が初めて目に入りました。

武蔵野台地は、その成因から、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫層が互層しており、この層面から地下水が湧き出し、台地上の中小河川の源流となっていることが多い。台地上に見られる池の多くがこのような成因である。また地名として「清水」を冠していることも多く、さらに、大きな寺社が境内として取り込んだり、名家や武家の庭園になっていた例もある。これらの河川によって武蔵野台地の東部は開析が進んでいて谷が鹿の角のように入り組み、多数の舌状台地から削り出されている。

 

まさにそんな場所にあのヘリポートがあるようです。

 

 

*おまけ*

このWikipediaのわずか数行の記載はなんと正確な表現なのだろう、これを記するのにどれだけの人がそこを歩き観察したのだろうと、ちょっと気が遠くなりました。

いやはや、世の中にはたくさんのすごい先人の記録があるものですね。

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

鵺(ぬえ)のような 26 正義の熱狂を車窓から思い出す

品川駅を出てすぐのS字カーブのあたりを歩きたいとずっと思っていたのは、新幹線の線路沿いの地形や地域の歴史を歩いてみたいと思う理由と、もう一つありました。

 

そのものずばり、第一三共研究開発センターのそばを歩いてみたいというものです。

夢は叶いましたが、怪しい人に思われないようにちょっとこそこそとになりました。

 

記憶があいまいになってはいるのですが、久しぶりに2018年の秋に新幹線に乗って岡山へ向かう車窓に、このビルを見つけたときに「ああここにあるのか」と思ったのでした。少し切ない思いと共に。

 

ずっと応援していた競泳の古賀選手のスポンサー企業だったからで、会場に観戦に行くと会社の応援の方々が熱いエールを送り、試合が終わるとそこに挨拶に向かう姿を何度も見ていました。

心強いだろうなと思っていたのですが、状況が変わったのが2018年のあの出来事でした。

その時には、製薬会社がスポンサーだったことは無実を証明するのには幸運だったと思って見守っていました。

 

現代の「科学的根拠に基づく医療」の大事な薬をつくっている会社ですから、当然キスをしただけで陽性になるという怪しい「量の概念」抵抗のない泳ぎに効果のある薬や成分なんて荒唐無稽だとすぐに証明してくれるのではないかと期待していました。

製薬であれば、科学的な臨床試験に基づいた考え方のはずですからね。

 

ところが、選手としての活動を規制されるだけでなく無実の証明のために莫大な費用と時間を費やすことになりました。

 

古賀選手だけでなく選手を疑い、屈辱的な検査を強いられ、そして一回の陽性反応で犯罪者のように扱われるそんな厳しい正義の熱狂的な運動の前には、科学的根拠に基づく医療の基本的な考え方では手も足もでないのかと絶望的になったのでした。

そのあとじきに未曾有の感染症に対する社会の混乱を見ると、「科学的根拠に基づく医療」というのはまだ医療に浸透し始めてわずか30年ほどなのだと痛感しましたが。

 

品川駅を出発して左に車体が傾きながら第一三共研究開発センターの横を過ぎる時には、いつも古賀選手と応援してくださっていた会社の方々の姿を思い出しながら、ちょっと切なくなります。

そして世の中の熱狂的な動きに逆らうことは難しいと、何もできなかった自分も情けなくなるのでした。

 

 

 

「鵺(ぬえ)のような」まとめはこちら

古賀選手と、アンチドーピング運動について考えた記事のまとめはこちら

失敗とかリスクについての記事のまとめはこちら

合わせて運動のあれこれもどうぞ。

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新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら

散歩をする 492 S字カーブを大崎から歩き始める

昨年11月は晩秋というのに熊の活動が各地で活発で近場の散歩になり、初旬に武蔵野台地の舌状台地を確認しながら新幹線を眺めようと出かけました。

大崎から西大井まで線路沿いの地域を歩き、西大井からは立会川の暗渠部分を歩こうという計画です。

 

 

*大崎駅から沢庵和尚の墓へ*

 

13時30分大崎駅で下車し、新東口から都道317号線へと出ると近未来のような場所です。

ビルの一角に昔ながらの鮮魚屋さんの建物が残っていて、なんだかホッとしました。

山手線の駅の中では恵比寿と同じく変貌が激しい大崎駅です。

 

目黒川を新幹線と山手線が並走して越えて行くのが見えました。

手前に架かる車道の橋は「居木橋(いるきばし)」だと初めて知りました。

 

その橋を渡り新幹線の高架橋をくぐると見覚えのある石碑があります。そうそう目黒川沿いに天王洲アイルまで歩いた時に見たのでした。

品川区指定史跡 官営品川硝子製造所跡

 日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治六年(一八七三)に東海寺境内に創設された興業社である。

 興業社は、明治九年(一八七六)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治十八年(一八八五)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治二十五年(一八九二)に解散した。

 昭和三十六年(一九六一)に官営時代の建物は取り方づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市明治村に移築されている。

 平成二十七年八月三十一日

 

明治から昭和にかけて、大崎からこのあたりは目黒川河口に開けた工業地帯のような雰囲気だったのでしょうか。

 

そのすぐ先に東海道本線が通り、その手前にある坂道を登ったところにある沢庵和尚の墓が今回の最初の目的地でした。

新幹線の車窓から見える公園とその先の林のような場所に、このお墓があるようです。

小高い場所に登ると、目の前を同じ高さで新幹線が通過していきました。乗客の姿も見えます。

新幹線の線路を見下ろすような場所と想像していたので、ちょっとびっくりしました。少し手前の権現山公園は切り通しの上にあるのですが、その直後から高架橋へと変わるあたりでした。

 

ちょっと怪しい人になりながら、数本の新幹線を眺めたあと満足して坂を下りました。

そういえば地図には「春雨寺」とあったけれど寺院らしい建物はありません。よくよく見ると、新幹線の線路のそばに建つマンションの1階がお寺のようでした。

 

 

*目黒川を渡り、ぐんとS字に曲がる*

 

沢庵和尚さんのお墓のある小高い場所から下りると、すぐに目黒川が流れ、その橋を渡ると目の前に第一三共品川研究開発センターの大きな建物と敷地があります。

品川を出た新幹線がこのあたりから左へと傾きながら、南西へと向きを変える場所です。

 

都内へ戻ってくる時には、あの武蔵小杉でS字状カーブから多摩川を渡ると「無事に戻ってきた」とホッとして、さらにこの目黒川の手前で第一三共あたりからのビル群の間を斜めに走り始めると「もうじき品川だ」と安堵感を感じる場所です。

ぜひぜひこのS字カーブのそばを歩いてみたいと思っていました。

 

目黒川に架かる三嶽橋を渡って新幹線の高架橋のそばの道へと向かうと、そこはほとんど人通りのない場所で、もしかすると怪しい人と思われたのか、正門の守衛さんがしばらく私の方を見ていることに気づきました。

ずっと高架橋を眺めながら歩いているのですから、まあ怪しそうですね。

湘南新宿ラインの線路を渡るためにいったん大崎方面へと高架橋の下をくぐり、また新幹線の線路の南側へ戻ると、そこは住友不動産の高層マンションになり、新幹線が落ちてきそうな角度で通過して行きました。

同じ高架橋の下側は横須賀線が通っているようです。

 

このあたりから上り坂になり、おしゃれな高層マンションの一角が終わると道を隔ててすぐに密集した住宅街、1970年代とか80年代ごろに開発された住宅地でしょうか、その中を新幹線沿いに歩いてみるとまたすぐに下り坂なので、目黒川右岸の台地の端っこのようです。

 

坂の途中に児童公園があり、そばを新幹線が何本も通って行きます。

一日中でもここで新幹線を見ていたいと思って立ち止まりましたが、公園で遊んでいる子どもたちは誰も新幹線を気に留めていません。まあ、そうですよね。

 

ここからが、品川を出て最初の住宅地の風景のようです。

新幹線の高架橋に沿って住宅地は続き、屋根が途切れたところに通過する新幹線が間近に見えます。

三木通りを越えると、また上り坂になりその手前に暗渠らしい場所があります。

しばらく歩くとまた下り坂になり、湘南新宿ラインの踏切にぶつかりました。

 

わずか1kmほどですが、地図では東海道新幹線の線路と大崎へと東側へ大きく弧を描きながら通る湘南新宿ラインに挟まれた場所です。

こんなに起伏が激しい場所に建つ住宅地のそばを、ぐいとS字に曲がったあとにすぐ通過していたようです。

 

*戸越銀座のまっすぐな谷戸の先だった*

 

武蔵野台地のどの舌状台地の部分なのだろうと気になり、そうだあの先人の記録ならわかるかもしれないと引っ張り出したらやはり答えが見えてきました。

 

三木通りは、あのテレビでよく紹介される長い戸越銀座商店街の続きにあって、なぜ長いかといえばこう書かれています。

戸越銀座商店街が奇妙なのは、碁盤の目のような街路ではなく、商店街の一本の道路だけがきれいな一直線を描いていることである。なぜ、この通りだけなのか。

 その解答が「地形」にある。きれいに東西に伸びた谷を商店街としていたのである。

(「水系と3Dイラストでたどる 東京地形散歩」竹内正浩著、p.102)

 

その延長にある三木通りの北側には、台地の端のような部分があり、それがあの新幹線の見える公園や住宅地だったようです。

 

そして弧を描くように通る湘南新宿ラインがかつて貨物だった頃、この台地の端っこを避けるように通っていたのでしょう。すぐそばに開けたJR東京総合車両センターの広大な敷地は、かつて高台から流れてくるいく筋もの水を受け止めた湿地のような場所だったのかもしれません。

 

最初に訪ねた沢庵和尚の墓がある場所も台地の端のような場所で、最初に東海道本線横須賀線の線路が海側に造られて、その後山手線、そして東海道新幹線が切り通しで通り、和尚さんのお墓はそれに挟まれるように残った場所のようです。

 

そしてS字状のカーブは、舌状台地と舌状台地の端っこを結ぶために斜めになりながら新幹線が通過しているのかもしれません。

 

 

*おまけ*

 

三木通りのあたりで見た川の痕跡(暗渠)も理由がわかりました。

上記の本の図を見ると戸越銀座の谷からの小さな川のようで、西側にある文庫の森のあたりから流れてくる古戸越川と合流し、さらに東側で品川用水と合流して目黒川の新幹線の高架橋そばで合流するようです。

S字カーブのあたりには舌状台地ゆえの豊かだった水の存在もあるようです。

 

 

 

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存在する 34 大崎から多摩川までの舌状台地

「すでに東海道新幹線の東京駅から多摩川まではほとんど歩きました」と豪語したのですが、実はまだ片側だけだったり気になっていた場所は歩き尽くせていません。

 

遠出をする時には品川駅から乗車することが多いのですが、出発するとすぐに左手の切り通しの上に公園のような場所が見えます。それを過ぎるとすぐに目黒川を超え、第一三共のビルと高層マンションのあたりをやや斜めに傾きながら過ぎると、急に住宅地になります。

地図では真っ平のように見える場所ですが、実際にはぎっしり建っている住宅の地面には上り下りの坂道があることが見えてきました。

 

そこを過ぎるとヘリポートがあり、東急大井町線を越えるとまたアップダウンのある住宅地が見えて、西大井の原の水神池のある地域になり、2021年におにぎりを食べながら新幹線を眺めた馬込二本木公園が見え、このあたりから新幹線と在来線が並走して真っ直ぐ多摩川まで切り通しの中を進む地域になります。

A席からの風景です。

 

だいぶランドマークは覚えているのに、なぜ一度歩いたことがある原の水神神社のあたりを車窓から見逃してしまうのだろうといつも思うのですが、最近、もしかすると武蔵野台地の舌状台地だからではないかと思うようになりました。

 

武蔵野台地の舌状台地の先端部が何度もあるこの地域は、斜面を覆い尽くした住宅地の様相が似ているので、なかなか風景を覚えづらいのかもしれません。

 

2018年に久しぶりに岡山を訪ねるのに乗った新幹線の車窓から見えた息を呑むような住宅地の建て方に、都心でもまだまだ平屋建てが多く、農地も残っていたのにいつの間にか崖っぷちに家を建てるようになった半世紀を思い返しました。

 

圧倒されるぎっしりの住宅地の中に少し起伏が見えて、ああこれが舌状台地なのだと印象に残りました。

 

東海道新幹線が造られた頃は、どんな風景があり、どんな生活があったのだろう。

舌状台地はどうやってその存在が見えにくくなっていったのだろう。

まだ歩き尽くしたとはいえないほど知らないことばかりです。

 

 

 

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ブロッコリー

深谷のねぎ畑は壮観で美しく、そして岡部駅へ向かう途中のブロッコリー畑もそして本庄市の備前渠用水のそばのブロッコリー畑も10月下旬の秋の日差しの中でそれはそれは美しいものでした。

 

あちこちを散歩をしていると、ほんとうにブロッコリー畑が増えたことを感じます。

最近はほぼ毎日食べています。

カリフラワーは子どもの頃からあり、それに対してブロッコリーを食べ始めた記憶は1980年代頃だったかと記憶をたどるのですがはっきり思い出せないままでした。

 

で、いつものごとくWikipediaのブロッコリーを読んでみたら答えがすぐにわかりました。

日本へは、明治時代初期に観賞用に渡来したが、長く普及しなかった。第二次世界大戦後になって本格的に栽培が始まり消費が拡大して、昭和50年代になってから健康的な食生活に関心が集まり、栄養価が高いブロッコリーが注目されて食用として広まった。

Wikipediaブロッコリー」「歴史」

 

1970年代後半ごろだとたまに買うぐらいのまだ珍しさで、しかもカリフラワーの方が馴染みがあったので少々青臭く感じるブロッコリーはおそるおそる買ったという記憶です。

 

その「生産・流通」に「日本のカリフラワーとブロッコリーの収穫量の推移(1973-2012年)」があり、記憶がそれほどこのグラフと違っていないことがわかりました。80年代のブロッコリーのデータはなくて、90年代に入るとカリフラワーと逆転していくようです。

 

常温でも外見が変化しないカリフラワーに対し、ブロッコリーは収穫後直ちに低温保存しないと変色が進んでしまうことから、保存技術が未熟だったブロッコリーの流通量は、カリフラワーに大きく水を開けられていた。しかし低温流通技術の開発や家庭における冷蔵庫の普及により、1980年代頃からブロッコリーの生産・流通が急速に拡大。

Wikipediaブロッコリー」「生産・流通」

 

いつ頃からか夏場にも国産のブロッコリーが出回るようになって驚いたのですが、あっという間に1年中見かける野菜になって重宝しています。

食べる側の好みだけでなく、産地リレーで野菜を安定供給するための技術や流通の進歩があったことが急激に消費されるようになった背景のようです。

 

 

ブロッコリー畑のそばを散歩すると、1980年代ごろからの記憶と重なって大地が生み出す魔法を見ているような気分ですね。

 

 

*指定野菜と特定野菜*

 

 

突然ブロッコリーについて整理したくなったのは、最近ニュースで目にしたからだったのですが、何のニュースだったっけと検索したらこれでした。

 

ブロッコリーも"仲間入り"指定野菜って?

 

日々の食卓やお弁当を彩ってくれるブロッコリー。国民生活に重要だとして国が位置付ける「指定野菜」の1つに加わることになりました。実は、指定野菜に新たな"仲間が加わるのは、およそ半世紀ぶりなんです。なぜいま新たに指定されることになったのでしょうか。

(「サクサク経済Q&A」NHK、2024年1月30日)

 

「2026年度より消費量が多く国民生活に重要な指定野菜として適用となる」(Wikipedia)

 

生まれてこのかた離乳期以降、一日も絶えることなく食べてきた野菜ですが、指定野菜と特定野菜があることを知らないまま来てしまいました。

 

 

*指定野菜に追加は半世紀ぶり*

 

NHKのその記事に、半世紀ぶりに指定野菜に追加になることが書かれていました。

 

指定野菜になると何が変わるんですか?

農業は天候によって収穫量や価格が左右されやすい側面があります。

指定野菜になると、価格が下落した際、大規模な生産者に支払われる補助金が手厚くなります。

このため、安定供給につながることが期待されているんです。指定野菜に新たな野菜が加わるのは、1974年にばれいしょ(じゃがいも)が追加されて以来、実におよそ半世紀ぶりなんです。

 

なぜ半世紀ぶりなのか。

おそらく当時の農産物輸入自由化への動きや、補助金で国内産業を保護することに反対する圧力が高まった時代の雰囲気だったのではないかとつながってきました。

当時は「これからは競争力の時代」のような感じでしたからね。

 

大雨や天候不順に大きく影響を受けたり反対に豊作すぎても価格が暴落してしまうのに、多少の値上がりはあってもずっと野菜を食べることができたのは、「野菜産業の健全な発展と国民消費生活の安定を目的とした法律。野菜法」で守られてきたのだと言えそうです。

 

おかげで生野菜も安全にいつでもたくさん食べられるようになったし、もう一生食べられないかと思った海外の野菜まで国内で生産されるように多様な野菜を1年中食べることができる夢のような時代になりました。

 

こうした生産から流通までに携わるさまざまな仕事やそれを法律で守るための仕事も、そして農地を守る利水や治水の仕事もまさに専門性の高い知識や技術が必要であり実業ですね。

 

 

観光とは無縁のような場所を歩いていますが、どの場所からもつぎつぎに想いを馳せることが湧き上がってきて飽きることがありません。

野菜についても本当に知らないことばかりだったと、やり残した課題が増えていくのでした。

 

 

 

 

*タイトルの下の「植物」のタグをクリックすると、植物について書き溜めた記事がまとめられています。

 

 

 

水のあれこれ 343 「漸く」

備前渠用水路の年表を読んでいた時に、Wikipediaに書かれている1828年(文政11)の用水路の復旧について「漸く取り入れ口の復旧が開始される」という一文でつまづきました。

 

「漸く」はなんと読むのでしょう。

難しい字でもなく「漸次」で日常的に目にしていたのに読めない、しかもさんずいなのはなぜだろうと。

本当に日本語は難しいですね。

 

検索したら案外と読み方が知られていなさそうな説明が多かったことに安心しました。

 

そしてそのものずばり「意外と知らない『漸く』の読み方と言葉の語源」(@DIME アットダイム)という記事を読んで、なるほどと思いました。

 

「漸く」とは?

「漸く」は書き言葉として使うケースが多く、初めて見たときは読み方に悩む人が多い漢字です。さんずいに斬るという形からも、読み方や意味を想像しにくいといえるでしょう。まずは、漸くの意味や読み方について解説します。

 

「漸く」の意味は「やっと」「かろうじて」

漸くは、「ようやく」と読みます。一般の会話表現で使われるときは、「やっと」「なんとか」と表現されることが多いことでしょう。畏まった場面や関係性では使われることもありますが、聞く機会があまりなかった人もいるかもしれません。

漸くには、「かろうじて」という意味もあります。かろうじては漢字で「辛うじて」と書き、達成が難しく辛いことをどうにかやり遂げたという意味です。

「漸く」は時間経過や労力の意味合いが強い言葉ですが、かろうじてにはそれ以外の意味もあります。かろうじてはギリギリの点数で試験に合格したときや、危ない状況をすんでのところで逃げ切ったような場面でも使われる言葉です。

 

 

*なぜ「漸く」はさんずいなのか*

 

なぜ「さんずい」なのか、興味深い説明がありました。

 

「漸く」の語源は「水を斬る」

漸くに使われている「漸」の字には、いくつかの由来があります。水を意味するさんずいと「斬る」を組み合わせた漢字であることから、水の流れを変えて(斬って)導いていく様子を語源とする説があるようです。

そのほか、昔中国にあった「漸(漸水)」という川の名前が由来とする説もあります。川の名前から、少しずつ進んでいく意味が生まれたようです。川の流れや、川が広がっていく過程に関係しているのかもしれません。

漸には、水が染み込むという意味もあります。一説によると、「漸」の成り立ちは「車を作る際に木を切る様子」です。切った木材に水がゆっくりと染み込むところから、「次第に」という意味が生まれとする説もあります。

 

 

「川の流れや、川が広がっていく過程に関係しているのかもしれません」

大地の表面を定まることなく水が流れ、そして川になり大河になり海へと流れていく様子を昔から観察し続けてできた言葉でしょうか。

「昔」とは何千年もの昔から。

ちょっと気が遠くなりました。

 

私が「漸次」という言葉を知ったのは、点滴量を少しずつ減らしていくといった使い方だったような記憶があるのですが、この場合は「ようやく」というよりは「だんだんに」という意味合いですね。

 

散歩をするようになって、ふだんはその由来を考えることもなくきてしまった言葉や漢字に立ち止まる機会が増えました。

 

 

 

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散歩をする 491 備前渠沿いに利根川によって袂を分かち合った地域へ

散歩をするようになって、水辺にはさまざまな案内板があることを知りました。

それを読むだけで、まるでそこが歴史資料館であるかのようにその地域の歴史や地理が浮かび上がるように見えてきます。

 

これもまた博物館制定法以降1950年代から60年代ごろの各地に多彩な博物館ができた時代の熱意とか、あるいは地方分権と郷土を見直すという流れによるものでしょうか。

それともその後の公共事業は無駄という世の中の雰囲気への地道な警鐘だったのでしょうか。

 

備前渠用水路についての案内と石碑を後にして、ひとつ目の備前渠橋から土手の方を眺めました。

土手を貫通した通水路に利根川の水が引き込まれている場所が見えます。その様子を目におさめて、満足して歩き始めました。

 

地図では備前渠用水路の右岸側に歩道が描かれていますが、草に覆われた道でした。10月下旬とはいえ暑かったので、草むらを歩くには軽装すぎました。残念ですが、一本離れた農道のような道から備前渠用水路を眺めながら歩くことにしました。

 

どこまでも大きな空を遮るものがなく、整然と畑が続いています。

青々と大きな葉っぱが育ち始めているのはブロッコリーのようです。それが途切れると、今度は一面のネギでダイナミックな風景ですね。

途中、「農山漁村地域整備交付金(農業集落排水事業) 仁手・下仁手・久々宇クリーンセンター」という施設がありました。どんな設備で、大事な農地を守っているのでしょう。ほんとうに知らないことばかりです。

 

 

*水害を避けて移住*

 

帰宅してから「久々宇」はなんと読むのか検索したら歴史に出会いました。

久々宇村(くぐうむら)

利根川南岸の沖積低地の自然堤防上に位置し、東から南は仁手(にって)村および本庄宿。北は利根川を隔てて上仁手村。寛永年間(一六二四〜一六四四)以前は上野国に属していたが、烏川の変流によって武蔵国の所属となったとされる(上野国志)。永禄七年(一五六四)五月一七日の鎌原宮少輔に宛てた武田信玄書状写(鎌原系図)に、武田方によって「本庄、久々宇迄放火」と見える。

コトバンク、「日本歴史地名体系」)

 

コトバンクにはもう一つ群馬県の久々宇村について書かれていて、両毛線国定駅岩宿駅間にある笠懸町久宮(くぐう)の説明にこんなことが書かれていました。

村名は武蔵本庄(現埼玉県本庄市)の利根川沿いにあった久々宇村の村民が度重なる水害で移住してきたことによると伝えられる。

 

袂を分つのは、川の両岸に分断されるだけではないこんな歴史もあったのですね。

 

 

利根川右岸の群馬県の飛び地と養蚕*

 

途中で備前渠用水路を渡り、利根川の堤防とにはさまれた地域へと入りました。

途中で牛の匂いがしてきました。いつ頃からの牛舎でしょう。

堤防を左手にただただ畑を歩きましたが、鳥の囀りと時々草がかすれる風の音。ほんと満ち足りた散歩です。

 

少し先の集落が近づいてきて、埼玉県本庄市から群馬県伊勢崎市の「境島村」に入りました。

特に風景が変わるわけでもなく県境をはさんで家があるのですが、どんな地域の関係があるのでしょう。ちょっと不思議ですね。

 

堤防沿いにある島村蚕のふるさと公園に10時に到着しました。サイクリングの人たちが立ち寄れるように整備された公園のようです。

この近くに田島弥平旧宅や桑府館があるようですが、8時前に本庄駅近くのホテルを出てからずっと歩いたのでそこを訪ねるのはあきらめて、利根川の水面を眺めて過ごすことにしました。

 

島村の村内には利根川が流れており、その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ。弥平が生まれた文政5年は利根川大洪水のあった年で、彼はまさにその最中に生まれたと伝えられている。島村では19世紀初頭に蚕種製造業が始まっており、文政3年の大洪水を機に河原が開墾されて桑畑へとなり、さらに発達した。

Wikipedia「田島弥平」「生涯」

 

「烏川の変流によって武蔵国に」とか「その流路の変更によって、島村は時期ごとに二分あるいは三分されてきた歴史を持つ」とさらりと書かれていますが、理不尽で過酷な生活は想像もつきません。

 

 

*伊勢崎市のコミュニティバスで飛び地から利根川左岸へ*

 

この公園を10時35分に出る伊勢崎市のコミュニティバスに乗りました。

途中、埼玉県の中の群馬県境島村という飛び地の中のさらに埼玉県の飛び地という不思議な場所の横を通過しましたが、何が違うのかもわからない場所です。ここは「本庄市」なのか「深谷市」なのか見落としました。

 

地図ではこの県道は県境を越えても「県道258号線」と表示されています。

群馬県道としても指定されているが、実質埼玉県道というこれまた不思議な道でした。

 

バスはいったん深谷市に入って「上武大橋南バス停」を回ったあと、利根川を渡りました。

洪水で袂を分つような地域のコミュニティバスは県境もものともせず、案外と融通が利いているようです。

 

利根川左岸に入ってすぐの「上武大橋北バス停」で下車しました。「境平塚」「境米岡」という地名ですが、ほとんど堤防付近と変わらない高さのように見えます。

早川を渡るあたりから緩やかに上りになり、水田地帯から住宅地へと変わりました。

 

新田荘資料館があります。「新田荘」「しんでん」ではなく「にった」だろうと想像がついたのは、高校時代の勉強の成果ですね。

残念ながら臨時休館で、そのまままっすぐ落ち着いた街並みの世良田地域を歩くとその先にまた広い水田地帯が広がっていました。

周囲は「境」や「新田」がつく地名に囲まれているようです。

 

世良田の水田、水源はどこからだろう。利根川との歴史はどんな感じだろう。稲穂が一面に広がる風景を見てみたい。

また歩きたい場所を見つけてしまいました。困りましたね。

 

水田地帯の真ん中にある世良田駅から東武伊勢崎線に乗って、2日間の充実の散歩が終わりました。

 

 

 

 

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行間を読む 202 備前渠用水の石碑と年表

備前渠用水路のそばに立つ大きな石碑は一見新しく見えたので戦後のものかと思ったのですが、裏に回ると昭和7年(1932)のもののようです。

 

わずか90年ぐらい前の方々は、難しい漢字や言葉を使われますね

碑文の一番上に禾黍油油のような4文字が彫られているのですが、難しい字体になっていてまず読めません。

碑文自体は昭和初期なのでおおよそ読めましたが、当日の写真を見直すと風化したり光の加減で読めない部分がたくさんあるのでここに書き写すことは断念しました。

 

最初の頃はここから現在の羽生市のあたりまで灌水していたが途中で深谷のあたりまでに変更になったらしいこと、以前は2本の水路だったものが明治19年に圦樋を造り、さらに大正7年利根川改修の際に国庫負担で第3樋門が造られたが、利根川の砂礫ですぐに埋まりやすくその土砂を除くための労働や減収で疲弊していたこと、この頃はまだ利根川本流の流れが変わるため取水口を造ることができなかったようなことが書かれているようです。そして昭和5年、ようやく堤防を貫くように新導水路を開削した、という内容でしょうか。

 

 

*二つの年表をつき合わせてみる*

 

備前渠(びぜんきょ)用水路土地改良区のホームページに、「主な歴史」の年表がありました。

 

慶長9年(1604年) 伊奈備前守忠次により開削

万治2年(1659年) 福川を境に上下流に分かれ上流部を備前渠と呼ぶようになる

寛保2年(1742年) 寛保の大洪水により元圦が壊滅

天明3年(1783年) 浅間山の大噴火

寛政5年(1793年) 幕府により元圦が壊滅

 

現代まで使われている用水路ではありますが、その元圦(もといり)は何度も変更されてきたようです。

 

「幕府により元圦が壊滅」とは何を意味しているのだろうとWikipediaの「沿革」を合わせて読むとこういうことでした。

1793年(寛政5年)ー烏川の河道の上昇に伴い、元圦の締切。下流に水が来なくなり、水争いや裁判が行われた。

利根川が運ぶ土砂により、しだいに取水量が減ったのでしょうか。

 

「いやだちゃ 行きたくないちゃ 黒森の普請 川普請 度々困る」と残されたような川普請(かわぶしん)の労働に駆り出されることへの大変さとか、水争いのために江戸の幕府評定所まで出かけなければならず、途中、敗訴して獄死という無念さ江戸時代から昭和まで続いた水争いといった各地の話を思い出しました。

 

*用水路が復旧するまでに35年*

 

備前渠用水土地改良区の年表では、次に以下のように書かれています。

文政10年(1827年) 取水口を利根川右岸に移設

文政11年(1828年) 用水路復旧

 

幕府が元圦を壊してから復旧まで35年も待つことになったのですから、現代のインフラの驚異的な速さの復旧と比べると気が遠くなりますね。

 

Wikipediaでは以下のようにこの用水路復旧について書かれていました。

1828年(文政11年) 漸く取り入れ口の復旧工事が開始される。その後43日間で通水する。取水口は利根川や烏川の乱流域に位置するため、その後二度も変更工事が実施されている。

 

 

昭和5年の改修*

 

昭和5年の改修について、備前渠用水土地改良区の年表では「本庄市山王堂へ元圦を移設」とだけ書かれていますが、Wikipediaによると「1921年(大正10年)の大水害の発生に伴い、元圦(取水口)の改修が行われる」とあります。

1921年の水害を検索すると四国などの大水害については見つかるのですが、利根川についてはわかりませんでした。

 

その後、戦争の時期をまたいで「1958年(昭和33年) 県の排水改良事業が着工される。取水口や導水路(暗渠・開渠工)などの抜本的な改良に着手する」こととなり、1965年(昭和40年)に完了したようです。

 

堤内に見えた第3樋門から堤防をくぐって備前渠用水路が滔々と水を運んでいる風景は、途中の長い長い改修の歴史によるものだったことを簡素な記述の年表から知ることになり、そして碑文の内容を少し正確に読むことができました。

 

「漸(ようや)く、復旧工事にたどりついた」

昔の人は、何度この思いに耐えてきたのでしょう。

 

 

 

*おまけ*

 

備前渠用水路土地改良区のサイトを読み、この事業にもムルデルが関わったことを知りました。

埼玉県初の煉瓦造り水門

1887年に本庄市久々宇地内に移設された取水口(現在の第3樋門は、オランダ人土木技術者ムルデルが設計した埼玉県初の煉瓦造り水門で、当時の最新技術が導入されており、煉瓦造り河川構造物の先駆けになっています。

 

また用水路の橋に使われた煉瓦は渋沢栄一が関わっていることも書かれていました。

明治20年(1887年)、渋沢栄一らにより「日本煉瓦株式会社」が設立されました。

明治28年(1895年)に、深谷市上敷免の工場で製造した煉瓦を輸送するための専用鉄道線が開通しました。

備前渠用水路を横断するこの鉄橋は、プレートガーター橋と呼ばれ、隣接する煉瓦積みのアーチ橋とともに「国の重要文化財」に指定され、専用線敷地は歩行者専用の遊歩道として親しまれています。

 

 

江戸時代から明治時代へ、それまでの技術や経験が生かされ、人々の意識が大きく変化しながら驚異的に変化した時代だったのだと興味が尽きません。

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

ムルデルについて書いた記事のまとめはこちら

水のあれこれ 342 備前渠用水路

氾濫原だった集落を抜けて堤防の上に出ました。

青々とした川面が見えると思ったのですが河川敷は防水林で覆われていて、どこが利根川かそして並行して流れる御陣場川かもまったくわかりません。

 

林を見下ろすように堤防の上を歩いていると、少し先に水門らしき場所が見えました。案内板も見えるので、おそらくあそこが現在の備前渠用水の取水口でしょうか。

近づくと、轟々と水の流れる水路がありました。

残念ながら案内板の文字は日に焼けて読めませんでしたが、ここを見ることができただけでも満足です。

 

堤防の内側に続く水路の近くに石碑があるので近づいてみました。

備前渠用水改良工事竣工記念碑」で、そばに「世界かんがい施設遺産に備前渠用水路が登録されました」と書かれていて、「水源林と備前渠用水ー第3樋門ー」という大きな案内板もありました。

 

備前渠用水路とは

 

備前渠用水路は慶長9(1604)年に関東郡代伊奈備前の守が江戸幕府の命によって開削した埼玉県でも最古級の農業用水路です。この用水路によって北武蔵利根川右岸地域は一挙に潤うことになりました。現在でも当時の面影を残す「素掘り」の区間が多く周辺住民からは「備前掘」の愛称で親しまれています。

 

備前渠用水路

⚫︎取水源      利根川

⚫︎幹線水路延長   約23km

⚫︎受益面積     1,400ha

⚫︎取水量(最大)  9.185m3/秒

⚫︎設備概要     取入水門、第3樋門、矢島堰

 

案内図を見るともう少し北西に取入水門があり、ここは取水口ではなく第3樋門のようです。

受益面積や取水量がどれだけすごいのか全く想像がつかないのですが、その案内板を見ると本庄市から熊谷市にかけて利根川右岸地域に何本も用水路が分岐して潤しているようです。

 

 

利根川についての説明も書かれていました。

利根川の水源

利根川の水源地は、群馬県みなかみ町です。

坂東太郎と言われた利根川

利根川は、関東平野を北西から南東へ、長野県、群馬県、栃木県、茨城県、埼玉県、千葉県東京都に跨って流れ、その流域面積は約16,840㎢で、日本最大です。全長は約322kmで、日本第二位(一位は信濃川)の長さがあります。

日本三大暴れ川の一つに数えられていて、古くから、何度も氾濫と流路の変更を繰り返し、現在に至るまで様々な治水事業が行われています。

 

そうでした。私も「流域の一員」でした。

 

河道が定まらないなんて怖いことを耳にすることも無くなったのも、水争いの悲惨な話も過去の記録になったのも、歴史の中ではごく最近のことですね。

 

 

案内板や石碑がなければどこでも見るような水路ですが、17世紀初頭に伊奈備前守はどうやってここから現代にも使われるような用水路の開削を見定めることができたのでしょうか。

 

訪ねてみてよかったと思いながら、真っ青な秋空に水路沿いのコスモスが美しい備前渠用水に沿って歩き始めました。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

仕事とは何か 18 虚業と実業

ブログを書き始めてから、いつか頭の中を整理して書いてみたいと思っていたのが今日のタイトルです。

 

渋沢栄一氏の「我が人生は実業にあり」の「実業」はどんなイメージだったのだろうと想像しているうちに、少し雲が晴れてきました。

 

 

コトバンクの「精選版日本国語大辞典」の②の説明が、私の「実業」のイメージに近いものだったかもしれません。

①⇒じつごう(実業)

②農業、工業、商業、水産などのような生産、製作、販売などをする事業

 

「じつごう」と読んで「(仏語)。身・口・意で善意などの行為をすること」という意味や、「まめわざ」と読んで「実務的、実用的な仕事。裁縫など、生活次元の仕事」という使い方もあることを初めて知りました。

 

1960年代初頭生まれの私にとっては、「実業高校」「進学校」あたりで漠然と線引きがあるぐらいの言葉でしたが、「生活上で必要な『地に足ついた仕事』」という感じでしょうか。

医療や福祉も「実業」かと思っていましたが、よくよく考えれば明治以降の新種の「実業」ですね。

 

「世界大百科事典」の「実業学校」の説明に、「明治初年以来、鉱工業、農業、商業などの産業を実業と総称する習慣が生まれ」とあるので、渋沢栄一氏の「実業」はこの時代の雰囲気から来ていて、私の「実業」はそこから生まれたさまざまな仕事も含まれるようになった時代の影響でしょうか。

 

いずれにしても「生活上必要で『地に足ついた仕事』」とそれ以外の仕事があるという漠然としたものでした。

あの頃、もっとしっかりと考えておくべき言葉でした。

 

 

1970年代ごろになると経済的余裕から、芸能・娯楽や観光あるいは飲食業など「生活上に必要な仕事」の意味も広がったのかもしれません。

そしていつの間にか縁の下の力持ち的な仕事も格段に増え、してみたい事を仕事にして地に足ついた生活をすることも可能になってきました。

ただ、まだ私にとってはさすがにユーチューバーとか活動家を実業に含めることはできないのですが。

 

 

虚業とは何か*

 

職業に貴賎はないとはいえ、「虚業」としていろいろと思いつくものはあります。

「性的な労働」あたりはまだまだ気持ちの問題を整理している段階です。

 

「精選版日本国語大辞典」の「虚業」によれば、「実業に対して、堅実でない事業をいう語」とあり、何をもって「堅実」とするか時代によっても変化するので禅問答のようですね。

それに対して「デジタル大辞泉」ではもう少し踏み込んで、「投機相場などのように、堅実でない事業」とあり、ああやはりと思いました。

 

そんな私が投資と「投機」の違いを少し理解できたのは、「国債は堅実そうで素人でも何とかできそう」というあたりからでした。

 

 

*「堅実ではない仕事」とは*

 

経済にうとい私ですがまるで占いか何かのように感じるのは、経済学というのは仮説をそのまま社会に実験していくかのようで、さらに失敗が社会に対して与えた影響に責任をとる仕組みがないと感じることが増えたからでした。

 

おそらくさまざまな分野にリスクマネージメントが浸透し始めて、信念やイデオロギーを超えた問題解決方法を模索する社会になったからかもしれません。

リスクマネージメントとはシステムで事故を防止することや、失敗から再発防止の教訓を得ることが基本ですから、占いのような投機を基本とした経済界とは相性が悪そうですね。

 

最近では「政治家」も虚業だと思うようになりました。

失敗を認めてより良いものにしていくとリスクマネージメントが浸透しにくそうなのも、派閥を政策集団と言い換えるのも、誰かの思いつきの一言が政策になって国会を通さずに閣議決定してしまうのも、堅実な仕事ぶりとは全くいえないですからね。

 

政治活動に使っているとか「引き出しに保管していた」というお金、もしかして投機へ使ったのではないかと疑いたくなることが今までもありましたからね。

ああ、だから「政治活動資金」には領収書も不要でしかも非課税になっているのでしょうか。

そして国民にまでもっと貯蓄がないと老後は生きていけないから自分で投資して稼げと政府に言われるようになりました。

いやはや。

 

 

「骨太の方針」とか「背骨」とかなにかと最近かっこ付きの「文学的表現」の政策が多いのも、のらりくらりと言い抜けする滑っとした態度も、政治家が投機を中心にした虚業になってきたからかもしれないと思えてきました。

 

 

明治時代の先覚者たちの生きた時代の「実業」とは何をさしていたのでしょう。

 

 

 

 

「仕事とは何か」まとめはこちら

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