下水道についてのあれこれ 11  16%から100%へ

瑜伽神社のそばに、旦過市場の間を流れてきた神嶽川が緩やかに北側へと蛇行して紫川に合流する場所があります。

行く前に地図で想像していたのは、1980年代ごろの目黒川のように川は汚くて臭いものと感じていたような流れでした。

 

合流部に近い神嶽川の右岸がわはおしゃれなレンガ張りの道があり、その先にスッと建っている小倉城天守閣とお城の公園の緑を背景に、紫川との合流部が見えました。

なんと美しい風景でしょう。

今回は残念ながら小倉城周囲の堀の水はどこからきたのか確かめる体力がなかったのですが、この小倉城の前の紫川と神嶽川の合わさるあたりの美しさを確認できただけでも満足しました。

 

 

*「紫川マイタウン・マイリバー整備事業」*

 

神嶽川の始まりを訪ねるのにJR日豊線に乗って城野駅に向かう途中、紫川を2回渡りました。

最初に河口付近を渡り、そのあと南小倉駅を過ぎたあたりでもう一度渡ります。

小倉城の近くでは近代的な都市河川の様相でしたが、わずか1.5kmほど上流では住宅や学校などの間を静かに流れる川でした。

 

Wikipedia紫川によると、二級河川紫川水系で全長22.4kmとあります。

小倉市の南の山の間から始まり、分水嶺で周防灘の方へ流れずに真っ直ぐ関門海峡へと流れている川でした。

 

1990年に「紫川マイタウン・マイリバー整備事業」が開始され、100年に1回の大雨に耐えられるような治水を進めると同時に、道路や公園、市街地整備などを一体的に整備していった。この1990年代の紫川の整備の目的の1つとして、北九州市ヒートアイランド現象対策の1つで、玄界灘から吹き込む海風を、効率よく市街地へと流入させる意図もあった。

 

都内でもヒートアイランド対策に海風を利用していることを耳にすることが増えた時代でした。

だからビルがあると案外涼しいのでしょうか。

いろいろなことが考えられてきた時代ですね。

 

 

*下水道普及率が16%から100%へ*

 

Wikipediaの「地理・自然」に下水道普及率が書かれていました。

しかし、1960年代まで周辺の工場や自宅から排水が紫川に流れ込み、水質汚染が進んだものの、1970年代には下水道の普及が進んだ。1969年度に市全体で16パーセントだった下水道普及率は、1977年には50パーセントを超え、21世紀初頭現在は100パーセント近くに達した。その間に水質の改善に伴い、紫川には再びアユやシロウオが遡上し、上流ではホタルが舞うようになった。

 

 

「水辺はゴミや生活排水を処理する施設に近い感覚」だった時代から半世紀、あの小倉城周辺の美しさも、この下水道普及無しにはなかったことでしょう。

 

 

旦過市場も火災から免れたお店は営業していて、お客さんもいました。

瑜伽神社から魚町アーケード街を通ると、小さなお店が健在で、賑わいがありました。

もっと歩いてみたいと思う小倉の街でした。

 

帰りの新幹線からまた車窓の風景を眺め続け、ただひたすら川と海と開作を眺めた3日間が終わりました。

 

 

「下水道についてのあれこれ」まとめはこちら

水の神様を訪ねる 62 漁民と旅人の神社、小倉の瑜伽神社

安部山の水神社を地図で見つけたときに、安部山公園の方から小さな流れが東水町の分水嶺からの流れと合流して竹馬川になり周防灘へと流れ込んでいたので、この辺りの治水の神様だと想像していたのですが全く違う御由緒でした。

 

せっかくなので、安部山からの流れも見てみようと水神社の東側へと歩き始めました。

じきに住宅の間にコンクリート張りの急峻な水路があり、安倍山へ向かって道はどんどんと上り坂になっていきました。今でこそ住宅地として拓けているけれど、車がないと生活できそうにないアップダウンです。そしてこのコンクリートの頑丈な壁がなければ、おそらく住宅地にはできなかったことでしょう。前日歩いたセメントの街の歴史を思いながら歩きました。

 

小倉南区が一望できるような安部山公園から今度は下り坂を歩き、国道10号線で小倉駅行きのバスに乗りました。以前写真で見たことがあるロングバスが通過していきました。乗ってみたかったのですが、快速だけの路線のようです。

 

紺屋町バス停で下車し、小文字通りを小倉城の方向へと歩くと新旦過市場では現場検証の作業がまだ続いていました。

そこから100メートルほど先にある神社を目指しました。

 

 

*瑜伽(ゆが)神社*

 

神嶽川が紫川に合流する手前に、瑜伽神社があります。

読み方もわからず初めてみる神社名でしたが、小倉城の前の川が合流する辺りにあるので水の神様かもしれないと思い、訪ねてみることにしました。

 

ビルの間にありましたが、大きな木が2~3本あるので神社だとわかりました。

 

瑜伽神社後由緒

 

一、御祭神

   倉稻魂神(うかのみたま)

   大国主神

   事代主神

 

一、後由緒

 北九州市小倉北区船場町鎮座の瑜伽神社は遠く奈良朝元正天皇の御大養老二年の創始と云われ御社名を蛭子神社と申しておりました。

 此の川は紫川と神岳川の合流点にあり、小倉の街の発生の地でもあり規矩の高浜浦と呼ばれたところであります。

 奈良朝以来、太宰府と結ぶ宿駅として、交通の要地であり万葉にある

 豊国の規矩の長浜行きくらし

   日の暮れぬれは妹をしそ思ふ

の歌によって明らかであります。

 此の地は当時規矩の高浜浦として漁民の居住するところで漁民及び旅人の守護神として蛭子神社が祀られ土地の崇敬を集めて居りました。後、仏教の伝来に伴い全国各地に寺院の建立を見るに至り、慶長年中、細川忠興小倉城改修の砌、高浜浦は現在の長浜の地に移転することとなり、当社に隣接して蓬莱院なる寺院が建立され、寺院の境内神社の如き形となり又稲荷信仰と結び付いて、倉稻魂神を合祀し、社名も瑜伽神社と変わりました。

 其の後、明治六年神仏分离の際、一社として独立し現在に及んで居ります。創祀以来、祭祀は厳修され、春秋二季の祭典は今日に至るまで絶ゆる事なく続いております。然し太平洋戦争の終末と共に人心混乱致しまして、この由緒ある神社も次第に荒廃しこの侭に放置するに忍びない現状に至りましたので町内居住民を主体として崇敬者相寄り寄進を仰ぎ、昭和四十六年に社殿並びに拝殿を完全修復し今日に至って居ります。

       昭和四十六年六月  神社総代

 

 

小倉城を目の前にして運河のような神岳川と紫川の合流部にあるので、治水の神様かと想像していましたが、これまた想像とは全く違いました。

 

「漁民及び旅人の守護神」

漁民の守護神なので、水の神様とも言えそうですね。

そして、無事に二泊三日の遠出を終えることができそうな時にふさわしい場所に出会いました。

 

それにしても、私が小学生の頃というのはあの戦争の後の人心混乱が社会にまだまだあった時代だったのですね。

散歩をするようになって、そういう記録が街の中に残されていることを知りました。

 

 

「水の神様を訪ねる」まとめはこちら

水の神様を訪ねる 61 安倍山の麓の水神社

今回の散歩の出発直前になって変更した計画で訪ねた西水町と東水町は、分水嶺になりそうな起伏が感じられる地形でした。

東水町から周防灘へと流れる小さな川を地図で追っている時に、安倍山の麓にその名も「水神社」がありました。

西水町と東水町の境界のあたりから数百メートルほどですから、訪ねてみることにしました。

 

国道10号線と県道264号線の三叉路を渡り、安部山の方へと向かいました。

遠目から見ると安部山の下三分の一ぐらいまで住宅地として開発されているようで、水神社はその途中のようです。地図でイメージしていた「麓にある神社」というよりは、ちょっとしたハイキングになりそうでした。

 

静かな住宅地に入ると少しずつ上り坂になり、幼稚園がありました。その先が神社のようです。

安部山の森を背に建てられた美しいお社で、鳥居の前には大きな石柱に「水神社」とだけ書かれていて、境内の右手から小さな水の流れがありました。

 

 

御由緒がありました。

水神社略縁起並びに当霊池の由来

 

祭神 水波能女神

人皇四十八代称徳天皇(女帝)の御代(今より約千二百余年前)和気清麿卿宇佐八幡宮に勅使として参向、神勅をそのままに奏せしため弓削道鏡の怒にふれ足の筋をたたれ大隅の国に流刑に処せられし時卿の御船途中神明の御加護にや豊前宇佐郡長州楉田村に着く。池に跪き相馴れしこと養ひ畜るものの如く清麿御大に喜び、此の鹿に乗りて宇佐宮に再び詣り給い神前にひれ伏し切に己が罪なきことを祈り給ば八幡宮大神告げ給うに、是れより北西に規炬郡北和山(今の足立山)の麓に温泉あり汝これに浴せよと清麿卿感激、肝に銘じ、神託に従つて急ぎ来り温泉に浴しぬれば数日ならずして両足元の如くに立ちぬ。因つてその山の名を足立山と云う。其の後の温泉涸れぬと依つて其の所を湯川と(湯乾のなまりたるもの)、又この少し東に小川あり現今もおつげ川と云う(神託川のなまりたるもの)。其の湧き出る池(初めは湯)を称美し給い一生水と名づけ給い其のほとりに水の大元の神、水波能女神を祠り給う是れ当神社の創始なり。

 

地図で確認すると、足立山はここよりももっと北側のようです。三叉路のあたりが湯川という地名でした。

 

山から湧き出て近隣の田畑を潤す泉のために水神社が建てられたのかと想像していたら、全く違いました。

神勅をそのまま告げたら怒りに触れて足の筋を絶たれ、お告げの通りに訪ねた温泉でその傷が癒えたという話のようです。

怖い話ですが、現代もまたどこでも起きていそうですね。

 

境内の東側に、柵に囲まれた小さな水溜まりのような場所がありました。そこから水が湧いて先ほどの小さな流れになっていてました。水路は樹木に囲まれ、草花がよく手入れされているのがわかります。木陰のベンチに座って一休み。

こういうのを「極楽、極楽」というのかなと思いながら、しばしその美しい水路を眺めました。

 

流れのそばに「湯川一升水池水利組合」の石碑があり、住民の手によって守られていることが記されていました。

 

 

 

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仕事とは何か 14  古臭い価値観がはびこる

1世紀ほど前に人類の為にと志た青山士(あきら)氏ですが、その当時はどのような風が世界に吹いていたのだろうと気になって時々考えています。

「人類の為に」、それまでの小さな社会から、ヒトが「人類」という共通の世界に生きていることに気づいたことは、本当にすごい変化だったと思います。

その概念が根付かなければ、社会階層を越えることもできず児童の権利とか児童福祉法、そして母子保健法は広がらなかったかもしれませんね。

 

19世紀から20世紀にかけて「われわれは人類である」と気づいたことが、その後の驚異的に変化する時代の基礎になったのかもしれないと、つくづく思うこの頃です。

 

*時代が揺り戻される*

 

ところが、戦争の始まり方さえ古臭いと思うようなことが増えました。

 

それぞれの仕事の実際を理解してもいないのに、専門性が高くないと他の職業を見下し、また新たな社会階層を作ろうとする人がいることも古臭さいと感じることのひとつです。

 

「底辺職」とその特徴が書かれていました。

 12種類の職業を平均年収とともに紹介しており、各職業が底辺職扱いされる理由について述べつつ、「社会にとって必要な仕事」「必須の職業」などと擁護した。ランキングは上から「土木・建設作業員」「警備スタッフ」「工場作業員」「倉庫作業員」「コンビニ店員」「清掃スタッフ」「トラック運転手」「ゴミ収集スタッフ」「飲食店スタッフ」「介護士」「保育士」「コールセンタースタッフ」だった。

 底辺職の特徴について、(1)肉体労働である、(2)誰でもできる仕事である、(3)同じことの繰り返しであることが多いーと説明しており、デメリットについては、(1)平均収入が低い、(2)結婚の時に苦労する(3)体力を消耗する・・・を挙げた。

 

「就活情報サイト「底辺の職業ランキング」に批判殺到 12の職を羅列・・・運営会社は削除し「事実関係を確認する」」(JCASTニュース、2022年6月29日)より

 

 

 

30年ぐらい前から「ガテン系」としてこうした仕事を持ち上げ、「自由な働きかた」とか非正規雇用を持ち上げてきたことが、こうした仕事の「専門性を言語化し、労働条件を改善する」ことを妨げてきたのではないかと思うのですけれど。

 

「一般的に底辺職と言われている仕事は、社会を下から支えている仕事です。そのような方がいるからこそ、今の自分があるのだということには気づきましょう」と書かれている。

(同記事、強調は引用者による)

 

ああ、やっぱり。

1980年代ごろからの自己愛に向かう社会に育ち、学びとか気づきといった言葉を使ってふわ〜っと生きている。そんな人が想像した仕事なのでしょう。

 

社会を構成する仕事の多くは肉体労働であり、一見同じようなことを繰り返す必要があり、適切なオリエンテーションを受ければ新人から達人まで、経験を積みながらその仕事の専門を深めていく。

 

それが理解できずに、「底辺職」なんて造語を作り出すのは古臭い感覚だなあと感じたのでした。

 

この30年ほどが「仕事」に関してもちょっと変な方向へと行ってしまった時代で、その揺り戻しがきているからこそ、古臭いと感じたのでしょうね。

 

 

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行間を読む 154 「終戦ではなく休戦である」

出発直前のニュースがなければ、城野(じょうの)駅という場所も知らないままだったと思います。

地図を見ると今では、4月にこの駅で下車した時に印象に残った広々とした真新しい通路と横断歩道橋、そしてその向こうに安部山の緑が美しい風景が目に浮かびます。

 

散歩の記録をまとめるにあたってWikipedia城野駅を読んだところ、こんなことが書かれていました。

当駅北側には戦後アメリカ軍にて接収された城野補給基地があり、朝鮮戦争の際この基地が拠点となった。当時駅よりこの基地へ引き込み線が敷設されていたが、その戦争により戦死した兵士の遺体がこの基地に集められ、この引き込み線を通じて神戸港・横浜港へ搬送されていた。朝鮮戦争後、この基地は陸上自衛隊小倉駐屯地の城野分屯地となり、2008年3月24日付で閉鎖された、現在、引き込み線の痕跡は一切残っていない。

(強調は引用者による)

 

神嶽川の水源地で美しい山の麓のあの静かな住宅地が、朝鮮戦争に深く関わりのある場所だったとは。

私が生まれる10年ほど前の時代、この辺りはどんな風景だったのでしょう。

 

 

朝鮮戦争ベトナム戦争と同様に、子どもの頃から耳にする機会の多い戦争でした。

 

改めて朝鮮戦争を読み、愕然としました。

終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は2022年現在も戦時中であり、南北朝線の両国間、および北朝鮮アメリカ合衆国との間に平和条約は締結されていない。2018年4月27日、板門店で第3回南北首脳会談が開かれ、2018年中の終戦を目指す板門店宣言が発表されたが、実現には至らなかった。

 

時々ニュースになる韓国と北朝鮮あるいはアメリカとの緊張状態も、終戦ではないからですね。こんな当たり前のことなのに、現在進行形の戦争については全体像を見失っていました。

 

朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、1948年に成立したばかりの朝鮮民族の分断国家である大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の間で生じた、朝鮮半島の主権を巡る国際紛争

ソ連崩壊を受けて公開された機密文書によると1950年6月25日にソ連ヨシフ・スターリン書記長の同意と支援を取り付けた金日成首相率いる北朝鮮が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国に侵略戦争を仕掛け(国際政治史を専門とする五百旗頭真も奇襲と呼ぶ)勃発した。分断国家朝線の両当事国、北朝鮮と韓国のみならず、東西冷戦の文脈の中で西側自由主義陣営諸国を中心とした国連軍と東側社会主義陣営諸国の支援を受ける中国人民志願軍が交戦勢力として参戦し、3年間に及ぶ戦争は朝鮮半島全土を戦場として荒廃させた。

 

この2月からの報道を追っていると、なんだか子どもの頃の戦争を見ているようで古臭い感覚に襲われることがあったのですが、朝鮮戦争の始まりとほぼ同じですね。

 

70年以上前に始まった戦争は終わっていなくて、同じような火種が世界中にあるという感じでしょうか。

時々、年表を見直すことが大事ですね。

 

それにしてもWikipedia城野駅に、冒頭の記録を残した方はどんな方だったのでしょう。

 

 

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水のあれこれ 247  西水町と東水町

JR日豊線小倉駅を出るとすぐに紫川を渡り、弧を描くようにその左岸側を走ったあともう一度紫川を渡り、山の方へと近づいたところにある城野駅で下車しました。

8分ほどでしたが車窓から見える小倉の中心部は美しく整備されて、ビルと住宅街がほどよく棲み分けられている印象でした。何よりも、子どもの頃の北九州工業地帯の公害のひどい場所というイメージが幻のようでした。

 

今回の散歩の最後は門司港のあたりを歩く予定でしたが、出発する直前に小倉をニュースで耳にしたことで変更しました。

旦過市場」「新旦過横丁」、どのあたりだろうと地図を眺めると細い川の両側に商店街や飲食店が連なった場所でした。

マップでは名前も表示されないほどの小さい川ですが、そこから北西に250メートルほど下流で紫川に合流し、その対岸が小倉城です。

 

もしかしたら何世紀も城への輸送に利用された運河だったのかもしれないとWikipedia旦過市場を読みました。

ちなみに旦過とは修行僧の雲水が宿泊する場所で、東曲輪の町屋敷と小笠原家ゆかりの宗玄寺や開善寺などとを結ぶ橋がかけられ、城下町の南玄関の香春口に通じる。

大正時代のはじめ、隣接する神嶽川から魚の荷上げ場として成立し、その後、田川・中津方面からの野菜の集積地となったことで市場としての機能が形成された。

予想とは違いました。

歴史を推測するのは難しいですね。

 

 

*西水町と東水町*

 

出発直前の火災のニュースで、その水路のような場所が気になりました。ずっとたどっていくと、城野駅の南東数百メートルのところで小さな二つの流れが合流して旦過市場まで流れていて、その二つの流れの水源はやはり城野駅の近く、国道10号線のあたりのようです。

 

神嶽川(かんたけがわ)の流れの始まりを見てみたいと地図を眺めていると、西水町と東水町という地名がありました。「水」とつく地名には反応しますからね。

なぜ「西水」と「東水」なのだろうと地図を眺めているうちに、ここが分水嶺のように見えてきました。

西水町のあたりから水色の線は北の関門海峡方面へ、東水町からは南東の周防灘方面へと流れているようです。

 

ここを実際に歩いてみることにしました。

 

*神嶽川の始まりと西水町、東水町*

 

城野駅を出て国道10号線沿いに歩くと、神嶽川の左側からの小さな流れの始まりがスーパーの横にありました。コンクリートの中の小さな流れで「排水路」かと思うような様相です。

しばらく歩くと、自動車学校の横に同じようなコンクリート張りの水路がありました。

 

小倉の中心部からはそれほど高低差を感じなかったのですが、右手は安部山がぐいと近づいています。大雨が降ると小さな流れは姿を変えて、ここから紫川の河口付近まで溢れていくのかもしれません。

旦過市場も「2009年7月の中国・九州北部豪雨、および2010年7月の豪雨では浸水の被害に見舞われた」と書かれています。

 

その神嶽川の右側の小さな流れの始まる場所の国道10号線の反対側に、西水町があります。

JR日豊線の線路を渡ると、右手が小高い場所でゆっくりと西水町へと上り坂になっていました。

 

その先に住宅街が広がり、三方へと道が分かれています。その一角に石碑がありました。

なんと記されているのか読めなかったのですが、上部に水と書かれているようにも読めます。

その横に「東水町・町内会住居案内図」があり、ここが西水町と東水町の境のようです。

そしてその間に「水町公園」「水町集会場」がありました。

どんな水の歴史がある街なのでしょう。

 

先ほどの小高い場所の麓から二ヶ所ほど水源があり、ここから南へと流れているようでした。

地図にはない水路が住宅のそばを流れ、小さな畑もありました。

 

歩いているだけでは高低差がよくわからないのですが、やはり分水嶺のような場所で、ここからの流れは周防灘へと流れているらしいことがわかりました。

 

 

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散歩をする 346 下関から関門トンネルを通って小倉へ

渡場バス停から下関までのバスの車窓で見逃すまいと思ったのが、地下を山陽新幹線関門トンネルが通っているあたりでした。

前田バス停から数百メートルのところ、ちょうど関門橋との中間のようです。

ずっとGPSをつけて眺めていました。それまでの平地があった場所から小高い場所ギリギリの海岸線を道路が通っているあたりで、新幹線が新下関駅を出るとじきに前のめりになるように地下に入り、ふわりと地上に出た時には小倉駅が目前の長いトンネルがこの海の下を通過している場所です。

 

さて、今回は山陽本線関門トンネルを通過することも計画の一つでした。

2018年にブラタモリ関門トンネル内の排水を放送していて、以来、一度は実際に乗ってみたいと思っていました。

 

予定より早い11時31分の小倉行きに乗ることにしました。

向かいのホームから、山陰本線が発車していきました。いつかはあの路線にのってぐるりと山口を回るのだと、旅の途中なのに次々と計画が浮かんでしまうのは困ったものですね。

 

白い車体に青の線の列車が入ってきました。山陽本線だけれど門司からは鹿児島本線で、その車体のようです。

次々と乗客が乗り込み、満員です。ここから門司までは8分、門司から小倉までは7分ですから立って車窓を見ることにしました。

 

先ほどの小瀬戸の上を通過しました。

関門トンネル(山陽本線)の「地理」には、「小瀬戸は昭和初期に埋立工事が行われ、閘門で締め切られて、彦島と本州はほとんど地続きとなっている」とありました。

 

じきに地下トンネルへと下がりはじめました。

窓に顔をくっつけるようにして外を眺めましたが、下がっていく感じしかわかりません。外は真っ暗です。そのうちに上り始める感覚になりあっという間に地上に出ました。

対岸の彦島がすぐそばに見え、また関門海峡が真っ青で美しい風景です。

門司駅は想像していた古い国鉄の駅ではなく、現代風のスタイリッシュな建物で、停車中にその駅前広場からまっすぐ海岸までおしゃれな道が続いているのが見えました。

 

最初の計画では門司港のあたりを歩く予定でしたが、出発直前に変更してこのまま小倉へ向かいます。

 

小倉駅に到着しました。新幹線の高架橋からとも違う風景で、あの八幡製鉄所の建物も山陽本線からは見えませんでした。

ここでJR日豊(にっぽう)本線に乗り換えるために駅構内を歩いたら、駅そばのお店の多さに驚きました。

検索したら、そばではなく「駅うどん」のようですね。

さっき下関駅ごぼう天そばとちらし寿司を食べたばかりだというのに、ふらりと立ち寄りたくなる雰囲気です。

 

いけない、いけない、わき目をふらないようにして日豊線に乗り込んだのでした。

 

 

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生活のあれこれ 7 大瀬戸と小瀬戸

今回のただひたすら川と海と開作を見る散歩も三日目になり、ほぼ予定していた開作は見ることができました。

10時半に下関に到着して、夕方まで時間に余裕はたっぷりとあります。

当初の計画では3時間ほど下関の街を歩く予定で、まず、下関水道資料館を訪ねようと思っていました。その施設は小高い場所にあることが地図で想像できましたが、バスの車窓に海岸沿いから突然と見上げるような場所になる下関の街を実際に見ると、今回は体力的に無理そうとあきらめました。

疲労も蓄積している三日目ですからね。

 

下関駅の西側100mほどのところに下関漁港と市場があります。

高低差のなさそうなそちらへ行くことにしました。

 

そこに小さな海峡のような場所があり、そこを歩くのも計画の一つでした。初夏のような日差しの中歩き始めるとじきに、小さな海峡が見え海岸線への入り口がありました。

途中まで歩いてみたのですがどうやら漁港の敷地内のようで、本当は立ち入り禁止区域のようです。あわてて引き返し、しばらく他に海岸への道がないか歩いてみたのですが、観光地の関門海峡側とは違って、この辺りは一般の人が歩く場所ではなさそうです。

幸いにしてバスの本数が多いので、バスで下関駅へと戻りました。

 

疲れは暑さだけでなく空腹からもきているのだと、良い香りに誘われて駅そばのお店に入りました。

ごぼう天そばに惹かれて入ったのですが、なんと小さなちらし寿司があります。ついつい頼んでしまいました。紅生姜と椎茸が効いていてなんとも家庭的な味でした。

 

元気が出たので計画を早めて小倉に向かおうと、山陽本線のホームへと向かいました。

小高い場所にあるホームから、先ほど断念した漁港付近とその対岸の海岸が一望できます。

平地がわずかな海岸線沿いに、いろいろな工場や住宅があるのが見えました。

 

地図ではその小さな海峡のような場所の名前がなくて、対岸は「彦島」とあるので島の間の海峡なのだろうか、それとも関門海峡とは別のルートのために人工的に開削したのだろうかと気になりました。

 

 

*大瀬戸と小瀬戸*

 

Wikipedia関門海峡の「地理」を読んで、そこもまた関門海峡の一部であることを知りました。

本州と九州を隔てる水路を大瀬戸(おおせと)といい、彦島と本州を隔てる水路を小瀬戸(こせと)または小門海峡(おどかいきょう)という。

(中略)

一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡という。

 

相対した陸地間の、特に幅の狭い海峡。潮汐(ちょうせき)の干満により激しい潮流が生じるのが「瀬戸」ですが、目の前の海は大瀬戸・小瀬戸ともに凪のように静かに見えました。

 

海上交通」の中に、「潮流の速さ・向き(潮の干満により1日4回潮流の向きが変わる)」とあります。

潮流の向きが変わる、海峡周辺にはどんな生活があるのでしょうか。

彦島のさらに西側には小さな島も点在しています。行きたいところが次々と出てきますね。

 

「約6000年前-本州と九州が分断され、海峡が形成される」(Wikipedia)

それ以降、どういう暮らしや歴史があるのだろう。海上交通の要衝であり、重要だからこそ歴史に翻弄された生活があったかもしれないですね。

 

 

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散歩をする 345 渡場バス停から下関までバスの車窓を眺める

寝太郎堰から古開作まで見ることができ、渡場バス停付近でタクシーを下車したのが8寺20分ごろでした。

下関行きのバスは9時7分ですから、まだ十分に時間があります。付近を歩いてみることにしました。

 

先ほどまで真っ平らな干拓地を歩いていたとは思えないほど、山の斜面に家や畑があり、その向こうに開作が見えます。

四世紀ほど前はこの辺りが海岸線で、海の際に集落がポツリとあったのだろうか。そんなことを想像しながら、厚狭川を渡る橋の手前にあるバス停で時刻表を確認し、橋の方へと歩いてみました。

国道190号線は交通量も多く、厚狭川橋を歩いていると振動でぐらりと揺れます。

 

橋の真ん中で上流側を見ると渓谷の間から厚狭川が流れてきているような風景ですが、海側を見るとただただ広い干拓地が広がっています。

その向こうに、うっすらと見える山は九州の門司あたりでしょうか。

この辺りが「後潟上」で、「山陽小野田市西高泊」という国土交通省の表示がありました。

 

4月下旬の朝だというのに夏のような暑さです。

木陰でバスを待っていると、もう一人乗客が現れました。

ここから53ヶ所の停留所に止まって下関まで行くバスはどんな雰囲気でしょうか。海側の席に座れるかなと思っていると、大きなバスが到着しました。乗客は私たち二人だけでした。

 

国道190号線沿いに走り、一旦山合いへと入ると、そこには段々畑と水田が広がっていました。

溜池があり、水路があり、小さな土地に合わせた水田があります。田植えが終わった直後の水田と、これから田植えを待っている水田がありました。

各地の水田を見て歩くようになって、どこでも感動するのがその整然さです。

干拓地のようなまっすぐな畦道も、段々畑や棚田のような不定形の農地のそばの畦道もきれいに草刈りがされています。

美しさの理由に、この整然とした仕事があるのだと思うようになりました。

 

ああなんと美しい風景だろうと見入っていると、海岸へと出ました。ここからはほとんど、海のそばを下関まで走るようです。

昨日は雨の中の散歩でしたが、今日は真っ青な海と空の一日になりそうです。

初めてみる周防灘は、私の海の原風景である瀬戸内海とも少し違って、重なり合う小島がほとんどないからでしょうか、大きな湖のようです。

 

埴生(はぶ)バス停のあたりに青年の家があり、そのさらに海側には干拓地が広がってビニールハウスがありました。何を作っているのでしょう。

小さな川を渡ると、その先にまた干拓地が広がっていて麦が青々と育っていました。工領(くりょう)開作のようです。

ここで初めて他の乗客が乗り、一緒に乗った方が下車しました。

下関まで1人とか2人のままなのかなと思っていると、バスは少し内陸へと入り、海上自衛隊小月(おづき)航空基地のあたりからたくさんの人が乗りはじめ、あっという間に満員になりました。ほとんどが高齢の方で、通院でしょうか。

 

建物の間から時々見える海岸沿いには干拓地があるのが見えます。

またさらにバスは山沿いへ入り、山陽本線よりも内側を走って木屋川を越えました。

昨年6月に佐賀に向かう時の「小月、川」、そして帰りの「小月のあたりで干拓地」とメモした場所でした。

日清カップラーメンの工場があり、また広々とした平地が続きます。

鮮やかな黄色い車体の山陽本線が通過し、その向こうに堤防が続いています。

新幹線では一瞬で通過した風景でしたが、そこに住んでいるかのように一緒にバスに揺られていく風景はまた違いますね。

 

右手は小高い山が迫ってきて、左手は干拓地の平地が海沿いに続いています。

おそらく、小さな山でも悪石地形で人を寄せ付けないような土地で、開発を免れたのでしょうか。そのおかげか、山が迫ってくるような場所でもゆったりと感じるのかもしれませんね。

 

競艇場、工場そして造船所としだいに海の産業の街の風景に変わり、長府市に入りました。

工場地帯の歩道に植えられているツツジと街路樹の緑が鮮やかです。

「城下町長府」という表示がありました。ここで多数、乗り降りがあり、満員のまま下関へと向かいます。

 

山陽本線だとここから山の間を下関へと走るのですが、バス路線は海岸沿いを走ります。県立豊浦高校の白壁が終わったあたりから海がみえ、対岸が近づき始めました。

 

初めて見る関門海峡です。

唯一メモしたのは「橋脚が海に無い」だけで、ただひたすら開門海峡を眺めました。

本州と九州を隔てている海は対岸が近く、ここを大型船が通り、関門橋がかかり、山陽本線と新幹線の海底トンネルがある。

ここ一世紀から二世紀ぐらいの変化そして十七世紀から始まった周防灘干拓を考えて圧倒されているうちに、ぐるぐるとビルの間を通って10時25分に下関に到着しました。

 

1時間ちょっとのバスの散歩が終わりました。

 

 

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行間を読む 153 盆地という表現

厚狭を歩いていると、甲府盆地広島の三次そして奈良の王寺の風景を思い出しました。

 

川が周囲の山々から流れ込み、それが合流してまた山の間を通って下流の地域へと流れていく。

以前は「盆地」というと寒暖の差が激しいぐらいしか思い浮かぶことがなかったのですが、川や水路をたどるようになってその水がどんな地形をつくっているのかが気になるようになりました。

 

そして山の間を流れる川の先、下流もまたこの盆地の水の流れに大きく左右されることもあることでしょう。

厚狭では山を抜けると、河口に開作があります。

水害や水不足、あるいはそれぞれの地域で水に関連した施設を造ることも大きな影響を与え合うことでしょうから、それぞれの地域の水争いの歴史にはどんなことがあったのでしょうか。

 

Wikipedia盆地に何かまとまっているかと読んでみたら、案外あっさりとした内容でした。

 

 

*「盆地」が現れたのは大正時代に入ってから*

 

その少ない説明を読んでいくと、「日本における盆地」にこんなことが書かれていました。

日本の辞書や教科書に「盆地」が現れたのは大正時代に入ってのことであり、その定義は国内の盆地内にある平野や都市に視座を置いた人文地理的なものとなっていた。戦後に文部省地理調査所によって定められた上記の定義も、それを継承したものとなっている。山に囲まれた低い平坦地という日本の風土を想定して定められた「盆地」は、地形学の学術用語であるBasinやValleyの訳語に当てられたが、Basinは山地に属する盆状地質構造、海盆、流域などを指す、外縁や地質などを含めた窪んだ地形全体を捉えた用語であり、盆地床の地形について規定していない。このため、周囲に山がないパリ盆地や、海に面した流域であるアマゾン盆地など、日本の定義では盆地とは言えない場所を「盆地」と読んでいる例は多く、国際的な自然地域名称と乖離する場合もある。

 

「日本の辞書や教科書に『盆地』が現れたのは大正時代に入ってのこと」

それまでの時代はこういう地形をなんと呼び、どのような概念を持っていたのでしょう。

昔の人に盆地はどのような風景に見えていたのでしょうか。

 

関東ローム層という用語も1950年代に入ってからでしたし、生活している地面のことを表現され始めたのは、人類の歴史ではまだ日が浅いのでしょうか。

 

 

 

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