数字のあれこれ 80 世論調査という占いのようなもの

内閣支持率が48%に上昇した」というニュースに驚きました。だってつい最近まで30%台だったような気がしたのに、次から次へと息もつかせないほど「こんなことをします」とアピールするだけでこんなに回復するものなのかとびっくりですよね。

 

まだ終息もしていない感染対策についても社会の雰囲気を見誤っているし、国民からの問いかけに対してはぬめっと、のらりくらりとかわされてばかりですからね。

 

 

反対に、あの未曾有の感染症が広がり出した頃の対応ではこの国への信頼があった時期なのに、不思議と支持率が下がったのはなんだったのでしょう。

 

最近では次々と打ち上げ花火のような政治家の発言や行動が続くので、これはもうこの内閣の断末魔の叫びのようなものだろうと思っていました。

 

なのになぜ支持率が上昇するのだろうと、そのニュースを検索しました。

有料記事なので読めないのですが、冒頭の部分だけで「ああ」と思いました。

日経新聞社とテレビ東京は24~26日に世論調査をした。岸田文雄内閣の支持率は48%で2月の前回調査から5ポイント上がった。内閣を「支持しない」と答えた割合は44%で、7ヶ月ぶりに支持率が上がった。

首相のウクライナ訪問や日韓首脳会談などが支持率を押し上げた。支持率は22年8月までは55%を維持していた。22年夏から年末にかけて自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一…

 

(2023年3月27日、日本経済新聞)(強調は引用者による)

 

「…」のあとがちょっと読みたいですけれどね。

 

とりあえず、日経新聞の支持率は2月の時点でも43%もあったということでしょうか。

今回の「48%」はあくまでも「日経新聞世論調査」であって、占い方が変わればまあ予言も変わりますね。

 

政治家の方々はこの数字を額面通りに受け止めるものなのでしょうか。社会にはもっと違う世界があると思うのですが。

この世論調査の数字を必要としているのは誰なのでしょうか。

 

 

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

 

 

 

 

 

落ち着いた街 32 一世紀後の風景が想像できるかどうか

このところ渋谷や新宿など子どもの頃から馴染んできた街の風景が忽然となくなっていくことに、自分の人生の記憶もなくなっていくような不安定さを感じています。

いえ、思い返せば渋谷も路地に入れば1960年代は平屋建てかせいぜい2階建でしたし、西新宿は高層ビルもない淀橋浄水場跡地だったのですから、当時60代の方達もまた見慣れた街並みがなくなっていく葛藤があったのですね。

 

仕事帰りや週末にふらりと立ち寄っていた百貨店が軒並みなくなり、生活習慣も大きく変わるものだと感じています。

ただその分、交通機関の利用も便利になったり、バリアフリーや防災面での対応が進んで安全にもなりました。

 

大きく変化する中で、このところ思い出すのが「あの木は私が植えたの」と街の設計をされた方のことです。

成長するハナミズキとその街の何年後、何十年後のことを考えていらっしゃったのでしょうか。

 

あれから三十数年ほど経って賑やかに人が集まる街になり、ハナミズキが静かに存在感を持っています。

あと60年ほどしたらあの街はどんな風景になるのでしょう。懐かしい路地も大通りの賑やかさも残りながらあのハナミズキも残っているといいですけれど。

 

明治神宮の森不毛の原野だった代々木に森があるのも、誰かが将来のために木を植えてくれたからこそ一世紀後の私たちは緑の中をゆったりと歩けるのですからね。

 

安全や快適な生活のための再開発や木の伐採も必要だと思うけれど、どうしても数十年ごとにその地域の風景や生活習慣まで大きく変化してしまうので、せめて一世紀、二世紀と変わらないものも大事にした街ができるとうれしいですね。

 

風景が大きく変わると、自分の生きてきた時間までがあっけなくなくなってしまうような気持ちになる年代になったということでしょうか。

 

 

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水のあれこれ 285 沼になった将監川、印旛沼干拓と長門川

布鎌惣社水神社を訪ねた時に渡った川ですが、標識に書かれていた名前を「将藍川」と見間違えて覚えていました。

散歩の記録を書くのにWikipediaで確認したところ、正しくは「将監川(しょうげんがわ)」でした。

 

Wikipediaの長門川を読んで、その将監川の流れが穏やかに見えた理由がわかりました。

将監川(しょうげんがわ)は、千葉県印西市印旛郡栄町の境に位置する利根川の旧派川である。かつては「枝利根川」とも呼ばれた。栄町西付近にて利根川より分派し、栄町和田の長門下流にて長門川に合流する河川であった。1912年(大正元年)に洪水対策の一環として、利根川の第二期改修工事において将監川締め切り工事が行われ、以降は長門川のみ接続している。現在は名称上「川」として親しまれているのもの、利根川水系の指定河川には含まれておらずさながら「湖沼」として扱われている。一例として、栄町にある将監川の流路に沿った林歩道にも「湖沼緑地」という名称が付せられている。

(強調は引用者による)

 

一世紀以上前に沼のような状態になっていたようです。

 

 

印旛沼干拓長門川*

 

締め切り工事前の枝利根川と呼ばれていた頃は、利根川から分かれて長門川へ合流してまた利根川へと流れていたようで、西地区は枝利根川利根川に挟まれた場所で中洲か島のような場所だったのでしょうか、堤防守護の水神社を必要としたことにつながりました。

 

その合流する長門川の「上流」に印旛沼があります。

 

W字のような印旛沼の南側を初めて訪ねたのが2018年に京成佐倉から京成臼井まで印旛沼沿いに歩いた時で、その頃に初めて印旛沼の南側は新川で東京湾につながり、北側は利根川につながっていることを知りました。

 

印旛沼干拓地の風景に背中を押されて3週間後に倉敷の干拓地を訪ね、以来あちこちの干拓地を訪ねています。

2018年の年末には利根川河口を訪ねた帰り成田線で安食を通過した時に夕日に輝く印旛沼周辺の干拓地を見ることができました。

 

北は利根川につながり、南は東京湾につながる印旛沼干拓地をもっと歩いてみたいと思いながらなかなかルートが決まらないまま日が過ぎていました。

 

ようやく今回その長門川近くを少し歩き、改めてWikipediaの説明を読みながら地図を眺めました。

簡潔にまとめられている説明なのに「印旛沼水系」を理解することが難しいから、どこを歩いたら良いのかわからないままなのだと改めて思いました。

長門川(ながとがわ)は、千葉県印西市印旛郡栄町を流れる利根川水系一級河川利根川と北印旛沼とを連絡する役割を果たす。それゆえ短区間ながら印旛沼水系全体に係る流域を擁し、また印旛沼放水路とともに印旛地域の水量調節に活用される治水上重要な河川である。定義上はいずれも印旛沼を起点とするが、印旛沼放水路(新川)は平常時印旛沼流入するため、事実上印旛沼唯一の流出河川となっている。

 

この行間を読めるようになるのはいつのことでしょうか。

 

 

 

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水の神様を訪ねる 71 堤防守護の神「布鎌惣社水神社」

再び安食駅から12時51分の成田線我孫子行きに乗り、次の小林駅で下車しました。

今回の散歩の2日目の最後の訪問地ですが、午前中の佐原市内の散策よりも長い距離で、途中でコミュニティバスに間に合わなければ行き倒れになるかもしれません。

 

小林駅に降りると、目の前の中華屋さんが私を誘いました。これから歩くのにはスタミナが必要ですからね。美味しい中華丼と餃子をガッツリと食べて歩き始めました。

成田線の線路に沿って丘陵が迫ったような道を西へと歩き、北へ曲がってまっすぐの水田地帯を歩くと川にでました。

 

将監川沿いをずっと利根川まで合流する場所まで西へと歩くと、その名も「西」という場所にもう一つの水神社がありそこを目指す計画です。

橋から見える川はゆったりと川幅いっぱいに水があって、一見、どちらに流れていくのかわからない穏やかさでした。

 

お昼ご飯をしっかり食べて体力的には十分なはずが、歩き始めてわずか十数分ほどで足が棒のようになって来ました。年末の足の痛みは落ち着いたのですが、なんだか歩きにくさは残っています。ほんと「足は贅沢」です。まだ1万8000歩ですし、とにかくバス停まで歩ききらなければならないので、一旦小さな公園で休むことにしました。

80年代ごろに造られた住宅地の児童公園のようです。

それにしても伊能忠敬は健脚ですね。

 

 

将監川が見える場所に腰掛けてしばらく休憩してから静かな住宅地を歩くと、水神社へ向かう道が尾根のように高い場所だったことに気づきました。

左手の川は道よりも2~3mぐらい下で、右手は水田地帯と集落が見えはじめたのですが川と同じくらい低い場所にあるようです。

鬱蒼とした竹藪の中へと道が続き、「痴漢に注意」という警告にどきりとして思わず「無事に辿り着けますように」と水の神様に祈りました。

 

 

*堤防守護の神*

 

今まで訪ねた水神社はだいたい川を見下ろす小高い場所にあったのですが、この神社への参道は下っていきます。

将監川と利根川の合わさるの両側の堤防に囲まれた窪んだ低い場所に、布鎌惣社水神社はありました。

 

境内には御由緒はなかったのですが、検索するとこんな説明がありました。

水神社は、「通称・布鎌惣社」と呼ばれ地域の人々に親しまれています。宝暦7年(1757)4月23日に創建されました。旧24村の惣社でした。堤防守護の神として奉斎されました。昔は当地区は大瀬野と称し延宝元年に布鎌新田と改称しました。当時の代官吉田源之助が、提塘工事の重大性から人心の統一を計るため惣社として奉斎し、後に小字の11社を合祀され今日に至ります。

(千葉県公式観光サイトーまるごとe!ちばー)

 

布鎌惣社水神社本殿

宝暦7年(1757)の建立で、一間社流れ造りの彫刻が見事。昔。堤防を水から守るために、水の神様が白馬に乗って見回りしたという伝説があり、その水の神様が相撲を好んだということから、毎年10月に子ども相撲が行われている。

(栄町公式ホームページ)

 

堤防のための水の神様もあるのですね。

 

窪んだ場所にある境内から今度は北側の道へと上ると、利根川の堤防がすぐ向こうにありその間にまた水田地帯がありました。

 

静かで落ち着いた集落の中を歩いて、将監川の南側の国道356号線を小林駅方面へ少し戻ったところにある平岡官堤バス停から無事にコミュニティバスに乗ることができ、木下駅から帰宅の途につきました。

 

霞ヶ浦右岸から利根川右岸まで、充実した二日間の散歩になりました。

 

ところで、この栄町で目にした安食官堤や平岡官堤の「官堤」とは何なのでしょうか。また知らない世界が出て来ました。

 

 

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水の神様を訪ねる 70 安食の水神社を訪ねる

佐原の水田と水路、そして伊能忠敬記念館を訪ねることができて満足し、11時11分成田行きの列車に乗りました。

以前この路線に乗ったのは神栖を訪ねたときで、2019年の台風15号の甚大な被害のあとでした。あの時は、寒くなる時期だというのに屋根をブルーシートで覆った家々が車窓から見えました。

3年ほど過ぎて元通りの風景のように見えたのですが、生活を立て直すための時間はどんな感じだったのでしょう。

 

そんなことを考えていると滑河のあたりでぐいと利根川の堤防が近づきました。対岸はちょうど江戸崎です。ここから内陸へと向きを変え、11時41分に成田駅に到着。ここでホームが違う成田線我孫子行きに乗り換えですが、3分あるので余裕かと思っていたら乗り換え客で階段が激混みでギリギリで間に合いました。

11時55分安食(あじき)駅で下車しました。

 

*安食官堤と水神社*

 

安食駅から北へ1kmほどの長門川沿いに水神社があるのを地図で見つけました。地図を拡大すると成田線の線路沿いに「安食官堤」と地名が書かれています。印旛沼から利根川へ向けて干拓地が広がる東側に位置しています。どんな場所なのか見てみたいと、計画に入れたのでした。

 

駅から県道18号線を安食官堤に向かって歩いていると、幅が狭い踏切から忽然と歩道がなくなりました。両方から車がひっきりなしにくるので踏切をなかなか渡ることができずにいると、たぬきも道を渡ろうとしたけれど引き返してコケたのが見えました。たぬきもこけるのですね。

ようやく踏切を渡ると県道沿いが安食官堤という場所になり、両側が県道よりも低くなっていて尾根のようです。

かつては堤防の役割があったのでしょうか。

 

県道沿いは歩道も狭く怖かったので、一本山沿いの道を歩くことにしましたがここもまた細い道を前から後ろから車が来ました。地図ではのんびり水神社まで散歩のはずだったのですが。

 

*立嶋大師堂*

 

住宅地の真ん中に、十段ぐらいの石段の上にお社がありました。石段の両脇に植え込みはありますが、鎮守の森のような高い木々もなくまるでジオラマの中の山頂に立つ山小屋のような雰囲気でした。

 

地図では「水神社」と表示されていたのですが、ここでは「立嶋大師堂」として再建記念碑がありました。

 当立嶋大師堂は四郡大師護国教会に属する御堂である。稲敷・相馬・印旛・殖生(栄町、成田市等の昔の呼称)四郡に跨る八十八ヶ所の霊場で、文政年間殖生郡東金山の大見川安衛門が四国の霊場より拝領した土を盛り利根町徳満寺を結願寺とする由緒深きものである。

 然し百六十余年の風雪に耐えて来たものの痛みも甚だしくなった為、再建の運びとなったのである。

 再建に当たっては世話人衆の努力と百人近い信者の御浄財を賜り、棟梁加瀬公彦氏の建設により平成元年三月吉日完成落慶を迎えるに至ったのである。

 茲にご賛同下さった信者の御芳名を刻み、末長く感謝の意を表する次第である。

 

石段十段ほどの高い場所は水害を免れるような場所で、そのために水神社が建てられたのだろうかと推測したのですが、全く外れました。

「四国の霊場より拝領した土を盛り」

どうやって十九世紀はじめに四国からここまで運んだのでしょうか。

 

そして前日に歩いた稲敷利根川をはさんでちょうど対岸に位置ししていますが、当時、「四郡」としてこの地域のつながりはどんな雰囲気だったのでしょう。

 

先ほどの交通量の多い道をまたヒヤヒヤしながら駅に戻り、駅前の地図を読み直すと「駒形神社」になっていました。

なぜMacのマップでは「水神社」なのでしょう。

 

なかなか歴史をたどるのは難しいですね。

次に同じ栄町のもう一つの水神社へ向かいました。

 

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つじつまのあれこれ 38 「社会の宝」から「国の宝」へ

先日ニュースで耳にした「こどもは国の宝」という表現に、ああやはりこの国はなんだか後退してしまったのではと不安になりました。

 

たしか1990年代ごろは「子どもは社会の宝」という言葉が広がって、それまでの家族の中の子どもというとらえ方から社会全体でとらえる雰囲気になったことに、世の中はこうして前に進むものなのだとちょっと感激した記憶があります。

同じ頃、東南アジアを行き来していて、教育や医療を受けられないこと、栄養不良や貧困、そして児童労働や子どもの頃から戦闘要員にならざるおえない過酷な状況に、子どもらしくというのはどういうことかという世界の問題と、日本の経済的な豊かさの中での子どもを育てることの新たな問題の葛藤に、「社会の宝」という視点ができたことに希望を感じたのでした。

 

1960年代初頭に子どもだった私の世代は1947年の児童福祉法によって守られ、母子手帳には「すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される」という児童憲章から始まっているのですが、その普遍的な宣言に至るまでの気が長くなる歴史、先代までの犠牲から、子どもの時代を守られた初めての世代かもしれません。

 

それでも1990年代はまだ「社会の宝」というのは、あくまでも「日本社会の」というニュアンスでしたが、それはきっと人類の宝へと進歩する方向性があると確信していました。

 

 

*2000年代に入って風向きが変わったのかもしれない*

 

「社会の宝」で検索すると、「『社会の宝』として子どもを育てよう!」という文部科学省の資料が公開されていました。

2002年ごろの「今後の家庭教育支援の充実についての懇談会」の資料のようですから、やはり私の記憶もそれほど間違っていなさそうです。

 

次に「国の宝」で検索すると、先日の首相の発言ではなくこんな解説が出てきました。

「子供は国の宝」発言への批判

 

2007年(平成19年)2月15日、参議院厚生労働委員会で、安倍首相が今国会の施政方針演説で「子供は国の宝」と述べたことについて、「子供は経済や年金のために生まれるのでない。子供は国のために生まれるという発想があるのではないか」と批判した。ただし、自身が所属する民主党の「次の内閣厚生労働部門〜民主党の政権提言〜」に「子どもは国の宝」と挙げられており、また、2006年4月に民主党が提出した「小児医療提供体制の確保等のために緊急に講ずるべき施策の推進に関する法律」にも同じ言葉が使われている。さらに民主党議員の郡和子も2006年4月に参議院本会議において「子どもは国の宝」と述べているが、千葉がこれらに対して批判したという事実はない。

 

Weblio辞典」より、強調は引用者による

 

「子供は経済や年金のために生まれるのでない」

こんな真っ当な考え方も、イデオロギーで離散集合したねじれた政党間の議論ではかき消されてしまうのでしょうか。

 

そして2021年には子ども庁の創設について、菅元首相が「子どもは国の宝でここにもっと力を入れるべきだ。光を当てる政策をきちんとやっていきたい」(2021年4月5日、日本経済新聞)と発言した記録がありました。

 

2000年代初頭の「社会の宝」から「国の宝」になった背景に今まで気づかなかったけれど、昨年のあの日からいろいろ考えると、パズルが解けました。

さらにどの国でも国会議員になることがその家の子どもの役目という古い風習が残り続け、家系図まで出てくるのですからやはり明らかに何かが後退していると感じるこの頃ですね。

 

 

まあこんな時代の葛藤を経て、「子どもは人類の宝」であり、「かつて子どもだったすべての人もまた人類の宝」であるという普遍的なことが生き残るのだと希望を捨てないようにしましょうか。

 

 

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行間を読む 184 「利根川宣言2000」

 散歩の2日目佐原駅の近くから本宿耕地を目指して歩き始めましたが、その途中の小野川のそばの公園に「千葉県治水百年記念事業実行委員会」と書かれた小さな木柱が隅の方にひっそりとありました。

 

検索すると、国土交通省の資料で「利根川宣言2000」がありました。

 

   利根川宣言2000

 

 明治33年に、近代治水事業が利根川に始まって百年目であり、また二十世紀最後の年である今、利根川流域の1都5県の知事が一堂に会して、これまでの百年の歩みを踏まえ、来るべき二十一世紀の利根川の未来像について様々に語り合いました。そこには今後の利根川をめぐる様々な課題、可能性そして夢があります。

 内包する課題を解決する延長上に、無限の可能性や夢を膨らませていく。そのようなことを一歩一歩進めていくことが、よりよい利根川と住みよい地域を次の世代に着実に引き継ぐことに繋がるものと、強く確信いたしました。

 322キロメートルの長さと、1万六千平方キロメートルあまりの流域を持つ、我が国屈指の大河、利根川。一つの川で結ばれたこの地域に住む全ての人々が、様々な視点から利根川と自らの関係を確信し、そしてさらにお互いの関係を認識した上で、利根川を思いやり、心を一つにして、豊かな利根川の自然環境と恵みを未来の世代に受け継いでいくために、次のとおり宣言します。

 

一 「一人ひとりが流域の一員」との考え方のもと、利根川と自らの関係を確認します。

   そしてそれこそが原点です。

二 「流域は一つ」との考えのもと、利根川の流域を構成する様々な地域や立場の人々と自らの関係に想いを馳せ、お互いにそれを認識します。

三 「市民」「地域」「行政」それぞれの間で、緊密な連携を様々に展開します。

四 こうして培われた利根川との絆を、新たな二十一世紀を担う次の世代に確実にバトンタッチします。 

 

「近代治水が利根川に始まって百年目」の記念事業だったようです。

 

2000年(平成12年)、私は30代終わりの頃で公共事業の歴史を全く知らずに批判から入っていた頃でした。

江戸時代からの利根川流域の治水事業の歴史も知らず、江戸時代だけでなく昭和の初め頃までさえも「未熟な土木技術の時代」だったと思い込んでしました。

 

そして利根川など関東にある大きな河川は「自然な川」だと思って、自然か人工かという捉え方しかしていませんでした。

地球の歴史の中ではホンの少し前は海で、そこから少しずつ関東平野が出来上がっていく中で暴れる川の流路を変え、何度も洪水で住む場所や産業が失われていく中で「流域」ができあがってきたことさえ知らなかったのでした。

 

玉川上水や見沼代用水などの歴史を見ても江戸時代の測量や土木技術もすごいのですが、明治以降の「流域」を正確に把握することや気象観測や防災体制の進歩は、驚異的な変化ですね・

 

治水も利水も、水争いなど流域の関係を調整することは本当に大変だったのだろうと思います。

「家や村のため」から人類のためへと普遍的なとらえ方が広がったから、「流域は一つ」と都県を越えて、あるいは「市民、地域、行政」で一緒に川を考えることができるようになったとも言えるかもしれませんね。

 

私は利根川からはだいぶ遠いところで生活していますが都内の水道は利根川水系無くして成り立たないし、生活の隅々まで利根川の流域と繋がっていることを感じますから私も「利根川の流域の一員」ですね。

 

2000年、つい先ごろの話と思っていたのですがもうかれこれ四半世紀経っていました。

当時、この文章を読んでも私には理解できず読み流してしまっただろうなと思います。

そしてこの当時に比べると、「公共事業は無駄」という社会の雰囲気が落ち着き、大きな災害に備えようあるいは社会基盤の維持・整備は大事という意識が定着したことが進歩の一つかもしれません。

 

 

 

 

 

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シュールな光景 30 「つばを飛ばさない」の表現を避ける気持ち

一週間前の3月13日、蓋を開けても社会はほとんど変わりませんでしたね。

その日の夕方のテレビではかまびすしくマスクをしているかしていないかの話題を伝えていましたが、通勤の風景も変わりません。

 

驚いたのは厚生労働省のとある部署を映し出して、「マスクをするかしないかは個人の判断」と言いつつ上司らしき人が「自分が率先しないと部下は外しにくいから」「やはりマスクをしないと息もしやすくて、これが本来の姿ですね」というようなことをインタビューに答えていました。

官庁の狭い部屋で8割ぐらいの人がマスクをしていないのは、通勤中ほとんど見かけることのなかったマスクをしていない人がたまたまこの部署なのだろうかと思えるような不自然さでした。

そして他のテレビ局でも同じくこの部署のインタビューが流れていたのは、何か政府側の意向があったのでしょうか。

 

それよりは厚生労働省なのだから、「まだコロナは終息していないこと」「飛沫を飛ばさないように十分に気をつけること」「終息まではどれくらいかかるか」などを提示してくださったらよかったのに。

 

今回の件では、よほど「国民のマスク生活を終わらせた内閣」になりたかったのでしょうか。

このところ社会の雰囲気を見誤ることが多い印象ですね。

衣替えをするかのように3月13日からマスクを外す人が多いとでも思ったのでしょうか。

 

 

*飛沫を飛ばさない、自分の飛沫を他人に触れさせない*

 

さて、先週ちょっと遠出をしました。

行きは東海道新幹線を利用しました。

JR東海 列車などでのマスク着用呼びかけ13日以降取りやめへ」(NHK NEWS WEB 、2023年3月6日)というニュースがあったように「国土交通省から新型コロナウイルス感染拡大防止のためのお願い」の放送がいっさいなくなりましたが、混雑した新幹線駅構内を見てもほとんどの方がマスクをしていました。

 

帰りは北陸新幹線を利用しました。

興味深いことにJR西日本区間JR東海と同じく放送がなかったのですが、長野でJR東日本になったら「手洗いをしましょう、大きな会話や飲食の際の会話はご遠慮ください」という放送が流れました。

湘南新宿ラインでも「手洗い、咳エチケット、会話控えめのお願い」の放送がありました。

 

JR内でも微妙な温度差があるのですね。

 

このところの「コロナは終わった」かのような社会の雰囲気に、電車内での大きな話し声が復活しているし、花粉症の季節でくしゃみや咳や鼻をかむ音が増え、その手で吊り革などを触る人もいることでしょうから、JR東日本の放送は大事だと感じました。

 

コロナだけでなく他の感染症でも「飛沫を飛ばさない、飛沫を他の人に触れさせない」ことが基本ですし、そのためにマスクも良い方法だとこの3年間で社会が実感していると思いますからね。

 

 

*自分の体から出るものを汚いと思われたくない*

 

ところでお通じに良いヨーグルトといった食べ物にまで排泄の表現が使われるようになった世の中ですが、新型コロナに関しては「つばを飛ばさない」という表現を社会全体に避けるのは興味深いですね。

 

最初の頃から「夜の街」とか「会食」といった言葉で、その基本の部分が見えにくくなってしまったことも一因でしょうか。

それとも、自分の体から排泄される唾を汚いと思われたくないという気持ちが強いのでしょうか。

 

これもまた「自分は大事」「自分は万能」といった自己啓発的な生き方に影響を受けてきた人たちが、現実を直視することを避けているからではないかという気がしてきました。

 

自分の体内には不潔なものはないという壮大な妄想があるから、食品のパッケージに便通や腸内細菌と書かれても平気なのかもしれない。

 

なんだかシュールですね。

 

でもまたそういう人もごくごく一部であり、思ったよりも地に足ついた生活の社会であることがわかったこの一週間でした。

 

 

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米のあれこれ 52 本宿から新宿へ、大谷津たんぼを訪ねる

小野川放水路から分かれた小野川本流はぐいと西へと向きを変えて、佐原小学校のあたりで北へと向きを変えて「小野川沿いの歴史的街並み」の続く場所へとながれているようです。

 

小野川右岸は川ぞいの道に昔からの水田や家が散在して、70年代から80年代ごろに建てられたと思われる家もけっこうありました。

しばらくすると小野川親水公園があって両岸に遊歩道が始まり、小野川の水面を眺めながらゆったりと歩けるようになっています。

石樽山が近づき左手は建物が少なくなりました。「学校橋」のあたりで遊歩道が工事中になり、一旦小野川から離れると古い工場がありました。その間の細い道を入ると、小野川沿いの歴史的街並みのエリアに入りました。

どこからかあんこを煮る香りが漂っています。

 

9時すぎでしたがけっこう観光客が歩いていて、伊能忠敬記念館も途切れることなく入場者がいました。

念願の伊能忠敬記念館の展示は圧巻で、今から220年も前に描かれた地図の正確さにしばらく立ちすくんでいました。

川向の伊能忠敬旧宅を訪ねたあと、佐原駅周辺案内図で見つけた場所へと向かいました。

 

 

*大谷津たんぼ*

 

最初の計画では、水田地帯だろうと想像していた本宿耕地のあたりからぐるりと小野川をまわって伊能忠敬記念館を訪ねられれば目的達成だったのですが、佐原駅周辺案内図にもう一つ大きな水色の場所に「大谷津たんぼ」と書かれているのに惹きつけられました。

谷津とか谷戸と聞いたら、この目で確かめたくなりますからね。

 

伊能忠敬記念館を出るとその裏手に水路があり「樋小道」として歩道になっていましたが、それがその大谷津たんぼからの馬場堀跡のようです。

途中で民家の敷地へと流れていたのでたどるることはできませんでしたが、迂回して下新町通りをまっすぐ山へ向かって歩きました。その両側の家々が、また重厚な昔ながらの造りのまま残っています。

山にぶつかったところを北へと曲がると、また先ほどの水路につながりました。

そこから家々の間を抜けると、目の前に原っぱが開けました。その間を水路が通っています。わずかですが水が流れていて、山のどこからか湧き出てくるのでしょうか。

現役の田んぼとして使われている場所もあるようです。

 

どなたがお米を作り、どんな歴史があるのでしょう。

 

あの大谷津たんぼを思い出しながらWikipedia伊能忠敬を読んでいたら、「佐原時代」にこんなことが書かれていることに目が止まりました。

佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。いったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役についていたという経験によるところが大きい。

 

田んぼと伊能忠敬の測量がつながりました。

 

 

 

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散歩をする 415 佐原を流れる小野川の右岸を歩く

今回の散歩の2日目、まだ暗いうちから南側の山側を眺めていました。6時過ぎにようやく山の端が薄明るくなってきました。

テレビでは富山県高岡市の大仏が映っていました。「懐かしいなあ、あの少し先から下り坂になって高岡城がある」と実際に歩いた場所の地形や雰囲気が一瞬にして蘇ってきますね。

 

7時45分、駐車場の車の窓がバリバリに凍っている中ホテルを出ました。

佐原市というと成田線の南側の「小野川沿いの歴史的街並み」が有名な場所ですが、まず北側へ向かいました。

 

地図では香取市民体育館の南側から小野川へ向かって幅20mぐらいの区画があります。なんとなく気になる場所でそこから歩き始めて小野川を渡り、県道16号線の南側にある「イ」という番地のおそらく水田地帯だろうと思う場所が最初の目的地でした。

 

*旧佐原港*

 

昨日、駅前で見た「佐原駅周辺案内」で、香取市民体育館のあたりは「昭和28年完成 旧佐原港」であること、幅20mぐらいの場所は水路であったことがわかりました。

その場所を目指すと住所は「佐原イ」で現在は下水道施設があり、「香取市船橋ポンプ場水処理設備工事」の表示がありました。

 

Wikipedia小野川に経緯が書かれていました。

利根川の支流である小野川は、江戸期より水運の集散地として佐原の町を発展させた。農業用水としても古くから利用され、香取市牧野地先に堰を作り、樋橋を介して市内関戸方面や本宿耕地方面に水を引いていた。1951年(昭和26年)に国鉄佐原駅北側に小野川から掘り込み式の佐原港が完成したが、船の需要がなくなったため1970年(昭和45年)に埋め立てられた。

こちらの完成年度は「昭和26年」になっていますが、いずれにしてもわずか20年ほどで埋め立てられたようで、1970年代というのはなにかと驚異的に変化する時代でした。

 

 

*魚市場から本宿耕地へ*

 

下水道施設の先が旧入船橋で、小野川のそばに公園が整備されていました。その端に「千葉県利根川治水百年記念行事実行委員会 平成十二年十月」と書かれた小さな表示がありました。

 

この辺りも昔の街の風景の面影があるような場所で、凍てつく真冬の早朝ですが散歩をする姿がありました。

新川橋を渡って静かな街の中を歩くと、地図に載っていた「魚市場」がありました。住宅街の中にある倉庫という感じですが、現役の魚市場でしょうか。

 

その先から細い路地になり、右手に水田地帯が開けてきました。

霜で枯れ草が真っ白です。

佐原では南側に山があるためか、途中で少し方向感覚がおかしくなりました。

 

県道16号線の反対側に、「佐原駅周辺案内」で「本宿耕地」と書かれていた水色の広い場所が見えてきました。

国道356号線とJR成田線の線路に挟まれた場所が広い水田地帯で、少し先の堤防のあたりに大きな水門が見えます。

まっすぐな水路が縦に横に通っていて、農道では朝の散歩の方々とすれ違いました。

一面茶色ですが、どこからともなく稲の香りがしてきます。

 

*小野川放水路へ*

 

ここから成田線の踏切を渡って、今度は南側へ向かいました。

地図では県立佐原病院の近くで小野川の水色が広くなり、分岐しているような場所があります。左側の細い水色の線が蛇行しながら街の中心へと流れて、「小野川沿いの歴史的街並み」へと流れ、右側の太い水色の線は暗渠になっているのか途中で消えています。

分岐点の周辺には複雑な水色の網目のような場所が描かれていて、広い湿地が遊水池になっているように見えます。

ここを見てみたいと思っていました。

 

踏切を渡ると、そこは昔からの大きな農家の落ち着いた街並みと神社がありました。

細い路地を歩いていると、途中の辻に小さな鳥居があり近づいてみると木の下に「青面金剛」と彫られた石碑がありました。その向こうは畑です。

蛇行した道をそのまま南へ向かうと、また鳥居があり今度はきつね様が祀られています。

静かな街です。

 

県道に出ると、今後は左手に大きな石の鳥居が見えました。どうやら香取神社への参道が県道になっているようです。

 

県道を渡ると開渠の水路になり、その先には水田地帯がひらけてきました。よくよくみると水路の水は小野川とは逆の流れです。どこから取水してどこへと向かう水路でしょうか。残念ながら「佐原駅周辺地図」で確認しても、わかりませんでした。

 

県立佐原高等学校の横の水田地帯をまっすぐ歩くと佐原病院が見えて、その前に広い公園がありました。葦が茂っているのでやはり湿地が広がっているようです。

 

「小野川放水路」の説明板がありました。

大雨がふった時の小野川

 

大雨がふった時には、せいすいもんがしまり、小野川の下流の市街地へは水が流れません。

転倒堰がたおれて、小野川の洪水は、小野川放水路を通って利根川へながれていきます。

 

市街地への分岐点に「制水門(全閉)」があり、右岸側には「沈砂地」「転倒堰(倒伏)と描かれていますが、ただの葦のしげる湿地ではない仕組みがあるようです。

そして暗渠の放水路が利根川へとつながっていて、本宿耕地から見えた大きな水門が

「利根樋門」であることがわかりました。

 

実際に歩いてみて、Wikipediaの小野川の「地理」が理解できました。

千葉県香取市織幡付近に源を発し北西へ流れる。

香取市牧野で香西川を合わせ、佐原市街地を北上し、香取市佐原で利根川に合流する。佐原市街地では大雨時にたびたび冠水し被害をもたらしたことから、小野川放水路が市街地を迂回するように造られている。

 

小野川は香取市佐原の市街地を二分して流れる。

その右岸(東)を本宿、左岸(西)を新宿と呼び、祭礼行事(佐原の大祭)は別々に行われているなど、市街地内の地区区分上大きな役割がある。

 

ここまでわずか1時間ほどの散歩でしたが、期せずして「本宿」側を歩いていたようです。

 

 

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