散歩をする 486 新幹線の車窓から見えた場所を歩く

昨年10月中旬の豊川(とよがわ)と牟呂用水そして豊川用水を訪ねる散歩に出かける朝、偶然みたテレビで1960年代のまる鼻の東海道新幹線がまだ沿線に何もない地域を通過していく様子を空撮していた映像をみたことで、かねてから心の中にあった無謀な計画がはっきりしました。

 

新幹線の線路のそばを歩く散歩をしよう。

 

「散歩をする」は「通勤途中の街がどんな感じか知りたい」と一駅間を歩いていた同僚の話が心に残っていたのがきっかけですが、しだいに川や水路そして干拓地まで歩くようになりました。

その途中、新幹線の車窓から見えた風景に車窓の風景が楽しいから「車窓の風景が好き」になり、「あの場所を歩いてみたい」と思う場所が増え、そしてとうとう「新幹線の一駅間を歩きたい」にまでなってしまいました。

困りましたね。

 

新幹線だと1~2分で通過してしまうところを何時間かかけながら歩いた散歩の記録が、いつの間にかたまっていました。

すでに東海道新幹線の東京駅から多摩川まではほとんど歩きました。

現代の「東海道」なら2時間で京都まで行く というのに、いったい何をしているのだか。

でも、車窓から見ていた場所に立って新幹線を眺める醍醐味は格別ですね。

そして風景には線路の両側がありますから反対側も歩きたい、とまだまだ続きます。

 

そして新幹線を眺めながら食べることができる場所を見つけるのも楽しいものです。

そして八代の干拓地のように九州新幹線に乗るより先に、その地を歩き新幹線を眺めた場所もあります。

 

新幹線の「車窓から見えたあの場所を歩いてみたい」と出かけた記録をまとめておきます。

 

<2019年>

北上と北上川

郡山市までの一筆書きの散歩

白河から那須へ

上星川から水道道を歩く

<2020年>

六郷用水と氷川神社

瀬田川と淀川

米原と新幹線

太田川放水路

玉島地区と干拓地

大崎から品川へ

多摩川と新幹線

<2021年>

高輪ゲートウェイから三田用水跡へ

伊佐沼へ

明治用水を歩く

矢作川の河岸段丘を歩く

三河安城駅と明治用水

大高トンネルを訪ねる

御嶽山駅から西大井駅へ

御嶽神社と「杜の霊神水」

旭川と西川用水

北鴻巣駅から武蔵水路沿いを歩く

石田堤史跡公園

伊奈氏屋敷跡と見沼溜井の北端を歩く

水の溢れる北上川と中津川

馬淵川公園まで歩く

<2022年>

伊奈屋敷から上尾まで氷川神社を訪ねる

駿河の海と並行に流れる川を見に行く

三島駅から下土狩駅まで歩く

鮎壺の滝から沼津市明治史料館まで歩く

「田毎の富士」と浮島ヶ原

岳南鉄道に乗って工場と湧水巡り

安倍川の流路変更と駿府城下の用水

巴川から大谷放水路への分流施設を訪ねる

ただひたすら川と用水路を見に〜播磨国編〜

姫路の水道を歩く

本竜野駅から龍野、そしてたつの市へ

相生から西相生まで歩く

黄瀬川と本宿用水、そして新幹線

福山上水沿いに福山城へ

あの山はなんというのかという場所を目指す

大磯駅から高麗山県民の森へ

花水木川から河内川、ポンプ場のそばのベンチで新幹線を眺める

金目川

秋穂漁港から新開作そして新山口駅へ

寝太郎堰から厚狭川沿いに古開作へ

渡場バス停から下関までバスの車窓を眺める

日本最初の水道、小田原用水の護り神

福島江用水を訪ねる

大井、原の水神池

立会道路から立会川河口へ

見沼のたんぼの歴史

<2023年>

利根川と荒川にはさまれた場所を歩く

鶴見川沿いの氾濫原と鶴見川多目的遊水池事業

興国寺城跡

浮島沼沿いに岳南鉄道江尾駅まで歩く

富士川の雁(かりがね)堤を歩く

新田開発と雁堤

岐阜羽島の薩摩工事義歿者の墓へ

後楽園用水

琵琶湖と膳所城

金沢の水路をちょっとだけ見るニッチな散歩

庄川と九頭竜川

丹那トンネルの上の水田と狩野川支流

<2024年>

武庫川の両岸の水田と新幹線

 

 

 

 

 

 

 

境界線のあれこれ 106 貨幣とポイント、公と民

東京都の早起きしてね運動は2016年の都知事選の公約「7つの0(ゼロ)」の満員電車の改善でしたが、今回の都の物価高対策はどんな公約に基づくものだろうと、「東京大改革2.0 東京の未来は都民と決める」を読んでみました。

 

*公約にありましたっけ?「1万2000円分のポイント還元」*

 

以前に比べてものすごい量の公約になっていて、「「爆速」デジタル化」「スタートアップによる「東京発」非対面・非接触(タッチレス)の新ビジネス」とか、「サステナブルリカバリー」「スマート東京」「対面・オンラインのベストミックス・インクルーシブな環境」「ソーシャルファーム」「東京版ティアハイムの検討」「性的マイノリティのアウンティング」「ワイズスペンディング」とか、まるでどこかの企業の企画書かそれとも広告代理店にお願いした内容なのか、目が滑ってしまいました。

 

横文字だと受け止め方に差が出るのに公約は正確に伝わるでしょうか、いや伝えたくないためでしょうか。

 

「東京版ティアハイム」、「ハイム」は家のことだからもしかして年金者住宅とかだろうかとちょっと期待して検索したら、動物の保護施設のことだそうです。

なんだかなあ。

 

で、この「都民の生活を守るとともに、消費を喚起することによって経済を活性化する」はどの公約だろうと一通り読んでみましたが、よくわかりませんでした。

しいてあげれば、これでしょうか。

「グレーター東京」(大東京圏)構想の推進

 

権限・財源セットでの国から地方自治体への権限移譲による地方分権

(中略)

「東京発」規制緩和・岩盤規制突破モデルの構築・推進

 

いつの間に「大東京圏」なんて言葉ができてきたようです。

 

政府もそうだけれど、自治体まで公約にもないことが滑っと、打ち上げ花火のように決められていくのは何だろう。

 

 

*「Tokyo Tokyo Point」*

 

1月下旬に気になっていたニュースと少しつながりました。

 

東京都独自のデジタル地域通過、QRコードでポイントを貯めて使える「Tokyo Tokyo Point」

 

東京都は1月26日に開いた知事記者会見で「Tokyo Tkyo Point(仮称)」について説明した。

「Tokyo Tokyo Point」は専用アプリ・QRコードを用いて飲食店やスーパーといった都内専用加盟店でポイントを貯めたり、使ったりできる「デジタル地域通過プラットフォーム」となる。

たとえば健康づくりやセミナーなどのイベントに参加することでもポイントが貯められるような、各種給付・施策推進に向けたインセンティブとしての活用も考えられている。

令和6年度予算案「『スマート東京』『シン・トセイ』の推進1757億円」(DXを推進し都民が実感できるQuality of Service向上を実現)に含まれるもので、今後民間決済事業者を活用して構築、運用していくとしている。

(グルメWatch、2024年1月28日)

 

 

「ポイント還元に91億円」にびっくりですが、1757億円ってもう安いんだか高いんだか想像もつかない額ですね。

ポイント会社等はどんな利益を得るのだろう。よほど現金でそのまま都民に使ってくれた方が良さそうな気がするのですけれど。

 

ここ30年ほど「小さな政府へ」「民間にできることは民間へ」という声で誘導された社会は、国が発行する通貨ではなく民間のポイントを使うようにするためだったのでしょうか。

そしてそれは誰もが恩恵を受ける公平性や普遍性とも違う、使うか使わないかでも差が出るし、早い者勝ちの世界ですね。

 

以前はポイントなんてしょぼい話だったのに、搾り取られ生活に希望が持てなくなってきた時代だからポイントがありがたがられるとも言えそうで、ポイントポイントと言われるたびに経済の閉塞感が増してくるのですが。

 

本当は「公」がその国の貨幣の信用で民の生活を安定させるのが筋で、そうすれば物を作り流通させる仕事にも労働の対価がきちんと支払われるし、ポイントも廃れていくのが良いのではないかと思えてきました。

ポイントって、やはり「囲い込み」と「中間搾取」ではないかと。

 

そしてスマホを持てない人、持たない人ははなから相手にしていない内容は、政策としてどうなのだろう。

 

ポイントって何だろう、貨幣とポイント、公と民の境界線について考えることが増えてきました。

 

 

*おまけ*

 

そうそう2月初旬、東京都がマッチングアプリの提供を始めるというニュースもありましたね。

公と民、何だかわけのわからない世界が混じり合っているかのようです。

東京都議会の皆さん、「政治家」として大丈夫ですか?

 

 

 

 

「境界線のあれこれ」まとめはこちら

デジタルと生活についての記事のまとめはこちら

失敗とかリスクについてのまとめはこちら

 

小金がまわる 38 「ポイント還元に充てられる予算は91億」

人生の大半を都内で生きてきたのですが、早起き運動とか、時々寝耳に水な政策が打ち出されることがあります。

 

最近もちょっと驚きました。

東京都3月からQR決済で最大10%還元の新キャンペーン 合計1万2000円分還元も可能 予算91億円充て物価高対策

 

東京都は、物価高の影響を受ける都民の生活を支援するために、3月から都内の小売店などで指定のQRコード決済を使うと支払い額の最大10%をポイントで還元するキャンペーンを始めます。

 

このキャンペーンは、都内の小売店や飲食店などで指定のQRコード決済を使って支払うと、支払い額の最大10%、上限で3000円分がポイントで還元されるものです。

物価の高騰が続く中、都民の生活を支援することなどが目的で、期間は3月11日から31日までを予定しています。

 

東京都 小池百合子知事

「都民の生活を守るとともに、消費を喚起することによって経済を活性化する」

 

4つのQRコード決済が利用可能で、ポイントの還元はそれぞれのQRコードを決済ごととなっているため、全て利用することで、合計1万2000円分のポイントを獲得することも可能です。

 

ポイント還元に充てられる予算は91億円で、予算額に達する見込みとなった場合には、期間中でもキャンペーンを終了する予定です。

(TBS NEWS DEG、2024年2月2日)

 

別の日テレNEWSでは「対象の決済サービスは、auPAY、d払い、PayPay、楽天ペイの4種類で、決済サービスごとに上限3000円分のポイント」とありました。

 

なんだ「1万2000円」というのは、4つの決済サービスに加入している人という意味であることがポイントですね。

私のように大手の囲い込みが激しくなったことでやめた場合には1円ももらえない、無関係な話というのもポイント

さらに、3月11日から31日まで約3週間の期間だけれどなくなりしだい終了の早い者勝ちというのもポイントのようです。

 

何だかなあ。

 

都民の人口が約1400万人として予算の91億円を単純に頭割りしようと思ったら、私の計算機では10億円の単位が入力できませんでした。

だいたい6500円ぐらいでしょうか。

安いんだか、高いんだか庶民にはわかりかねますが、なぜ都と私の関係に民間のポイント会社が関わっているのでしょうか。

 

 

そして縁起の悪い話で申し訳ないのですが、こうした会社が倒産したらポイントの行方はどうなるのだろう。

最近ポイントにつられそうな話が多いのですが、ポイントとは何か突き詰めて考えていく必要がありそうですね。

 

いったい誰がこんな政策を思いつくのだろう

 

そしてこんな政策が批判的にでもなく、しれ〜っとニュースになるのはなぜなのだろう。

 

 

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

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記録のあれこれ 170 「霞堤」や「放水路」のある地域では何が起こっていたのか

2023年6月2日から3日にかけての水害のニュースが次々と伝えられる中、平坦な地形に立つ病院が茶色い水の中に浸水している映像が映った時に「豊川放水路」のそばだと直感しました。

ほどなくして「豊川放水路ができて以来の水害」のようなニュースがあったような記憶があるのですが、豊川放水路が機能しなかったのだろうかと気になっていました。

 

今回の散歩のあと、当時の記事を検索して水害の1週間後に書かれた記事を見つけました。忘備録のために記録しておこうと思います。

 

線状降水帯による記録的豪雨で被害 「霞堤」や「放水路」のある愛知・豊川流域では何が起こっていたのか

(関口成人氏、Yahoo!ニュース、2023年6月9日)

 

 

 6月早々、台風2号の影響で発生した線状降水帯が太平洋側の各地に記録的豪雨をもたらした。中でも愛知県は東部の豊橋市豊川市に警戒レベル5の「緊急安全確保」が出され、豊橋市では車の水没によって1人が亡くなった。

 

 被害の出た豊川(とよがわ)流域は古くから河川の氾濫が繰り返され、江戸時代には「霞堤(かすみてい)」、戦後は「豊川放水路」などの整備が進められてきた地域だ。

 

 私は2年前にこの流域をたどるルポをまとめており、当時の取材先がこれまで以上の被害を受けたと聞き、再び現場を訪ねた。今回はいったい何が起こっているのだろうか。

 

12年前の大損害時より60センチ高く浸水

 

 6月2日、豊川市で農業を営む小野田泰博さんは午前7時頃から今回の雨が「ヤバい」と感じた。自宅裏の用水路を流れる水の勢いが、いつもよりかなり速かったからだ。

 小野田さんは市内に点在する畑で数種類の野菜を生産している。この日は午後に予定していた野菜の配送を急きょ午前中に早め、昼からは自宅1階のピロティ部分の農機具などを片付け始めた。しかし、午後1時ごろには「水があふれてきそうだ」と判断して2階に避難した。

 代々この場所に構える自宅は、豊川の堤防が切れる「霞堤」の目の前だ。小野田さんが農業を始めてから、これまで最も大きかった被害は2011年9月。1階が90センチ浸かり、野菜も農機具もすべてだめになった。

 しかし今回、1階の柱には150センチの浸水跡が残った。出荷前の野菜や資機材はぐちゃぐちゃに散乱。3日間を掛けてあるていど片付けたが、収穫や出荷が本格化するという時期に打撃は大きい。

 「ここまでは大丈夫だろうと上げておいた野菜のかごやトラクターも浸かってしまった。機械が使えないと耕作や収穫もできず、その損害をどこまで保険でまかなってもらえるかわからない」と小野田さんは肩を落とす。

 周辺のバラ農家などもビニースハウスが深く水に浸かり、大打撃を受けているという。

 

 

豊川放水路は越水せず、道路冠水は内水氾濫

 

 「霞堤」は元来、豊川の右岸(北西側)、左岸(南東側)の両岸にあった。しかし1965(昭和40)年、豊川の最下流に全長6.6キロの人工河川「豊川放水路」が整備されたのに伴い、右岸側の霞堤はすべて締め切られた。一方、小野田さんの住む金沢地区など左岸側4地区の霞堤は残され、豪雨時にはあえて左岸側を溢れさせて流域全体を守るという形になった。

 だが今回、数十台の車両が立ち往生した道路冠水や病院施設などの浸水は右岸側、豊川放水路の外側で起こった。

 一級河川である豊川を管理する国土交通省中部地方整備局豊橋河川事務所によれば、豊川放水路は普段ゲートを閉め切り、豊川の水を流していない。しかし、ゲート付近の「放水路第一水位観測所」の水位が5メートルを超え、さらに上昇していたらゲートを開放する運用となっている。増水した豊川の水を速やかに下流の海へ放出するためだ。

 今回、2日午前10時には放水路第一観測所の推移が5メートルを超えて上昇したため、同事務所は関係機関に連絡した上で午前11時13分からゲート開放の操作を始めた。

 これによって放水路自体は持ちこたえ、放水路からの越水はなかったという。にもかかわらず周辺で激しい道路冠水や浸水が起こったのは、放水路の外側に雨水が直接たまる内水氾濫だったからだとみられる。

 河川事務所が公表した各水位観測所の水位データを見ると、上流の「石田」観測所よりも下流の「当古(とうご)」や放水路第一の方が上昇時のカーブの膨らみが大きくなっている。今回は線状降水帯によって豊川の下流部に大雨が降り続けた災害だったと言える。

 

 

霞堤も下流側が先にレベル4発令状態に

 

 霞堤についても、本来は上流から下流へと順番に水をあふれさせ、最下流の城下町(現在は市役所周辺の市街地)を守るのが役割だが、今回は必ずしもそうではなかったようだ。

 霞堤では地区ごとに石田水位観測所の水位を基準として警戒レベル情報が発令される。上流の金沢・賀茂地区(主に豊川市)は石田の水位が5.7メートルを越えた時、下流の下条(げじょう)・牛川(主に豊橋市)は同7.4メートルを超えたときがレベル4(避難指示)というのが現行の基準だ。

 しかし今回、下条・牛川(賀茂の一部も)には午後1時40分に豊橋市からレベル4が発令された。上流の金沢・賀茂に豊川市からレベル4が発令されたのは午後2時20分だったため、下流の方が早めの避難を呼びかけられた形だ。豊橋市防災危機管理課は「石田の水位は基準を超えていなかったが、他地点の水位データなどからの総合的な判断で、早めの発令となった」と説明する。

 

 

レベル5が発令されない霞堤で死者

 

 一方、午後4時20分から30分に掛けては、さらに下流方面で豊川とは別の水系になる梅田川・柳生川が氾濫したとして両流域にレベル5が発令された。

 雨はその後も降り止まず、午後10時22分には豊川市が市全域にレベル5を発令。しかしその直前の午後10時10分頃、下条地区では農地の中で水没した車が発見されている。乗っていた男性は車内に閉じ込められていた状態で、病院に運ばれたが死亡が確認された。

 下城地区では霞堤内の簡易水位計の観測状況などから、愛知県によって2日午後3時半ごろから幹線道路の通行止めが行われていた。男性は通行止めの前に地区に入り込んだか、通行止めの範囲外の道路を走ってしまったとみられる。

 国や市によれば、霞堤は氾濫を前提にしているので、霞堤地区を対象にしたレベル5は発せられないという。まさに命に関わる災害が発生しているという緊急安全確保の状態が伝わりにくいと言えないだろうか。

 

 

「住民の犠牲で成り立っていいわけがない」

 

 霞堤がなければ、もっと被害は広がっていた可能性もある。国は流域全体で治水対策を進める「流域治水」の中で霞堤の活用を促している。

 豊橋河川事務所の担当者は「霞堤は昔から下流域を守るために造られたもので、効果がなくはない。ただ、今回のような災害でどれだけの効果だったかと言われると難しい」と話す。

 小野田さんも「霞堤をなくしていいとは思っていない」としながら、「それが住民の犠牲で成り立っていいわけがない。真っ先にあふれさせるところに正確な情報が来ず、被害を受けた時の補償や移転を含めた支援の話なども先延ばしにされてしまっているのが現状だ」と指摘する。

 複雑な地形に、複雑な歴史が絡む川。そこに災害は形を変えながら襲ってくることが今回、浮き彫りになった。一刻も早い検証と対策が求められるだろう。

 

 

今回は、豊川放水路よりも外側の内水氾濫らしいことを知りました。

雨の降り方一つで被害の状況が大きく変わるので、警報を出すとか対策を立てるのは本当に難しいことですね。

 

あの霞堤の地域のそばを流れる牟呂用水と、見上げるような崖の上に集落がある風景、そして豊川と豊川放水路の河口付近の集落や水田地帯を思い出しながら、上流から下流の治水について調整をする立場というのは大変だと改めて思いました。

 

そして住民と専門家と行政の葛藤を理解するためには、こうした一つ一つの「症例報告」ともいえる記録を読むことが大事だと思った次第です。

 

 

 

 

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生活のあれこれ 37 「霞堤」や放水路のそばでの生活

昨年10月に豊川と牟呂用水そして豊川用水を訪ねた記録を書いていて、愛知県のホームページの「今日は、とよがわ日和」という「お話アーカイブ」を知りました。

豊川水系対策本部事務局とあります。

 

治水や利水は「反対運動」といった対立に視点が置かれたニュースが多かった時代から、「市民の思い」「専門家の思い」「行政の思い」を記録しながら葛藤に対応していく時代になったと言えるのかもしれませんね。

 

その中で「霞堤(かすみてい)と豊川放水路のお話」(2022年7月6日)があります。

少しそばを歩いただけではわからなかった豊川(とよがわ)のそばでの生活が書かれていました。

今回の散歩でやり残した宿題がまた増えたので、再訪の日のために書き写しておこうと思います。

 

19 霞堤(かすみてい)と豊川放水路のお話し

 

 子どもの時分、飯田線でのお出掛けは、小坂井を出て大きな川をふたつ渡ると豊橋だというふうに記憶していました。

 そのふたつの川の名前は、豊川と「豊川放水路」。

 豊川はもちろんのこと、「豊川放水路」も、そういう名前の天然の川なのだと、何の疑問も持っていませんでした。

 それは、いつも飯田線国道1号から見る「豊川放水路」の河口部には、はるか上流から多くの水を運んできたと誤解するのに十分な水量があるからでした。

 

 豊川流域では、昔から幾度となく繰り返される河川の氾濫に対して、「霞堤(かすみてい)」と呼ばれる伝統的なシステムで集落を守ってきました。

 これは、先人が洪水の被害に遭いながらも、豊川という川の特性を理解することで形作られた、豊川と共存するための知恵の結晶といえるものです。

 

 通常、私たちが想像する堤防は、周辺地域に水を侵入させないよう、川筋に沿って堅牢な土手を配置するものですが、「霞堤」は堤防が連続せず、途中、その一部がきれていて、河川氾濫時にはそこから意図的に遊水池に水を招き入れることによって、集落への被害を軽減する仕組みになっています。

 この堤防が途切れた部分は「差し口」と呼ばれ、川筋がカーブする堤防の決壊しやすい箇所に、水がぶつかるのと反対側の河岸に上流側に向けて設けられます。このため、「差し口」から遊水地への水の侵入は比較的穏やかなものとなります。

 なお、浸水被害を受ける一方で、遊水地となった畑地には、洪水に運ばれて上流から栄養素が流れ込んでくるというプラスの側面もあったようです。

 

 また、浸水被害の多い集落では、土盛りによって家屋の土台部分を嵩上げしたり、周囲を生垣で囲んで浸水時のゴミの流入を防いだりと様々な工夫がなされました。

 家の内部についても、浸水しやすい一階は畳ではなく板張りとし、家財をすぐ二階へ運べるような設備を設けるとともに、最終的な避難のために、軒下には小舟が吊るされていたとのことです。

 

 豊川とともに生きる先人の苦労とそれを知恵で乗り越えようとする姿に改めて頭が下がる思いです。

 

 時代は進んで、1965年(昭和40年)7月、着工以来27年の歳月を経て「豊川放水路」が完成します。

 

 豊川は下流に向けて大きく蛇行しているため、出水時に水が流れにくく、これが河川氾濫のひとつの大きな要因となっていました。

 そこで、考えられたのが、豊川の下流部に川をもう一本作ることで、出水時にはふたつの川によって水を海へ流そうという壮大なプロジェクトでした。

 「豊川放水路」の完成により、出水時には、その40%程度が「豊川放水路」を経由して海に流れることとなり、豊川の治水は劇的に進展しました。

 

 豊川と「豊川放水路」との分流堰(ぶんりゅうぜき)は、豊川市行明町(ぎょうめいちょう)にあり、隣接する分流堰管理所でゲートの操作が行われています。

 出水によって分流堰のゲートが開かれ「豊川放水路」に水が流されるのは、年間概ね4~5回、多い年で8回程度だということです。

 それを知って、今更ながらに気づかされたのは、いつも見る「豊川放水路」河口部の流水は、山からのものではなく海からのものだったということでした。

 

 「豊川放水路」と河川改修によって、豊川右岸側*に5つ、左岸側に4つあった「霞堤」のうち、右岸側の5つが締め切られました。しかし、依然として左岸側に4つの「霞堤」が残されていることから、国・県・関係市により。引き続き浸水被害軽減の対策が進められています。

*上流から下流に向かって右側が右岸、左側が左岸

 

(以下、略)

 

子どもの頃は「ふたつの川」と思っていらっしゃたり、放水路の役目とか霞堤の地域のこととか、地元の方でも日頃恩恵を受けているインフラの歴史やその地域での生活を知る機会はなかなかないですものね。

 

その「知らないこと」と「知っていること」あるいは「わからないこと」と「わかっていること」の間を埋めていくための、専門知識と生活の間を埋めていくとでもいうのでしょうか、こうした先人の記録、しかも文学的表現に頼らない記録が各地の自治体にも急激に増えてきました。

 

「今日は、とよがわ日和」はサブタイトルが「さあ、水源の里へ出かけましょう」とあって、豊川周辺の生活が書かれています。

また歩いてみたいものですね。

 

 

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つじつまのあれこれ 46 苦しい時の「女性」頼み

あの日以来、ニュースに出てきた政治家のWikipediaや過去のニュース記事をできるだけ読んでいたのですが、さらに最近は急に増えた誰々が〇〇万円のニュースにWikipediaを読むのが忙しい毎日です。

 

そうこうしていると、「なぜ政治家になったのか」の理由が縦に横につながり合って少し見えるようになってきました。

圧倒的に政治家の息子や娘がまた政治家になるというパターンが多いですね。

 

世襲でない人でも、1970年台頃まだまだ女性が4年制大学に行くことのハードルが高い時代に大学を出ることができるだけの条件があったようです。

「女性に教育は必要ない」という時代に娘を大学に行かせることができた家庭とは、資産力だけでなく、まだ当時は海外に行くことすら珍しい中で海外の気風を知ることがきて、「これからの日本では女性も教育の機会が大事」と感じていた先覚者なのかもしれませんね。

 

 

 

*自由に生き方を選べる時代にあえて親の仕事を継ぐ*

 

そしてあっという間に周囲に急に「お金持ち」が増えた1980年台から90年台の資産価格の高騰の時代を経て、持てるものと持たざるもや教育の格差は広がっていった印象です。

女性でも大学進学や海外留学を選び、そしてキャリアウーマンを選ぶとか華々しい話が増えました。

女性でも知名度があがることで、政治家になる人の話題も増えてきました。

 

しがらみやらやっかみで大変そうな政治家の世界で初心を貫徹するのは大変そうですが、社会のためにという強い理念を感じる方もいらっしゃいました。

 

 

そういう女性の政治家だけでなく、案外と政治家の娘だから政治家になる人も多いのかとWikipediaを読んで知りました。

あの女性の仕事も生き方も選択肢が増えた時代に、「政治家を継ぐ」という気持ちがどうやって生まれたのでしょう。

自分の気持ちを封印したのでしょうか、それとも適していると思えたのでしょうか。

 

 

*夫の仕事も継ぐ*

 

ちょっと驚いたのが、夫の仕事を継いで政治家になるというパターンもあることでした。

それまでは政治家の配偶者だった人が立候補すれば政治家になり比較的早く政務官や大臣にまでなる、特に専門も経験も問われなさそうな不思議な仕組みがあるのですね。

 

妻も駆り出して成り立つような閥の世界なのに、女性宮家については反対する声も根強いのは矛盾しているけれど気にならないのでしょうね。

 

 

「初めての女性〇〇」といった持ち上げ方も、こうした排他的な関係から出てくる「困ったときの神頼み」かもしれないですね。

 

 

 

 

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事実とは何か 107 安いんだか高いんだか

無事に豊川用水や牟呂用水の散歩を終えて帰る途中のメモに「ガザ支援、15億」「『友人が』で動いたのだろうか」とありました。

 

3ヶ月も経つと自分のメモもなんのことやらと思いながら、検索して意味がつながりました。

 

安倍晋三元首相の妻昭恵さんがXでガザ地区の現状を伝える 友人医師が『本当に地獄』」というニュースとほぼ時間を同じくして、「日本政府、ガザ地区人道支援約15億円 上川外相が表明」というニュースが流れていたのでした。

まだまさか政治がこんなに大荒れになるとは思ってもいなかった頃ですが、なんだかつじつまがあわないというかあいすぎるタイミングというか、腑に落ちなくてメモしたのでした。

やはり記録は大事ですね。

 

その裏の動きは分かりませんが、「15億円」というのはどういう計算から出てきたのだろうと思うほど人道支援の中では破格の高さではないかと気になっていました。

 

*貨幣の価値観がおかしくなる*

 

さて、豊橋海岸堤防耐震化工事は「総事業費85億円」と書かれています。

国土交通省の2007年(平成19)の「海岸関係事業のポイント」にある「豊橋海岸 高潮対策事業」では「準備期間:平成18年度〜平成27年度(予定)」「全体事業費:74.4億円」とありました。

2015年(平成27)完了の予定が2023年(令和5)まで延長になり、約10億6千万円が追加になったということでしょうか。

 

経済に疎くて日常の生活でも千万円の単位になるとほぼ無関係なのと公共工事の予算についてもど素人なので、この追加分が高いのか適切なのかもよくわからないのですが、実際に頑強な堤防とその周辺を歩くとこれが85億円なのだと納得した気分になっていました。

 

ところが一国でガザに対して「緊急人道支援に15億円」となるとなんだか唐突ですし、国内の公共事業に比べるととてつもなく高額に見えてきました。

 上川陽子外相は17日の記者会見で、パレスチナ自治区ガザ地区で水や燃料の不足による人道支援が深刻化していることを受け、日本政府として総額1千万ドル(約15億円)の緊急人道支援を実施すると発表した。国際機関を通じ水や食料、医療物資などを支援する。

朝日新聞デジタル

 

 

*安いんだか高いんだか*

 

さらに年明けから「2780万」「100万」「322万」「234万」といった数字が飛び交うので、100万円とか300万円とか安く感じそうなくらい自分の貨幣の価値観がおかしくなってきました。

 

ハッと我にかえると、「5年間で100万円ということは、1年で20万円」ですから「ちょうど確定申告をしなくてもよいラインと同じだ」と思いました。

なんだかあざとい数字の出し方ですね。

 

以前、新生児訪問や保健センターの業務を手伝っていた頃、まれでしたが1年で20万円を超えることがあって確定申告をしていました。

新生児訪問は事前の準備から訪問後の記録までけっこう時間も労力も必要としていましたし、まあ労働の喜びと対価として20万円というのはまた給与とはちがう重みがありました。それに年間十数万円を貯蓄に回せる余裕があることはうれしく感じましたね。

 

政治家にとって「100万」の意味はそんなものかと思うとともに、2000万円台とか4000万円とか、ほんと感覚が麻痺しているのかもしれないですね。

 

4万円の所得税減税のバラまきに「たったそれだけ?」と感じるのは、政治家が得ている莫大な利益との差もありますが、労働の対価から搾り取られていく消費税や所得税そして社会保険料に比べると「戻ってくるのはたったそれだけ?」の重みなのですよね。

 

安いんだか高いんだか、「経済はみずもの」なのをいいことに貨幣の価値観というのは混乱させられてきたのかもしれませんね。

 

 

 

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あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

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水のあれこれ 340 豊橋海岸堤防耐震化工事

潮風と日差しにさらされて薄くなっていた豊橋海岸の案内図ですが、検索したら私が訪ねた昨年10月のわずか2週間後にその完工式が行われていたという記事を見つけました。

 

豊橋海岸の堤防耐震化完了

 

 東海・東南海地震に備え、県が進めていた三河湾沿岸の豊橋海岸吉前・神野新田地区海岸堤防耐震化が完了し、28日、完工式が豊橋市神野新田町メノ割の二十間川排水機場で開かれた。10年余りかけて延長5228メートルの堤防が耐震増強された。

 堤防が老朽化していた上、耐震点検では地盤の液状化により最大5メートル以上の堤防の沈下、崩壊が生じるため、地元住民の要望もあり、県が2006年(平成18)年度から国土交通省の補助を受けて耐震化工事を進めていた。総事業費は約85億円。

 工事は「二重締切矢板工法」。堤防両端に鋼矢板(こうやいた)を二重に地中深く打ち込むなどして堤防の沈下を軽減し、津波や高潮に耐えられるようにした。堤防背後地に広がる住宅、病院などを守る。

 式には、住民や県、市の関係者ら約50人が出席。地元住民らでつくる三河湾豊橋海岸整備促進期成同盟会の加藤勝久会長は「本当に良かった。南海トラフ地震が心配される中、完成したことは、住民や企業、団体などにとって安心して暮らせることにつながる」と待望の耐震化完了を喜んだ。

 根本幸典衆院議員や石原君雄副知事、佐原光一市長らも「住民の安全安心の確保につながる」などとあいさつした。式後、参加者は堤防を見学した。

 豊橋海岸の堤防は、水田の干拓でできた。1953年(昭和28)年9月の台風13号では、高潮と波浪により破堤し、海水が背後地へ流入、甚大な被害が出た。

(2023年10月29日、東愛知新聞)

 

 

「メノ割」とあるのでちょうど私が歩いたあたりですね。

 

 

事業が始まる前の愛知県の「海岸の整備(事業紹介)」(2017年1月4日)に、以下のような説明がありました。

2. 老朽化対策(老朽化した海岸堤防・水閘門の対策)

 愛知県の三河湾・伊勢湾沿岸においては、昭和28年の台風13号、昭和34年の伊勢湾台風の2度に渡る大きな被害を受けました。その復興として昭和38年頃にはほとんどの沿岸に海岸堤防、水門等が築造されています。

 しかしながら、復興で一度に整備していることから、築後50年近く経過した施設が多く、老朽化・地盤沈下等による機能低下や背後地の開発による機能不足も著しくなっていますので、海岸堤防、水門等が高潮・津波に対して十分な機能を発揮させることが課題となっています。

 

Wikipediaの「昭和28年台風第13号」を読むと、この年は超大型台風が相次いだようです。

愛知県の「被害」について書かれていました。

愛知県には25日夕刻に45mの暴風を伴って襲い、折からの満潮と重なり平均潮位より2.80m高い異常高潮となった。

そのため愛知県下の海岸堤防は156kmにわたって被災し、沿海部の民地23,350町歩はたちまち冠水して海となった。

愛知県では直ちに、174ヶ所13kmに及ぶ応急締切工事に着手し、最終的には総延長172km、総事業費199億円の膨大なものとなった。

その説明に「決壊する四号堤防(愛知県豊橋市神野新田干拓地)」の写真があります。

あ、もしかして私が下車した「五号バス停」というのは、「五号堤防」の意味だったのでしょうか。

 

それにしても「沿海部の民地23,350町歩派たちまち冠水して海になった」というのが、干拓地で生きるということだったのですね。

そしてさらに5年後に史上最大の風水害の伊勢湾台風がこの沿岸部に襲ったようです。

台風13号の被害から立ち直り始めた時の伊勢湾台風、この時代の方々のお気持ちはいかばかりでしょうか。

 

1960年台に入ると水害は激減しましたから、「なぜそんな堤防をつくる必要があるのか」「なぜ美しい海岸をコンクリートで埋めるのか」という世の中の雰囲気になったのかもしれません。

その中で過去の災害を忘れずに将来の災害に備えるための期成同盟(同じ目標の実現に向かって結束して活動する)の方々がいらっしゃったようです。

 

「失敗」「事故」「災害」というのは理不尽ですし、社会は喉元過ぎればすぐに忘れやすいので、こうした防災や感染症拡大への対策でも「対策の不備」を問うかと思えば「それはやり過ぎ」という反動にもなりやすいものですね。

 

歴史を知らないのに公共事業というだけで批判で目を曇らせてしまっていたことに、また大いに反省です。

 

海風の強い中でも粛々と工事が行われ、日夜寝ずの番で観察してデーターを積んで警告をしてくださる方々のおかげで私は安全に生きて来れたのだと思いました。

 

 

 

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散歩をする 485 西吉前新田から神野新田町を歩ききる、つもりだった

西吉前新田の水神社を訪ねることができ、ここからいよいよラストスパートで神野新田町(じんのしんでんちょう)、そして牟呂用水の流れる牟呂市場町まで歩く予定です。

 

広大な干拓地ですが斜めに歩けば5kmぐらい、きっと1時間半ぐらいで目的地まで歩けるだろうと踏んでいました。

ここからは途中でバス停もありませんから、歩くしかありません。

 

西吉前新田の水路よりも南側に広がる水田地帯は、「モノ割」「ヒノ割」「セノ割」といった干拓地らしい地名ですが、この辺りも豊橋市神野新田町のようです。

白っぽい土の整然と耕された畑の中のところどころ通る小さな水路の橋を渡ると、ふと祖父母の家のそばを歩いているような錯覚に陥りました。

 

ブロッコリーの苗が、美しい緑です。

日差しが強いので傘をさそうとしましたが、海風も強く、閉じたり開いたり、風に阻まれながら田園地帯を歩きました。

国道23号線の土手の下をくぐって東側の地域に入ると、田んぼが広がっていました。

すっかり稲刈りが終わった風景ですが、水路には水が流れ、ひこばえが伸び始めていてこれはこれで美しい風景です。

 

「まっすぐ東へ数百メートルほど」のところにある吉田方排水機場に立ち寄って、そのあと「鳥塚」神社を訪ねてみようという計画でした。

 

ところがあぜ道を直角に曲がりながらだと、とても時間が足りなことに気づきました。水田地帯ですから、「まっすぐ突っ切る」わけには行かないという痛恨の初歩的なミスです。

おまけに土地勘の全くないだだっ広い水田地帯は、GPSを頼りにしても歩くのに時間がかかります。

なかなか今までの失敗が生かされませんね。

 

排水機場は断念して、「鳥塚」神社を訪ねることにしました。

 

道に沿ってマリーゴールドが植えられて鮮やかです。どこからか生姜の香りが漂ってくると思ったら、田んぼの隅に生姜が植えられていました。

 

*鳥塚ではなく烏塚神社*

 

少し離れた場所からでも、その神社の鎮守の森はまるで小さな島のようにわかりました。

あぜ道をカクカクと曲がりながらたどり着くと、「鳥塚」ではなく「烏塚」であることに初めて気づきました。

 

由緒

寛文五年(一六六五)吉田藩主小笠原城主長矩の許しをうけ、吉田の人高須久太郎ら元締めとなって、高須、土倉の二新田を開発し、加護を祈るため同年七月烏塚山に創立した。

 

むかし、この烏塚の霊地は、海に浮かぶ島でした。

先人の方々は、この霊地を烏塚山と呼び、信仰の中心とし、多くの神々を祀られました。ぜひ、先人の方々の思いを継いで、神徳を頂き、子孫繁栄を成就させましょう。

 

江戸時代初期の新田開発による干拓地だったようです。

少しずつ沖へ沖へと土地を作り、この烏塚山まで干拓するのにどれだけ時間が必要だったのでしょう。

現在ではさらに、2kmぐらい沖合まで干拓地になっています。

 

 

*神野新田町の歴史にはたどり着けなかった*

 

少し先に豊橋市民病院が見えます。ここまで来ればあと1.5kmほど歩けば目的地まで行けそう、と元気が出て歩き始めました。

 

ところがまっすぐに水路を渡れるはずが、その排水路のそばには地図に描かれている橋がありません。引き返して別の道まで行き、そして豊橋市民病院の前を通る国道23号線にようやく出たと思ったら、横断歩道までまたはるかに迂回しなければならないことがわかりました。

 

ここでもう時間切れになりそうなことが確実になり、急遽計画を変更して、市民病院の北側の道をまっすぐ牟呂外神町まで歩くことにしました。

 

田んぼが続く道は疲れていても楽しいものです。

しばらく歩くと上り坂になり、牟呂水神町に入りました。

牟呂用水を渡り、外神(とがみ)公園に到着。ここから豊橋駅行きのバスがあるようです。と思ったら、乗るはずだったバスが目の前を通過していきました。

 

もう一歩も歩きたくないぐらいの疲労感です。公園のベンチがとてもありがたく、非常食のおにぎりを食べて30分後のバスを待ちました。

バスは市街地を流れる牟呂用水沿いを走り、豊橋駅に到着して今回の散歩が終わりました。

 

 

計画ではこの先の牟呂用水沿いの水路がぐいと向きを変える地域を歩いて柳生川を渡り、その対岸にある神野新田資料館を訪ねる予定でした。

 

なんだか今回の散歩は、豊川用水も牟呂用水も近くを歩きながら直接見ることができない幻になり、さらに牟呂用水の歴史を尋ねるのも中途半端な散歩になりました。

やはり広大な干拓地を歩く時には距離感が狂うことを忘れずに、余裕のある計画にしないとだめですね。

 

でもやり残した宿題が増えるのは、それはそれで楽しいものです。

次回は豊川(とよがわ)のどのあたりを歩きましょうか。困りましたね。

 

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

水の神様を訪ねる 95 西吉前新田の水神社を訪ねる

豊橋駅をくぐりながら南西へと流れる牟呂用水の先の干拓地を訪ねる前に、もう一ヶ所歩いてみたい場所がありました。

 

豊川と豊川放水路の河口よりももう少し渥美湾に迫り出した感じで、「西吉前新田」があります。干拓地らしくぐるりと水路で囲まれた地域で、その渥美湾に面した堤防の近くに水神社があるのをだいぶ前に見つけていました。

どんな歴史がある場所でしょう。

 

牛川緑道から豊橋駅に戻った時にはまだ11時すぎでしたが、さすがに散歩の3日目は足の疲労感も半端ではありません。

そして10月中旬とはいえ日中は30度を超えている中、最終日は欲張って干拓地から干拓地を歩き切ろうという計画です。公共交通機関もない場所ですから、途中で挫折するわけにはいきませんね。

疲れていてもやはり干拓地と水神社がそこにあると思うだけで行きたくなるのでした。

 

 

*西吉前新田へ*

 

12時のバスまで少し時間がありました。歩き回る気力もなく駅のコンコースに座っていると、方向感覚がおかしいことに気づきました。

豊橋駅というのは「西口」「東口」があるのですが、三河湾がある方が西口です。

私には「南下」すると海につきあたる感覚が染み付いていることも一つですが、以前訪ねたこともあるのというのに、眺めていた地図でも豊橋の南側に海があるように思い込んでいたのはなぜだろうと、少し混乱しました。

方向感覚に自信があるというのも、狭い地域でのことだったと改めて思ったのでした。

 

さて、「卸団地行き」のバスが来ました。下車する予定は五号バス停で、いかにも干拓地の雰囲気の名前ですね。

新幹線の車窓からは豊川駅から豊川(とよがわ)左岸堤防のあたりは真っ平に見えていたのですが、バスで通ってみると堤防に近づくにつれて一段と高い場所へと上っているように見えました。そして馬見塚、高州町とすぎて、しだいに低くなって水田地帯が見えました。

 

左岸沿いにある馬見塚、そして高州町のあたりはかつて大小の洲だったのでしょうか。

 

バス停で下車すると、「干拓碑 吉前新田」と刻まれた石碑がありました。

ぐるりと囲んでいる水路の内側は、工場と介護施設のようです。

松の植えられた水路に沿って歩くと、海沿いの堤防への入り口に「豊橋海岸」という説明板がありました。

豊橋海岸は三河湾沿岸最奥部に位置し、干拓された地盤の上に海岸堤防が築造されています。

大型地震発生時(震度6弱以上)には地盤の液状化により最大5m以上の大きな堤防沈下が生じ、さらには地震直後に来襲する津波が堤防背後に流入し、約1,730haの甚大な浸水被害が発生すると想定されます。

このため愛知県では平成18年度から国土交通省の補助を受け海岸堤防耐震化整備を行っています。

 

その先の少し上り坂の道を歩くと、堤防の内側に排水機場のような施設があり、そのそばに緑青(りょくしょう)の屋根が美しい小さなお社が見えてきました。

御由緒はなく、「吉前水神社」と緑色で描かれた額が掲げられていました。

 

そばにある堤防への階段を登ると、その向こうに三河湾が輝いていました。

少し海風が出てきて、白浪も見えます。

予想外に堤防の幅が広いので多少風に煽られても海には転落しなさそうですが、海風にちょっと足がすくみます。

 

川風もそうですが、海風の強いこのような場所で、日夜働いてくださっている方々によって治水や利水が維持されていることに、あちこちを歩くようになってこの年になって知ることとなりました。

そして社会というのはこういう重積を担った市井の人によって成り立っているのだと。

 

どうかこうした方々とこの地域をお守りくださいと一礼して、また元来た道を戻りました。

 

 

 

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