記録のあれこれ 176 金原明善記念館

散歩をしていると、古代から現代、そして自分が生きてきた時代を行きつ戻りつ考えることが多いので、散歩の記録もついつい寄り道が多くなります。

浜松の高校生殺人事件の被害者と犯人が赤ちゃんだった時代はどんな感じだったのだろうと考えていたら、その少し前のあたりから「正常なお産は助産師で」という医療の急激な進歩の中の葛藤の時代になったこと「骨太の方針」に生活全般が骨抜きにされてきた影響力を考える、壮大な寄り道になりました。

 

 

さて、2月中旬、今回の散歩の最終日天竜川の治水と利水を訪ねる散歩の記録です。

小雨がときどきぱらついていましたが、なんとか午前中は天気が持ちそうです。

 

ホテルの窓から見えていた国道152号線は、平日の朝6時半ごろには浜松方面への通勤の車で混んでいました。8時半頃は両側の交通量が増え、その道をてくてくと天竜川の堤防方面へと歩くと住宅街の中にも屋敷林が残る昔からの家が残っていました。かつては水田が広がる農村地帯だったのでしょうか。

 

国道1号線の高架橋の下を抜けて県道312号線沿いにしばらく歩くと小さな安間川(あんまがわ)を渡りました。その先に二手に県道が分かれてその一つが「旧東海道」で、旧東海道に面している大きな黒い屋根と蔵を持つ古い民家が金原明善記念館でした。

 

金原明善没後100年*

 

どっしりとした家の中に入るとさまざまな資料が展示されていました。

出かける前にWikipediaの金原明善を読んだのですが、その行間を埋めるかのような膨大な資料や絵図でした。

1868年(慶応4年)5月、天竜川は大雨により堤防が決壊。浜松及び磐田に大被害をもたらした。天竜川は1850年嘉永3年)から1868年(慶応4年)にかけて5回の大規模な決壊を記録しており、特に嘉永3年、明善19歳の時に遭遇した洪水は一瞬に安間村を沈めてしまった。それは明善にとって一生わすれられない災害であった。天竜川沿岸に住んている人達の苦しむ様に途方に暮れていた時に、明治維新をむかえる。そんな新政府の「政体」の布達が明善に希望を与えた。

 

ちょうど昨年、没後100年だったようです。

金原明善没後100年

 2023年(令和5年)1月には、1923年(大正12年)に金原明善が没してから100年を迎えます。当時の天竜川は「暴れ天竜」という別名を持ち、ひとたび大雨が降れば、沿川の集落だけでなく、時には浜松市街地付近まで洪水の被害をもたらしていました。

 明善翁は、下流両岸の堤防建設を進めただけでなく、中流の山間部に植林をし、製材の販路を広げるなど、多岐に活躍しました。近代の浜松を支えた先人の一人として、明善翁の功績を紹介します。

金原明善記念館、展示より)

 

その年表に「1850年 嘉永3年7月 19歳 天竜川が各所で決壊し、洪水被害を体験する。東海道の交通も止まる」とありました。

 

天竜川の治水工事に奔走*

 

その後43歳の時には「天竜川通堤防会社を設立」、46歳で「内務卿大久保利通に面会し、全財産を寄付して天竜川治水の補助金を得ることを認められる」とありましたが、それがWikipediaのこの箇所のようです。

 

1877年(明治10年)、全財産献納の覚悟を決めた明善は内務卿大久保利通に築堤工事実現の為に謁見した。明善自身も一介の百姓が内務卿への謁見は叶わないと思っていた。ところが快く大久保利通との謁見は実現した。それは長年、誠実一途に天竜川の治水工事に奔走している明善の話が大久保利通の耳に入っていたからである。そして、近代的な治水事業が始まり、主に堤防の補強・改修をはじめ以下の5点を実施した。これらは後年の天竜川における治水計画の基礎となった。

 

 1. 天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量

 2. 鹿島村から諏訪湖に至る高低測量

 3. 天竜川河口から二股村に至る実測量

 4. 駒場村以下21箇所の測量票建設

 5. 自宅に水利学校を開き、治水と利水の教育を行う

 

天竜川の詳細な地図*

 

水害にあったことで一生涯を治水や利水に捧げたことに圧倒される展示でしたが、奥へと進むとそこには大きな天竜川全域の地図と、さまざまな時代の地図や絵図がありました。

こうした川の歴史の展示のある資料館は、全国あちこちの川を訪ねてもまだまだ少ないものです。

 

現在の天竜川からは想像ができないほど、山あいを抜けて出てきた天竜川は複雑な定まることのない流れとなり、1898(明治22)年ごろはまだ各所に輪中が残っていたそうです。

 

明治から大正へと、しだいに天竜川の地図が正確になっていく様子が一目でわかりましたが、これもまた「1. 天竜川を西洋式の測量器を使用して全測量」する計画によるものだったのでしょうか。

 

 

*「近代的な治水事業」とは*

 

金原明善記念館の2階には、「治水と利水の教育を行う」水利学校の資料も残されていたようです。

実業のための教育の機会を開く、という感じでしょうか。

 

今回は残念ながら水利学校の資料は見学する時間がなかったのですが、明治時代の「近代化」というのはさまざまな技術の驚異的な変化だけでなく、人の意識とか概念の変化もまた大きく影響をした時代だったといえるのでしょうか。

 

江戸時代までの封建的な圧政の時代に、各地で新たに生まれ変わろうとする力が大きく開いた時代でもあったのかもしれませんね。

 

まさに金原明善氏もまた後の世に「郷土の先覚者」となった方だったと思いながら、記念館を後にしました。

 

当日の資料の写真などを読み返しながら、バス停にある「天竜森林組合」のどっしりとした木のベンチ金原明善氏の遺してくれた森からだったのだとつながりました。

 

 

*おまけ*

 

治水と利水だけでなく、幅広く金原明善氏の思いが残されていた資料館でしたが、印象的だったのは更生保護制度を始めたことが展示されていました。

更生保護制度の先覚者 金原明善

 

 明治時代、静岡監獄にあらゆる罪科を重ねた囚人がいました。多くの看守が手を焼く問題受刑者でしたが、当時の副典獄(副所長)の熱心な指導が功を奏して心底悔悟するに至り、10年の監獄生活を終えました。

 しかし、監獄を出て我が家に戻ってみると、もはや父母はなく、妻は他人と再婚しており、寝るに宿なく、食するに一文もないという状況に陥ってしまいました。副典獄との約束で二度と悪いことはできません。思い余った彼は、池に身を投じ、自らの命を絶ってしまいました。

 金原明善翁はこの話を聞き、「改心して監獄を出た者を社会の中でしっかり保護する方法を考えなければならない。」と思い立ち、1888年明治21年)、「静岡県出獄人保護会社」(現更生保護法人静岡県勧善会)を設立しました。これは我が国で最初の更生保護施設といわれています。

 翁の尊い精神は全国に広がり、戦後、関連法令も整備され、我が国の刑事政策の一翼を担う現在の更生保護制度へと発展しました。

 

 

没後一世紀の間、社会は驚異的に進歩した反面、驚異的に退行してしまった部分もあるのかもしれませんね、自分の富と権力だけを守ろうとする方向へと。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

地図に関する記事のまとめはこちら

生活のあれこれ 48 生活を骨抜きにする「骨太の方針」

いろいろな政治の闇が見てきたので、「【速報】石破茂氏と小泉進次郎氏が官邸訪れ岸田首相に提言 漁業観光業一体で地域経済活性化する「海業」の推進に向け」というニュースにすぐ反応しました。

 

世論調査で「次の総理」候補の上位にあがる2人が、岸田首相に提言を行いました。

7日午後、官邸を訪れたのは、石破元幹事長と小泉進次郎環境相です。

石破氏と小泉氏らは岸田首相に、漁業や観光業などが一体で地域経済を活性化する「海業」の推進に向けた提言を行いました。

石破元幹事長:

きょうは海業の勉強をやってきましたが、その座長・小泉さんとメンバーが参っております。

小泉元環境相

海業っていうのは、なぜ漁業ではないのかっていうと、もはや港町では漁業だけでは食っていけない。

岸田首相:

ぜひ、今日までの石破会長をはじめ、皆様のご努力、しっかり政府としても受け止めています。

提言を受けた岸田首相は、政府が6月まとめる「骨太の方針」に間違いなく明記すると応じました

(FNNプライムオンライン、6月7日17:02)

 

なんだ「速報」を出すくらいなので、先日ニュースになっていた「首相退陣を求める」かと思いました。

 

そのあと、この行間を埋める小さなニュースが。

岸田首相『海業』めぐり小泉進次郎氏と応酬『初めてと思うが』『さすがに聞いたことがある』

岸田文雄首相は7日、自民党の水産総合調査会(会長石破茂元幹事長)メンバーと官邸で面会し、漁村の地域資源の利用活用による賑わい創出の取り組み「海業(うみぎょう)」の推進に向けた提言を受け取った。

面会で、調査会メンバーの小泉進次郎環境相は開口一番「おそらく首相が官邸で初めて聞く言葉の一つが『海業』だと思う」と述べ、提言の内容を説明。首相は苦笑いを浮かべつつ「初めて聞くだろうとおっしゃったが、さすがに私も聞いたことはあり、勉強したことがある」と応じた。

「海業」の言葉の発祥は、小泉氏の地元・神奈川三浦市。会談で、小泉氏は海業を「一言で言えば、海の地方創生」だと解説した。

産経新聞、2024年6月7日19時37分)

 

いやあ、さすがに「首相」に向かって失礼ですよね。

知らないわけないじゃあないですか。能登半島地震に対する「被災者の生活となりわい支援のためのパッケージ」で使われていますからね。

それとも、能登半島に対するこの方針を読んでいない国会議員の方もいらっしゃるのでしょうか。

 

まあ、「なりわい」とか「海業」とかふわりとした言葉は、その地全体の実情を無視していると思って良さそうですね。

 

 

*「観光だけでは食っていけない」のでは?*

 

地元の代議士とはいえ、生まれる前の時代を知らないのかもしれませんね。

散歩をするようになって、観光地三浦半島のイメージがすっかりと変わりました。

 

「坂道を登れば平らな台地」三浦半島1960年代初頭は自己水源(井戸)しかなかったのが、はるか遠い宮ヶ瀬ダムから送水されるようになったことで、美しいパッチワークのような畑に変わり「三浦の野菜」として知られるようになったし水があるから観光地にすることもできた、あたりまで私の中の歴史が整理されました。

 

1970年代から80年代ごろからの国内の観光ブームのあとが少し裏寂しくなっている場所もありますが、三浦半島をまわると、小さな漁村や農村がつづら折りの道の間に見えて、時代の変化を生き抜いてなんともどっしりとした街が感じられます。

 

「漁業では食っていけない」よりは、むしろ「観光では食っていけない」が正確ではないかというのが私の印象でした。あくまでも私のですけれど。

 

「モノ」「カネ」「情報資源」と同列で「ヒト(国民)」とするような経済財政諮問委員会の価値観に、築いてきた生活を骨抜きにされてはたまったものではないですね。

 

今までは「政治と金の問題」だったことが、根は「経済財政諮問会議」という民間会議が牛耳る「骨太の方針」に毒された人たちが問題なのだと見えてきました。

ほんと、「亡国の使徒」だったのだとやっと20年ほど前の先人の言葉を実感する昨今、手遅れなのかそれとも反撃するのはこれからなのか。

 

 

 

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

合わせてレジ袋とエコについてもどうぞ。

 

記録のあれこれ 175 何かとシュールな社会の裏が見える

何かとこれじゃあないという政策が多すぎて、なぜここまで政府の方針と国民の生活がズレるのだろうと思っていたのが、ようやく骨太とは何かが見えてきました。そしてそこにいつも現れる「経済財政諮問会議」とやらに。

なぜ現場のニーズとは違うことが次々と投げ込まれるのか、何を急いでいるのか。

 

膨大なニュースや意見が飛んでくるので見失うことが多々あるのですが、最近になってニュースへのコメントの内容でこの昨年のニュースを初めて知りました。

 

何かとシュールな今の世の中の裏の動きが見えてきそうなので、自分の忘備録として残しておこうと思います。

 

 

新浪剛史氏「納期を守るの重要」マイナ保険証後押しが波紋 桜を見る会サントリー不買運動まで蒸し返され…

 

 マイナンバーカード一体化保険証(マイナ保険証)普及のため、岸田文雄政権がかたくなに守る来年秋の保険証廃止。この問題で、経済同友会新浪剛史代表幹事が、廃止時期を「納期」だとして、「納期を守るのは日本の大変重要な文化」と発言、波紋を広げている。あたかも財界が政府に保険証廃止を発注し、その納期を守れと言っているように見えるからだ。一体どういう背景からこうした発言が飛び出したのか。(岸本拓也、安藤恭子

 

 

「日本の大変重要な文化」として連呼

 

 納期発言は6月28日の記者会見で飛び出した。会見冒頭で、新浪氏は「質問があるだろうなと思って」と持論を語り始めた。

 「デジタル社会においてマイナンバーはインフラの中のインフラ」と訴え、「ミスがあるからやめましょうとかやっていたら、世界から1周、2周遅れのデジタル社会を取り戻すことはできない」と強調。政府が健康保険証の廃止を目指す2024年秋を「納期、納期であります」と位置付け、「民間はこの納期って大変重要で、必ず守ってやり遂げる。これが日本の大変重要な文化でありますから、(政府)はぜひとも保険証廃止を実現するよう、納期に向けてしっかりやっていただきたい」と、納期という言葉を連呼した。

 6月末は、マイナ保険証に他人の情報がひも付けられるなど、トラブルが次々と発覚したころ。制度への不安が高まる中で、保険証廃止を推進する姿勢は、世間離れしているように見える。新浪氏とは、一体どういう経済人なのか。

 

「45歳定年制」を唱え炎上したことも

 

 「異色のサラリーマン出身経営者」と評するのは経済ジャーナリストの磯山友幸氏。「もともと三菱商事出身で、ローソンに行って経営を立て直したことでカリスマ経営者とも呼ばれるようになった。その後、サントリーに転身して、プロ経営者としての色彩を強めた。サラリーマンからプロ経営者になった珍しいケースだ」と解説する。

 時の政権ととも良好な関係にあり、その発言は物議を醸してきた。21年に、法律で認められていない「45歳定年制」を提唱し、「中高年のリストラ策だ」と批判を浴びた。今年6月には、政府が児童手当の所得制限撤廃を決めたことに「大反対だ」と批判した。

 

G7で同じことをしている国はない

 

 一方、「最低賃金1500円を目指すビジョンが必要」と賃上げを求め、同性婚の法制化についても「多様性の中で認めていくべきだ」と述べるなど、リベラルな面も。磯山氏は「必ずしも政府寄りではなく、最近の経済人では珍しく、自分の思ったことをずけずけと言うタイプ。良く言えば腹が座っているが、悪く言えば脇が甘い」と話す。

 とはいえ、マイナ保険証への反対論が強まる中で、納期発言に対してX(旧ツイッター)では、安倍晋三元首相が飲料を無償提供していた問題なども再燃し、「サントリー不買運動」なる動きも出た。

 そもそも企業間での「納期厳守」と、幅広い国民を対象とする政府の「実施機関」を同列にとらえる感覚はどうなのか。白鴎大の石村耕治名誉教授(情報法)はいぶかる。「G7(先進7カ国)で、日本のように血税を費やして官製のICカードに保険証を一体化させている国はない。カードがないとデジタル社会に対応できないというのはまやかしだ。経済界はこうした世界の潮流を知っているはずなのに前向きなのは、IT利権があるからではないか」。

 

ヒト・モノ・カネと並ぶ『情報資源』

 

 マイナ保険証は国民によりよい医療を提供するため、というのが政府の説明だ。一見、経済界との関係が分かりにくい。

 だが、名古屋大大学院の稲葉一将教授(行政法)は「新浪発言は今に始まった考え方ではない。2000年代から、経済が求める要望と政府のデジタル化政策とは、歩調を合わせてきた」と指摘する。

 稲葉氏はマイナンバー法が制定された2013年に着目する。同年6月に閣議決定された「世界最先端IT国家創造宣言」は「『ヒト』『モノ』『カネ』と並んで『情報資源』は新たな経営資源」とし、この情報資源の活用こそが経済成長をもたらす鍵とした。

 稲葉氏は「個人情報を資源とみなしたこの段階で、医療や福祉、教育といった分野での情報収集や活用がすでに制定されている。マイナンバーの情報を連携すればその履歴から人物像を人工知能(AI)が解析し、製薬や教材づくりといったビジネス利用も可能となる」と話す。

 

「デジタル化」圧力かけ続ける経団連

 

 前年の12年には、経団連の要求を受け、各省庁の情報システムを統括する最高情報責任者に元リコー副社長が就任。16年にはマイナンバーカードの普及活用の促進を定める官民データー活用推進基本法が施行された。

 17年にはビッグデーターの活用に道を開く改正個人情報保護法が全面施行。個人を特定できないようにした「匿名加工情報」なら本人同意なく売買可能とした。同年の経団連提言「Society5.0に向けた電子政府の構築を求める」は、「公共データの産業利用による新産業・新事業の創出等、わが国の経済社会、国民生活の活性を図り、国際競争力強化に結びつける」ことを掲げ、26年を最終目標年と定めた。

 19年には行政と民間事業者のシステム共通化を図るデジタル手続法も施行され、21年の経済財政諮問会議では経団連会長(当時)らが健康保険証の単独交付を取りやめ、マイナカードへの「完全な一体化を実現すべき」と求めた。

 

 

「政府権力と一体化、あまりに質の低い発言」

 

 稲葉氏は「一つ一つは地味な動きだが、つなげていくと全て個人情報の収集解析につながる。国民は民主主義の主体なのか、資源として情報を吸い取られていく客体なのか」と問う。

 ジャーナリストの斉藤貴男氏は「カードのトラブルが相次ぐ中で、政治の暴走に歯止めをかけるのも本来は財界人の役割。それが政治権力と一体化した新自由主義を象徴する、あまりに質の低い発言で思い上がりも甚だしい。企業の理屈をおしつけるんじゃない」と新浪発言を一喝する。

 マイナ保険証への要請は政府と経済界、とりわけITビジネスとそれに連なる金融などグローバル資本と一体化していると指摘する。「産業界は利益を得たい、政府はそれによって経済成長を促したい。天下り企業献金にも有利にはたら苦」と述べる。

 

 

データが「企業の利益」になる時代

 

 JR東日本は13年、IC乗車券「Suica(スイカ)」利用者の生まれ年や月、性別、乗車駅などの情報を無断で日立製作所に売却して批判を受け、提供を中止した経緯がある。「ポイント付与などは民間活用の一歩。次はこうした交通系の移動やキャッシュレスの買い物などの情報が大きなデータとして活用され、企業の利益となる」

 斉藤氏によると、米国の社会保障番号ベトナム戦争の際の徴兵逃れの捕捉にも使われてきた。「いまはグローバル経済が強いのでそれに使われようとするが、番号制度と国民管理はいつの時代も共にある」。カードの民間利用が進めば、個人情報の漏洩リスクも高まるとみるが「このまま付き進めれば、国策の下で被害があっても泣き寝入りだ」と警告した。

 

 

デスクメモ

 記者にとっての「納期」とは、締切時間。上司のデスクから「あと5分」などと怒鳴られたことは数知れない。ただ、間に合わないなら無理は禁物というのも、また鉄則。財界というデスクがいくら騒いでも、国民が「その話はウラが取れません」という以上、強行突破は不可だ。(歩)

 

(「東京新聞」2023年8月1日)(強調は引用者による)

 

 

マイナンバーとマイナンバーカードについての2016年ごろからの疑問が少し解けました。

 

政府あるいはデジタル庁というのは、『モノ』『カネ』『情報資源』と同列で『ヒト(国民)』という価値観だったのですね。

 

だから、「裸の王様(この国の政治家)に服を着せるにはどうしたらよいか」「社会にはすでにリスクマネージメントが浸透し始めているのだから、失敗を認め踏みとどまるようにするにはどうしたらよいか」とこちらは真剣に考えていたけれど、政界や財界には「資源でしかない『ヒト』」の声はちっとも届かないはずですね。

 

経済財政諮問会議は決して経済の専門家の集まりでもないことがわかりましたし、政府にとって「骨」とはどうやら「投資」であり「投機」らしいことも見えてきました。

「ヒト」への医療や福祉もそういう対象なのだと。

 

 

ああ、すっきりしました。

 

 

 

*おまけ*

 

テレビをつけると「若返る」とか「〇〇の痛みがなくなる」といったサプリや健康食品の宣伝が急増しただけでなく、日常の食品のパッケージにも「排泄」「便通」といった文字が印刷されるシュールな世の中になりましたが、食品や飲料メーカーがそういった分野にで始めたのも2000年代ごろからでしょうか。

 

それまで「美味しい」「味が好き」で購入していたのが、そのメーカーは信頼に値するか、社長や会社の歴史といった背景まで考えるようになりました。

 

 

「ヒト」はただの資源ではなく、「モノ」を買うのにもそれぞれの想いがありますからね。

 

 

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

マイナンバーとマイナンバーカードの記事のまとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

行間を読む 207 「骨太」の正体が30年経ってようやく見えてきた

2007年ごろに経済財政諮問会議なるところで勝手に助産師の会陰切開縫合解禁とか話し合われていることに驚いたのですが、まだ当時は政治とか経済に疎かったので何がなんだかよくわかりませんでした。

 

今思い返すと、私が疎かったからというよりは、政治や経済も、医療と同じく失敗を繰り返さない方法が浸透しているはずと思っていたので、変な方向には行かないだろうと思っていました。

 

 

*まだ政府の動きがわからなかった頃*

 

ところが2013年ごろにはその信頼に翳りが出てきて、2007年に読んだ話が現実になり始めていることを感じるようになりました。

安価な医療を行うため 医師より安い看護師を使う

そんななりふりかまわぬ規制改革会議、経済財政諮問会議は、"亡国の使徒"のような存在です。

(「勤務医 開業つれづれ日記」2007年12月8日)

この経済財政諮問委員会の存在に、2007年にはすでに警告していてくださった方がいたのでした。

 

その後、定義もないまま「産後ケア」センターが「骨太の方針」で語られるようになりました。

それでも産後のお母さんや赤ちゃんの支援になるなら前進したと思ったのですが、まさかのこれじゃあない内容が広がりました。

 

 

医療とは違う場所で産後ケアが「骨太」の中で始まったのはなぜだろうと思っていたのですが、その2013年6月3日の記事にKeitaYmanadaさんから2020年2月2日にコメントをいただきました。

 

2020年頃はまだ私自身がようやく「国の借金は家の借金とは違うらしい」ことに目が覚めたころでしたのでコメントの内容は難しすぎましたが、あの日(2022年7月8日)以来、時々読み返して少しずつその行間が読めるようになりました。

 

 

*骨太の政策が始まってから骨身を削られるような毎日に*

 

 

とりわけこの部分は身に沁みます。

財政出動するのに、税金使っちゃ駄目です。この事は10数年以上前に、経済学の研究者さんたちが集まってくるサイトで言われていた。今の日銀総裁量的緩和政策は、その時言われていたリフレ政策で、その時支持されていたエコノミストが、黒田総裁就任時の副総裁でした。

人々は、税金を徴収されると消費を収縮せざるを得なくなる。税金の徴収は、必ず、景気後退を引き起こす。政府が徴収した税金を全額支出すれば、税金の徴収による景気後退を相殺する。

政府支出とは、政府が代金を支払って、産業が生産する商品を購入する事です。エコノミスト達は、経済にとっては、無駄遣いでもかまわないと言っていた。

 

経済の理論はわからないのですが、「税金を徴収されると消費を収縮せざるを得なくなる」を実感しますね。

消費税が10%になってほんとうに物を買わなくなりました。家計簿を見直すと、昨年までに1年間でひとり20万円近い消費税を払った年もあります。親の介護に必要な物やそのための交通費も大きいですからね。

食品や日用品を買うたびに消費税にビビる毎日ですし、物価が上がっただけでなく商品自体が小さくなったので節約してもちっとも追いつきません。

以前は普通に買って食べていたものも手を出さなくなりました。

 

勤務先は中小企業と同じような診療所で、分娩減少で経営は大変そうな中でもきちんと毎年昇給もあるしボーナスも支給されていますが、その分、いつの間にか雇用保険とか介護保険が上がっています。年金も税金も増えて、昇給分は帳消しです。

 

遠出に出かける余裕があるのは、両親を無事に見送って介護などの費用がなくなったことや、コロナで競泳観戦に行かなくなったことで浮いたチケット代とか、もともと化粧品や装飾品にはほとんど支出がなかったとかで帳尻が合っているのですが、ほんと、消費税というのは消費に対するペナルティですね。

 

 

切り詰めて切り詰めても、貯蓄が増えなくなりました。年金じゃあ足りないから2000万円用意しろとか、最近では4000万が必要とかにしれっとなりましたが、国から言われても困りましたね。

それは政府の失敗ではないですか?

 

なんだか毎日、息苦しくうっとおしい生活です。

 

 

 

*「生かさず殺さず」のような闇が見えてきた*

 

消費税をとり過ぎたことへの減税のはずが所得税にすり替わり、私の年間の消費税の4分の1にもならない額のために事務方さんが複雑な処理をして給与明細に記入することが義務付けられることになって、ほんと、目が覚めました。

消費税率を変えるのはとても大変とか抵抗していたのに、たかだか一回ぽっきりの4万円のためにもっとややこしい作業ですよね。

 

消費税をとり過ぎたのなら、未曾有の感染症や不景気の時にせめて食品や日用品の消費税を下げるシステムにすればよかったのに。

そうしたら、乳児用ミルクやおむつや子どもの食料や衣類などにかかっていた多額の消費税がなくなって子育ての人にも実質的な子育て支援にもなるし、生理用ナプキンも買えないような貧困の女性がいるとしたらそちらにも実質支援になるはず。

全ての人に行き渡る恩恵ですよね。

そして経済がもっと上向きになるはず。

 

ところが、なんでも「給付」とか対象を限定した「支援」にするのは、奴隷状態の国民を手放したくないための施しにほかならないですね。

国民が豊かになって奴隷のような状況に気づかれたら、あるいは一度できた階層を超える手段を他の人が持つことに困るような人が政治家になっているのかもしれません。

 

骨太の方針を言い出した20数年前にはすでに「少子化問題」は言われていたのに、生まれてきた国民ひとりひとりを大事にしようという意図もなかったし、本気で適正な人口をどうとらえるかという考えもなかったのだと見えてきました。

欲しいのは、安くて使い勝手の良い労働力のみ。そして容赦無く切り捨てる社会に。

 

ニュースのコメント欄では、「骨太、聞き飽きた」「骨太と聞くと恥ずかしい」「骨折」「骨が細くなる」など、最近はさんざんの言われよう。

国民に気づかれたことに焦って次々と残った「政策」を打ち出してくるのでしょうか、断末魔の叫びのように。

 

ということで、4年前にいただいたコメントから、雑ではありますがあれこれ考え続けています。

KeitaYamadaさん、ありがとうございました。

 

 

*おまけ*

昨日、突然「夫婦別姓容認」という話題がありましたが、それも「経団連から要請」ですからね。「骨太」を知るとあれは飴と鞭だと感じましたが、何を目論んでいるのだか。

 

 

 

「行間を読む」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

失敗とかリスクについてのまとめはこちら

あわせて「助産師の歴史」のまとめもどうぞ。

助産師の世界 4 「骨太」に取り込まれた一部の助産師

政府がやるべきことはまず国会議員の在り方のはずなのに、国民の生活を大きく変える政策を次々投げ込んでくるのは断末魔の叫びか閉店前のバーゲンセールでしょうか。

 

骨太の方針」21日に閣議決定へ 賃上げの定着、価格転嫁対策の徹底などを重要課題に位置づけ

(ABEMATIMES、2024年6月3日)

 経済財政運営の方針「骨太の方針」について、政府は6月21日に閣議決定する方針であることがわかりました。

 「骨太の方針」は、政権の重要課題や次年度の予算編成などの基本的な方針を示すものです、今回の「骨太の方針」では、岸田政権が最重要ししてきた高水準の賃上げの定着に加え、価格転嫁対策の徹底、中堅・中小企業の生産性の向上、資産運用立国の推進などを重要課題に位置づける方針です。

 政府は4日、経済財政諮問会議に骨子案を示し、21日の閣議決定に向けて議論を進めます。

 今までならさらりと読み飛ばしているようなニュースですが、「骨太の方針」と「経済財政諮問会議」という言葉で引っかかりました。

ほんと政府は「骨」がお好きですからね。そして観光立国とか資産運用立国とかも。

 

バーゲンセールのように重要な政策を投げ飛ばしているのは、おそらくこの「経済財政諮問会議」の方を向いているからなのだろう。

そして、このところの一部の助産師の「正常分娩を保険適用の対象に」の裏がなんとなく読めてきました。

なんとなく、ですけれどね。

 

 

*いつも「骨」がちらつく出産の話題*

 

最初に違和感を感じたのが2007年で、「助産師による正常分娩時の会陰切開、縫合を解禁させよう」という病院勤務の私には寝耳に水な話が「医療分野の規制改革」として出てきたことでした。

以来、経済財政諮問会議が出てくると、「緊張感を持って注視」していました。

 

そうこうするうちに2013年には、「これまで手薄だった出産時の支援を強化するため、出産直後の母子の宿泊や日帰りで受け入れる「産後ケアセンター」を全国で整備という話が出てきました。

1990年代初頭の日本助産婦会が風前の灯の時期に「自然なお産」や「自宅分娩」ブームで息を吹き返したものの、同じ頃に急激に変化した救命救急の対応で再び助産院での分娩やケアの需要が減ったところに、渡りに舟だったのでしょう。

助産師だけの介助ではリスクが高い分娩を請け負わなくても、産後ケアなら助産院の開業を維持できる、そんな思惑があったのだろうと推測しています。

 

この時にも「産後ケア」なのに周産期医療の専門家による議論もなく、そして定義やリスクマネージメントを示されることさえないのに「骨太の方針」に含まれていました。

 

*しだいに保険適用の領域に入り始める*

 

現在は「産後ケア」であれば医師のいない施設でも開業可能ですが、「母乳相談」となると一つどうしてもクリアしなければならないことが出てきます。

 

 

乳腺炎」というのは「疾患」「異常」ですから、本来は医師の診察と治療の範疇だと思うのですが、長いこと「乳腺炎に対するマッサージ」で助産師による自費の対応というグレーゾーンの部分でした。

産後ケア施設で対応できなくなることを避けるためでしょうか、乳腺炎の対応が保険診療に組み込まれることになった時に、「保険医療機関」に対して「保医療機関」という用語で乗り切って診療報酬に組み込まれたようです。

 

すごい政治力だと、この助産師の世界の信念の強さに驚きました。

 

 

*いよいよ「正常なお産」へ*

 

最近、話題になっている「正常分娩」の保険適用をめざすですが、それを推している政治家の皆さんは本当に「正常分娩」の正常と異常の境界線をわかっていらっしゃるのでしょうか。

 

かつては私も「正常分娩」という用語を使っていたけれど、現代ではもはや専門用語ではないと思うほどもやもやする言葉です。

終わってみないと正常かどうかわからないですし、突然、母子二人の救命救急の修羅場になる可能性もあります。

 

お母さんは無事でも赤ちゃんに蘇生や治療が必要な場合もありますし、反対に赤ちゃんは無事でもお母さんに治療が必要なこともあります。

その場合は「正常分娩」と言えるのか言えないのか。

現在は、問題のない新生児はまだ保険適用ではなく、母体の付属という存在で自費で対応ですがそれもどう変わるのでしょうか。元気でも赤ちゃんはすぐに健康保険扱いになるのでしょうか。

 

 

*築いてきた社会保障をなくす方向へ加担した責任*

 

 

「正常な分娩」を助産師だけで扱う信念が強い人が残り続けているからかと思っていましたが、最近はもしかするとそれだけではないかもしれないと思っています。

 

分娩を健康保険扱いにすれば、今までは自費で認められていたことも診療報酬から消されたり金額を下げられることがあることでしょう。それは開業助産師自身の首を絞めることになります。

 

その先にあるのは膨らみ続ける社会保障費は「聖域とせず見直す」のが「骨太」ですから、おそらく分娩施設はさらに集約化され、保険適応での産後の入院期間はもっと短くなり、イギリスとかアメリカのように出産2時間後には退院もあり得るかもしれませんね。

 

その受け皿として「産後ケア」で生き延びようとしているのではないか。

杞憂だといいのですけれど。

産後もいろいろ異常は起こりますから、医師とともに経過を見た方が良いと思いますけれどね。

 

いつ頃どこでどの助産師がどのように、政府の「骨太の方針」に取り込まれて行ったのでしょう。

分娩についてわかってもいない経済界の動きで制度を大きく変えられて、周産期医療が崩壊しかねない方向になったら助産師としてどのような責任を負うのでしょうか。

 

 

 

 

助産師の世界」まとめは「助産師の歴史」のまとめにあります。

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

 

 

助産師だけでお産を扱うということ 9 息を吹き返そうという動きが繰り返される

散歩のブログになるはずが、時々私がブログを始めた原点に揺り戻されることが起こります。

 

2000年代の「産科崩壊」と呼ばれる時代に、医師のいない場所での分娩は危険だということを伝えていくのがこれからの助産師の役割だと思うようになり、2012年からブログを始めました。

 

「産科崩壊」から四半世紀、今ではさらに複数の医師が関われる体制や新生児科の先生もいつでも対応できるくらいの安全性と確実性も求められる時代になりました。

その間にも今までまだ未知の世界が多かった胎児や新生児、妊娠・分娩時の異常もどんどんと明らかになって、対応すべきことが増えています。しかも、新幹線の安全な運行のための15秒のような正確性も求められる時代です。

 

1970年代だとまだ小児科の医師にとっても胎児はブラックボックス。性別どころか生きているか死んでいるかぐらいしかわからなかったことを考えると、医療の驚異的な変化ですね。

 

 

*自分の信念を貫きたい人が残り続ける*

 

さて、その私たちの役割が終わった、それは助産師の役割が「医師のいないところで『正常なお産』を介助する時代が終わった」 ということではなくむしろ医療機関で全ての出産に関われるようになったということなのですが、気持ちを変えられない人たちがいまもいることを久しぶりに感じました。

 

 

夫と長男にそばで見守られながら、畳の布団の上でフリースタイル分娩を経験。助産院での出産レポ【たまひよ 出産体験談】

(途中略)

助産師2名のみの介助。

医療行為切開、吸引、等は無し。緊急時は提携している病院へ搬送されることに事前に同意しました。

日本で行われるお産のうち助産院を選ぶ妊婦は1%らしいです。

【感想】

健診の時から完全予約制で待ち時間0。

毎回助産院の院長先生が整体を行なってくれて悩みを聴いてくれて、信頼関係ができて安心感のあるストレスが無いお産ができました。

(強調は引用者による)

 

10年ぐらい前の記事のリバイバルかと思ったら、2024年5月31日付でした。

 

効果を検証するシステムのない「整体」は取り入れるのに、まるで医療行為は不要かのように妊婦さんに伝える助産師がまだいるのでしょうか。

「正常なお産は助産師の手で」「ほとんどのお産は正常に終わる」「女性には産む力がある。赤ちゃんには生まれる力がある」といったファンタジーというかプロパガンダは、いったん信じると人の心をかたくなにさせますね。

 

 

*さらりと書かれている「GBS点滴」*

 

10年前の話かと思いながら読んでいたのですが、途中、さらりと「GBS点滴」とだけ書かれていたことで、現在の話だとわかりました。

 

というのも、2014年ごろはB群連鎖球菌(GBS)陽性の妊婦さんに対する抗生剤の点滴はすでに標準医療となっていたが、「正常分娩」からは逸脱するので助産院では出産できませんでした。

それで「GBSに効くレメディ」なんてホメオパシーを与えている助産院もあったようです。

 

2015年になると突如として「助産師の役割拡大」の要望にこの点滴も含められたのでした。

医療行為はしないお産が助産院のうりだったはずのに、点滴や会陰切開・縫合といった医療行為は助産師に認めよというつじつまのあわない変化でした。

 

こうして保険適用の医療行為が助産院でされるようになり、さらに「正常分娩を保険適用の対象に」という提言までするようになりました。

 

ことほど左様に、助産師の世界の「正常分娩」は時代によっていかようにも変わるようです。

 

 

そういえば最近、東京都助産師会から新たに分娩を取り扱う助産所を開業する人のための相談窓口ができたというお知らせがありました。

周産期センターにアクセスの良い東京だからそれができるのかもしれませんが。

 

 

昭和初期の一部の産婆(助産婦)の悲願、どこかでなんだか息を吹き返すような動きがあるような気がしてきました。

そしてそれを利用する動きはなんなのだろう。

 

 

 

 

助産師だけでお産を扱うということ」まとめは「助産師の歴史」のまとめにあります。

 

10年ひとむかし 94 目に見えない別の国境

散歩の2日目は、東海道新幹線の車窓から見ていた新居町駅そばの小さな船溜まりの近くを歩くことができました。

 

中世の大地震によって浜名湖周辺の地形が変わった場所が江戸時代には東海道として栄えて船が行き来していたこと、その先の白須賀宿のあたりは水をえにくい場所だったものが豊川用水からの湖西用水によって農業や工業地帯として発展したこと、そして浜松駅の西側には夢の超特急の安全と安心の1丁目としての整備工場があることと、中世から現代までのこの地域の歴史がおぼろげながら見えた散歩になりました。

 

念願のあの船溜まりを眺めていたら、引き潮で水流が激しそうな中でダイバーたちが何か作業していました。

こういう場所を維持するための作業だろうかと思いながら見えていたのですが、ホテルでニュースを見ていてつながりました。

その数日前に17歳の高校生が遺体で発見された事件の捜査だったのだと。

 

 

*「〇〇籍」の30年*

 

散歩に出かける直前には、高校生が日本人を父に持つ中国籍であることや暴行した側もまたフィリピン国籍とかブラジル国籍ということが少しずつ伝えられ始めていました。

 

最近、さまざまな事件が起こるたびに、「犯人や犠牲者が新生児だった頃はどんな時代だったか」がとても気になるようになりました。

とりわけ、こうした「父母のどちらかが日本人」「親が日本に働きに来た」といった背景を持つ人たちについてです。

 

1990年代初頭には外国籍の人や日本語を話せない人の出産がぼちぼちと出始めました。

言葉の壁、文化の違いを受け入れるだけでも病棟では大変でした。

なんとか身振り手振り、そして片言の英語や漢字の筆談で、無事にお産が終わりお母さんと赤ちゃんが退院していかれると、スタッフ一同、どっと緊張感から解放される感じです。

 

最初は、当時中国残留日本人の帰国が本格化しその子どもたちが出産の年代になっていた頃で、「日本人」だけれど日本語も話せないし日本の生活にも慣れていない方たちでした。

中国では「日本人帰れ」、日本では「中国人帰れ」と言われる理不尽な人生、私と同世代だというのにあの戦争のあと同じ時代を生きていたのに、我と彼(女)の差はどう考えたらよいのだろうと答えのない葛藤がありました。

 

 

90年代半ばごろには、エンターテイナーと呼ばれた東南アジアからの女性たちの出産が増えました。

最初はオーバースティとして日本で生き続けようとした人たちにも少しずつ特別在留許可証の道がひらけて、日本人男性と婚姻関係がある人たちも増えてきました。

最近では、その頃赤ちゃんだった人たちが出産するために入院することがぼちぼち増えました。

 

2000年代に入る頃には韓国の方の出産が一時期増え、また自国では一人しか出産できないからと日本で二人目を出産する中国の方が出現し始めました。厳しい一人っ子政策なのに、法的な抜け道があったのでしょうか。

日本で出産した赤ちゃんを連れて、どうやって中国へ戻れるのでしょう。誰がどのようにパスポートを認めるのでしょう。知らないことばかりです。

 

その中国からの日本での出産が再び増え出したのが2010年代で、一人っ子政策も廃止される動きになり、また高学歴・富裕層の人たちが日本で働くようになった大きな変化がありました。

わずか10年ほどで「特権的な中国籍の人」の出産に変化したのでした。

 

共産主義か資本主義かなんてイデオロギーにはあまり差がなく、結局は政治家で居続けることで多大な利益と権力を得ることが目的になっているシステムが、どの国にもあるというだけですね。

そして時には非合法と合法のグレーゾーンを誰かの利益のために作り出して、「国境線」を融通しているのが現実なのだとしだいに感じられるようになりました。

 

最近は、中国の人の出産が減り、圧倒的にベトナムの人の出産が増えてました。

80年代のインドシナ難民として日本に定住し、日本で生活をしている方々の子どもの世代が出産する時代になりました。

そういう方は身のこなしも「日本人」なので言われないとわからないほどですが、最近は研修制度なのかそれとも別のルートでの来日か、まだ日本語もおぼつかない方々の出産が増えました。

 

その次は人口がどんどんと増えているインドネシアになるのでしょうか?

余剰人口を出稼ぎさせて外貨を稼ぎたい国の思惑と、それを受け入れることで利益がある側のルートがいつの間にか出来上がりますからね。

 

 

*一世紀後に思いを馳せる*

 

わずか30数年ですが、これだけ国境を超えて日本で暮らす人が増え国籍を超えて子どもが生まれるようになったのも驚異的に変化する時代だったと思い返しています。

 

無事に退院される時には、どの新生児にも「幸せな人生になりますように」と祈りながら見送っています。

それなのに生まれてわずか十数年の青年たちを犠牲者や加害者にしてしまったことは、どうしたら良かったのでしょう。

 

「幸せな人生」というのは、生まれた一人一人が大事にされ、人口を増やす政策を考えたのであれば一人一人に対して責任を持つ社会に生きることができるあたりでしょうか。

 

人を単に労働力としてとらえるような国だったり、そのために増やしたり減らしたりするような国にしてはいけない。ましてやその存在さえ認めないような非人道的なことは許されることがないようにしなければいけない。

 

理想論のようですが、あの「人類の為」へと進歩した一世紀前の人たちのおかげでその理想を現代の私は享受できているのですから、求める気持ちを捨ててはいけないのかもしれませんね。

正しさを求めるというよりは、現実を知り葛藤し続ける、そんな感じでしょうか。

 

 

20代の頃に初めて東南アジアで暮らして感じたあの頑丈なカプセルの内と外が、30~40年後にこのような時代へとつながったのだと思いながらあの事件のニュースを追っていました。

 

 

 

 

 

 

「10年ひとむかし」まとめはこちら

あの日(2022年7月8日)から考えたことのまとめはこちら

あわせて「難民についてのあれこれ」もどうぞ。

 

散歩をする 509 堀留川沿いにJR東海浜松工場のそばを歩く

木のベンチでの休憩に助けられながら新居町駅へ向かいました。

念願のあの東海道新幹線の車窓から見た船溜まりの近くも歩くことができたし、すでに2万5000歩も越えて疲れたのでこのままホテルに戻ろうかなと挫けそうになりましたが、まだ14時過ぎです。

 

新居町駅で浜松行きの列車を待つ間も、目の前を何本も新幹線が通過していきます。

そのうち、その速度でこだまかひかりか、あるいはのぞみかわかるようになりました。浜松駅で停車するかどうかで速度が違いますからね。

乗っている時にはあまり気づかなかったのですが、新居町駅のあたりでは車体がかなり浜名湖側へ傾きながら走行しているようです。脱線しないのがすごいですね。

新幹線を見ていたら、やはり計画通りもう一か所訪ねようと決心しました。

 

ただしJR高塚駅から歩く予定だったのは無謀すぎることがわかったので、浜松駅に戻り、そこから最寄りのバス停までバスに乗ることにしました。

 

 

*堀留川と井場遺跡公園とJR東海浜松工場*

 

この計画はだいぶ前からありました。

2020年にたまたま手に取った雑誌でJR東海浜松工場を知りました。以来、E席に座る時には見逃さないようにしています。それまでなぜ気づかなかったのだろうと思うほど大きな工場で、夜に通過しても「JR東海」とピンク色のライトではっきりとわかります。

南側の車両基地にはさまれて堀留川と井場遺跡公園があり、浜松工場のすぐそばを歩けるようです。

 

今回は浜松に宿泊するのでぜひと思っていたところ、その堀留川と金原明善の疏水計画とつながりました。

 

堀留川は「明治4年、井上八郎と田村高蔵が発起人となり近隣の労力奉仕で完成した」運河(Wikipedia「堀留川」)のようですが、金原明善はさらに天竜川からの水をこの運河などに流す壮大な疏水計画を考えていたようです。

疏水事業

明善は、1899年第三番目の事業として疏水事業を計画した。これは、水量豊富な天竜川を二つの方向に分水。一つは三方原台地に通して堀留運河(現・堀留川)に連絡、そして舞阪町に至らせる。そして、もう一つは都田川から浜名湖に通ずる様に計画された。目的は、以下の3点であった。

 1. 運河を利用して材木などの輸送を行う。

 2. 三方原台地の農業を発展させる。

 3. 浜松地区の工業に必要な水を確保する。

Wikipedia金原明善」)

計画は不採用だったようですが、現代への基礎となる計画ともいえそうです。

 

2019年春に天浜線で天竜川を渡り、西鹿島のあたりを歩いた時にみた水路、あれがそうだったのだとつながりました。

 

 

*JR浜松工場バス停から歩く*

 

浜松駅からバスに乗り、途中、現代の都会の真ん中を通る旧東海道も見え、15時ちょうどにその名もJR浜松工場バス停で下車しました。

左手は浜松工場の敷地ですが歩けど歩けどずっと南側の道路にまで到達しません。疲れ果てた頃にちょっとだけ真新しい東海道新幹線の車体が見えて元気になり、工場への新幹線の引き込み線でしょうか、踏切を二つ渡って数百mほど歩いてようやく堀留運河へと出ました。

 

そこから東へ運河沿いに歩きます。車窓から見えていた「JR東海浜松工場」のロゴがそばに見えるのに、これまたなかなか近づきません。

新幹線の車体自体が16両で約400mだそうですから、さもありなんですね。

 

井場遺跡公園の中の東屋で休憩しました。目の前に浜松工場があります。

井場大溝(古代の小川の跡)

 約1500年前から1000年前まで、ここには小川が流れていました。この小川は、公園北西の団地付近から、公園南東の森田・神田町の方向に流れていました。ここでは、その一部を発掘当時のまま保存しています。

 大溝の中からは、土器や木製品のほか貝殻などの食べかす、まじないの道具、さらには、この付近に、古代遠江国(とおとうみのくに)の敷智郡(ふちぐん)の役所があったことを示す木簡(もっかん、墨で字を書いた木の札)が大量に発見されて全国的に注目されました。

 

弥生時代の環濠

 約1900年前の弥生時代後期に、村を外敵から守るために掘られた濠(堀)跡です。集落を囲む三重の濠は合わせて12~13mに及び、間には土塁もありました。村は、濠の内側で120×90mの広さがあり、ヒョウタン形をしています。濠の内側と西側で、平地式住居跡と高床式倉庫跡が発見されました。濠からは多くの弥生土器のほか、装飾された木の鎧、銅鐸と同じ模様や水鳥が描かれた祭祀用の土器も出土しました。この村は、特殊な遺物があり、守りを固めた環濠集落であることから、西遠江の中心的な村であったと考えられます。

 

ここでもまた環濠集落という言葉と出会いました。

 

井場遺跡に沿って歩いているうちに、ようやく浜松工場の東の端に出ました。

間近であのロゴを見上げるように眺め、満足しました。

 

 

*堀留緑道を歩く*

 

ここから堀留運河の暗渠部分まで300mほどが、堀留緑道として整備されていました。

 

堀留運河

 明治時代中期に至るまでは、最も便利な交通手段は、船を利用することでしたが、浜松には港も、船を乗り入れる運河さえもありませんでした。

 明治4年、時の静岡藩浜松勤番組頭の呼び掛けで、付近住民と旧士族のべ2,000人以上が奉仕的に参加して、現在の菅原町から入野町までの約850間(約1,530m)にわずか3ヶ月あまりで運河を築き、入野町から浜名湖へ流れる水路とつなげ、浜松と浜名湖西岸の新所(湖西市)の間約6里(約24km)に旅客や貨物を輸送する船便を運航しました。

 交通の主役が舟運から鉄道等に移り代わるまで、この堀留運河は重要な交通路として、今日の浜松の飛躍的発展の源として広く親しまれてきました。   浜松市

 

緑道から歩道へと変わると、そこにタイルが埋め込まれていました。

1872年(明治5年) 日本で初めて東京の新橋と横浜間に鉄道が敷設され、蒸気機関車が走った。この鉄道業務を開始した10月14日を鉄道記念日とした。

1876年(明治9年) 入野と湖西市新所間に蒸気船が就航した。これは蒸気により水車を回して進む仕組みであった。

1881年明治14年) 井ノ田川を通る船から料金を取り、この運河を維持管理する堀留会社が設立された。その社名から堀留運河と呼ばれるようになった。

(同年舞阪、新居間に浜名橋が架けられた)

1888年明治21年)9月 堀留運河の南側に東海道線の鉄道が敷設され、浜松と大阪府間で開通される。翌22年には、東海道線(新橋〜神戸間)が全通となり、交通は船から鉄道へと急速に変わっていった。

 

弥生時代の小さな小川の環濠集落から、蒸気船を通す運河へ。そして間も無く鉄道に取って代わられるという驚異的に変化した時代を、歩いているだけで知ることができました。

 

そしてその東海道本線を走る蒸気機関車の整備のために1912年(大正元年)にできた浜松工場は、東海道新幹線の安全を支え、安全を追求する工場になった。

 

なんだかすごいなあと、ふわふわと歩いて浜松駅行きのバスに乗り、散歩の2日目が終わりました。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記事のまとめはこちら

 

水のあれこれ 361 中世に流れを変えた浜名川

遠州灘に沿ったおそらく自然堤防と思われる場所と北側の丘陵地帯の間を流れる浜名川が水色の線でまっすぐに描かれ、水路の北側へと何本も分水されているように見えます。

 

実際に歩くと川らしい流れも見えず、もしかすると豊川用水から分水された湖西用水がパイプラインで通っている比較的新しい人工の川だろうかと想像しました。

田んぼはなさそうで、キャベツ畑とところどころ葦が茂っているようです。

東海道五十三次の時代だと、ここはどんな場所だったのでしょう。

 

 

 

*「中世まで現在とは逆に浜名湖から西へ流れて遠州灘へ注いでいた」*

 

地図では細い浜名川が大倉戸海岸のあたりの地域から流れ出て、旧東海道が通る高台の下をゆるやかに蛇行しながら流れたあと途中で分かれて、1本は東海道新幹線の車窓から見える船溜まりの近くに合流し、もう1本はそのもう少し下流で合流して浜名湖大橋と西浜名橋にはさまれた浜名湖の出口のあたりへと流れているように見えます。

 

ただ、よくよく見ると「浜名川が2本に分かれている」よりは、船溜まり側から来た運河が交通公園のあたりで分かれていて、川合の角度が逆のように見えます。

訪ねる前から「ここの水の流れはどちらなのだろう」と気になっていました。

 

散歩の記録を書くために「浜名川」で検索したところ、頼みの綱のWikipediaはなさそうでしたが、「1498年明応地震による遠州灘沿岸浜名川流域の地形変化ー掘削調査による地質学的検討ー」(「歴史地震」第25号(2010))が公開されていて、昔からあった川だったことと、その疑問に思った流れについて書かれていました。

 

1. はじめに

 明応七年八月二十五日(1498年9月11日)に発生した明応地震(M8.2~8.4;宇佐美、2003)については、静岡県三重県で湊町が津波などで被害を受けた記録が残っている(矢田、2005,2009). この津波によって浜名湖南岸では大規模な海岸侵食が起こり、浜名湖遠州灘を繋ぐ「今切れ口」が開いたことは通説となっている(都司、1979;静岡県1996). 明応地震による津波堆積物も静岡県と愛知県の県境に近い湖西市長谷元屋敷遺跡(図1)などから報告されている(Komatsubara et al.,2008 ). しかし、歴史記録自体が少ない古い時代の地震であるため、この地震による地形や人の暮らしへの影響について具体的な証拠はない。

 

「今切れ口」と地震の影響、たしかブラタモリで知りました。

それまで浜名湖のあの場所について、私自身が何も考えたことがないままきたことにちょっと驚いた記憶があります。

 

その明応地震がどうやら浜名川にも影響があった可能性があるようです。

 

 明応地震津波の影響が疑われる例の一つとして、浜名湖遠州灘をつないでいた浜名川の地形と流域の集落の変化がある。浜名川は静岡県西部の新居町を東流して浜名湖南端へ注ぐ小河川である(図1)が、中世まで現在とは逆に浜名湖から西へ流れて遠州灘へ注いでいた(例えば、榎原, 2008). 

これが、川が二手に分かれる川合にしてはなんだか角度が変だと感じた理由でしょうか。

 

 

*「中世には砂丘に閉塞された氾濫原」*

 

遠州灘の海岸線の松林と旧東海道に挟まれた浜名川の周辺の畑と葦が茂っていた地域は、かつては浜名川が今とは逆の向きで浜名湖側から流れ、「中世には砂丘に閉塞された氾濫原」だったことが書かれていました。

 

2. 浜名川の地形

 浜名川は、北側の更新世後期の海成段丘(天伯原台地:杉山,  1991)と南側の砂丘列との間を流れる小河川である(図1). 海成段丘と低地の境界は比高50m前後の崖になっている。現在の浜名川の両側には旧流路と後背湿地からなる幅300~500m程度の氾濫原が帯状に伸びている。北側の段丘から発する小谷がこの低地に注ぐ場所には、しばしば小規模な扇状地が形成されている. 低地の南北両側には比高数mの微高地になっている.  北側の微高地には日ヶ崎などの集落があり, 東海道が通っていた. 南側の砂丘やそこから低地へ続く微高地には、中世までの遺跡が分布する(新居町教育委員会, 1998). つまり、中世には砂丘に閉塞された氾濫原が出来上がっていた.

 

落ち着いた街なのは旧東海道沿いだからだろうかと思ったのですが、もしかするとそれよりも前の砂丘に閉塞された氾濫原を開墾し、川の流れが変わるほどの地震などを乗り越えてきたことが理由だったのでしょうか。

 

そして、あの日見た風景は専門用語で表現するとこうなるのかと、学問とは気が遠くなるような時間をかけ、正確性を突き詰めていくことに圧倒されました。

 

もう少し、この浜名川が流れを変えた時代の様子を知りたいと思うのですが、いつかまたその答えに出会うでしょうか。

 

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

落ち着いた街 51 潮見坂から遠州灘沿いに新居宿へ 

白須賀地区から潮見坂へかけて旧東海道の趣のある道を歩き遠州灘沿いの地域へと出ました。

 

ここからさらに約6kmほど、バスもないのでJR新居町駅まで歩ききる必要があります。

すでに1万4000歩、ちょうどお昼時だったので近くの食堂に入りました。魚フライ定食のお味噌汁が赤だしだったのが、浜名湖を境に関東から関西へと街が変わるような印象とも関係があるかもしれませんね。

しらす大根おろし、白菜の漬物、日常のおいしさで元気が出ました。

 

遠州灘沿いに新居宿へ*

 

満足して、まずは海辺に出てみました。

まっすぐな遠州灘の海岸線がずっと続いていて、浜名湖大橋のあたりまで見えました。

 

このあたりは海岸から北側の丘陵地帯までわずか数百メートルほどの細長い地域が続き、地図ではその真ん中に水色の線が浜名湖まで描かれて田畑が広がっているようにみえます。

てっきりこれが湖西用水だと思ったら、浜名川でした。

北側には山裾に浜名旧街道が蛇行して通っていて、これが旧東海道のようです。

 

以前だったら旧東海道沿いで栄えた街があるのだろうくらいしか思わなかったのですが、あの蟹の腕のような半島の外側は水源がなさそうと想像しながら、浜名旧街道へと向かいました。

 

蛇行する道沿いには落ち着いた住宅街が続いています。山側には神社が点在していて、小さな説明板があちこちにあるのでここもまた歴史資料館を歩いているかのようです。

途中、火鎮神社がありその「由緒」には安永年間の火災があったことが書かれていました。

 

興味深かったのは「立場跡」の説明でした。

 旅人や人足、駕籠かきなどが休息する茶屋を立場(たてば)といって、江戸時代、東海道の各所に設けられていた。

 この立場は、新居宿と白須賀宿の間に位置し、代々加藤家がつとめてきた。

 立場では旅人を見ると湯茶をすすめたので、ある殿様が「立場立場と水飲め飲めと鮒や金魚じゃあるまいに」と戯歌(ざれうた)を詠んだらしいという話が残っている。

 平成二十二年三月  湖西市教育委員会

 

ちょうど私も歩き疲れてどこかに座って水を飲みたいと思っていただけに、「殿様というのは自分を担いで歩いてくれている人たちの辛さは分からないのか」と、この感じ方の差が印象に残りました。

 

街道ぞいには日陰とおそらく風除けのためでしょうか、ずっと松並木が続くのが東海道らしい景色でした。

2月とはいえ日差しの暑さにちょっとくらくらしながら、松の日陰を歩きました。昔の人はほんと、健脚だったのですね。

 

遠州灘の防風林と旧東海道との間にある地域は薄黄色の土が広がっていて、キャベツ畑でした。ところがどこまで行っても浜名川らしい水の流れは見えませんでした。

 

地図では浜名川が南東へと曲がるあたりで緩やかな上り坂になり、住宅地に入ったところで小さな石碑がありました。

棒鼻跡(ぼうばなあと)

 ここは新居宿(あらいしゅく)の西境で、一度に大勢の人が通行できないように土塁が突き出て枡形をなしていた。

 棒鼻とは、駕籠(かご)の棒先の意味があるが、大名行列が宿場へ入るとき、この場所で先頭(棒先)を整えたので、棒鼻と呼ぶようになったともいわれている。

  平成二十二年三月 湖西市教育委員会

 

もう少し行くと、「一里塚」の説明です。

一里塚跡

 一里塚は、江戸の日本橋を起点として街道の両側に一里(四キロメートル)ごとに土を盛り、その上にエノキなどを植えた塚。

 里程(りてい)の目印として、旅行者にとっては馬代や駕籠代の計算などの目安となった。

 慶長九年(一六〇四)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ、東海道では百四ヶ所あった。

 ここには左(東)にエノキ、右(西)に松が植えてあった。

 

現代のごく普通の住宅地の風景だったのが、こうした説明板ひとつで全く違う風景に見えますね。

 

 

*「船囲い場跡」*

 

ふたたび緩やかな下り坂になって平坦な住宅地に入ると、新居関所跡の手前の空き地のような場所に「船囲い場跡」の説明がありました。

 

船囲い場跡

 

 宝永四年(一七〇七)の災害によって宿場、今切関所(いまぎれせきしょ)が翌年に現在地に移転してから、渡船用の船をつないだ所。

 この入り江には、常時百二十艘(そう)の渡船が配置されていた。

 大名の通行等で多くの渡船が必要な場合は、「寄せ船」制度により近郷から船が寄せ集められ、不足を補った。

「1707年の災害」、宝永地震でしょうか。

今は埋め立てられているこの場所にはかつて船溜まりがあったようです。

 

東海道新幹線浜名湖を渡りJR新居町駅を過ぎるとすぐに、A席から小さな船溜まりが見えます。

いつかそこを歩いてみたいと思っていたのですが、この説明板で歴史が少しつながりました。

もう足が棒のようになっていましたが、やはりそこを訪ねようと思いました。

 

せっかくなので新居関所跡も訪ね、東へ150mほどのところにその場所がありました。

朱色の欄干の浜名橋がかかり、東海道本線東海道新幹線に挟まれたあの場所が見えました。

 

ちょうど引き潮で勢いよく浜名湖からその先の運河へと水が流れていましたが、どこまでも透き通った水底でした。

そして東海道新幹線が通過していきました。大満足。

 

さすがに疲れたと思ったら、バス停のそばにまた天竜森林組合の木製のベンチがありました。

なんと歩きやすい街でしょう。

しばらくベンチに座らせてもらって、運河の水を眺めたのでした。

 

 

 

「落ち着いた街」まとめはこちら

新幹線の車窓から見えた場所を歩いた記録のまとめはこちら