イメージのあれこれ 32 最初の印象のあいまいさ

8月下旬のツルボを探しに奈良を訪ねたのに一本もみることができなかった惨敗の記録を書き終えましたが、半世紀前の修学旅行で訪ねた場所はこんなところだったのかと記憶があまりにも違っていました。

ほんとうに記憶はあいまいで、あいまいさがそのまま印象として残っていくのですからちょっと怖いですね。

 

最近、もう一つ記憶や印象のあいまいさを実感することがありました。

「孤独のグルメ」の過去の放送を一挙に再放送しているので全て録画して観ています。

一人の男性が黙々と食べ、その店のメニューを次々と注文している番組を初めて観た時の記憶が鮮明にあるのですが、それがどのお店だったのか何を食べていたのかがわからないままです。

たぶんSeason4だったと思います。

 

記憶にあるのはカウンターに座っている五郎さんを店の内側から窓のほうに向かって映していたことと、何か肉を齧っていたような場面です。

 

最近ようやく待っていたSeason4の再放送になり、一回目から観ていたのですがなかなかあの場面はないままでした。

記憶が違っていたのかなと思いながら「#9 渋谷区神宮前の毛沢東スペアリブと黒チャーハン」の回を観ました。

 

あれは神宮前よりはもっと下町のような雰囲気だったし、こんな凝った名前の料理ではなかったような気がしたので、今回もまた違うのかとほぼあきらめながら見始めると、カウンターに座った五郎さんの姿に「これだ」と思いました。

そして齧っていたのは毛沢東スペアリブだったようです。

 

これが初めて観た回だったと答えがわかりすっきりしましたが、この場面からはまった番組だというのになんとあいまいな記憶だったのだろうと驚きました。

 

日ごろ「印象に残った」とよく使う言葉ですが、記憶のあいまいさとも言えるのかもしれませんね。

 

*ただ食べるだけの番組ではなかった*

 

今回の一挙再放送では、今まで観たことがなかった回もありました。

Season3の新潟十日町の回では信濃川や棚田の美しい風景と、稲穂を見ながらおにぎりを食べるシーンもそのひとつで、まさに私が求めているものにつながりました。

番組名の「グルメ」のイメージよりももっと違う何か、ですね。

 

何度観てもあきないのは、最初の印象だけではないものが見えてくるからかもしれませんね。

 

 

 

「イメージのあれこれ」まとめはこちら

孤独のグルメ」を観て書いた記事のまとめはこちら

 

 

行間を読む 174 右と左

ここ2年ほど、奈良というのはまるで熊手のように盆地周囲の山から小さな流れが集まって合流し大和川になり西へと流れ、その川の周囲に寺社や街ができている様子を思い浮かべていました。

 

平城宮跡を訪ねてからは平城京の都市計画の図がそれに重なるようになりましたが、いろいろと不思議な思いに駆られています。

奈良盆地は川が大阪の方へ流れるために、おそらくお盆を西へと少し傾けたような傾斜があるのではないかと思うのですが、そこに右京と左京を対称につくったことがまず不思議な感じでした。

 

平城京平安京というと碁盤の目のようにまっすぐな道で区切られている街だったことは学生の頃に習ったのですが、そこには小さな川も複雑な起伏もあったはずなのにまっすぐの区画で区切るというのは斬新な発想だったのかもしれませんね。

もっと大陸的なだだっ広い平地がある場所の街の作り方を、無理やり当てはめたかのように見えてきました。

 

それまでだったらおそらく川のそばなどを避けて高台で安全な場所に集落が発達し、曲がりくねった道が集落をつなぐ感じだったのではないかと想像するのですが、平城宮から見た当時の右京と左京はどんな感じだったのでしょう。

 

と考えているうちに、物心ついた頃から「こっちが右」「こっちが左」と繰り返し教わってきたので今は当たり前と思っているけれど、人間が右と左を区別するようになったのはいつ頃からなのだろうと気になり始めました。

以前から臍の緒の巻き方胎児の向きについても右と左の差が気になっているのですが、案外とこうした人間の感覚の基本的なことってわからないものですね。

頼みの綱のWikipediaを読んでも分かりませんでした。

 

コトバンクの「右と左」を読んだらますますわからなくなってきました。

右あるいは左を絶対的に定義することは不可能である。一般には例えば右を<北を向いたとき東にあたる方>とか<北に向かって右>とかいうふうに右、左を使わねばならないから、これは一種のトートロジーである。左右対称(鏡面対称ともいう)を幾何学的に定義することは可能だが、対称性を正中面で二分したときのいずれを右、左というのかは相対的にしか決定できない。

(世界大百科事典第2版 「右と左」の解説より)

 

「右と左」についての何がわからないのかがわからなくなってきたという感じですが、1300年前の奈良の人たちはそれまで地形から認識していたものを、「平城宮から見て右、左」という認識になるには大きな変化や葛藤があったのだろうかと気になっています。

 

 

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散歩をする 386 琵琶湖西岸から北陸を通って帰宅

こんなに畦道を歩いたのにツルボが一本も咲いていないとはあまりにも信じらないまま、奈良での時間が残りわずかになりました。

法隆寺からJR法隆寺駅まではバスに乗る予定でしたが、水田地帯を通るので最後までツルボをあきらめきれず歩くことにしました。

用水路や分水路そして稲穂をながめるいつもなら幸せな時間ですが、今回は二日目になっても一本もツルボを見ることができないという焦りに加えて、途中からまた本降りの雨で踏んだり蹴ったりです。

でも法隆寺の方を振り返って、幻想的だった風景を見ることができただけでも十分ですね。

 

奈良駅まで、そして京都駅までの車窓からもまだまだあきらめられずにツルボを探しました。

 

*京都からサンダーバードで金沢へ*

 

12時10分京都駅発のサンダーバードに乗りました。じきに琵琶湖湖畔沿いになり、ここもまた美しい稲穂が実りの時期を迎えていました。まだ未練がましくツルボを車窓の風景に探したのですが見えません。

大きな琵琶湖の風景もあっという間にすぎ、山あいを抜けて敦賀に到着しました。2年前に比べて、だいぶ北陸新幹線の高架橋ができていました。

 

敦賀を出発すると大雨の後のため今庄のあたりで減速するアナウンスがあり、長いトンネル内から徐行し始めました。

トンネルを抜けるとそばに崖崩れがみえました。

南今庄駅の手前では鹿蒜(かひる)川の堤防が崩れたままで、集落の手前には瓦礫がそのままになっているのが見えました。

日野川との合流部の手前にある数軒の住宅は家の中に土砂が流れ込んだままで、学校のグラウンドに災害ごみが積まれていました。

8月3日から4日の大雨から3週間、どのような避難生活を送られているのでしょう。

 

開けた場所に出ると、4分遅れで武生駅に到着しました。北陸新幹線駅ができるようです。

3年前に九頭竜川の本流と支流を訪ねた懐かしい場所が見えてきました。

その時にはまだなかった高架橋が水田地帯にできていました。

 

足羽川を越え、福井駅を過ぎると九頭竜川が見えました。また雨が降り始めて、福井平野が雨に白く煙っています。黄金色の水田地帯と黒い瓦屋根と、美しい風景でした。

 

また山あいに入り、そこを抜けると県境をこえて石川県へと入りこのあたりから「潟」が増え、いつか歩いてみようと思っていた梯(かけはし)川の氾濫で小松市内にも大きな被害が出ました。

川幅の広い手取川を渡り、しばらく平野を走ると金沢に到着しました。

 

 

*金沢から北陸新幹線の車窓を眺める*

 

15時56分のかがやきに乗車、懐かしい河北潟を過ぎるとじきに富山に入り、すっかりお天気になって虹が見えました。

 

黒い瓦屋根と稲穂が美しく輝いています。庄川を渡り、目を凝らしていたので牛ヶ首用水も見逃さず満足し、神通川常願寺川白岩川、上市川、草月川、片貝川そして黒部川と富山は本当に川が多いですね。だいぶ北陸の川の位置も覚えました。

そして今回発見したのは、富山の川は白い河床にエメラルドブルーの水に見えることでした。

 

長いトンネルを抜けると姫川をこえて糸魚川駅を過ぎトンネルを抜けると上越妙高で、この辺りの稲穂はまだ黄緑色で収穫まではもう少しありそうです。関川の取水堰が見えました。

もう一度トンネルに入り、飯山から千曲川沿いにりんごが袋がけされている風景とまだ緑の稲穂の風景に変わりました。

津軽岩木川にりんごが浮いている悲しいニュースがあっただけに、どうか無事に収穫ができますようにと思っているうちに霧が深くなり軽井沢です。

 

トンネルを越えると関東平野の風景になり、まだ明るいうちだったので伊奈屋敷跡あたりもしっかり見届けられ、見沼代用水によってできた地域をすぎて18時1分に大宮駅に到着しました。

 

一番の目的であるツルボは見ることができませんでしたが、三重県から奈良、そして北陸をぐるりと回ってあちこちの川や水路を見ることができました。そして7世紀ごろから現代まで、水について行きつ戻りつ考えるという壮大な散歩になりました。

 

 

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米のあれこれ 47 法隆寺と天満池と水田

平城宮でのツルボを眺める夢は叶いませんでしたが、まだ2日目に希望があります。

 

王寺に宿泊したのは、2日目の朝早くから法隆寺の近くを歩くためでした。

2年前に大和川の川合を訪ねたときに法隆寺駅で下車しました。この時は残念ながら法隆寺を訪ねる時間がなかったのですが、記憶の中の法隆寺が砂埃の乾燥した場所だったのに対して、こんなに水田に囲まれた地域だったことでいつか歩いてみたいと思っていました。

 

地図では法隆寺の北側の山に溜池がいくつかあり、そこからの水路が南へと流れて大和川右岸の水田地帯を潤しているようです。

ここを歩いてみようという計画です。

 

朝方までの雨が一旦止みましたが、どこかで雷鳴が鳴って小雨がぱらついています。蒸し暑い中、朝7時すぎにチェックアウトし王寺駅前からバスに乗りました。通勤時間帯の車が連なる中、14分ほどで中宮寺前バス停に到着し下車しました。

 

雨が降ったりやんだり日がさしたり隠れたり、なんともせわしない天気です。

ところどころ水田がある住宅街の細い道は暗渠のようです。さらに北へと歩くと、両側に寺社の土壁がある地域に入りました。お寺の屋根には黒い魚の鴟尾(しび)がありました。

そこから数十メートルほど歩くと目の前が開けて水田地帯になり、その向こうに目指す溜池の土手が見えました。

法隆寺の北側にこんな場所があったとは。

 

土手のそばの坂を上ると溜池が目の前に広がり、その水面の向こうに法隆寺五重塔が見えました。ちょうど一瞬出た太陽に黄金色の稲穂が輝き、幻想的な風景になりました。東の方の山なみも見えます。

前日の平城宮跡や唐招提寺や薬師寺も水田のそばに今もあるように、法隆寺のすぐそばでお米を作り続けているのですね。

 

溜池を見下ろすようにそばに小高い場所があり、斑鳩神社がありました。石段の途中では社殿が全く見えない急斜面でした。

 

稲穂を眺め畦道を歩きましたが、やはりツルボは咲いていませんでした。

この水田が途切れたあたりからはもう法隆寺の東側の塀になり、近所の家の間の細い道は生活道路のようで地元の車が通っていきます。

 

半世紀前のイメージとは随分違い、奈良の寺社は生活の場とともに残り続けているのだと感じました。

南大門を出るまで、何度も振り返りながら金堂と五重塔を眺めました。

 

 

*天満池と斑鳩

 

パソコンのマップではこの法隆寺のすぐ北側にある溜池の名前がわからなかったのですが、溜池のそばにある案内図で「天満池」だとわかりました。

 

検索すると「斑鳩を巡る 自然散策うるおいの道」(斑鳩町観光協会)に説明がありました。

天満池

池の前にある「斑鳩神社」が、古くは「天満社」と呼ばれていたことから「天満池」と名づけられました。古くは、1100年ごろに築造されたと「法隆寺別当次第」に記載されています。江戸時代前期に、竜田藩主・片桐氏により大きく改修されたようです。

 

7世紀初めに創建されて以降の法隆寺の歴史だけでもさまざまな議論があるようでとても理解しきれないのですが、溜池が造られた12世紀ごろのこの辺りはどんな生活があったのでしょう。

 

ちなみにもう少し北東に大きな斑鳩溜池がありますが、こちらは1944年(昭和19年)に造られたようです。

 

天満池のほとりに立つと何世紀もあるいは十数世紀も昔から変わらないのかもしれないと思えるような眺めでしたが、斑鳩(いかるが)の地で稲穂が輝くようになったのはいつ頃からだったのでしょう。

 

 

 

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散歩をする 385 万葉まほろば線で車窓から溜池と水田を眺める

地図で溜池を探して訪ねた大池の風景にしばし我を忘れたのは、いにしえのひとも同じだったようです。

西の京大池から薬師寺若草山への眺望(奈良)

万葉集にも詠われた大池の広大な水面の先に、薬師寺東西の塔、遠方には若草山など東部の山並みを望むことができる。奈良盆地の代表的な眺望として写真や絵画を通じて広く知られている。(以下、略)

公益社団法人日本造園学会サイトより)

 

大池の近くの奥柳バス停までもまた少し上り坂でした。ここまで18300歩。炎天下の中の散歩でしたが、水上池から平城宮跡と、まるで夢か幻の中を歩いているような気分でした。

 

15時50分のバスに乗り16時35分に奈良駅に到着しました。まだこれからもう少し歩く予定でしたが、乗る予定だった電車はわずかの差で間に合いませんでした。

 

やはり歩き疲れていましたし18時半には日没ですから、計画変更して17時7分の電車で途中下車せずに車窓の風景を眺めることにしました。

 

 

万葉まほろば線に乗る*

 

2年前に大和川のそばを歩いた時に、大阪から大和路線に乗りました。なんてすてきな名前の路線なのだろうとときめきましたが、奈良にはもう一つ「万葉まほろば線」があることをこの時に知りました。

いつか乗ってみたい。地図をたどっては、その風景を想像していました。

 

17時7分万葉まほろば線王寺行きに乗りました。新しい車体でロングシートでした。ちょうど帰宅時間で混雑していたこともあって、また最後尾に立ちました。

高架橋から奈良市内を一望するように列車が走り始めると次の駅が京終(きょうばて)駅で、読めないけれどなんとなくいにしえの街の境目のようなイメージですね。いつか歩いてみたいものです。

東側の山の方から緩やかな斜面にしだいに水田や水路が増え、時々小さな川が山の方から盆地の方へと流れています。ところどころ溜池も見えます。

夏の夕陽に稲穂が照らされて、ほんとうに美しい風景です。

ふと、雰囲気が変わったと思ったら天理市に入りました。天理教の大きな寺院や宿泊施設が見え、そしてまた先ほどまでの水田と水路の風景になり、古墳がある表示も見えます。

しだいに山の端が近づいたと思ったら、三輪駅に到着しました。本当はここで下車して大和川中流を歩こうという計画でした。

 

三輪駅を過ぎで大和川を渡ると、桜井駅の手前から線路は西へと大きく向きを変え、車窓の風景は奈良盆地の南側になりました。

ぽつりぽつりと小さな三角の山が見え、昔習った「大和三山」という言葉を思い出していると香久山駅畝傍駅と過ぎました。「もう一つの山はなんだったっけ」と車窓の向こうに広がる水田地帯を眺めているうちに高田駅に到着。

 

また北へと向きを変え、水田や古くからの住宅の風景が続き、山の合間のような場所を通過してなつかしい王寺駅に到着しました。

今夜は大和川のそばに宿泊します。

 

万葉まほろば線

 

まほろば」という言葉も日本史か古文で習ったのか、意味は忘れましたが知っていました。

Wikipediaによると「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味だそうで、記憶の中のニュアンスとは少し違いました。

 

万葉まほろば線という路線名も聞いたことがなかったのですが、正式には桜井線1893年には開業した古い路線のようです。

2009年11月時点では路線愛称はなく、旅客案内上でも正式路線名がそのまま使用されていたが、2010年に「平成遷都1300年祭」や、「奈良デスティネーションキャンペーン」といったイベントが開催されることから、より親しみをもってもらえるように愛称名を公募していた。

選考の結果、沿線に日本最古の歌集である「万葉集」に多く詠まれた名所・旧跡が点在していること、「まほろば」は奈良を連想させる言葉として全国的に広く浸透しており、沿線のイメージと重なることから「万葉まほろば線」に決定した。愛称は2010年3月13日のダイヤ改正から使用されている。

 

たしかに乗ってみたいと思いましたからね。

ただ私の場合は地図で見つけた水路や溜池からですけれど。

 

奈良を連想させる言葉「まほろば」は、人ぞれぞれの理想郷のようなものかもしれませんね。

 

 

 

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米のあれこれ 46 平城京右京の水田地帯

平城宮跡の一面にツルボの花が咲く風景は幻に終わりましたが、まだまだ奈良市内を歩く予定なのでなんとかツルボを見ることができることでしょう。

なんといっても水田と畦道が散歩コースですからね。

気を取り直して次の目的地に向かうことにしました。

 

地図では、平城宮跡歴史公園内に北から南へと何本かの水路が描かれています。

最も西側の水路をたどると平城宮からまっすぐ南へ数百メートルのところに大きな溜池があり、さらにそこから200mほどのところに四条池があります。小さな川を隔てて唐招提寺があり、さらに数百メートル南にその川沿いに薬師寺があります。薬師寺の南側に描かれている水路をたどると、奈良医療センターの前に大池があります。

2年前に平城宮ツルボを見にいく計画を考えて地図を眺めていた時に、有名な寺社がこんな場所にあったのかと驚きました。

 

修学旅行で行って以来、碁盤の目のような平城京の真ん中にそういう大事なお寺があったように思い込んでいましたが、よくよく見ると盆地の端に並んでいる感じです。

そしてそのそばに大きな池や古墳があることが初めて見えてきました。

 

平城宮跡から水路をたどって唐招提寺から薬師寺まで歩いてみよう。それがこの日の次の計画でした。

 

*三条大路の南側の水田*

 

平城宮跡は風と草のかすれる音しかないような静寂さでしたが、外に出ると交通量の多い県道1号線で現代に引き戻された気分のまま南へと向かいました。

 

ショッピングモールの横の道路を車を避けながら歩き、三条大路を抜けて国道308号線を渡り、さらに南へと住宅街を歩くと小さな天神社の祠がありました。

ふと左手を見ると、そこには稲穂が重くなった水田が広がっています。地図に描かれていた名も無い大きな溜池は、今も水田のためにあるようです。

元気が出てその溜池の方向へと歩くと、目の前に大きな水面が見えてきました。

平城宮跡からわずか数分の住宅街に田畑があり、柿の木に青い実がなっていました。

今度は1300年前にタイムスリップした気分です。

 

観光バスも多い県道9号線沿いに南へと歩くと、左手はずっと水田地帯が広がり、右手は川との間に畑や住宅があります。

川の反対側はこんもりとした森があり、唐招提寺の敷地でした。

 

そういえばまだあの四日市のパンを食べたきりでお腹が空きました。14時半で、お店がどこも閉まる時間です。ご飯を食べそびれてはいけないと、ちょうど開いているお店に入りました。

席に座ったところ、お店のドアがガラス戸だったので目の前に広がる水田がまるで一枚の絵のように見える特等席でした。

水田の向こうには春日山などの山が見えます。

黄金色の稲穂を眺めながら美味しいおそばを食べるという、贅沢なお昼ご飯になりました。

 

唐招提寺から薬師寺へ*

 

お店を出るとすぐに四条池がありました。その向こうには薬師寺五重塔も見えます。唐招提寺薬師寺が隣同士だったとは、修学旅行の記憶からはすっぽりと無くなっています。

広い敷地を歩いたような記憶と、水田を見たような記憶が残っているのですが、もしかするとこの辺りの風景かもしれません。

 

県道から唐招提寺の間にある秋篠川へ向かう道は唐招提寺の参道なのですが、そのそばも水田でした。

北から南へとまっすぐ流れるこの川は途中から佐保川になり、南西へと流れを変えながら大和川と合流してあの法隆寺駅の近くの川合に流れていくようです。

 

秋篠川の遊歩道沿いに田畑や堤防の草むらがありツルボを探しましたが、やはり見つかりません。

途中で秋篠川の水量が増えて堰があり、「五条六条共同井堰完成記念」という比較的新しい石碑がありました。地図では五条町、六条東町のあたりでした。

 

水田の向こうに薬師寺五重塔が見えます。右に曲がって川沿いに少し上り道を歩くと、薬師寺前にも溜池があり、周囲の瓦屋根の家並みと美しい風景です。

薬師寺の南側の土塀はところどころ崩れていて、中の薬師寺の建物が見えました。

狭い道を行き交う車を避けながら歩くと、踏切があります。薬師寺の真横を近鉄橿原(かしはら)線が通っていました。修学旅行の時にもこんな近くを電車が通っていたとは。本当に記憶は頼りないものです。

 

踏切を渡ると水田の畦道から川沿いに両側が高くなった場所に入りました。右手は森で、左手はどうやら大池の土手のようです。人通りの少ない道を上って交差点へ出てから、大池へとまわりました。

今まで歩いた平城京よりも小高い場所にある大きな溜池で、水鏡には空だけが映り、その向こうに春日山が見えます。

 

平城京とは奈良盆地の中にこじんまりと収まっている場所だったのだと、半世紀前の修学旅行で訪ねた記憶が一新されていきました。

 

ここまでもまたツルボを一本も見ることができませんでしたが、平城京に広がる稲穂を見て満足し、バスで奈良駅へと戻りました。

 

 

*強者どもが夢の跡*

 

さて、こうして散歩の記録を書いているうちに疑問が出てきました。

 

この日歩いた場所は、平城京の都市計画でいえば平城宮のすぐそばの右京という中心地ということになります。

ところが、発掘調査のきっかけとなる1852年(嘉永5年)の「平城宮大内裏跡坪割之図」が書かれた時点では「水田や畦道や道路」だったようです。

 

平城京の中心地がなぜ現代では水田なのだろう。

 

江戸時代から現代に至るまで緑化と砂防工事が終わっていないほど、田上山(たなかみ山、現在の大津市)のヒノキを大量に伐採して造られた平城京だったようですが、その中心部が水田へと変わっていったのはいつ頃で、その時代はどんな様子だったのでしょう。

 

 

水田についての今までの無から有を作り出すような開墾というイメージがくつがえされる、奈良の田んぼの歴史があるのでしょうか。

「強者どもが夢のあと」とふと思いましたが、その時代を越えたからこその今の奈良の美しく落ち着いた風景なのかもしれないと、思えてきました。

 

 

 

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行間を読む 173 平城宮跡と平城遷都1300年記念事業

1970年代半ば中学校の修学旅行で奈良・京都を訪ねた記憶がところどころあるのですが、法隆寺薬師寺唐招提寺を訪ねたのは覚えているのでその時にこの平城宮跡も通ったのではないかと思うのですが、何も記憶がないのはどうしてだろうと改めてWikipediaの平城宮を読みました。

 

1924年から発掘調査が行われ」「1961年に初めて木簡が出土し」とあり、中学生の頃にこの辺りを通過した時には発掘調査中だったようです。

北浦定政が、自力で平城京の推定値を調査し、水田の畦や道路に街の痕跡が残ることをみつけ、1852年(嘉永5)『平城宮大内裏跡坪割之図』にまとめた。

 

あのあたりは、北側の溜池や周濠からの水によって水田が広がっていたのでしょうか。

修学旅行の奈良の記憶に水田が印象深かったこともつながってきました。

 

近鉄線が公園内を通過している理由も書かれています。

近鉄奈良線平城京を横断する形で走行している。大阪電鉄軌道が1914年に現在の近鉄奈良線を開業した際には平城京の正確な範囲は明らかとなっていたが、世間の注目も薄く(新聞紙法などの言論検閲もあり)、結果的に平城宮の中を横断する形となってしまった。このため、開かずの踏切対策を兼ねて線路を移動し高架化する移転計画が進められている。

 

これはもう近鉄線が移ってしまう前に、急いで奈良を訪ねてあの平城宮跡の草むらを横断する電車に乗らなければ。

たしかに重要な史跡ですが、あの電車が通る風景もなかなかいいのですけれど。

 

 

平城遷都1300年記念事業

 

近鉄奈良線は、平城京跡公園内に踏切があります。

葦やススキが生い茂る場所にその踏切があって、しばし電車の通過を待ったあと、目の前にある朱雀門へと向かいました。

 

どこからか屋外イベントでしょうか、音楽が聞こえてきます。

朱雀門を出ると、そこには公園の一部として整備された朱雀門広場があり、レストランや遣唐使船が池に浮かんだ場所でイベントが行われていました。

 

公園としてはこちらがわが表になるのでしょうか。

私は溜池や古墳をたどったので裏側から歩き始めたのですが、風と草の音しか聞こえない大極殿院の周囲は本当に千三百年ぐらい時間が変わらないような場所に感じました。

そこから一気に現代へと引き戻された感じでした。

 

どうやら平城遷都1300年記念事業のようです。

 

七世紀、八世紀の頃の街並みを静かに歩けるのが奈良のすごい遺産だと思いながら、現代は旅行の便利さとか人を引きつける仕掛けも必要なのかもしれませんね。

ただ、観光客のためよりはその地域の生活や歴史が記録されていくような「旅の仕掛け」の方が後々残っていくような気がしますね。

 

 

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散歩をする 384 ツルボを探しに平城宮を歩く

とあるところにツルボが一面に咲いている映像NHKの「さわやか自然百景」だった記憶があるのですが、録画は削除してしまいました。

 

検索すると2020年2月16日放送の「奈良 平城宮跡」だったようです。

奈良の平城宮跡を紹介。平城京の宮殿や役所などの遺構がのこされている。広さは東西1キロ、南北1キロ。特別史跡として管理・保存されている。現在遺跡の3分の2は草に覆われておりショウリョウバッタ、マダラバッタなどが見られる。

キーワード

アカハネナガウンガ オギ カヤネズミ ショウリョウバッタ シロバナサクラ タデ ツバメ ツルボ ナンバンギセル マダラバッタ 奈良県平城宮跡特別史跡

 

奈良の平城宮を紹介。今も文化財の史跡が続いている。地下水の水位を保つ必要があり小さな池が多く作られた。ヒクイナやツバメが見られ、ツバメの大規模なねぐらとなっている。また水上池にはハシビロガモなど10種類ほどのカモが飛来する。

キーワード

アカギツネ オオジュリン カシラダカ ツグミ ツバメ ハシビロガモ ヒクイナ ミコアイサ 平城宮跡 水上池

(「TVでた蔵」より)

 

 

ツルボを探しに炎天下の平城宮跡へ*

 

2年半、この日をまちに待っていたのでした。

 

平城宮跡歴史公園の北東の入り口から入りました。この日の奈良の最高気温は36度で、平日の日中ということもあるのでしょうか、広大な園内では数人とすれ違っただけでした。

見渡す限りの草地のはるか向こうに現代の家や建物が少し見えるぐらいなので、千三百年前の時空にいるのではないかという気がしてきました。

 

あの番組で映し出されていたツルボが群生していた場所はどこだか全くわからない状況でしたが、近鉄線が横切っているあたりだろうと見当をつけて南側へと歩き始めました。

途中の草むらも目を凝らしてみましたが、一本もありません。

悲しくなって目を上げるとそこには大きな大極殿院が草むらの中にどっしりと建っているのが見えて、なんだか励まされるのでした。

 

きっと線路沿いにはあるはず。

炎天下の中、その背の高い葦やススキが生えている場所にたどり着きました。遠くからでは一見同じような草むらに見えたのですが、ここへあの北側の周濠や溜池からの水路が続き、湿地のようにも見えます。

 

朱雀門とのあいだを電車が通過して行きました。

夏の草と朱色の朱雀門、青い空、そこを電車が横切る風景もなんだか似合っています。

冒頭の番組でも同じシーンをみていて、そのあと地図で確認したら平城宮跡公園内を線路が通っていることにちょっと驚いたのでした。

残念ながら今回はその路線に乗る時間がなかったのですが、いつか車窓から平城宮を見てみたいものです。

 

ススキの穂や秋の草花が咲き始めていましたが、本当に1本も、ツルボに出会いませんでした。

でもふりかえると広大な野原にたつ大極殿院と、先ほど歩いた溜池や古墳がある場所が見えて、それだけでも来たかいがありました。

 

いつかここ一面に咲くツルボを絶対に見たいという思いが強くなりました。

そのためには奈良に住んだらいいかもしれない、いやいやそれはあり得ない、いやいいかもしれない。

帰宅してからもしばらくその気持ちで揺れていました。

 

 

 

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生活のあれこれ 12 周濠の水が水田を潤し、その先に平城宮跡が広がる

どこからともなく秋の香りが漂うのは葛の花でしょうか。静かな水上池は一枚の絵のような美しさでした。地図で見ると、水上池のすぐ北側には仁徳天皇皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)陵の周濠が隣接しています。

 

池の西の端に細い水路があり、南側の少しさがったところにある水田へと繋がっているようです。古墳の周濠が池より少し高いところにあり、緩やかな勾配を利用して水が水田へと流れるようになっているのでしょうか。残念ながら今回は仁徳天皇皇后磐之媛命陵を訪ねらる時間がありませんが、またいつかその地形を歩いてみたいものです。

水上池が終わり佐紀東町の住宅地に入ると、落ち着いた家並みがゆるやかに蛇行した道に沿って続いていました。地図ではこの住宅地の真ん中に平城天皇陵があるはずで、そんな遺跡のそばで暮らすのはどんな感じなのでしょう。

 

家が途切れたところにある畑の先を西へと曲がると急に開けた風景になり、本当に「あっ」と声が出ました。

 

広大な草むらの中に朱塗りの大きな第一次大極殿院(だいごくでんいん)が建っていて、まるで現代から千数百年前にタイムスリップしたのかと思いました。

 

1970年代、中学校の修学旅行で奈良を訪ねた時にこの風景の記憶はないのですが、それもそのはず近年になって復原されたようです。

平城京跡の北方に位置する「第一次大極殿院」。第一次大極殿院は、「大極殿」を含む南北約320m、東西約180mの区間で、古代の宮都における中心施設で天皇の即位や外国使節との謁見など国家の重要な儀式が行われた場所です。

大極殿」は2010年(平成22年)、「大極門」(※)は2022年(令和4年)に復原され、現在は「東楼」の復原工事が始まっています。その後、「西楼」「築地回廊」の復原整備を進める予定です。

※大極門:第一次大極殿院の南側の正門であり、儀式の際には天皇が出御することもありました。この門の名称に関する記事は文献資料に見ることはできません。日本や中国の宮殿等の事例研究から「大極門(だいごくもん)」と命名しました。

    (「国営平城宮跡歴史公園」サイトより)

 

 

道を隔てて北側はふつうに住宅地があります。

12年ほど前に復原された平城宮とは言え、周囲には水田が残りその水田への水は古墳や中世の溜池から来ています。

毎日この風景をみながら生活をするなんて、なんとうらやましいことでしょう。

 

平城宮跡歴史公園へ入る前に、もう少しその住宅地を西へと歩くと途中にも小さな水田が残り、稲の良い香りがしています。

 

しばらく歩くと、南北に二つの溜池がありました。

溜池の水は公園内を潤し、さらにその先の唐招提寺東側の水田地帯へと地図では繋がっています。その溜池を見てみたかったのでした。

 

二つの溜池の間は森があるのでひんやりとしています。溜池のそばに佐紀神社がありましたが小さな木のお社で、後由緒は「今ヲ距テルコト千三百年」から始まっていました。

しめ縄の紙垂(しで)が真新しく、境内も掃き清められていました。

 

南側の溜池に沿って平城宮の方向へと戻ると、この溜池は文化庁が管理していることが記されていました。

 

奈良に到着して1時間ほど歩いただけでしたが、いにしえより水に乏しい土地柄であった時代の風景を行ったり来たりしているような不思議な感覚になりました。

 

 

「生活のあれこれ」まとめはこちら

 

落ち着いた街 27 古墳と溜池と水田と

2年ぶりの奈良駅に降り立ちました。奈良駅のこじんまりとした静かな感じが好きです。

観光地だけれど、生活の場所であることが大事にされている。そんな印象です。

 

12時28分、奈良駅西口からバスに乗りました。一旦、近鉄奈良駅の方向へ少し上り坂になり、そのあと奈良盆地のへりに沿って走り今度は川に沿って少し下り坂になり、その間ずっと奈良盆地を囲む四方の山並みが見え、真ん中のくぼんだ場所がわかる雄大な奈良の風景です。

法華寺を過ぎるあたりから景色の中に水田が増え始め、12時50分航空自衛隊前バス停で下車しました。

 

航空自衛隊奈良基地は、左右を小奈辺陵墓参考地と宇和奈辺陵墓に挟まれ、さらに西側は仁徳天皇皇后磐之媛命(いわのひめのみこと)陵が接している場所にあります。そのためか営門が白壁と瓦というおしゃれな外観で思わず写真を撮りたくなりましたが、不審者になってはいけないので歩き出しました。

営門のすぐ前にも水田がありました。

 

営門のすぐ西側には小奈辺陵墓参考地の堀が始まっています。

航空写真と地図で想像していた以上の大きさで水が悠々とありますが、深さはそれほどではなさそうです。

 

*水上(みずかみ)池*

 

古墳の堀が終わり白壁と竹やぶの間の道を抜けると、右手に大きな水上(みずかみ)池が広がりました。

左手は少し下がって水田地帯が広がり、奈良盆地の遠いところも見ることができます。

 

これもまた想像以上の溜池の風景でした。検索しても水上池の歴史のようなものがほとんどわからず、池のそばにも説明板はありませんでした。

唯一見つけたのが以下の説明です。

 

平城宮跡そばにある奈良市最古の池の一つ

水上池(みずかみいけ・みずがみいけ)は、平城京跡北側の第一次大極殿や遺構展示館等があるエリアからほど近い、佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)周辺にある奈良市最大級の大規模なため池です。

天理市との境に位置する「白川溜池」のような護岸で固められた人工的な池を除いては、奈良市内で最も広大な池であり、かつ最も古い池の一つであるとされる水上池は、『日本書紀』の垂仁天皇記において「倭の狭城池及び速見池をつくる」と記される中の「狭城池」にあたると考えられ、その歴史は1300年前の「平城京遷都」をはるかに遡るものであるとも言われています。

(「奈良まちあるき風景紀行」より)

 

ほとんど人が通ることもない静かな道をてくてくと歩きました。

静かな水面に惹き込まれそうです。真夏の日差しでしたが、畦道にはコスモスや白粉花、名前がわからないのですが秋の草花の風景です。

ツルボもあるはずと目を凝らしながら歩きましたが、ここにはありませんでした。

 

水上池の西端から水路があり、平城宮跡の方へと流れその間にある水田地帯を潤しているようです。

 

今まで古墳についてはほとんど関心がなかったのですが、地図で奈良を眺めていると山側に沿ってぐるりと古墳があちこちにあり、その多くが周囲に水を溜めた形であることに気づきました。

2年前に大和川を訪ねて歩いた時に、奈良の中心部が水田地帯なのはくぼんだ地形だからかもしれないという印象がありました。

そしていにしえより水に乏しいという言葉とつながり、古墳の周囲の水は灌漑のためだったらしいことが漠然とわかりました。

 

中学校の修学旅行で奈良を訪ねたのは有名な史跡が中心でしたが、それ以降1980年代終わり頃と2020年に久しぶりに奈良を訪ねたときに半世紀前どころか何世紀も前の風景ではないかと思う場所があちこちにあり驚きました。

 

観光資源として保存されているからだと最初は思っていたのですが、むしろ盆地の周囲の小高いところに造られた溜池を中心に今も生活が営まれているからではないか。

そんな印象に変わってきました。

 

地図に描かれているあちこちの溜池と今の生活をこの目で見てみたい。

 

そう思って立てた今回の計画でしたが、航空自衛隊バス停前からわずか30分ほどの散歩でその印象が確証に変わっていきました。

 

 

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