水のあれこれ 170 三河安城駅と明治用水

今回の散歩こだまに乗ってのんびり旅です。三河安城駅まで2時間17分、ただ今回は懐かしい三河湾を見るためにA席にしたので、反対側の通過列車やすれ違いの新幹線はあまり見えませんでした。

2週間前なのに、すでに懐かしくてまた訪ねたいと思う新幹線の車窓の風景です。

 

*新幹線三河安城駅と明治用水

 

今回の散歩の目的は愛知用水なのですが、前回見ることができなかった明治用水の箇所からまず訪ねました。

 

新幹線と東海道本線が交差する手前にそれぞれの三河安城駅があり、それをつなぐように明治用水があることに気づきました。

ここを通過するときはあっという間ですし、ホームの建物で周囲は見えないのですから致し方ありません。

 

明治用水は西側へと流れ、その周囲に水田地帯が広がっています。

そのあたりの地名を見ると「東切替」「西切替」「荒田」「新田」と、明治用水と関係があることが推測できます。どんな場所なのだろうと見たくなりました。

 

駅の南口に出て見ました。

三河安城駅は今まで通過していたので、駅舎がどんな建物かも知りませんでした。

北欧風のちょっとおしゃれな建物で、日本デンマークと関係があるとすぐにわかりました。

駅の前には石壁に水が流れ落ちる記念碑があり、「明治用水と日本デンマーク」についての説明がありました。

 

西側へと明治用水の暗渠部分の道路を歩くと、数分ぐらいで用水路が見えてきました。

一段、土地が下がって水田地帯になっています。これが「切替」の意味でしょうか。

もう少し歩いて見たかったのですが、次に乗る東海道本線の時刻に間に合わなくなりそうなので、一旦引き返し、駅のそばから遊歩道がある明治用水を歩き、東海道本線の駅との間に出ました。

 

 

 *矢総公園*

 

そこには、地図には乗っていなかったのですが整備された広場があり、矢総(やそう)公園の説明がありました。

 

この公園は人と水の関わりを表現したもので、天から雨粒として落下し大海にそそぎ、我々の生活に様々な恩恵を与え、水は泉の様に注ぎ、噴き上がり・渓流・河川の様に流れ、雨・滝の様に落下し、池・沼のようにとどこおる。

この水は矢作川から豊田市にある明治用水頭首工より取水し、上流部は一部開水路、 下流部は函渠・管水路により15km流下されて来た水を利用して、地域の人々の"憩い広場"となるよう建設されたものです。

東海農政局

矢作川水利事務所

 

今流行りの「おしゃれな公園」に見えたのですが、この写実的な文章ゆえにその行間にある歴史がまっすぐに伝わってきました。

 

新幹線三河安城駅ができたのが1988年ですが、思い返すと自己啓発が広が始めた頃で、歴史とか事実でさえ感動の物語にされていく今の時代につながっているのだと思います。

その頃にこの説明文を読んだら、古臭く思ったかもしれませんね。

 

2週間前の散歩の風景とこの文章が重なり、今回はここをスタートにして本当に良かったと思いました。

 

その公園から東側へと少し蛇行した小さな道があります。

なんとなく勘で、そこを歩くと良さそうな気がして道なりに歩くと、コンクリート製の四角いタンクがあり、「明治用水二本木分水口」の表示と明治用水の全体像がわかる絵がありました。

 

生活のそこかしこに、明治用水の恩恵が伝わる街でした。

一旦、東海道本線下をくぐると、再び明治用水の開渠部の流れが見えました。

満足して、東海道本線安城駅へと向かいました。

 

次はいよいよ愛知用水を巡ります。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

 

散歩をする 288 ただひたすら川と海を見に〜愛知用水と知多半島〜

2月下旬に矢作川明治用水を見てまわったあと、2週間後の3月中旬には愛知用水を見に出かけました。

 

愛知県は一足先に2月下旬に緊急事態宣言が解除されましたが、東京は3月21日まで再度延期になりました。宣言解除まで待つと春休みで一気に人出が増えそうですし、今年は春の訪れが早く、飲酒や食事で盛り上がり始めていた雰囲気でしたから、出かけるのなら3月中旬だと色々と今までの社会の反応を考えながら決めました。

 

地図を見ながら計画を立てるのは、本当に楽しい時間です。

まっすぐの水色の線を見つけて、たどってみると「愛知用水」と正解を見つけるときの楽しさや、ふと目についた場所を検索すると愛知用水に関連した場所で「み〜つけた!」という感じです。

全部の地域を歩き回る勢いで、次から次へと計画が出てきました。

でも、幹線水路だけでも全長112kmもありますからね。

列車やバスの時刻表をつき合わせながら、計画ができました。

 

今回は三河安城駅からスタートして、前回のやり残した宿題の駅のそばを通っている明治用水を歩くことにしました。

明治用水中井筋で、西側へと伸びるその水路の南側には水田地帯が広がっているようです。

 

そのあとはいよいよ愛知用水に関連した場所へと向かいます。

明治用水が碧海台地を潤したのに対して、愛知用水はどこへと向かうのか、地図を見ているだけでは途切れ途切れにしか用水が描かれていないので、最初はなかなかわかりませんでした。

Wikipediaの「歴史の概要」を読むと、温暖で風光明媚な観光地だとイメージしていた知多半島の全く知らない歴史が書かれていました。

大きな河川が無く水不足であった知多半島地域への用水運動が愛知用水誕生の端緒である。水不足を溜池で何とかやりくりしていた知多地域は、1947年に大旱魃を受けて溜池が壊滅し大きな被害を受けた。これにより用水設置を求める運動が起こった。このうち、木曽川からの引水を計画したのが篤農家の久野庄太郎と安城農林高校教諭の浜島辰雄である。翌年には地元有志による「愛知用水期成会」が結成された。また久野・浜島は首相吉田茂へ陳情し、国の政策として用水路建設が進められることになった。

 

1950年に「敗戦国復興開発融資」を受けて計画が始まり、1961年9月に完成したとあります。

私が生まれた頃で、その十数年まえにはまだまだ「大干ばつ」という言葉があったのですね。

そして戦後賠償で造られた八郎潟もあれば、敗戦国復興開発融資というのもあったのですね。私が物心ついた頃には開発が進んでいたのは、こうした歴史があったことをほとんど知らないままできてしまいました。

本当に自分が生まれた頃や、それより30年、40年前あたりの歴史を知ることは難しく、半世紀ほど生きてようやく繋がってくるものかもしれませんね。

最近の高校生のみなさんは、このあたりはすでに「歴史」となって学んでいるのでしょうか。

 

明治用水と異なり、愛知用水は地図ではなかなかわかりにくいのですが、開渠の用水路ではなく、途中、トンネルで導水されている箇所が多いのかもしれないと感じていましたが、この敗戦国復興開発融資による当時の最新技術が使われていることが理由だったのでしょうか。

 

知多半島で気になる溜池をずっと眺めているうちに、「佐布里池」が目に入りました。池のそばに「水の生活館」があります。愛知用水の資料館に違いないと思い検索したら正解でした。

ここからパズルがどんどんととけるように、愛知用水の流れが見えてきました。

溜池と溜池の間に、トンネルの導水路があるようです。

溜池が造られている場所ですから、直線距離は近くても高低差が大きくとても徒歩でいくつか歩くことは不可能そうです。

コミュニティバスの時刻を確認し、可能な範囲で愛知用水のそばを見て歩くことにしました。

 

知多半島はいつか訪ねてみたいと以前から穴のあくように地図を眺めていましたから、すぐに計画がつながりました。

半島には、名鉄常滑線名鉄知多線、名鉄河和線が三方向に通っています。先端の師崎に行って見たいと、以前、バス路線を調べたことがあります。うまく乗り継ぐと知多半島の先端部分をバスの車窓から見ることができます。

 

一泊二日の計画がすぐにできました。

天気予報では雨模様でしたが、干ばつに苦しんだ地域では恵の雨です。

愛知用水によって、どんな風景が広がっているのだろう。

 

なんだか3度目の緊急事態宣言の雰囲気になってきたこんな時期ですが、またしばらく散歩の記録が続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

新型コロナウイルス関連の記事はこちら

 

 

 

正しさより正確性を 25 啓蒙やプロパガンダではなく

一昨日紹介した東京都看護協会の「看護職のタバコ対策」のチラシは両面の印刷で、もう一面には「看護職のみなさん!『タバコ規制枠組み条約(FCTC)』に日本が署名、締結していることをご存知ですか?」と一回り大きな字でタイトルが書かれていますから、こちらが表側なのでしょうか。

そして「締約国でありながら、我が国の禁煙対策は、最低水準とされています」と続いています。

 

漠然と世界の禁煙への動きは追っていても、たしかにそんな条約があるとは知りませんでした。

一瞬、「そうだ、だから「年間二十数億円が区民の皆さまに役立っている」という表示が許される社会なのだと、納得しそうになりました。

 

2004年に日本も署名した「タバコ規制枠組み条約」について説明がされていました。

同条約は、「タバコ消費の削減」を目的に掲げ、各締約国が「たばこの消費及びたばこの煙にさらされることが死亡、疾病及び障害を引き起こすことが科学的証拠により明白に証明されていること」や「出生前にたばこの煙にさらされることが児童の健康上及び発育上の条件に悪影響を及ぼすという明白な科学的証拠があること」等を認識したうえで、目的達成のための基本的原則および各締約国の義務にういて規定した。公衆衛生分野における初めての国際条件です。受動喫煙防止に関しては、5条(一般的義務)2項(b)および8条に置いて規定されています。 同条約は、2003年5月21日の第56回世界保健総会(WHO)において採択され、2005年2月27日に発行しています。

 

この条約に署名したからこそ、公共の場やレストランなどでの喫煙が制限されるようになったのですね。

8年前にはまだ競泳会場周辺での受動喫煙やサードハンド・スモークに悩まされていたのが嘘のようです。

 

では、「我が国の禁煙政策は、最低水準と評価されている」というのは具体的にどういうことなのでしょうか。

 

*錦の旗ではなく、長期目標を立てる*

 

私自身、タバコの煙や匂いは本当に嫌ですし、仕事上、新生児や子どもが受動喫煙の機会が減るようにこれからも呼び掛けていきたいとは思います。

 

ただ、タバコを適切に吸い、本人にも周囲にも匂いや有害物質が影響しない方法が開発されれば、人の嗜好や選択はとやかく言いたくないと思っています。

人口密度が高いと集合住宅の隣の家からも匂いが漂ってきたり、歩いていても家の中からのタバコの匂いを感じることがしばしばあります。でも、遠出の散歩をしていると、家の間隔があるからでしょうか、ほとんどタバコの匂いに悩まされることはありません。

程度問題とも言えそうです。

 

タバコをやめたくない人の嗜好が、自身の健康にも他の人の生活にも影響が少なくなる方法もいつか見つかるかもしれませんからね。

 

東京都看護協会の次の目標はなんなのでしょうか。看護職の喫煙率をゼロにすることでしょうか。

それとも、「WHOが」「国際条約が」という話で看護職や一般の人を禁煙の方向へと向けることでしょうか。

 

*啓蒙やプロパガンダの時代ではない*

 

20代の頃は、WHOとかCDCあるいは国際機関というのはとてつもなくすごい知が集結した組織で、「正しい方向を示してくれる」ものだと思っていました。

 

最和感を漠然と感じたのが、1990年代初頭に勤務していた病院では先駆的に「母子同室・母乳だけ」を実践していた病院で、その頃に耳にした「母乳育児成功のための10か条」でした。

2000年代に入ると「母乳育児」というながれになっていきました。そこを後押ししたのがWHOが、国際基準がという言葉でした。

 

その頃、補完療法もそれぞれの国の医療の歴史から慎重に考える必要があった言葉が、「WHOの全人的な」という言葉で後押しされていきました。

 

今回の新型コロナウイルスへのWHOとかCDCの対応を見ると、迷走ではなく、多様な国や地域の中で解決策を模索するための協議機関だから仕方がないと、自分の中で整理がつきました。

 

そこに「正しい答え」があるわけではなく、問題は何か事実を積み重ね、解決策は何か試行錯誤するしかないのだと思えるようになりました。

 

 

 *啓蒙活動やプロパガンダは手のひらを返すことがある*

 

さて、最近、目にする「日本は避妊方法や中絶方法が遅れている。WHOでは・・・」についてもどう考えたらいいのだろうと逡巡しています。

 

今、私が引っかかっているのは、インプラントが安全で素晴らしい方法として紹介されていることでした。

1980年代から90年代、人口が増えることが問題視されていたので、開発途上国での避妊プロジェクトではインプラントを埋め込むことも始まっていました。当時は、「有無を言わせずに埋め込み避妊させるのは、途上国の女性の人権を無視している」と指摘されていた方法と記憶しています。

 

 

中絶が違法にされている国では、非合法な民間療法による処置が行われていたり、対応してくれる医師を命がけで探さなければならなかった。

そんな経緯があるから「飲むだけで、一人で中絶を処理できる薬」あるいは「女性が自ら手に入れられる避妊方法」は、産婦人科医にかかることができない国での苦渋の選択だったと私は受け止めていました。

 

ところがまさか30年後に、「日本ではWHOが危険としている手術をしている」「女性に対して無理解」とその矛先が産婦人科医に向くとは思いもしませんでした。

その時期に、日本では違法ではなく誰もが産婦人科医にかかることができる体制になり、より安全に、しかも麻酔を使った手術が開発されていたのに。

問題はあるにせよ、それぞれの国のそれぞれの問題解決の歴史があったはずなのに、「声を上げれば世の中はよくなるはず」という言動が、それまで築いてきたものを簡単に失わせることもあると実感したのが、2004年頃でした。

 

あの当時も、「WHOの勧告にみる望ましい周産期ケア」という雰囲気が、後おししていたのでした。

 

最近の私は、「WHOが・・・」という言葉が使われるとかなりその意見には慎重になるのです。

根拠に基づく医療という言葉もたかだか30年なのですが、パターナリズムから解放されることがもっとも厄介なことなのかもしれませんね。

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

たばこについてのまとめはこちら

 

 

たばこについての記事のまとめ

昨日の記事を書くために、今までのたばこについての記事を検索しました。

すでに「分煙や喫煙の時代の変化」に小まとめを作ってあったのですが、これは「喫煙」「禁煙」の視点から書いた記事です。

 

ところが「たばこ」「タバコ」で検索すると、まだまだ記事がありました。

例えば「紙おむつのトリビア」とたばこがどんな関係があるかというと、「タバコ1箱30円」と書いています。

あるいは「9年前の白子川の散歩の記録」では、「深夜には、無人になるタバコ店」の部分です。

 

こうやって「たばこ」に関する記事をもう一度並べてみると、「喫煙・禁煙」は健康問題からの視点で、「タバコ」は社会的な問題あるいは私自身のタバコの匂いが辛いという感情で使っているのに対し、「たばこ」はどちらかというと生活史に対して使い分けていたのかもしれないと思いました。

 

10年ほど前までは、「タバコ」に関する議論の中で「文化的な面」で保護的な意見を目にすると、多少は心がざわつきました。わかるけれど、やはり煙に悩まされるのは勘弁と。

最近は加熱タバコの広がりで煙は少なくなったものの、匂いには勘弁です。

 

ただ、あちこちを散歩するようになって、それぞれの地域にはそれぞれの歴史があり、それぞれの産業が発達してきたことが実感として理解できるようになると、たばこを栽培していた地域やその産業を支えてきた人のことももっと気になるようになりました。

あるいは、「そうだ、街灯が少ない時代や街はタバコ屋さんの灯に助けられていたし、それが自動販売機になっていった」と思い出しています。

 

時代が変わると手のひらを返すように前の時代を批判し、特定の産業の歴史を貶めるような意見が、特にインターネットの広がりとともに瞬時に何万人もの人の反応を「正しい意見」としてしまう怖さがあります。

 

頑張って作っても50回の農業の中で、より良いたばこの葉を作ってきたことに誇りを持っていらっしゃった地域の方々もいることでしょう。ところが社会の風向きが変わると、まるで不要だったかのような視線になるのは、米を生産していた祖父の世代も同じでした。

 

その人生そのものまで否定される風潮にならない方が、落ち着いた社会と言えるのではないか。

そんな風に、私自身の気持ちが「たばこ」について変化してきました。

 

 

 

あらためて「たばこ」についての記事のまとめを作ってみました。

タイトルだけ見るとたばことの関連がわからないものもありますが、どこかにたばこについて書かれています。

新生児の哺乳行動とは 5   移行便〜母乳便

「ペリネイタルケア 1月号」、おまえもか・・・。

紙オムツのトリビア

母乳のあれこれ 24   母乳とアレルギー

記憶についてのあれこれ 7  コーヒー

花タバコ

小金がまわる 1    助産師の小金がまわる世界

記憶についてのあれこれ 31   分煙や禁煙の時代への変化

たばこのにおいと感情

境界線のあれこれ 31   煙とにおいの境界線

競泳と受動喫煙

行間を読む 32  「バースプランというのは矛盾した言葉」

帝王切開について考える 28   「わが国における帝王切開分娩の最近の傾向」より

気持ちの問題 30   「東京グッドマナー」と聞いて気恥ずかしい気持ち

事実とは何か 20   火災の原因

数字のあれこれ 19 タバコの煙やにおいの測定装置はないのか?

数字のあれこれ 35     45分

記憶についてのあれこれ 128   「街の追憶」

医療介入とは 103   診断名がつく

10年ひとむかし 59   受動喫煙という意識が定着した

境界線のあれこれ 97 屋外と屋内

記録のあれこれ 81   9年前の白子川の散歩の記録

小金がまわる 23   「年間二十数億円のタバコ税が皆様の暮らしに役立っている」?

鶏が先か卵が先か 4   「失敗を認める」ことが先か、「失敗を赦す」ことが先か

正しさより正確性を 24      「看護職のタバコ対策」

正しさより正確性を 25   啓蒙やプロパガンダではなく

 

正しさより正確性を 24 「看護職のタバコ対策」

感覚的なものですが、この10年ほどでタバコの匂いが服などに染み付いた方と遭遇する機会が減りました。最近、少し、列車内の混雑が緩和されたこともあるかもしれません。

 

反面、タバコの匂いから解放されたいという半世紀前には考えられなかった理想の社会が近づいてきたので、不意打ちのように漂ってくる匂いに前にもまして敏感に反応し、苛立ってしまいやすいのかもしれないと自重するようにしています。

 

タバコの匂いというのは、すれ違ったときにこちらについただけでもしばらくの間その匂いがこちらにもつくほど強力ですからね。

さらに、以前は煙が目で見えたのに、最近は加熱式タバコのように煙がないものも出現したので、不意打ち感が増しました。

人通りが多い中で手のひらに隠すように加熱式タバコを握って口に持って行く人もいて、新しいものが出ると、それを使う人と周囲の人との葛藤が何年も続くものだと見ています。

 

*看護職のタバコ対策*

 

3月25日付で、東京都看護協会から「東京都看護協会は看護職のタバコ対策を継続的に実施しています」という1枚にまとめられたものが送られてきました。

記憶にある中ではこうしたお知らせは初めてのような気がして、時代の変化を感じました。

それによると、2013年の日本看護協会調査では看護職の喫煙率は7.9%だったのに対し、2018年では7.5%とあまり下がっていないようです。

 

この用紙の中では、「加熱式タバコの問題点」として「加熱式は、紙巻たばこに比べてニコチンの吸収率が高い」ことと「加熱式はやめにくい」ことがあげられていました。

また、サードハンド・スモークについても情報がまとめられていました。

タバコを消した後の残留物から有害物質を吸入すること

タバコを吸い終わった喫煙者の呼気、壁紙、髪の毛、衣類、吸っていた部屋のカーテン、ソファなど喫煙者の居住する部屋のタバコの臭いのするところにはほぼ必ず潜んでいます。

 

 

産科施設だと、やはり妊婦さん・胎児、新生児に接するのでもっと喫煙率が下がるかもしれませんね。私の勤務先では、現在、看護職以外でも喫煙する人はいません。

 

喫煙と同じく健康や依存性に問題がある嗜好品が酒ですが、異なる点として「仕事中にはやめられるか」「吐いた息や服に染み付いた有害物質が他の人へも影響をするか」という点かと思います。

 

さすがに勤務中に飲酒をするのであれば、看護職としては不適格かと思います。

ところが、喫煙はなぜか職場で許されてきたので、そこを変えることが今もなお難しいのかもしれません。

 

ただし、出勤する前や帰宅後に同居する人や周囲の人にも影響を配慮して吸う程度であれば、依存性は低いでしょうし、「看護職だから禁煙を」と個人の嗜好について社会が制止することなのかどうかと、このお知らせを読みながら考えています。

 

なぜこれだけ、たばこに惹きつけられる人がいるのか。

そのあたりが私の知らない世界でもあるので、もやもやするところです。

お酒に対しても同じように思っている人もいることでしょう。

 

もちろん、家の中にいても不意打ちのようにどこからか漂うタバコの匂いに悩まされることが、いつかはなくなったらとは思うのですが。

 

 

「正しさより正確性を」まとめはこちら

たばこについての記事のまとめはこちら

 

 

事実とは何か 81 「10年、15年早く実現していたかもしれない」

もし、今どこかで新たな新幹線駅の途中駅の新設工事があったら、どうやって造られるのか見に行きたいものです。

 

1年前に紹介した「続・秘蔵カラー写真で味わう 60年前の東京・日本」という写真集は、2018年にその「秘蔵カラー写真で味わう 60年前の東京・日本」が出版されています。

 

その中の「新幹線のテストラン」に、新幹線の試運転をみる人が「鈴なり」に集まった写真がありました。「続」編の鴨宮の写真は新幹線の姿だけを公開した時の写真ですが、こちらは走行する様子を公開したもののようです。

 静岡駅で試験走行を見る人々(静岡県静岡市

1964年7月 開業前に初めて民間人を招待して行われた試験走行に私も紹介されたされたので、カリフォルニアから来ていた友人と妻とともに豊橋まで乗って行った。当時はまだ線路が安定していないということで、国鉄も非常に慎重で、東京ー新大阪間に16時間ぐらいかかったから、在来線の方が早いくらいだった。しかし、そうやって安全を確認しながら、徐々に走行スピードをあげ、最終的には、当初新大阪まで4時間の予定をさらに1時間短縮して3時間での走行が実現したのだ。

この民間人を乗せた試験走行の時、静岡駅の東海道線の上を渡る橋のさらに上に新設された線路を新幹線が走った。どこかで情報を聞きつけた地元の人たちが、夢の高速列車・新幹線をひとめ見ようと、橋の上に鈴なりになっていたのはとても印象的だった。(p.107)

 

そりゃあ見に行きたくなるだろうなと思いますね。

それにしても、最初の試験走行が「東京ー大阪間16時間」だったとは。

その後、慎重にスピードをあげて行きながら、夢の超特急を実現したと書かれていました。

 

別の写真のキャプションにはこう書かれています。

ところで、新幹線は世界初の高速鉄道だった。それまで、他のどこにもそんなものは存在しなかったのだ。

 

 

*「もし戦争が起きていなければ」*

 

その「テストラン」の最後に、著者がこう締めくくっていました。

太平洋戦争の前、日本では、東京から下関までの高速鉄道の計画があったという。戦争によって中止になったその計画が、時を経て、当初の計画を上回る形でついに実現したのだ。そのため、初めて新幹線を見たときには、とても感慨深いものがあった。そしてアメリカからきた私にとっては、それが戦勝国アメリカではなく、この日本で現実のものとなったことにも非常に深い感慨を覚えた。もし、戦争が起きていなければ、新幹線は10年、15年早く実現していたかもしれない。

 

たしかに新幹線の歴史に書かれている「弾丸列車計画」は耳にしたことがあります。

 

あの戦争では、日本軍の戦車の装甲は薄く、能力も劣る上、学校では自決の方法を教えとか、戦場での食糧調達は兵士に任されていたという状況に対して、圧倒的な技術・経済力の差と栄養だけでなく嗜好品も詰めたコンバット・レーションの発想があるアメリカに、なんだか丸腰で戦っていたイメージがあります。

戦後も、アメリカのホームドラマの中の豊かさに圧倒され、GPSとか宇宙開発とか圧倒されることばかりでした。

 

そんな時代に、アメリカに追いつけという感じで新幹線の開発も始まったのかと今まで思い込んでいました。

 

たしかに、最近、あちこちの鉄道に乗る機会が増えて、明治時代から、日本の津々浦々にこれだけの路線を整備してきた技術はすごいものがあり、新幹線は太平洋戦争よりはるか前からの、その延長上だったのかもしれないと思えてきました。

 

そして、当時、一個人の感想ではありますが、新幹線をこのように見ていたアメリカの方の当時の生活を垣間見るような記録が残っているからこそ、また違う「事実」が見えてきました。

 

 

 

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散歩をする 287 愛知池へ

最初の計画では足助から豊田市駅にバスで戻り、名鉄豊田線で次の目的地へ向かう予定でした。

足助のバス停で路線図と時刻表を眺めたら、なんと、豊田市駅に戻らなくても名鉄線浄水駅を通過するバスがちょうどありました。

「浄水」その名前に惹かれて、途中下車しようかと思っていた場所です。

 

計画を変更して、このバスに乗りました。

広瀬を通り、矢作川右岸側へと渡り、しばらく矢作川沿いを走るのですが、山のような左岸側ともまた違い、畑がありました。

名鉄三河線(山線)の終点、猿投駅のあたりはもう市街地です。

そこからしばらく走ると、矢作川支流の籠川の周囲に水田地帯が広がっています。そこから少し上り坂になって、浄水場の前を通過し、浄水駅に到着しました。

 

浄水場というと川のそばにあるイメージですが、地図で見るとここにある浄水場河岸段丘の上にあるように見えました。それが理由で、見てみたいと思ったのでした。

愛知県の「西三河水道の浄水場」によれば、この豊田浄水場は「標高90メートルの伊香保台地」にあるそうです。水源はどこなのだろうと検索したら、愛知中部水道企業団の「水のネットワーク」に矢作川の岩倉取水口とありました。

最初の計画通りの小渡行きのバスに乗っていたら通過していた、百月ダムのあたりから導水しているようです。地図で見ると直線距離でも20km以上あります。

 

*ため池、そして愛知用水

 

浄水駅から名鉄線に乗り、目的の黒笹駅におりました。

 

この辺りには数々のため池と用水路があります。

とりわけ、目を引くのが愛知池です。

その北側の水路を地図で見ていたら「愛知用水」とあり、愛知県内の七つの用水のひとつです。

名前は知っていたけれどここを通っているのかと、初めてその場所が見えてきました。

 

愛知池には次の米野木台駅の方が近いのですが、黒笹駅近くにあるため池を見て、愛知用水のそばを歩いて愛知池を目指すという計画を立てました。

 

「駅近くにあるため池」、まずここで計画が甘すぎました。

地図では500mほどですが、ため池が造られているのですから当然小高い場所で上り坂です。

しかも車が結構通るのですが、歩いている人はまずいない道ですから申し訳程度の白線が引いてあるだけでした。いえ、こんなところを歩いている私が悪いのですけれど。

 

途中、愛知国際病院あたりから今度は下り坂になり、東名高速の下を通って海老池のそばに出ました。

ここも大型車がばんばんと走っているのですが、白線しかない歩道です。前から後ろからくる車を避け、立ち止まり、ヒヤヒヤしながら歩きました。運転手さんたちもまさか人が歩いているとは思わなかったことでしょう。

地図ではあと少しで愛知用水の水路で、そこからは遊歩道でのんびり歩けるからと自分を励まして歩いたのですが、愛知用水沿いの歩道は「立入禁止」でした。

ちょっとのぞくと、轟々と水が流れています。玉川上水が「人喰い川」と呼ばれていたことを思い出しました。

 

愛知用水沿いを歩けば愛知池まで700mほどだったのですが、迂回する道を探さなければなりません。

しばらく歩くと天白川があり、その遊歩道をゆっくりと歩くことができました。

東海道新幹線で名古屋に到着する直前に越える、あの天白川の上流とは思えない、可愛らしい小さな川です。

周囲に水田も残っていて、ほっとする風景をしばし歩きました。ところで、水田が残っている場所の地名が「油田」なのはなぜなのでしょうか。

 

小さな川でしたが、その河岸段丘は険しく、息切れしながら登ったところが「米野木台」でした。

 

*愛知池へ*

 

名鉄線米野木台駅を過ぎて、さらに600mほど歩くと次第に愛知池の堰堤が見えてきました。

公園になっていて、堰堤の上も歩けるようです。

 

階段を昇り、目の前に真っ青な水面が広がりました。

想像以上に広い池です。

東郷調整池(通称:愛知池)は、愛知用水の水路水を管理するために造成された人造湖で、愛知用水の幹線水路(本流:全長約112km)の中間点に位置する。本池は、独立行政法人水資源機構が管理する東郷ダム(とうごうダム)のダム湖である。味噌川ダム(木曽川)・牧尾ダム(王滝川)・阿木川ダム阿木川)から放流された木曽川の水を岐阜県八百津町愛知用水取水口で取水後、愛知用水幹線水路を流水し本池にて流入する。また別水系水として、矢作川岩倉取水口(愛知県豊田市)から矢作連絡導水路を流水し本池に工業用水が流入している。本池で貯水した水は、本池の愛知用水取水口を経由して愛知用水幹線水路の下流(東郷発電所経由ルートもある)に再送水する。

 

愛知用水の水は、農業用水として岐阜県、愛知県の27市町の1万5000haの農地、水道用水として愛知県の11市町の家庭約83万人、工業用水として岐阜県可児市名古屋市南部および名古屋市南部臨海工業地帯などの9市町村の約80社の工場で使用されている。

 

この前日から見ていきた明治用水の水源である矢作川から数キロしか離れていない場所に、木曽川から導水した愛知用水がある。

そしてその愛知用水は、ここからはるばると蟹の右手(知多半島)へと運ばれているのでした。

 

この日は時間に余裕があって、当初の計画では愛知用水下流部分をここからもう少し歩くつもりでしたが、ちょっと疲れたのでまだ日が高いうちに名古屋に出て帰路につきました。

帰りの新幹線の中で、すでに愛知用水と蟹の右手を歩く計画ができ始めていたのでした。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

 

10年ひとむかし 79 矢作ダムと堆砂

私が小学生の頃に、矢作ダムが建設されたようです。今考えれば、水害が激減した時代と重なり合います。

当時、どこに大きなダムができたかということがおそらく華々しくニュースになっていたのだろうと思いますが、小学生の私には記憶に残っていませんでした。

 

ダムが気になり始めたのは、1990年代初めに滞在していた地域でダム建設問題があったことがきっかけでした。

世界中でダム建設への批判が高まっていた時代の雰囲気もありました。

当時、アメリカではダムを壊して「自然な川」へ戻すことも始まっていました。

「ダムは不要」「ダムをなくす」、白か黒かしか方法が思いつかないような雰囲気でした。

 

2000年代に入って、また少し風向きが変わりました。

インターネットでは「ダムが好き」という人たちがいて、訪ねたダムや周辺の風景を伝えたり、ダムの専門知識を持った方々の考えを知る機会もできました。

 

自然環境に与える影響と、人が住む環境に与える影響、ダムが必要かどうかにはもっともっと複雑な議論の過程と判断があることを知ることができました。

 

ただ、気になっていたのは、あの大きなダムに溜まった堆砂はどうするのだろうか、ダムを壊すしかないのだろうかということでした。

 

*奥矢作湖と堆砂*

 

Wikipedia矢作ダムを読んでいたら、こんな方法が考えられ始めていたのかと、また時代の変化を感じました。

ところがこの奥矢作湖は近年、急激な堆砂が進行している。堆砂とはダム湖に上流から流入した土砂が堆積することであり、ダムの宿命でもある。だが奥矢作湖の場合2000年(平成12年)9月に東海地方を襲った未曾有(みぞう)の集中豪雨・東海豪雨岐阜県では惠南豪雨とも)によって矢作川上流部の上村川流域で土砂崩れが多発。この土砂が一挙に湖に流れ込み当初の計画より65年も早く堆砂が進行した。治水を目的とする多目的ダムの場合、堆砂の進行は洪水調節機能に重大な影響を及ぼすため、ダムを管理する国土交通省中部地方整備局は「矢作ダム直轄堰堤(えんてい)改良事業」として奥矢作湖の堆砂除去を開始した。現在湖では浚渫(しゅんせつ)が実施されておりダムに溜まった土砂を取り除く作業が進められているが、浚渫した土砂をどう処理するかが問題になった。これに対し下流受益地の豊田市は建設が予定されている市営運動公園の造成用にこの土砂を使用する方針を固め、一色町(現西尾市)では愛知県と協力し、土砂を利用して三河湾に人工干潟を造る計画を立てている。また豊田市は上流の土砂流出対策と水源保護を目的に、水道水源保全基金を財源として「水源の森」をダム上流に造成する計画を市議会で検討しており、林業衰退による深林の荒廃を阻止して水源林の保護と堆砂対策を進めようとしている。

 

 

「土砂を利用して三河湾に人工干潟を造る計画」、利点と欠点、いろいろ専門的な見方はあるとは思いますが、30年前のダムを壊すしかないという時代にはこんなことは思いつかなかったと感慨深く読みました。

 

 

*リスクと失敗との闘い*

 

14世紀から川を付け替え、水を利用し、水を制してきた歴史を読むと、1594年に行った「中流域西部・南部の可道一本化では遊水池(妙覚池)などが消失したことで、水害が激増しました」と書かれています。

 

このうまくいかなかったことが記録されてきたことにも驚きますが、人と水との闘いを長い目でみると、こうしてうまくいかなかったことを次へと活かしてきた歴史として、この堆砂の新たな処理方法を捉えたらよいのかもしれませんね。

 

30年前はまだこうした官公庁の資料をすぐに読める時代ではなかったにしても、治水と利水とそして環境問題のリスク比較を思いつくこともなく、私はただ何かを批判していただけだったのだと思い返しています。

それが何に対してだったのか、自分でもまだ整理できていないのですけれど。

 

 

 

「10年ひとむかし」まとめはこちら

失敗とかリスクに関する記事のまとめはこちら

水のあれこれ 169 矢作川

今回は残念ながら矢作川の上流は行けなかったのですが、それでも流れ込む支流や矢作川沿岸の風景を見ることができました。

 

東海道新幹線に乗ると、豊川放水路のあたりまで集中して川を眺めたあとは、ちょっと気が緩んで「ただ今三河安城を定刻通りに通過しました」のアナウンスで我にかえるのですが、矢作川を見逃してしまう理由が、それほど川幅がなくあっという間に通過するからでした。

ある時、川岸の「一級河川 矢作川 国土交通省」の表示が目に入りました。なんと読む川だっけと思いながら通り過ぎたほど、知らなさすぎました。

 

今回の散歩の前に地図で旧矢作川を見つけ、今の矢作川放水路の一つだったのだとわかりました。

その水の歴史をもう少し知りたくなりました。

 

*「矢作川の歴史」*

 

Wikipediaの「矢作古川」を読むと、江戸時代初期に分流されていたようです。

矢作古川は、矢作川のかつての本流であったが、氾濫(はんらん)を抑えるため江戸時代初期に、今の愛知県西尾市安城市碧南市の境に新たに開いた水路が現在の本流になった。 

 

 

国土交通省のホームページの「水管理・国土保全」に、「矢作川の歴史」がありました。

室町時代(〜1400年頃)までの改修」に、あの岡崎の六名や乙川について書かれていたので、実際に通った場所の風景が重なります。

室町時代(~1400年頃)までの改修

 

天正末期(1586~91)頃までの矢作川は、原始以来のいわゆる乱流そのもので、網の目のように沖積低地を分流しており、低地には自然堤防が次第に築造されて行きました。14世紀に六名堤の築造と乙川の矢作川合流が行われていました。乙川の開削により、当時の岡崎城への舟運を利用した物資運搬の利便性が向上し、六名堤により乙川旧水路を締め切ることで、六ツ美地域の発展にも寄与しました。15世紀半ばには西郷氏等の本流築防の部分的工事が行われましたが、現在のような河道になったのは、豊臣・徳川氏の統一権力による大規模工事によるものです。

 

江戸時代の改修 

 

矢作川の大規模工事の初めは、文禄3年(1594)豊臣秀吉の命令で岡崎城主田中吉成が行った、中流域西部・南部の河道一本化工事です。

しかし、この工事によって、遊水池(妙覚池)などが消失したことで、水害が激増しました。そこで慶長10年(1605)徳川家康が米津清右衛門に命じて、現西尾市矢作古川の分流点より米津町油ケ淵流入地区までの大地を開削して、現矢作川本流の川筋が築造され、舟運も可能となりました。

 

今回の散歩の計画で、西尾線は旧矢作川や矢作川、そしてたくさんの川や水路を越えるので、途中下車をしてみたいと直感した場所が、この歴史に重なったのでした。「米津駅」で途中下車しようと思ったのですが、「米津清右衛門」につながるのですね。

 

そして、明治時代に明治用水が作られ、昭和に入って矢作ダムが建設されたことが書かれています。

広大な三河平野を流れる矢作川は、明治・枝下の二大用水をはじめとする数多くのかんがい、あるいは、水力発電等において、地域に大きく貢献してきました。一方、洪水の脅威と不安定な流況は地域の開発の妨げとなることから、地域の安定した発展のための洪水調節と利水を合わせた、多目的ダムとして矢作ダムが建設され、昭和46年3月に完成しました。

平成12年9月の東海道豪雨時には、約800m3/sの洪水調整を行い下流被害の拡大を防ぎました。

 

本当はこのダムの近くの小渡までバスで行く予定だったのですけれど、残念でした。

 

 

それにしても、川を訪ね歩くようになる前は、地図に描かれている川は「自然な川」と思い込んでいました。

江戸時代どころかそれ以前から、人の手によって作り変えてきた歴史をなぜ知らなかったのだろうと、 ちょっと冷や汗が出る感覚に陥ります。

 

次回、矢作川を通過するときには、歴史を思い返しながら、瞬きを惜しんで風景を見てみようと思います。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

行間を読む 109 幻の名鉄線だった

散歩に行った後にゆっくりと記録を書いているので、あの雑木林に見えたレールや、線路跡を利用しているように見えた道のことが気になったのですが、ようやくその理由がわかりました。

 

名鉄三河線に経緯が書かれていました。

名鉄三河線とは「愛知県豊田市の猿渡駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道」で、たしかに地図では新豊田駅の先に猿渡駅があり、そこで名鉄線は終わっています。

 

名鉄三河線 一部路線の営業終了案内(2003年)」に詳細が書かれています。

 

2004年4月1日には両端区間(西中金駅ー猿渡駅間、碧南駅ー吉良吉田駅間)が廃止された。これらの区間は閑散区間で、西中金駅ー猿渡駅間は1985年から、碧南ー吉良吉田駅間は1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は1998年11月24日に鉄道事業の合理化策として赤字路線の6線区(末端区間揖斐線黒野駅ー本揖斐駅間、谷汲線黒野駅谷汲駅間、八百津線明智駅ー八百津駅間、竹鼻線江吉良駅大須駅間、いずれも輸送密度が2,000人/日未満の過疎路線)を廃止する方針を決め、2000年3月に末端区間など赤字6線区の廃止届を同年9月末までの提出する方針を決定した。同月中には翌2001年10月までに廃線とすることを沿線自治体に通知した。本来の廃止予定だった同年9月末から沿線自治体による年間最大1億円(山線区間)の赤字補填で鉄道の存続が図られたものの、このまま赤字補填を続けても近い将来に三河旭駅ー中畑駅間の矢作川橋梁の架け替えに莫大な費用(150-160億円と概算)がかかるとの懸念から、西尾市が先立って存続を断念する表明をしたことで海線側の廃止(及び代行バスに転換。沿線自治体は碧南市西尾市一色町吉良町幡豆町)が決まり、山線沿線自治体(豊田市足助町藤岡町・旭町・小原村)も追随する結果となった。そして2003年3月27日には海線の、8月6日には山線の廃止届がそれぞれ名鉄から中部運輸局を通じて国土交通省に提出された。

 

前日に通過した吉良吉田駅を通過するのが海線、そして足助方面へ向かうのが山線だったようです。

吉良吉田駅と碧南駅を結ぶ電車があれば、「蟹の口」のような海岸線をぐるりと回れるのにと妄想していたのですが、なんと20年前までは可能だったとは。

 

 

「雑木林の中に見えたレール」についても説明が書かれていました。

山線廃止区間は山間部ゆえに放置されたレールが落ち葉に埋もれるなど自然に還りつつある部分もあるが、地元自治体の活動(後述)により枝下駅や三河広瀬駅が広場として一部整備された他は駅舎・ホーム・レール・鉄橋(矢作川橋梁など)はほとんど撤去されずに廃線当時のままの姿が残っている(踏切部分は撤去)。同区間では廃止後、地元では廃線跡と未成区間の用地を活用し、遊歩道兼サイクリングロードとして猿投から足助までを結ぶ「でんしゃみち」構想が計画され、計画の一環として自治体による廃線跡の整備やボランティアによる路盤の手入れが行われている。

 

西中金駅跡は、三河広瀬駅からコミュニティバスで大きなお寺を通過したあとに足助までの途中にありました。

そこから先は、まだ鉄道が敷かれていず、路盤だけが準備されていた区間だったようです。

 

1990年代に知人に勧められたあとにすぐに足助を訪ねれば、この鉄道に乗ることができていたのですね。

今でも路盤を整備して保存しているのですから、当時は、廃線が決まる前のこの地域の雰囲気はどんなものだったのでしょう。

 

 

無駄な公共工事、民営化、赤字路線の廃止、補助金に頼らない、コストを抑えるそんな言葉が社会の雰囲気を作っていた時代でした。

歴史に「もし」はないけれど、もしあの頃もう少しその流れにブレーキがかかっていたら、今頃、「環境に優しい鉄道や公共交通機関が網羅されて人の足となり、大勢の人を集めなければ成り立たないような観光ではなく、その地域の歴史や産業を大事にした観光」が成り立っていたかもしれない。

 

 

「なぜあの戦争に反対しなかったのか」と父の世代に問うたのが、今度は問われる側になったのだと思うことが増えてきました。

 

 

 

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