つじつまのあれこれ 78 「取りすぎた消費税」のはずだったのに

給与生活の時にはあまり感じなかったけれど、6月というのは辛い季節ですね。

 

*国民健康保険料の怪*

 

「前年度所得が判明する6月」なので、国民健康保険料の通知が来ました。

年金生活の1年目は「前年度の現役時代の収入に応じた額」だから、かなり高くなることは覚悟していました。

 

ふと、疑問がよぎりました。

「新人で給与をもらい始めた時の健康保険料はどうしていたのだろう」と。

住民税は2年目からの支払いですが、健康保険料や所得税は1年目ですからね。

ではなぜ、年金生活1年目は「前年度収入から計算する」のだろう。

新人の時にその月毎に健康保険料を計算できるのであれば、年金生活1年目でも年金額に応じた額の徴収でいいのではないか。

 

でも気が小さい真面目なアリですからね。「福祉目的税」を払っても払ってもまだ財源が足りないと言われ不安定な生活なのに、いそいそ札束を持って区役所に納めに行きました。

 

 

*なぜその月の収入ではなく「前年度」にかけるのだろう*

 

7月には「前年度収入から計算した住民税の納付書」がお届けされるので、天引きされた年金額はいかほどに。

 

とある記事のコメントに、「この手があるじゃない!」と思いました。

住民税の後払いなんてもうやめてしまえばいい。所得税と合わせて源泉徴収すればこんな問題も起きないし、退職後に高額な税金に困ることもなくなる。所得の増減に対する調整は年末調整や確定申告で十分できる。すぐには無理でも10年くらいかけて移行していけばできるはず。これをすれば帰国した外国人の未納問題もなくなる。

特別支給の老齢年金が支給され始めると少しの給与の増減でもしっかり捕捉されて、頻繁に「年金額変更」の通知がくることに驚きました。

 

これがマイナンバー制度やらDXやらの真髄ですね。まあ、あまり「捕捉されたくない」人がいるのでしょうが。このスピードで税の計算と処理もしてくれたらいいのに。

そしてDXとやらで業務のスピードアップなら、年金も2ヶ月毎でなく、毎月振り込みにしてくれればいいのに。

なんだかふと「2ヶ月後の年金を貰えるまで生きてるかな」って不安になる間隔ですからね。

ああ、2ヶ月毎だと少ない年金でも大金に見えるし、だいぶ引かれても天引き分が少なく感じる錯覚があるからですかね。

 

 

*年金生活というのは「自営業」扱い*

 

65歳のお誕生日には在職中なのにそれまで労使折半だった介護保険の後ろ盾がなくなって、とても高額な保険料の通知書が届きました。

 

健康保険料には医療区分以外に「後期高齢者支援金」「子ども支援金」という税と社会保険があいまいなものが含まれます。これも「前年度収入から計算される」ので今回の後期高齢者支援金が年間10万円近く、子ども支援金も1万円近くです。

10円20円と切り詰めているアリの生活を嘲笑うかのようにむしり取られますね。

 

何かの記事でこんな「子ども・子育て支援金」の計算を見ました。

具体的に、標準報酬月額が30万円の従業員を例に挙げると、負担額は以下の通りとなります。

300.000円×0.115%=月額345円

えっ?年金生活者は、労使折半分がないのでまるまる支払っているということですか。ひどすぎますよね。

年金受給者が自営業者扱いというのはおかしくないですか?

 

 

*「税調インナー」が消費税減税に反対して辞任のニュース*

 

「食料品の消費税減税への反発」から自民党議員が税調インナーを辞任する意向というニュースがありました。

「ドリル」がまず思い浮びますが、まあ、先入観を持たずにまずWikipediaでその政策を確認してみましょう。26歳に初当選、その後も2回の選挙は妊娠中とか産休で不在なのに当選したということがすごいですね。

身の丈にあった給与で、一円まで家計簿をつけて生活したことはあるのかしら。

 

とある記事のコメントに、これだと思いました。

「取って配る」は政治がまともなら再配分が機能するが今の政治では新たな不公平を生み出すだけ。

消費税の廃止には議論があるが、今年度予算は効果も定かでない政策てんこ盛りの122兆。この支出が正しいかどうかは議論の対象にもなっていない。

今や新たな不公平を生み出すだけの肥大化した政府支出を減らし、控除を拡大すべき。消費税自体をなくせば不毛な議論も起きない。

日本経済のメインプレイヤーは家計であり多くの企業の収益源は国内消費。家計を強化してこそ経済に好循環が生まれ、国民は豊かになれるのに政府は真逆のことばかりする。

消費税は廃止しても困る会社や人はいない。社会保険料も医療費の直間比率を見直すだけで賃金上昇を阻害する雇用者負担をなくしたうえで個人負担もかなり下げられる。

財源など不要。無駄な補助金を減らして70兆円で回せばいいだけだ。

 

 

「取りすぎた消費税の問題」がいつの間にか「期間限定の食品のみへの減税と給付付税額控除の話」にすり替えられてしまっているけれど、「消費税について考える国民会議」の後ろに税制調査会、さらに「インナー」という黒幕みたいな人たちがいることを初めて知りました。

 

そりゃあ、国民の声や疑問なんて聞こえないですね。聞こえないふり、かな。

それが現代の「政治と経済」

 

 

 

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事実とは何か 130 現代の屯田兵か農業の企業化(株主経済化)か

自衛官について書いたり検索したせいか、ネットがまたそれ関連のニュースをお勧めしてくれました。

 

防衛省が退職自衛官の就農支援強化 小泉氏『担い手確保にも寄与』

(2026年6月23日、日本農業新聞)

 防衛省は、退職自衛官の就農支援策について本格的な検討を始めた。省内に小泉進次郎防衛相をトップとする新たな委員会を設置。就農を含む再就農支援などの具体策を議論する。小泉氏は19日の閣議後記者会見で、「農林水産業の担い手確保にも寄与していく」と述べ、議論を急ぐ方針を示した。

 委員会は17日に設置した。政務三役や各幕僚長らで構成し、小泉氏が委員長を務める。多くが50代半ばで退職する自衛官について、将来不安なく職務に従事できるよう、支援の強化を議論。退職自衛官の就農支援策も検討課題の一つとなる。

 同省によると、退職自衛官の就農支援について、農業インターンシップの促進や農業大学校での研修、就業先へのマッチングなどを進めている。2019年度以降の7年間で約130人が農業分野へ再就職した

 小泉氏は「多くの自衛官がセカンドキャリアとして農業を志している」と指摘した。「農業は自衛隊で培った知識や技能、経験を生かすことのできる分野だ」と強調。今後も関係機関と連携し、就農希望の退職自衛官への一層の支援と、農林水産業の担い手確保を進める考えを示した。

 退職自衛官の就農について、深刻な人手不足に悩む農業現場からも、貴重な戦力になるとして期待が大きい。

(強調は引用者による)

 

「委員会は17日に設置」というと、あの「小泉大臣”退職自衛隊員・家族支援庁”の設立含め検討を指示」(2026年6月17日、TBS NEWS DIG)に関連した話題でしょうか。なんだかきな臭いなと気になっていたニュースでした。

 

退職自衛官って年間どれくらいだろうと思ったら、その記事にリンクされていた「退職自衛官よ、第二の人生は『農業自衛隊』に任せろ」(2025年7月12日、同新聞)では「毎年8000人退職、うち『農業』選択は1%」とありましたが、今年1月12日の「退職自衛官 農で活躍期待 防衛相が現地視察」(同新聞)では「防衛省によると退職する自衛官は年間7600人。再就職先は警備業務をはじめサービス業やインフラ業が多い。農業は1%未満」とありました。

 

半年違うだけで、退職者数がこんなに違うものですかね。

なんだか数字や歴史が正確でないと恣意的な内容に聞こえますね、記事のタイトルもステマっぽいというか。

 

 

*泥にまみれるイメージでも専門が違う*

 

「ポツンと一軒家」を観ていると、定年後に親の農地を継ぐ人がけっこういらっしゃるのだとわかりました。

だから後継者不足と言われながらも案外と全国津々浦々の水田が健在で、各地の水路が維持されているのかと合点がいきました。

子どもの頃から親の仕事を間近にみて手伝っていれば、全くの新人ではないですからね。

 

対して、なぜ「農業は自衛隊で培った知識や技能、経験を生かすことができる」という理解になるのだろう。

自衛官といっても職種はさまざまだしそれぞれに専門性が高いと思いますけれど。

そして専門職を全うする定年の頃というのは、相手の専門性に対する敬意も出てくる年代ですね。

予測が難しい自然相手に市場に出せる品質を維持する農業は「頑張って作っても50回」の世界ですし、専門は違ってもリスクマネージメントの基本は同じですから、生半可は通用しないと二の足を踏むことでしょう。

 

おそらく私の父や兄弟だったら、「畏れ多くて人様に買ってもらえるような野菜を作る自信はない」と尻込みすることでしょう。

あ、もしかしてこんな議論を思いつく人たちは、「農業なんて、〇〇なんて誰にでもできる」と思ってるんでしょうか、なんだか泥にまみれるのは同じようなイメージで。

 

そうそう、1月12日の新聞では船橋市の農業支援の現場を視察する空挺団のコスプレの防衛相の写真が掲載されていました。シュールですね。

 

 

 

*おそらく「屯田兵」ではなく「農業の企業化」のため*

 

「自給自足」とか「屯田兵」とかのイメージを重ねるコメントの中で、なるほどと思ったのがこちら。

例えばマレーシアでは、国防省傘下の退役軍人専門の就業・起業支援機関が軍を退く人々のセカンドキャリアとして、コンビニへの参入を支援するプログラムが組まれている。退役軍人がスムーズに開業できるよう、地元銀行と提携し、初期費用のローンなどを用意し自己資金が少なくてもコンビニを開業しやすい環境が整えられている。両国のコンビニがセブン一強なのはこのプログラムの指定業者だからという説が有力。官の支援があまりに強いと市場を歪めることになる。

勉強になりますねえ。

 

たぶん、冒頭の記事にある「農業」というのは「農家なんて潰していいんだ。農業は企業がやればいいんだ」の方向ではないかと妄想しました。

ずっとその方向お膳立てされた仕事をしてきた政治家のようですからね。

 

そして再就職斡旋は今までのように一般財団法人自衛隊援護協会が探してくれるのではなく、人材派遣会社の「ヒト」扱いになるのかなと妄想していたら、すでに一部そうなっているとAIが教えてくれました。

首都圏や愛知県で就職を希望する任期制自衛官(若年退職者)に対し、防衛省から業務を受託した民間会社(株式会社パソナなど)が支援を行っています。

ああ…。

 

 

そうそう、多くの自衛官が「無事に定年後に再就職できる」のは戦闘に巻き込まれることがない時代だったことも忘れてはいけないですね。

 

 

 

 

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米のあれこれ 156 戸沢村蔵岡地区の田植えのニュース

黒部川扇状地の散歩からちょっと寄り道です。

 

2023年に陸羽西線の代行バスで最上川沿いを走った時に「美しい!」と思った田んぼと鮭川と集落が、まさかその翌年の豪雨災害にあうとは思っていませんでした。2018年にも水害があって「輪中」が完成したばかりだったのに、被害は甚大だったようでその後も集団移転の可能性がニュースで時々伝えられていました。

 

あの美しい風景は今どうなっているのだろうと気になっていたら、田植えをしたというニュースがありました。

 

豪雨から2度目の春 集団移転に向けた準備が進む戸沢村蔵岡地区 地区を離れても前を向く住民たち

(2026年6月15日、山形放送)

シリーズ「時を越えて」です。

一昨年7月の豪雨で地区全体が浸水し、集団移転に向けた準備が進む戸沢村蔵岡地区。

被災からまもなく2年、多くが地区を離れて生活しながらも、共に前を向く住民たちの姿を追いました。

5月下旬、戸沢村蔵岡地区は田植えのシーズンを迎えました。

この日、田植えを行っていたのは、地区で長年稲作を続ける横山博さん(67)。

今年は合わせて6ヘクタールの田んぼで「つや姫」と「雪若丸」を栽培します。

横山博さん「蔵岡生まれ蔵岡育ち。何百年続いた先祖から農家。(農作業)を手伝わされて育ってきた。それがみんな当たり前だった。どこの家でも」

2年前の夏、突然一変した田園風景。そこから住民たちは困難を乗り越えながら共に一歩ずつ進んできました。

おととし7月、記録的な豪雨の影響で集落全体が浸水した蔵岡地区。

最上川からあふれ出た泥水は、田んぼにも押し寄せ、多くの稲が泥をかぶりました。

横山博さん「本当にあの時はどん底に落ちた。気持ち的には。全部だめになった。もういい。こんなところでやってられない。家もだめ、家財道具はだめ、農機具はだめ、全部だめだったから」

一度は農業を諦めかけた横山さん。それでも、続けることを決心した背景には、地区の住民たちからの後押しがありました。

横山博さん「やめないで一緒にやるべという声があったから。みんなの力を借りないととても私一人ではやっていけない。だからありがたい」

現在は村内の仮設住宅で避難生活を送っている横山さん。田んぼの様子を見に来ることが毎日の楽しみです。

横山さん「体力が続く限りやっていく。大変だけど楽しい。秋の収穫の喜びがあるからこれが楽しみ。生きる活力になっている」

おととしの水害を受け、戸沢村は蔵岡地区の住民に対し集団移転を提案。当地区に住んでいた69世帯すべてが同意しています。

集団移転に向けて調整が進む中、先月(5月)、村から住民に支払われる補償金の査定に向けた調査が全世帯で行われました。

現在も蔵岡地区で家族と暮らす横山雅夫さんの家は、新築してまだ4年ほど。

移転後はまた新たに家を建てる必要があり、補償がどれだけ支払われるかは重大な心配ごとです。

横山雅夫さん「同じくらいの規模の家を建てられるくらいの補償があるかどうか。子どもに借金を残すわけにはいかないので、その辺は結果待ちということになる」

村は、補償金の査定をことし10月までに完了させる予定です。

住民あいさつ「おはよう。ご苦労さん」

田植えも一段落した6月上旬、蔵岡地区の公民館に多くの姿がありました。年に一度、住民たちで行う地区の美化活動の日です。

久々に地区に集まった住民たち。色鮮やかな花の苗を植えながら、会話がはずみます。

中村健一さん「これは希望の種といって石川県から復興の証としてもらったヒマワリの種。これをみんなで植えましょう。蔵岡の復興を願って植えましょう」

地区に住んでいた子どもたちも作業を手伝います。

地区の子ども「どろどろ」「やばい。めっちゃ手袋どろどろになった」

地区を懐かしみながらも複雑な思いがこぼれます。

子ども「蔵岡にはいろんな思い出がある。ずっと遊んでたよね。自転車でここ集まっていろんな思い出がある。(みんなは今蔵岡地区に住んでいる?)今は分かれている。戻ってきたいけど。怖い。雨降ったらびびる。あれが起きるかもしれない」

水害から7月25日で2年。今も半数以上の世帯が地区を離れて暮らしています。

早坂修一さん(新庄市内で生活)「みんなの元気な顔を見ると本当に安心する。ふと思いますよ。いつまでこういう生活しなければいけないのかなと。でも自分一人じゃないしみんなが同じ境遇でみんなが頑張っているからやっぱり頑張らないと」

みんなが安心して生活できるその日まで。蔵岡地区の住民たちは前を向いて歩みを進めています。

 

集団移転は決まってもみんなで田んぼは続けるということもまた竹の節で、きっと全国の水田が健在の理由の一つですね。

 

そして農家の方々が花を大事にして幻想的な風景を作ってくださる理由も、すこし理解できたような気がしました。

花が好きだった祖父もまた、どん底に落ちるようなことを乗り越えたのでしょうか。

もう訊ねることもできないのですけれど。

 

最上川流域を歩きたいという無謀な計画もまだまだありますが、ここ最近は「こんな時期に」「こんな場所まで」と年中クマニュースが聞こえてくるので様子を見ていました。

 

今年1月に陸羽西線の運転が再開したようですし、マップで見ると「いきいき百年の里線のバス」というコミュニティバスが蔵岡地区を走っているようです。

稲穂が広がり、道端の花が美しい風景を見てみたいなあ。

 

 

*おまけ*

「復興の証」として種を贈るという、全国の田んぼの横のつながりもあるのですね。

いつかどこかでその花を見るでしょうか。

 

 

 

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水のあれこれ 458 「入善用水路の沿革」

さあ、地図で見つけた「水の小径」を歩いてみましょう。

入善町中央公園から入善用水に沿って1kmほどの区間でしょうか。どんな道でしょう。

中央公園の前は美しい街路樹が続きすぐそばにやはりエメラルドグリーンの水が滔々とながれています。これが入善用水で、1mほどの畦道を隔ててもう一本小さな水路が分水されています。

後ろを振り返ると、立山連峰からまっすぐ流れてきたかのようにダイナミックな風景でした。

 

まだ遊歩道らしき道ではなかったのですが、しばらく歩くと水路のそばに大きな説明板がありました。

これがこの国の用水路を歩く醍醐味ですね。

 

 

*「入善用水の沿革」*

 

 

「水土里(みどり)ネット入善」の「水をたたえる豊かな大地。それは森と用水のめぐみ」と入善用水路の沿革が書かれていました。

 入善用水は、貞享4年(1687年)の開削と言われ、裏山新村荏原前から取り入れ、取り入れ口には閘門を備えていた。

 然し、荏原前に取り入れ口を設けたのはかなり後年のことで、それまでは黒部川の河道の変動により、墓の木、中ノ口等から導水していたといわれる。

 本用水の始めの頃は、54ヶ村、5,000石、1,700町歩にわたってかんがいしていたようであるが、椚山、青木両用水の開削によって本用水のかんがい区域は新屋、入善、小摺戸、椚山、上原の旧5ヶ村約1,100町歩に整理された。

 本用水は取り入れ後、浦山新を迂曲しつつ縦断して小摺戸地内を通り、次いで新屋上村、向島、神林、上田を経て入善市街地に入る、この間、浦山新地内で古郷用水、小摺戸地内で荒川用水、新屋地内で上原・青島両用水、神林地内で町川を分岐し、入善市街では、寺田川、高登川、踊場川に3分する。

 これら本支線は、殆ど黒部川の波流または氾濫流路を繋ぎ、整備して樹枝状の用水系統に仕上げたものと思われる。従ってその川幅も広狭一定せず、河道も曲折が甚だしかった。

 

「河道の変動」、まだ黒部川が一本の川ではなく昨日流れた場所も今日は本流になり渡れずの時代ですね。

そして洪水により田畑の形が変わるので測量が必要という時代は、水路もまた変わってしまったことでしょう。

昔の人はどうやって「樹枝状」に張り巡らされた水路の場所や水路名を記憶し、管理していたのだろう。

こういう説明板の前で立ちすくむことが増えました。

 

説明板の後半に、先ほどそばを歩いた黒東合口用水路についての説明がありました。

 大正14年、当時の黒部川電力株式会社が、黒東6用水と用水使用契約を締結し、これにもとづいて黒東合口用水水力発電事業を実施するに当たり、下流3ヶ村(旧入善、旧上原、旧椚山)の所用水量は黒東合口用水から分水を受けることになり、一方上流2ヶ村(旧新屋、旧小摺戸)の必要水量は右岸連絡水路を通じて分水されることになった。

 本用水は、昭和から平成にかけて圃場整備事業及びかんがい排水事業などにより二次改修工事が行われ、現在は入善土地改良区が維持管理にあたっている。

(黒部川沿岸用水誌より)

簡潔ながら歴史やどの地域なのかがわかる説明ですね。「黒部川沿岸用水誌」という記録もあるとは。読んでみたいものです。

 

 

*水の小径*

 

ゆるやかな下りを入善用水路沿いに歩いていると、まるで林のように続く「水の小径」の区間になりました。

 

春先の田んぼへの供給量も増える時期だというのに、小川を模した人工の流れには豊かな水がながれています。

渓谷のようだったり野原を流れる小川のようだったり、遊歩道の風景が変化しています。

途中、小水力発電の場所もあり、この地域のジオラマのようです。

現実の生活を知らなければ、ジオラマとして再現できないですからね。

 

地図で見つけた場所を行き当たりばったりで訪ねましたが、おそらく他の用水路でも水の歴史を学びながら美しい水辺の風景を歩けたことでしょう。

すべての水路沿いを歩いてみたくなりました。困りましたね。

 

 

*おまけ*

1687(貞享4)年はどんな水の歴史があった年か検索したら、AIが教えてくれました。

日本各地で農業用水の開削や治水のための放水路などの水路網が完成しました。

当時、松江藩で開削された「高瀬川」や岡山の「百間川」などの歴史的な水路事業が代表的です。

代表的な水路として「高瀬川(松江)」、「百間川(岡山)」、「筑後川の水利(福岡県・佐賀県)」と「芹谷野用水(砺波)」の4つが挙げられていました。

筑後川の水利は沿岸の干拓地(クリーク)」のあたりでしょうか、それとも山田堰のあたりでしょうか。

そして「高瀬川」はあの斐伊川水系のどのあたりでしょう。

そしてこの時代の農業はどんな変化が起きていたのでしょう。興味は尽きませんね。

 

 

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落ち着いた街 122 黒部川扇状地の散居村を歩く

権蔵橋を渡って黒部川右岸へ、地図で見つけた黒部川扇状地の散居村をいよいよ歩きます。

 

黒部川を渡ってすぐの小摺戸(こすりど)西交差点から用水路沿いに北西へと曲がると、一面水鏡の水田地帯です。

真っ黒な瓦屋根のどっしりした家がポツンポツンと建っていて、水鏡に家と青空が映っています。後ろを振り向くと、雪を抱いた立山連峰がすぐ近くに見えます。

新幹線の高架橋や北陸自動車道以外には風景を遮る高さのものはなく、それらがなかった時代にはそのまま海岸線までみえたのではないかと思うほど悠々としています。これが富山湾沿いの美しさですね。

 

空をさえぎるものもないので、太古からあまたの人が同じ空を眺めて人生を全うしてきたのだと何か畏敬の念を感じながら、水路沿いを歩きました。

そして下を向くとまたスミレが!

なんと有難い風景でしょう、何か一つでも欠けるとそれは「当たり前ではなかった」ことに気づきますからね。

 

2019年に初めて北陸新幹線に乗って福井まで行く途中で見た、真っ黒な瓦屋根と美しい広々した水田地帯の風景はこの辺りだったと確信しました。

祖父母の地域高校生まで住んだ地域の田んぼの風景とは何かが違うような印象が漠然とあったのですが、このように家が点在するのがのちに「散居村」だと知りました。

 

2023年に歩いた庄川沿いの散居村のように、どこまでもどこまでも歩いてみたいと思う風景です。

庄川では「カイニョ」と呼ばれる高い屋敷林に囲まれているのですが、こちらはあまり見かけなかったのは風の強さが違うのでしょうか。

 

*張り巡らされた用水路沿いに*

 

地図では「青木用水」と表示されているその堤防沿いの水路は途中名前を変え、分水してまっすぐ富山湾へと続いているようです。

その流れを地図で上流へとたどっていくと、ちょうど扇頂部のあたりに両岸の山が張り出して黒部川が狭隘になったような場所に取水堰があるのがわかりました。

富山地方鉄道愛本駅までいくとその堰に近づけそうでしたが、時間が取れずに断念しました。

 

そこから両岸へと用水路が張り巡らされているのですが、途中暗渠になったり分水したりサイフォンで越えたり、複雑怪奇すぎて黒部川右岸扇状地の用水路網を地図で追うのは無理でした。

遠出から戻って資料を検索していると、「扇状地に広がる水の恵み 黒部川沿岸用水(とやまの水土里ネット)」というこれまた詳細な記録がありました。

あとでしっかり読むことにしましょう。

 

ここから北陸新幹線の西側の地域へ歩き、黒東合口用水沿いに歩いてあの椚山(くぬぎやま)用水などが複雑に交差した場所の手前にある「町新屋バス停」からコミュニティバスに乗る計画です。

どんな用水路の風景に出会うでしょう。

 

 

*用水路の水もエメラルドグリーン*

 

轟轟と流れる水路は分水された小さな水路に至るまで、水面がエメラルドグリーンに見えます。

全国あちこちの川や用水路を歩くようになりましたが、この色は富山でしか見かけたことがありません。今写真を見返しても、ほんとうにエメラルドグリーンと表現するのがふさわしい色で、なぜなのだろうとダメもとで検索したらAIが教えてくれました。

富山の川がエメラルドグリーンに見えるのは、雪解け水による圧倒的な透明度と、山々を削り出す過程で溶け出す微細な岩石の粒子(コロイド)が、太陽光に反射して混ざり合う自然のイリュージョンです。

「濁りのない雪解け水」「花崗岩(かこうがん)の成分」そして「光の散乱と吸収」が要因だそうです。

 

どの地域でも用水路のそばを水音や水面を眺めながら歩くのはほんと楽しいのですが、富山ではこの色にも引き寄せられそうです。

 

北陸新幹線の高架橋が近づいてきました。

高架橋のそばに真っ黒な瓦屋根の小さな社殿と少し離れたところにポツンと屋敷林のある家があり、ヒューっという音とともにその後ろを北陸新幹線が通過していきました。

広々とした空にふわりとたなびく雲、一面の水鏡と真っ黒の瓦屋根、そして北陸新幹線。

われながらベストショットが撮れました。

次に新幹線の車窓からこの地域を眺めるのが楽しみですね。

 

新幹線の高架橋をくぐってから後ろを振り返ると、まるで橋脚が額縁のようになって雪山と田んぼと水路、そして真っ黒な屋根の家と満開の桜が見えました。

神々しすぎて、美しすぎてかなわないですね。

 

歩道脇には芝桜が植えてありました。ほんと、全国どこでも花が大切にされ整然とした田園風景です。

 

また縁石にスミレを見つけました。黒部川扇状地のスミレの地図もできそうです。

濃い紫から薄い紫、そして真っ白なスミレと、場所によってさまざまです。

スミレを見つけるとしゃがみ込んで写真を撮り、水路では覗き込んで写真を撮り、このご時世に怪しい人になりそうです。農作業をされている方がいらっしゃると、(歩かせていただいています)と会釈を欠かさないように気をつけましょう。

 

青木用水から離れてしばらく歩くと幹線水路がありました。やはりエメラルドグリーンです。

幅3mほどですが轟轟と音を立てている水路は「人喰い川」の様相です。頑丈な水門があり、この扇状地を横断する黒東合口用水から分水された水が西側の海岸までの地域を潤しているようです。すごいですね、こんな水を管理するのですから。

 

 

*入善用水へ*

 

ここまで9700歩。道草ばかりしていた割には早く目的地に近づいています。

バスの時間まで1時間あるので、それなら歩くことにしましょう。

 

途中で入善用水沿いの地域に入りました。

その用水沿いにある入善町中央公園のあたりに、地図で「水の小径」と表示があるのを見つけ、遊歩道だろうか、入善用水の歴史もわかるかもしれないと訪ねる計画でした。

その途中、きっと疲れるだろうから2kmほどはコミュニティバスを利用しようと思っていたのでした。

 

用水路や田んぼのそばですし、そしてスミレもありましたから全然疲れません。

扇状地のなだらかな下りを感じながら、春の散居村を堪能し、11時25分中央公園に到着しました。黒部宇奈月温泉駅から10.8キロほど歩きました。

 

そばを入善用水が流れ、素敵な木造の東屋があり、桜も美しい季節です。

ここで一休みすることにしましょう。

そばに石碑がありました。

 寄贈

姉妹締結記念 1989年11月1日 台湾埔里国際獅子会

入善ライオンズクラブ

 

「獅子会」はライオンズクラブですね。「埔」という字は日常で使わないので検索したら「台湾などでは平らな土地を示す」とAIが教えてくれました。

もしかして扇状地かとマップで妄想の旅に出たら、内陸部の川合にある都市のようです。どんなご縁で姉妹になったのでしょう。

 

立山連峰と黒部川と扇状地、そして散居村。

歩いているのが幻の世界ではないかと思うほどの美しさでした。

それは庄川の散居村と同じく、河道が定まらない過酷な歴史を乗り越えたからこその風景だと、つながりました。

(略)庄川は大変な暴れ川で、氾濫する度に家を流し、膨大な土砂を堆積した。そんな扇状地が本格的に開拓されたのは加賀藩時代。庄川に堅固な堤防が築かれ、河道が固定した後に多くの人々が入植するようになった。

 1619(元和5)年『利波軍家高ノ新帳』によると、散居村の形態はこの頃には成立していたようで、藩政期を通じて「加賀百万石」の相当の石高を担ったという。出村さんはその成り立ちをこう話す。「最初の頃は、扇状地の中でも条件の良い微高地を選んで構え、家の周囲に田畑を築いた。家の周りに耕作地があると田植えや稲刈りなどの農作業も水の管理も手近にできて、最も合理的で効率が良いからです」。家々が寄り集まる必要がないほど砺波平野は水利が良かったということでもある。

(JR西日本「Blue Signal」、強調は引用者による)

 

 

 

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新幹線の車窓から見えた風景を歩いた記事のまとめはこちら

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水のあれこれ 457 一本の川になった黒部川を歩いて渡る

また盛大に道草をしてしまいました。

でもこんなきな臭い時期こそおかしいと思ったことをきちんと表現した方がいいですからね。

 

さて、黒部川の続きです。

ものごころついた頃から、私にとって「川」とは小さな支流が集まって最後は1本の大きな川になって海へと流れ込むものでした。

地図を見てもそうですし、実際に身近な川は堤防がしっかりあって、破堤や溢水による洪水はあっても昨日渡れた場所も今日は本流になり渡れなくなったなんてことは想像もしたことがありませんでした。

 

10年ほど前から川沿いを歩くようになり、河道が定まらないとか川を付け替えるあるいは分水放水路で川の流れを維持するといった川の歴史が少し見えてきました。

駅前の「黒部四十八ヶ瀬」の絵は、黒部川が一本で流れていることが当たり前になったのはごく最近の歴史だったのだと改めて思い出させました。

 

さあ、いよいよここから黒部川を渡って右岸の「黒部扇状地の散居村」を目指しましょう。

 

*水路とスミレに励まされながら歩く*

 

駅から上流へ向けて緩やかな上り坂を歩きます。あちこちの水路からの豊かな水音が元気づけてくれますが、やはり上りですから下を向きながらになってしまいますね。

歩道の縁石に濃い紫色のスミレがポツンポツンと咲いているのが目に入りました。都内ではもうスミレの時期は終わりでしたが、この遠出では今シーズン2回目の「一日いちスミレ」を堪能して、さらに富山のスミレマップができそうです。

がぜん元気が出ました。水仙やチューリップなど春の花が真っ盛りです。

 

そして水が張られ始めた田んぼを眺めながら橋の方へと歩くと、黒部川左岸の堤防沿いの水路が遊歩道になっていて東屋もあります。

あの場所に座って一日中この黒部川と水田地帯を眺めていたいものですね。

 

黒部川にかかる橋はどんな橋だろう、あの木曽三川公園へむかうときに渡った揖斐川にかかる橋のようにへばりつくような角度だと怖いな、歩けるだろうかとちょっと足がすくむ思いで地図を眺めていたのですが、増水した時に大丈夫なのかなと心配するほど目の前の橋はまっすぐ平らなので安心しました。

 

 

*「権蔵橋の歴史」*

 

橋の手前に草ぼうぼうの場所があって、何か説明板と鉄骨があります。草をかき分けて近づいてみました。

権蔵橋の歴史

 黒部川は、昔から黒部四十八ヶ瀬と言われたように、流水は洪水ごとに氾濫、移動を繰り返し、数多くの河道を形成していました。江戸時代になり治山治水対策がたてられ、黒部川の両岸堤防工事に力が注がれ、その後も各時代におよぶ治水事業により、河道は現在の位置に固定されました。扇状地には、元来同じ村であったものが洪水により分断されたと伝える地名(若栗(左岸)、若栗新(右岸)など)も見られます。こうしたことから、権蔵橋両岸の若栗・小摺戸地区も、江戸時代以前は一帯の地域であったものが、洪水により両岸に分かれたとも考えられます。

 若栗地区と小摺戸地区を結ぶ橋が初めて架けられたのは大正5年で、県が常時水が流れている2ヶ所に吊り橋を設けましたが、少しの増水でも交通が途絶えました。これを見た代議士寺島権蔵氏の働きにより、昭和7年、長さ108m、幅1.8mの吊り橋が架けられましたが、昭和9年の大洪水により流出しました。昭和12年に、再び寺島代議士の努力により、長さ541m、幅6mの木橋が完成し、橋の名は尽力者の名をとって、「権蔵橋」と名付けられました。その後もたびたび洪水の被害を受け、昭和29年に中央部がトラス橋(展示されている橋)に架け替えられ、さらに昭和40年から昭和42年にかけて残りの木橋部分が架け替えられましたが、現在の橋が完成された後撤去され明日。この展示橋は撤去された橋の中央部に架かっていたトラス桁の一部です。

 

私が生きてきた時代というのはすでに「河道が固定され」て、洪水で集落が袂を分つようなことがなくなった時代でした。

ほんとうに、「堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いをはせる」、そんな散歩です。

 

 

権蔵橋を渡りましょう。

 上流を見ると扇頂部のあたりまで3~4kmほどでしょうが、広々と見えます。その先の山のさらに奥には雪を抱いた立山連峰が神々しく見えます。

堤防には桜がちょうど満開です。

富山の川はなぜエメラルドグリーンなのでしょう。橋の真ん中あたりでその美しい流れを眺めながら535mの橋を渡りました。

「全国の一級河川の本流を歩いて渡る」という無謀な計画も、いつの間にか密かに進行中です。

 

 

右岸には公園があって、驚くほどたくさんの人がゴルフボールをしています。田植えで忙しくなる前の息抜きでしょうか。

 

 

河原には集められた流木が見えます。融雪洪水からこの地域が守られますように、そんなことを思いながら散居村を目指して用水路沿いへと向かいました。

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら

スミレのまとめはこちら

 

 

 

シュールな光景 66 おにぎりの激動の10年

大好きなおにぎりを「シュールな光景」で書くのは忸怩たる思いがあるのですが、この10年ほどでおにぎりが贅沢品になってしまったと回想しているうちに、「おにぎり」を書いた記事のまとめを作ることを思い立ちました。

 

そのきっかけになったのがこの記事でした。

パリのスーパーでおにぎり振る舞い、鈴木農相『おいしいと言ってくれた』・・・認知度低い日本のコメPR」

(2026年6月20日、読売新聞)

 フランス・パリ郊外にある大型スーパーを訪れ、日本産米を中心に日本食の魅力をアピールした。輸出拡大に向けた取り組みの一環で、鈴木氏は「おいしいと言ってくれたので、広がる可能性は見えている」と手応えを口にした。

 訪れたのは仏スーパーマーケット大手カルフールの店舗。日本食フェアが企画され、普段は取り扱っていない日本産米を使った弁当などを期間限定で販売している。鈴木氏はお膳を持って店頭に立ち、のりやシソのふりかけを使った試食用のおにぎりを来店客に振る舞った。

 パリには日本食レストランも少なくないが、日常的な食べ物として日本のコメは浸透していない。現地で流通するコメの約8割はインディカ種で、炊飯器も一般家庭には普及しておらず、鈴木氏は「(現地)の調理器具に合わせた提案が必要だった」と語った。

(強調は引用者による)

 

なぜ、こんなアピールを農水大臣が店頭でするのだろう。

こういう「営業」の調整は経済産業省の人とか商社で、農林水産省はまずは国内の生産・流通そして国民の食の安定ですよね。

 

たしかに就任時の記者会見でも「輸出をはじめとした世界における日本の食のマーケット」に触れているけれど、国内ではお米の混乱がまだまだ続いているというのに、今の政府はまるで米騒動なんて終わったかのような姿勢ですね。

就任後、「最も大事なのはやっぱり日本で作られたものは、国民の皆様が、日本人の皆様が、日本に暮らすみなさんが、しっかりとまず消費をしていただけることが第一」と言っていたので、「農は国の基なり」に期待したのですけれどね。

もしかして「農家は潰していいんだ。農業は企業がやればいいんだ」という権謀術数が渦巻き生馬の目を抜かれてしまったのではないかと妄想しています。

 

「企業がやればいいんだ」というのは株主経済の意味ですからね。

そういえば首相が米(コメ)の問題とその対応について何か発言したことはあったかしら。

 

 

*おにぎりの10年ひとむかし*

 

さて、10年ほど前からブログにおにぎりについて書いたものが溜まりました。

最初の頃は、おにぎりは散歩の途中でご飯を食べそびれた時の「手軽な非常食」でした。

全国津々浦々の用水路や田んぼを見に出かけるようになり、各地のおにぎりにと風景の記憶とその地域の田んぼの歴史が記憶になっています。

それにしてもよく食べました。

 

そうこうしているうちに海苔が高くなり、お米も棚からなくなったり急激に価格が上がりました。

それなのに、海外のおにぎりブームや国内のおにぎり屋さんがブームというニュースがあるのはつじつまが合わないですね。

私の大好きなシソのふりかけまで、海外ブームにされませんように。

ブームが去れば、他の国の安い製品に置き換えられて国内産業にはぺんぺん草も生えなくなり、国民も自分の国の食品でさえ手が出なくなる失敗を繰り返していますからね。

 

10年のおにぎりの記録をまとめてみたら、ステマのようなブームに翻弄されている変化が見えてきました。散歩の記録で書いたつもりが、おにぎりをめぐる状況の定点観測になっていたようです。

10年ひとむかしですね。

 

正確な記録が積み重ねられている日本の農業ですが、農林水産省はこの10年間を歴史の審判に耐えられるような記録として残せるでしょうか。

 

 

*おまけ*

そうそう、けっこう好きだったおにぎり屋さん、外国人スタッフが調理から接客までするようになっていました。「日本の味」とか「食文化」ってなんだろう。

 

 

おにぎりのまとめ

<2017年>

おにぎりの安全性

石垣島のおにぎり

<2018年>

商店街というと”伊勢屋さん”があった

<2019年>

おにぎりやお弁当を買えず見つけたアサリの炊き込みご飯

「生命のおにぎり」

食べ物が国境を越える

<2020年>

コロナの外出制限、土手で新幹線を眺めながら食べたおにぎり

「おにぎりは何が好き?」

おにぎりが楽しい

<2021年>

公園で新幹線を眺めながら伊勢屋さんのおにぎり

諫早の無人駅で田んぼを眺めながら食べた鶏ご飯のおにぎり

この田んぼからいくつのおにぎりができるのだろう

武蔵水路沿いで田んぼと新幹線を眺めながらおにぎり

見沼代用水そばのベンチで田んぼを眺めながらおにぎり

長良川河口堰を眺めながらおにぎり

盛駅で大船渡の山々を眺めながらおにぎり

<2022年>

鮎壺の滝を眺めながらおにぎりを食べ、空腹のまま駿府城下を歩く

静岡清水線の駅前の美味しそうなおにぎり屋さん

揖保川を眺めながらおにぎり

黄瀬川と富士山を眺めながらおにぎり

日生(ひなせ)でトンビに狙われながら海を眺めておにぎり

防府の公園の木陰でおにぎり

新山口駅で雨の中通過する新幹線を眺めながらおにぎり

青森駅で買ったたらこと炊き込みご飯のおにぎり

乗客1人の五能線で車窓を眺めながらおにぎり

米沢駅で買ったおにぎりを豊栄駅前で食べる

矢代田駅で”潟”の田んぼを眺めながらおにぎり

羽村堰を眺めながらおにぎり

「孤独のグルメ」でも信濃川や棚田を眺めながらおにぎり

<2023年>

和歌山駅で柿の葉寿司を買えずにおにぎり

利根川の堤防の上でおにぎりを食べようとしたらトンビに狙われた

岳南江尾駅で新幹線を眺めながらおにぎり

遠出で「ランチが夢」だけどおにぎりもまた楽し

児島駅のベンチでおにぎり

<2024年>

牟呂用水沿いの公園でおにぎり

磐田駅前でおにぎりを買って寺谷用水へ

西大寺中央公園で用水路を眺めながらおにぎり

飯山駅の地元のお米のおにぎり

<2025年>

上堰潟(うわせきがた)の東屋でおにぎり

黄瀬川と富士山を眺めながらおにぎりを食べた場所を再訪

ノリの輸出223%増で手が届かない食べ物に

木曽川そばの神社の湧水を眺めながらおにぎり

2023年からお米の輸出推進事業

酒匂堰と新幹線を眺めながらおにぎり

安芸駅の「じばさん市場」で買ったおにぎり

「外国人におにぎり人気」「海苔の輸出6倍」のニュース

宇和島駅構内の車止めを眺めながら食べたおにぎり

「美田を拓く」農産物を他国と競争するのは似つかわしくない

米不足とノリ高騰なのに「国内のおにぎり屋さんがブーム」という矛盾

結城の水辺公園で韓国産海苔のおにぎり

黒川の星の宮公園でおにぎり

お米が棚から消えて備蓄米放出というのに外食・中食は平常運転で、おにぎり屋さんもブーム

水産庁が「のり輸出増加」を伝えているのに…

「おにぎり28個」とか「大盛り何杯」とか大食いを映すのに、家では相変わらず米価が高すぎて手がでない矛盾

<2026年>

「自由貿易」が吹き荒れた半世紀後

新幹線の車窓からおにぎりを食べた場所を眺める

「伊勢屋本店」の看板が美しい木造建築が残る越後大野

ご飯やおにぎりを食べたいと我慢している時に手に入れた「米先物取引の歴史」

 

 

「シュールな光景」まとめはこちら

「お米を投機的に扱わないために」まとめはこちら

失敗とかリスクのまとめはこちら

内需拡大のまとめはこちら

 

つじつまのあれこれ 77 失言は失政になって返ってくる

以前20代とか30代ごろは、総理大臣というのは雲の上の人と感じるくらい遠い存在であり、また国を司る「尊敬すべき人」と感じていました。

当時は、テレビや新聞からの断片的な情報しかその人物像を知る手段もなかったですし、政治や経済というのはとても難しい専門分野だと思っていましたからね。

 

さて、2020年に気づいた「円は刷って返せばよい」という演説の動画を見たときから、時々その人となりや政策を時々読んでいたのですが、目が滑ってなかなか頭に入りませんでした。

最近は、遠出で訪ねた全国あちこちの名士を生み出した地域の歴史や風景も重なるし、あの日からたくさんの政治家のWikipediaを読み慣れてきて、だいぶ私の頭の中の現代の「政治・経済」の年表が詳しくなってきました。

 

 

*「片手で定額給付金、片手で消費税増税」*

 

あの動画の演説は、「国債は国の借金であり孫子への借金」に対抗したものだと思っていたのですが、それなのに財務省が「国債は皆様に身近な金融商品」とお勧めしているのはなぜだろうと、そのつじつまの合わなさがずっと引っかかっています。

 

ということで、今回はじっくり読んでみたところ「経済政策」に書かれていました。

首相時代は定額減税や公共事業を中心とする財政出動に積極的な意向を示しており、財政健全化よりも景気対策の優先を提唱し、財政健全化を目指した小泉政権の構造改革路線を見直し、「基礎的財政収支(プライマリーバランス)の11年度黒字化目標」の延期を目指していた。(強調は引用者による)

 

首相時代の記憶はあまりなかったのですが、「定額給付金の支給(1人1万2000円、65歳以上・18歳以下は1人2万円)」とありました。

そうそう2008年、まだ消費税も5%だったしそれほど生活に閉塞感はなかったので、「(たった)1万2千円を全国民に配るのはなんのためだろう」と思った、あの初めての定額給付金ですね。Wikipediaの「定額給付金」のよると「6兆6890億円の赤字国債」が財源だったそうです。

ああ、それで「じゃんじゃん円を刷れば良い」と言ったのかな。

 

ところが、次に書かれている内容で、こんな考えがあったのかと今更ながらわかりました。

消費税の増税に関しては、「もはや、広く薄い負担を税制に追加していくとしたら消費税しかない」として消費税増税を示唆したが、2008年9月に世界的な金融危機が発生すると「消費税増税を早期に行えば、著しく景気を冷やす」として、当面の増税を見送るとのべる一方で、2011年以降に10%を超える水準まで消費税を引き上げる意向を示した。第二次安倍政権では財務省の代弁者として消費増税を訴えたが、最終的には首相判断に従い増税延期を了承した。

 

なんだ、「片手で広く薄く定額給付金、片手でどんどん消費税増額」だったのですね。

あの動画で拍手を送っていた人たちもまた消費税増税を求めていた側だったのでしょうか。ほんと、政治の世界は「難解」ですね。

 

あ、2001年「経済財政政策担当大臣任期中、『日本を裕福なユダヤ人が住みたいと思う国にしたい』と発言したことが報道された」と記録がありました。ああ…。

 

 

 

*失言は失政へつながる*

 

麻生氏といえばまず失言が記憶にありますが、「とてつもない金持ちに生まれた人間の苦しみなんて普通の人にはわからないだろうな」(2008年)は呆れた記憶がありますね。

 

40数ページに及ぶWikiの記載の大半が失言の経緯ではないかと思うほどでしたが、そうそうあの二階氏の「医師のモラル問題」と、麻生氏の「はっきり言って(医師は)社会的常識がかなり欠如している人が多い」(2008年11月)も同時期のようです。

ではどんな医療政策を考えていたのだろう。

11月20日の経済財政諮問会議において「67、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になるとこちらの方がはるかに医療費がかかっていない。それは毎朝歩いたり何かしているからである。私の方が税金を払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ」と発言した。この発言は「だから、努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブがないといけない予防するとごそっと減る」と続き、予防の奨励によって医療費の削減ができるとしたが、前半部分が「病気になるのは本人の不摂生(自己責任)のため」と受け止められ、また国民健康保険制度の概念を軽視する発言でもあるとして批判された

(2008年の発言、強調は引用者による)

1月21日、社会保険制度改革国民会議第3回会合で終末期医療に関して、「チューブの人間だって、私は遺書を書いて『そういう必要はない。さっさと死ぬから。』と手渡しているがそういうことができないと死にませんものね、なかなか」「いいかげんに死にたいと思っても生きられる。しかも政府のお金で(終末期医療を)やってもらうのは、ますます寝覚が悪い。さっさと死ねるようにしないと」と発言し、すぐに適当でなかったとして発言を撤回した。

(2013年副総理在任中、強調は引用者による)

 

ああ、この後からですよね。高齢者の医療は無駄とか、それを若者世代が負わされているとか、「安楽死を選択できるようにしろ」とかネットであからさまに書き込む人が増え、まるで計画通りに人生を終わらせられるかのような幻想が広がったのは。

失言を撤回しても、こうして考えの浅い言葉が世の中に広がり、その責任を誰も取らないですからね。

 

 

*片手で年金の株運用でウン兆円、片手で高齢者への増税*

 

そしてもう一つ。

7月25日-日本青年会議所の会合で「元気な高齢者をいかに使うか。この人たちは皆さんと違って、働くことしか才能がないと思ってください。働くことに、絶対の能力がある。80歳過ぎて遊びを覚えても遅い。働ける才能をもっと使い、その人たちが働けば、その人たちは納税者になる」と発言し、毎日新聞系のマスコミから高齢者侮辱発言として批判された。

(2009年、強調は引用者になる)

おかげさまで、年金の1ヶ月分に相当するぐらいの消費税だけでなく、高齢者の定義は恣意的に変更され、年金からもさまざまな支援金を天引きされるようになりました

17年前にこの失言をもっときちんと考えておくべきでした。

 

「若い世代の税や社会保険負担が大きい」から高齢者が働き続けるのは当然ですか?

2013年5月18日、麻生は札幌で次のように講演した。「『株価が上がっても株は持っていないので関係ないという人もいると思うが、年金は株式の運用で成り立っている。7月に年金の運用状況が出てくるが、ウン兆円の黒字になる」。

(「公的年金の運用」、強調は引用者による)

2013年、年金への不安を煽り立て、高齢者にまでリスクマネーをお勧めし始めた頃ですね。その黒字は何に使われたのだろう。

さらにこの物価上昇と株価上昇で、取りすぎているのにさらに消費税は増収巨大なくじらももっと成長したことでしょう。

 

*裸の王様に服を着せないのはなぜか*

 

こんなに「成金の失敗」そのものの失言が多い人が政治家でい続けるのは、裸の王様の身内がつながり合ってつじつまを無理やり合わせるからでしょうか。

あ、この人もまた「神輿は軽い方が」と重宝されてきたのかもしれませんね。

 

そして、この方のWikiの「家庭連合(旧:統一教会)との関係」を読むと、皇室典範改正に係るのはふさわしくないと思うのですけれどね。その思想は二律背反ですからね。

何年か経って「あの時に反対しておけばよかった」と後悔しなくて済むように、一応明記しておきましょう。

 

 

 

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生活のあれこれ 90 政治家は「自衛官の子どもの生活」を知っているのだろうか

6月15日にニュースになった「自衛隊に行く子供は経済的に厳しい。豊かな子供は自衛官にならない」という発言が、なんだかどんどんと皆さんの「正義と善意」の発言を広げてしまっているような印象でした。

「『豊かな子供たち』は自衛官にはならない」は、「経済的に豊かな家の」という意味ならそういう傾向もあるでしょうし、そもそも親が自衛官だとなかなか子どもの学費を出すのも大変だったしなあと、自分の人生を振り返りました。

 

6月17日にはその議員と防衛相の応酬の全文が産経新聞に掲載されましたが、防衛相の発言をよく読むと論点がずれていますね。

小泉氏「先生が言う近隣の国々に対する配慮という前に、自衛官の子供達への配慮に欠ける発言だったのではないでしょうか。いま先生の発言はですね、自衛官の子供たちはみんな貧しい家庭の子しかいないと、こういった形で言われましたけれど、まったくそういうことはありません。事実誤認だと思います。それこそまさに、一面的な自衛官、自衛隊の家族に対する見方ではないでしょうか」

え?「自衛官の子供が貧しい家庭の子」といっているのではなく、「経済的に貧しい子供が自衛官になっている」と議員は言ったのであって、似ているようで全く意味が違いますよね。

 

 

*自衛官の子どもだった頃の記憶*

 

軍人だった父は終戦後公職追放のために仕事に就くことが難しく、薄給で親と弟妹を助け、のちに警察予備隊に入って1954年に自衛官になったそうです

その間、戦争直後の「白を黒に、黒を白に」の混乱で自暴自棄からなんとか乗り越え、安定した仕事を得てから結婚したので、当時では親になるにはかなり遅い30代半ばでした。

 

1960年代は公務員だった給料ではなかなか肉や魚も毎日食べられるような時代ではなかったので、母方の祖父から送られてくるお米に助けられていたようです。これは社会全体がおなかを満たすから栄養への時代で「自衛官の家庭だから貧しい食事」だったわけでもなく、ひもじい思いをしたわけではありませんでした。

 

共働きもまだ珍しい時代で母は和裁で生活の足しにしていましたが、「自衛官の妻の仕事」で検索してみたら、現代は「夫の転勤や急な不在に対応しやすいパート、派遣社員、在宅ワークといった働き方を選ぶ」とありました。

たしかに2年おきぐらいに転勤があり、しかも内示が出るのが1ヶ月ぐらい前だったと記憶しています。就学児童がいると多少配慮があったのだと思いますが、あわただしく転勤が決まり、急いで引っ越しの荷物をまとめ、泣く泣く友達に別れを告げるのでした。

災害派遣もありますし、妻も正規職員なんて選べないこともありそうですね。

私の父も伊勢湾台風狩野川台風へ派遣されたようです。

 

ずっと官舎住まいだった私でしたが初めて民間の賃貸に住んだのが、父が50代に入る頃に家を建てることを決めた時でした。

「家賃ってこんなにかかるんだ」と思ったのですが、よくよく考えるとまだ官舎にいられるはずだったのですから、あれはちょうど中学生になった私が転校しなくて良いように考えてくれたのではないかと思い返しています。

親の心子知らずですね。

 

 

*自衛官の子どもの進学率はどれくらいだったのだろう*

 

現在の自衛官の給料をAIが教えてくれました。「35~40歳(曹から幹部)で500万から700万」だそうですし、特別国家公務員ですから諸手当や退職金も支払われます。

一見とても良い給与のように見えますが、退職年齢が一般社会に比べて早いですからね。

 

父は55歳定年の時代でした。士官学校を出たので幹部の上の方の階級でしたが、定年は定年です。そのあとは斡旋してもらった民間会社の事務で細々働いて60歳から年金が支給されました。

 

もし私が大学へ進学していれば、父の定年の時期に重なっていたことでしょう。

時代は「女性はせめてあるいはせいぜい短大まで」の時代でしたが、兄弟も「進学するなら自衛隊関係の学校」と言い渡されていたのは、父の退職時期で進学費用を出すのは相当な負担になることがわかっていたのだろうと思い返しています。55歳からその先の両親の生活もありますからね。

これも今、私自身が定年を実感する年代としてその大変さがわかります。

 

転勤が多い(妻が正規職員で働き続けにくい)とか、退職の時期が早い(子どもの進学の時期に退職、そして年金積立額も減額など)、不利な面もありますね。

ただ私自身はむしろ、中学生ごろからすでに高校卒業したら親に一銭も貰わないで勉強を続ける方法を考えていたので、自立するという良い教育を親に授かったと思っています

 

自衛官の子どもたちは皆さんどうしているのでしょう。あんがい知らずに来てしまいました。

 

まあ、議場がどよめいたので慌てて訂正した冒頭の議員の発言も失礼ではあるけれど、「自衛隊に行く子は経済的に厳しい」を「自衛官の子供たちはみんな貧しい家庭の子しかいない」にすり替えた大臣の解釈も、どう考えてもおかしいですね。

どちらの側も自衛官やその家族の生活をあまり知らないのだろうな、だから「自衛隊」をイデオロギーに利用はしても防衛大臣が制服や階級章をつけていることに反応しない社会になってしまったのだと、ちょっと合点がいきました。

 

 

*おまけ*

念のため新聞記事を全文転記しておきましょう。

「豊かな子供たちは自衛隊とかなりませんよ」立民・古賀千景氏と小泉防衛相の応酬<全文>

立憲民主党の古賀千景参院議員が15日の参院決算委員会で「自衛隊に行く子供は経済的に厳しい。豊かな子供は自衛官にならない」と発言したことに、与野党をはじめSNS上でも各方面から批判が集まっている。古賀氏は自身のX(旧ツイッター)などで謝罪、撤回したが、同委ではどんなやり取りがあったのか。古賀氏と小泉進次郎防衛相の応酬<全文>は以下の通り。

古賀氏「私も教えた子がいっぱい自衛隊にいるんです。いっぱい苦しんでいますよ。でもわかってほしいのは、自衛隊に行く子供たちって、経済的に厳しい子供たちが行くんですよ。豊かな子供たちは自衛隊とかなりませんよ。そんな…ああ、すみません、失礼しました。訂正します。でも、生活の厳しい子供たちが生きている、安定した職業だというところで、苦しんでいるところで…そのことはまず申し上げます」

古賀氏「(防衛相が防衛白書の内容を子供向けにまとめた冊子『まるわかり!日本の防衛』について)北朝鮮、中国、ロシアの3カ国について書かれています。詳しく説明されていて『日本が位置する地域は安全とは言えません』と書かれています。一方、別のページでは『皆さんの命と平和な暮らしを守る』というところでは『米国と一緒に攻撃を思いとどまらせる力、攻撃に立ち向かう力を強くする』とも書かれています。私はこれは、この国を分けての書かれ方は、子供たちへの印象操作にならないか強く危惧します。学校には北朝鮮、中国、ロシアの子供たちも通っています。この子供たちの目にこれが触れたときに、どのような傷を負うか、そのことを配慮はなされたのか教えてください。

小泉氏「先生が言う近隣の国々に配慮するという前に、自衛官の子供たちへの配慮に欠ける発言だったのではないでしょうか。いま先生の発言ではですね、自衛官の子供たちはみんな貧しい家庭の子しかいないと、こういった形で言われましたけれど、まったくそういうことはありません。事実誤認だと思います。それこそまさに一面的な自衛官、自衛隊の家庭に対する見方ではないでしょうか」

小泉氏「いま全国で教育現場を見ていまして、過度な配慮で自衛隊や防衛省の取り組みが現場の判断によって(説明する)機会すらも与えられない。そして先生は、近隣諸国の子供たちへの配慮と言いますが、自衛官の子供たちも学校に通っているんですよ。そういうことに対する記事や、その子供たちの(自衛隊や防衛省隊*が置かれた)環境に対する理解を広く広げることが、最優先ではないでしょうか。

古賀氏「私の発言が…申し訳なかった、撤回させて頂きます、申し訳ありませんでした」

(*おそらく「防衛省」の誤植かな)(強調は引用者による)

なんとなく記憶が蘇ってきました。

「自衛官の子ども」であった頃、この「日教組VS反社会主義や反共を掲げる「自民党」大人社会の雰囲気がなんだか辛かったのでした。

国を守るという父の誇り(葛藤)を利用されているような、そんな葛藤でした。

 

 

 

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事実とは何か 129 「荒稼ぎや山師商売や政治権力との結託による暴利ではなく」

広大なプランテーションが映し出されるCMに2~3ヶ月前に気づいたのですが、すぐに場所がわかりました。

 

1990年代に何度も何度も通った場所だからです。

そのプランテーションの広大な土地も国際空港の建設予定地も、現地の友人たちの少数民族が所有していた土地でした。

正確に言えば個人で所有しているのではなく、神から借りている土地です。

「以前は、私たち部族の土地だった」というところを、いくつもいくつも、友人が案内してくれました。

1960年代頃からのこの土地への移民政策のために、いつの間にか友人たちの部族の土地は島外から移り住んだ人たちのものになり、先進国向けのプランテーションがつくられていきました。

この時には「少数民族の友人」と書きましたが、正確には「モロ」の中の一部族で、Wikipedia「モロ紛争」「歴史」に書かれている時代の話です。

 

 

 

*「新植民地主義」の時代*

 

パイナップルだけでなく1960年代のバナナの輸入自由化でバナナプランテーションも拡大しました。現地の人は食べない日本人むけの品種です。

 

私がミンダナオ島で暮らした1990年代初頭は、日本向けのマグロのために日本の無償援助で漁港が造られたり日本向けのエビ養殖場が拡大していました。

かつては豊かな漁場だったのに根こそぎ獲る漁法が広がったり高級な魚は日本へいくようになり、漁師でも漁獲量が減り食べるものにも事欠く生活だというのに、新しく造られた漁港のそばの工場では日本のネコのための缶詰が生産され始めていました。

 

1990年代は日本の端境期を埋めるためのアスパラガス栽培が試み始められ、モロの人たちの土地を借りる形ですが栽培が失敗すれば借金と引き換えにその土地を失うとのことでした。また、内戦によって国内難民を生み出していた島ですから、生活の場から離れると土地はいつの間にかまたよその地域から貧困層の移住が進められてしまうと聞きました。

 

「神から借りたに過ぎない土地」もそして「海」も、よその国(日本)の胃袋を満たすための土地になっていくかのようでした。

 

 

*「商いの世界の家訓」が生き続けますように*

 

さて、冒頭のCMは商社に勤める青年が現地の人の中に溶け込んでいく様子をイメージしているようです。

伊藤忠商事のCM『商人は水であれ パイナップル畑の商人』篇は、フィリピンミンダナオ島(ジェネラル・サントス)にある「Dole(ドール)」の巨大なパイナップル畑を舞台としています。若手社員が現地で奮闘し、成長していく姿を通じて同社の柔軟な商人魂を描いています。

胸にはあの多国籍企業のロゴマークがついていましたが、2013年に世界最大の青果物メーカーである『Dole』は伊藤忠商事に買収されたようです。

 

近江商人と伊藤忠の歴史を少し知ることができましたから、今は多国籍企業や商社のロゴマークに強い感情を抱くことはありませんし、むしろ「商人は水であれ」も家訓から来たかもしれないと思いました。

そして、あの青年がミンダナオ島の「土地」や「開発」の歴史を深く知って、商いの家訓を大事にしてくれるといいなと思ったのでした。

まあ、フィクションのCMですけれどね。

 

でも、特に「近江商人は極力権力に依存して利益を得ることを潔しとはしませんでした」が思い出されますように。

 

 

*おまけ*

6月15日のニュースに「フィリピン火山地震研究所は、今回の地震で海岸が最大二メートル隆起したと明らかにしていて、生態系への影響も懸念されています」とありました。

生態系ももちろんですが、あの美しい海岸線に点在する小さな漁村がどうなっているでしょう。災害の被害も大変だけれど、それ以上にずっとずっと過酷な長い闘いの中で生きてこられた方達なので竹の節はまた強くなることでしょう。

今回の災害の混乱に乗じて、モロの人たちの土地が失われることがありませんように。

 

 

 

 

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