事実とは何か 63 「小児科医」?

うさぎ林檎さんtweet、「なんで『小児科医』がそんなことを」(6月21日)が目に止まりました。

 

NHKの液体ミルクの報道は、私もちょうどニュースで見ました。

「発売から3ヶ月、液体ミルクは親の負担軽減だけでなく、思わぬ広がりを見せています」(NHKおはよう日本」、2019年6月13日より)

私が見た番組では「小児科医のFAX」はなかったので、どんな内容か気になって検索したら、以下の内容のようです。

2才の乳幼児を子育て中の小児科医です。液体ミルクが 登場し、人工乳が必要な保護者にとって選択肢が増えるのはよいことだと思います。しかしながら粉であろうと、本来は母乳代用品であり必要なお子さんのみが使用するものであるはずです。母乳で育てているお母さんが、便利だからという理由で、本来は不必要なのにミルクを使うことで授乳回数が減ってしまい、母乳がその分だけ足りなくなってしまうこと、乳管が詰まって乳腺炎を起こすことも、同時に知っておいて欲しいと思います。そのため国際基準では、ミルクを一般の方に宣伝することは規制されており、必要な人にのみ情報やミルクを提供することとなっています。人工乳が必要な保護者にとっての選択肢が増えること、と同時にそのような影響も合わせて報道することで、母乳育児中の母を不必要に悲しませないでいただけると幸いです。

 

冒頭の「2才の乳幼児を子育て中」という表現がひっかかりました。

小児科の先生なら、乳児と幼児の定義も曖昧なまま我が子を表現するはずはないと思いますからね。

 

本当に小児科の医師だとしたら、もしかしたらこのあたりの母乳推進運動にかなり強く影響を受けた方かもしれません。

「母乳育児と母乳代替品育児」とか「富士登山は完全母乳育児」といった表現に疑問を持たないほどの。

 

そういう理想を持っても、実際に臨床では母乳だけでは体重増加不良が著しい赤ちゃんに遭遇するのは珍しいことではなくなることでしょう。

FAXでは、「必要なお子さんのみ」「本来は不必要な」「必要な人のみ」いった表現が多いのですが、不必要なミルクかどうかなんて誰も判断できない、医療の不確実性、医療の一回性に葛藤するのが臨床の現場ではないかと思います。

 

そして小児科医として母乳とミルクについて書くとすれば、液体ミルクが乳幼児の授乳にどのように影響があるかになると思うのですが、「母乳育児中の母を不必要に悲しませないでいただけると幸いです」になってしまっているのは全くの個人の話であって、小児科医療の話でもなさそうです。

 

FAXやネットで自分の考えや気持ちを自由に表現できる時代になって、いろいろな思いを知る機会にはなったのですが、「小児科医」と書いてあるから番組で紹介したとしたら、NHK側のパターナリズムも問われているかもしれませんね。

 

 

「不必要なミルクを足す」ことと乳腺炎の発症についても、なんだかつじつまの合わない話だといういう印象です。

ということで、もう少し続きます。

 

 

「事実とは何か」まとめはこちら

液状乳児用ミルク関連のまとめはこちら

 

 

 

 

数字のあれこれ 51 偶然の一致

ここ数日、少し心がざわつくことがありました。

最初は、ひたすら川と海を見るために5月に訪ねた地域の地震のニュースでした。

見覚えがある風景や、美しく落ち着いた街の瓦屋根が落ちたり墓石が倒れている風景がニュースで伝えられました。

立ち寄ったお店や博物館、駅などの皆さんは大丈夫だろうか、車窓から見えていた街の方々はどうしていらっしゃるだろうかと、一度訪ねると他人事ではなくなります。

 

ほどなくして、今度は宮ヶ瀬ダムと城山ダムを訪ねる時にバスで通ったあたりで事件と事故が立て続けにおきました。

あの静かで美しい山合いの地域で、皆さんどんな思いで過ごされているのでしょうか。

これも他人ごとではなくなります。

 

そしてもう一つは、実はこの夏か秋に訪ねてみようと計画をしていた地域でも、少し大きな事件がありニュースになりました。

 

ここまでくると、「私が行った場所あるいは行こうと思った場所では必ず何かが起こるのではないか」という気持ちになりそうです。

2月に紀伊半島を回った直後にも、訪ねた地域で火事がニュースになりました。

 

でもむしろ、「ああ、これが偶然の一致という勘違いなのか」と実感しました。

 

たぶん、私自身が行った場所が増えれば、行った場所に関連したニュースも増えるというあたりでしょうか。

あまり論理的な説明ではないのですけれど。

 

そういえば「ブラタモリ」もロケに行った場所で何かが起きるかのような言い方をされて、その時にはふと「そうかも・・・」と信じそうになったのですが、今回の件で呪縛が解けました。

 

「客観的には神秘でも奇跡でもないものが、個人にとっては神秘にも奇跡にもなる」という一文に出会ったことで踏みとどまれているのかもしれません。

 

 

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記憶についてのあれこれ  142 ブータン

1980年代半ば、一緒に2ヶ月タイを旅行したアメリカの友人と意気投合したのが、「いつかブータンに行きたい」ということでした。

 

今ではブータンという国名も「世界一幸せな」といった言葉とともに知名度がありますが、当時は観光で入ることはできない国で、よほどあの地域の政治に関心のある人ぐらいしかその国名を知らない時代だったと思います。

私自身は世界地図を眺めていて見つけただけで、他には何も知らなかったのですが、その友人に「ブータンを知っているのか!」と驚かれたのでした。

 

Wikipediaブータンの「日本との関係」を読むと、日本と外交関係樹立が1986年とありますから、私の記憶はそれ以前のことだったようです。

 

一時帰国した時に、書店などでいつもブータンの本がないか気にしていたのですが、当時はほとんどありませんでした。農文協図書館に行った時に見つけた西岡京治氏の本が唯一で、まだあまり画質が良くなかった写真を食い入るように眺めながらブータンをイメージしていました。

90年代に入ると、美しい写真集や紀行物もいくつか出版されるようになりました。

チベット仏教寺院、ヤクのバターや唐辛子を使った料理、岩を熱して作る露天風呂、そして南部地方の水田風景など、印象に残りました。

 

いつか行ってみたいと思いながら実現できないままにいます。

 

先日、分水へ行く際に乗った上越新幹線は、進行方向に向かって左側の席にしました。

5月に新潟から戻ってくる時には反対側の座席からの風景だったので、今回は違う風景を見たかったからです。

 

群馬から新潟あたりの県境では右手が河川沿いに開けた街の風景に対して、こちらがわの座席からはぐっと山側に迫るような風景になります。

上毛高原駅あたりで駅のそばまで斜面に作られた棚田が迫ってくることも、前回は気づきませんでした。

 

長い長いトンネルが終わり、浦佐駅の手前から広がる風景に、「あ、ブータンのようだ!」と思いました。

前回の座席からは水田が広がる風景でしたが、山側に広がる集落の家がブータンを思い出させるような造りでした。

 

木造の3階建で、正方形や長方形のすっきりした形です。

雪深い地域なので、おそらく1階は倉庫や納屋として使われているのではないかと思います。

ブータンの写真集では、その1階部分にヤギやヤクを飼っていた写真があったと記憶しています。

そしてブータンだと、住居部分に大きな仏間があってきらびやかな仏壇があるようです。

 

集落の中心に大きな寺院があるのですが、それも少しブータンに似ていました。検索すると毘沙門天のようです。

 

そして水田が広がる方に残雪のある高い山が八海山だったようで、写真集で見たチベットの高山地帯の風景に重なったのでした。

 

なぜ浦佐のあたりだけあの建築様式なのか、ぜひぜひ今度訪ねて見たいと思いました。

ブータンを訪ねるのは、ちょっと気力も体力もなさそうです。

 

 

 

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記録のあれこれ 37 長岡東山油田 中島地域製油所記念碑

あちこちを散歩しているうちに、以前は通り過ぎていた記念碑や説明書のひとつひとつに惹きつけられるようになりました。

初めて知ることもあれば、「そういえば学生の頃に習ったことはこういうことだったのか」と確認することに充実感があります。

 

長岡市の水道公園に「長岡東山油田 中島地域製油所記念碑」もありました。

小学生の頃だったでしょうか、日本海岸側には油田があることを習ったのは。

「資源がない日本」と言われ続ける中で、石油やガスが採れる地域があることを羨ましく感じたのでした。

 

記念碑にはこう記されていました。

東山油田で採掘された石油のほとんどが中島地域の製油所で精製されました。中島地域には、明治三十年初めに二十ヶ所以上の製油所が林立していました。山田又七(和島地域出身)率いる宝田石油の製油所は、国内最大級の規模を有していました。中島地域で精油された石油は、柿川から信濃川を通じて新潟港から海運で、長岡駅からは鉄道を通じて新潟県内はもとより全国へ出荷されました。中島地域の製油所は、長岡市の商工業の発展をリードするとともに、日本の石油業の成長に大きく貢献しました。 

 

検索すると東山油田の説明がありました。

長岡市南部より三条市に連なる東山丘陵山中では、古くから『くそうず(草生水、臭水)と呼ばれる、燃える水(原油)が湧くことが知られていた。明治中期になって採掘に成功し、噂を聞きつけた多くの起業家が競って油井開発に乗り出し、長岡の街は活況を帯びた。しかし明治末期には早くも産油量が減少に転じ、衰退が加速して行く。戦時下には収量を少しでも取り戻すべく世界的にも稀な坑道堀りによる原油採掘も始まった。

数多の企業統廃合を経て統治に出現した宝田石油は、後に日本の石油産業における基礎の一端をなした。また油送管を筆頭に、採油に関する鉄鋼製品を供給する目的で、長岡に鉄工所が多く出現する契機にもなった。 

 

1873(明治6)年から始まった採油は、1997(平成9年)まで行われていたとのこと。

 

 

あの消雪パイプの開発も、東山油田の歴史が関係しているのでしょうか。

こうした記念碑のおかげで、子どもの頃の知識を重層的に理解できるおもしろさを感じるこの頃です。

 

 

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米のあれこれ  10 麦秋

分水を訪ねるために6月初旬、上越新幹線に乗りました。

 

大宮を過ぎたあたりから、田植えを始めている水田が見え始めました。

昨年古代蓮を見に行ったあの行田市のあたりまでは、これから田植えという風景でした。

東北の水田よりさらに1ヶ月ほど遅い風景に少し驚きました。

 

しばらくして本庄、藤岡あたりで風景が一転して、一面、収穫の時期を迎えた麦の風景になりました。

1ヶ月前に東北の川と海をみて回った時、新潟からの帰路ではまだ緑色の穂でした。

ああ、これが麦秋なのかと、初めて見る風景に惹きこまれていきました。

そして、すでに麦の収穫を終えた畑は、田植えに向けて準備が始まっているようでした。

雨が少なく、乾燥した季節ではあるが、すぐ梅雨が始まるので、二毛作の農家にとって麦秋は短い。 

 

私が高校生まで過ごした地域では、米の収穫の後は青菜類を栽培しているようです。

また倉敷の祖父の水田でも、麦が植わっていた記憶がありません。

麦を栽培している風景をほとんど見たことがありませんでしたから、てっきり北海道などの大規模農場だけで作られているのだと、今まで思い込んでいました。

 

Wikiprdiaの二毛作の「概要」を読むと、私が麦秋を実際に見る機会がなかった理由がわかりました。

かつての日本の農業においては、春から秋にかけてイネをつくり、秋に収穫してから 翌年の春までは麦などを作っていることが多かった。一回目を表作、二回目を裏作という。日本では稲麦二毛作鎌倉時代から普及したが、高度経済成長期頃から、輸入穀物に価格面で対処できなくなり、あまり行われなくなった。現在は畑作野菜で二毛作や三毛作が一般的に行われている。

 

二毛作という言葉は知っていたのですが、実際には長い長い試行錯誤や失敗があったのですね。

イネの場合、水田での栽培ということもあり、連作障害が発生しにくかったが、一般的には二毛作を行うと地力が低下し、次第に生育不良となっていく。これを回避するため、三圃式農業や輪栽式農業として発展していった。中世には地力を補うために厩肥や下肥を補うようになったが、二毛作を行うために必要十分な量を確保できたのは人口密集地域の近郊に限られ、鄙びた地域では裏作に麦を作ることはできなかった。 

 

麦秋」の風景には、人口密度も関係しているということでしょうか。

 

そして、次の一文に興味をそそられました。

近年、FOEASという地下水位制御システムが開発され、農地の高度利用がしやすくなった。 

どんなのシステムなのでしょう。

関心を持っていれば、きっとその答えに出会うような予感がしますが。

 

ああ、やはりえいっと分水行きを決めて良かった。

麦秋の風景を見ることができただけでも、旅のすごい収穫でした。

 

 

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水のあれこれ  104 旧中島浄水場

長岡を歩こうと思ったふたつ目の理由は、行く前に地図を眺めていた時に、信濃川河川敷近くに「水道」という町名が目に入ったことです。

信濃川の水を利用してきた歴史的な何かがあるのではないかと、ピンと来たのでした。

どうやらそこには水道公園があります。

駅から歩いて20〜30分ぐらいでしょうか。帰りの新幹線まで時間に余裕があったので、是非訪ねてみようと思いました。

 

と、思いついたのですが事前にあまり調べる時間もなく、当日は分水あたりを歩いただけですでに1万2000歩近くになっていて、長岡駅についた時には空腹と足の疲れで水道公園を訪れるのはやめようという気持ちになっていました。

何か食べられる場所をと探しているうちに、「ここまで歩いたら、公園まで行ってみよう」「信濃川を見よう」と気持ちを奮い立たせて堤防の近くまで歩きました。

 

堤防と並行する道まで来ると、民家の屋根と屋根の合間に堤防が見えて、その堤防を散歩している人の姿が結構ありました。

屋根の上を人が歩いているように見えるちょっと不思議な光景ですが、ここまで高い堤防が必要な信濃川のすぐ近くにまで人が安心して家を造れるようになったということでしょうか。

 

しばらく歩いていくと給水塔が見え、広々とした公園の中に石造りの給水施設がありました。

水道公園は、旧中島浄水地を利用して、水道配水場やポンプ場などの歴史ある建物を保存しながら、歴史と文化を伝えるやすらぎの場として整備しました。

ここにある水道配水塔は、長岡市上水道の敷設に伴い大正13年に着工し、昭和2年に完成したもので、平成5年まで利用されていました。水道配水塔は「水道タンク」の愛称で長岡のシンボル的存在として親しまれており、平成10年9月には、有形文化財に登録されています。 

 

帰宅して検索していたら、土木学会関東支部新潟会の「にいがた土木構造めぐり」の「旧中島浄水場長岡市)」を見つけました。

配水場(水道タンク) 

創設当時の長岡市には高い山が無かったために、水道タンクの高い位置に水槽を設置し、高低差による圧力で給水していました。

 

あの「ポンプの力で駒沢給水場に設立した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷へ送水するという斬新な仕様」の駒沢給水塔と同じだと思ったら、設計者は両方とも中島鋭治工学博士とありました。

 

長岡市内の信濃川沿いを路線バスで通った印象として、「高い山が無い」ということが実感として理解できました。

もちろん周囲は山があるのですが、信濃川によってできた沖積平野には高低差のある河岸段丘自体があまり無い印象でした。

どちらかというと、あの印旛沼や倉敷周辺の風景に似ていて、平地から突然山になる感じです。

専門的なことはわからないのですが、山と山の間を信濃川の水が自由自在に溢れて作り出した平野というイメージでした。

むしろ駒沢周辺の方が高低差がありそうです。

 

 

ということで、地図から見つけた「水道」という地名から大正時代からの水道施設を見ることができました。

 

 

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水のあれこれ 103 消雪パイプ

分水を訪ねた後、長岡市内を歩いてみようと計画していた理由が2つあります。

 

5月にひたすら川と海を見に東北を訪ねた帰路は、新潟駅から上越新幹線を使いました。

その車窓から風景を眺めていたら、燕三条を過ぎたあたりからでしょうか、「道路が茶色い」ことに驚きました。

雪国と関係しているのだろうと思いましたが、全ての道路が茶色いわけではなく、場所によっては色が変わっていない場所もありました。

 

実際に歩いて確認してみたい、それが理由のひとつでした。

 

長岡駅から大通りを歩くと、地面に小さな丸い物が埋まっています。

そこを中心にして茶色くなっていることに気づきました。

雪を溶かすためのスプリンクラーのような施設のようです。そしてその水を調節するポンプ施設が歩道にありました。冬になると道路から散水されている映像をニュースで時々見かけるのですが、そのあとが茶色になるとは想像がつきませんでした。

 

帰宅してから、こんなことまでネットで検索しても答えはないだろうと思ったのですが、すぐに「長岡発の雪国名物『消雪パイプ』。その驚きの仕組みとその歴史に迫る!」という記事が見つかりました。

 

*「冬でも温かい地下水を利用」*

 

この「消雪パイプ」は長岡発祥だそうです。

(略)基本はどこでも 同じく除雪車による除雪が中心だが、新潟県長岡市には独特の消雪設備が備えられており、雪が降り続く際にも通行を確保できる。それがこの街発祥の「消雪パイプ」だ。

 

県外からその長岡を初めて訪れた人の多くは、道路から水が出る光景に驚く。「雪対策用にすべりにくい靴できたつもりだが、道路にたまった水で靴を濡らしてしまった」という声を聞いたこともあるし、「冬の長岡に初めて来た方に『どうして道路にスプリンクラーがあるんですか?!』って驚かれたこともありますよ」という話も聞いた。雪の降っていない季節でも、「長岡って路面という路面が茶色いですよね。最初驚きました」と言われ、あらためて横断歩道の白い線や道路そのものが一面茶色っぽく、その風景が異様なことに気づかされた。路面の茶色は、消雪パイプから出る水に鉄分が含まれているためだ。

 

「冬でも温かい地下水を利用」しているそうです。

消雪パイプは、井戸を掘り、ポンプを設置して地下水を汲み上げ、パイプを通して道路に散水し、融雪する設備だ。地下水は冬でも13〜14℃と温かいため、雪を溶かすことができる。 

 

車窓からはただ一面、茶色いように見えたのですが、実際に歩いてみるとパイプからの散水によって茶色の模様もグラデーションを描いていました。

 

*「消雪パイプ」と「柿の種」*

 

長岡市に初めて消雪パイプが設置されたのが1961(昭和36)年ですから、私が生まれた頃のようです。

その消雪パイプを考案した方は、「元祖・柿の種」の創業者だそうです。

長岡市坂之上町の市道で、公道1号となる消雪パイプが設置されたのは昭和36年のこと。その有用性は瞬く間に知れ渡り、市内では消雪パイプの導入が広がっていった。発案者の今井氏は、消雪パイプ実用新案権を昭和39年に登録。しかし翌年「消雪施設の改良と研究のために」と、その権利を長岡市に無償譲渡した。その後、長岡市も昭和44年に消雪パイプ実用新案権を一般公開し、この画期的な仕組みは全国の雪国に広がっていくことになる。

 

消雪パイプを発案しながら、自らの利益を顧みず多くの人々を助けるためその権利を譲渡した今井氏。同氏は「柿の種」の生みの親でありながら、商標をとらなかったという逸話もある。結果的に「柿の種」は多数のメーカーで作られ全国区の米菓となり、消雪パイプも全国の雪国に広まった。どちらにも今井興三郎氏の人となりがみえるようである。

 

記事では秋から始まるメンテナンスについても書かれていました。

 

雪国の除雪について知らないことばかりですが、茶色い道路からその歴史の一端を知ることができました。

そして溶ければ水になり、さらに融雪のための水を流すのですから、雪国の治水というのは一年中を通してなんと大変なことなのでしょう。

 

今度は冬に長岡を訪ねてみたいと思いました。

そして大好きな柿の種を見ると、長岡の街を懐かしく感じるようになりそうです。

 

 

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観察する 61 皇帝ダリアの定点観測

皇帝ダリアが広がり始めたことに気づいたのが10年ほど前のことでした。

その頃は、両親が暮らしていた標高のやや高い地域では寒すぎて育てられないと母が言っていましたが、ここ2〜3年でその地域でも育てられているのを見るようになりました。

また、皇帝ダリアの説明ではだいたい開花時期が「11月から12月」と書かれているのですが、今年は結局2月初め頃まで咲いていて、寒さに強くなったのでしょうか。

植物の適応力、という表現が正確なのかはわかりませんが、すごい世界だと思います。

 

その通勤途中にある皇帝ダリアは「いつ枯れるのだろう」と気になって見続けていたら、2月初旬に咲かなくなり、そして根本の30cmほどを残して切られました。

切り株には何かでカバーして保護されていました。

歩道の電柱の脇に育っているのですが、おそらくその目の前のお店の方が手入れをされているのでしょう。

 

今年は皇帝ダリアがどう育つか、見てみようと思いました。

 

毎日通っているわけではないのですが、確か3月の終わり頃にその切り株のカバーが取られました。

4月に入ると、そこから新芽が出ていつの間にか葉が出ていました。

 

4月の終わりから5月にかけての茎と葉の育ち方は驚異的でした。

1週間ごとに30〜40cmは大きくなり、1ヶ月前はまだ切り株だけだったのに3週間ほどで私の背丈を超える勢いでした。

このあたりまでくると、むしろ毎日どれくらい成長しているのかわかりにくくなりそうです。

写真を撮ったり、メジャーで計測してみたいのですが、お店の真ん前なのでさりげなく観察して通り過ぎています。

唯一の頼みはすぐそばに電柱があるので、それをメジャーがわりにしています。

 

11月ごろまでにこの3倍の大きさになるのですから、皇帝ダリアの成長恐るべしです。

 

それにしても、こんなにダイナミックな植物なのに、昨年は同じ場所を通っていても目に入らなかったのでした。

 

今年は皇帝ダリアの定点観測をしてみようと思いついたのですが、「何センチになった」ぐらい初歩的な観察です。

でもずっと観ているうちに、皇帝ダリアの生活史が見えてきそうで楽しみになりました。

 

 

 

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発達する 25 「人類の為」

信濃川分水路の堤防沿いに大河津資料館を目指して歩いていると、92年前に陥没した自在堰跡があり、そこからいくつかの石碑があります。

 

その中でふと目にした石碑に、見覚えのある名前がありました。

青山士(あきら)氏です。

 

最初はたしか荒川知水館で、そのわずか3ヶ月ほど後に、今度は地図と測量の科学館で名前を目にしたのでした。

その際、マラリアを始め熱帯病で多数の人が命を落としたパナマ運河の工事に、唯一の日本人として関わり、日本の近代土木に大きな貢献をされた方だということを初めて知りました。

 

大河津資料館の手前にある石碑に「人類の為」という文字が見えて、最初はなんだか理想に燃えてという感情が読み取れて気恥ずかしく感じたのですが、資料館を回っているうちにハッとしたのでした。

「人類」という日本語と概念は、いつごろどのように受け入れられていったのだろうと。

 

*「人類ノ為メ國ノ為メ」*

 

青山士氏は1878(明治11)年の生まれで第一高等学校在学時に内村鑑三と出会ったと書かれていますから、1890年代でしょうか。

内村鑑三の講演で「子孫のためになる仕事の例として土木技術を挙げている」(Wikipedia、青山士の「生涯」)など、大きな影響を受けているようです。

 

 

「家の為」あるいは「村」「藩」「幕府」のためぐらいが、それまでの時代では社会として認識されていた範囲ではないかと想像するのですが、明治20〜30年代頃までにそのイメージはどのように変化していったのでしょうか。

さらに「子孫のため」だけでなく「國の為」「人類の為」へと変化したのは、当時、どんな社会の雰囲気によるものでしょうか。

 

人類とは、個々の人間や民族などの相違点を超える《類》としての人間のことである。

(Wikipeida、「人類」)

 

人類という言葉を当たり前のように使っている現代ですが、一世紀前にその新しい言葉と概念をどうやって理解していったことでしょう。

 

あの、経済葛藤もそうですが、言葉や概念の広がりもまた驚異的に変化する時代があるのかもしれません。

 

「人類の為」と聞いて気恥ずかしく感じたのは、むしろ私自身がまだこの言葉や概念を理解しきれていないからかもしれないと思いながら、帰り道にもう一度、石碑に立ち寄ったのでした。

 

 

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記録のあれこれ 36 信濃川大河津資料館

分水を訪ねることに決めてから、今まで思いついたこともない疑問が出てきました。

なぜ新潟県は「新潟」というのだろう、と。

 

頼みの綱のWikipediaにも答えがありません。新潟市のホームページに「新潟市の歴史」があって、そこには以下のような記述がありました。

新潟の地名が記録に現れるのは戦国時代の永正17(1520)年です。信濃川河口右岸の蒲腹津と、阿賀野川河口(現、通船川河口)右岸の沼垂湊に、信濃川河口左岸の新潟津が加わり、合わせて「三か津」と呼ばれました。

越後と呼ばれていた時代に、「新潟」というのはどういう意味を持っていたのでしょうか。

 

*「行き場のない水が容易に引かない」土地*

 

Wikipedia大河津分水の「分水路の開削」に越後平野について説明があります。

越後平野は古代において海面下にあり信濃川阿賀野川が運んでくる沖積土砂により低湿地として埋め立てられた沖積平野である。そのため川の水面よりも低い土地がかなりの面積を占め、ひとたび洪水が発生すると水がすぐに溢れ、しかも行き場のない水が容易に引かないという状態であった。(強調は引用者による) 

 

さて、分水駅に到着してから、大河津分水路の堤防沿いに約1.5kmほど歩いて資料館へ向かいました。

堤防の上も遊歩道になっているのですが、ちょうど工事中で立ち入り禁止でした。そこで、堤防よりも2mほど低いところにある道を歩いたので、全く分水路の流れは見えず、黙々と歩きました。

 

越後平野のなりたち」の「約6000年前」の地図が目に入りました。

越後平野は大きな入江(入り海)となっていて、まだ陸地ではありませんでした。このころ海岸部では砂丘が細長く伸びはじめました。

現在の新潟県の海岸線からはるかに内陸部までほとんどが海だったようです。

 

「約350年前(江戸時代初期)」になると、現在に近い沖積平野が形成されていたようですが、まるで血管のように大小の川が張り巡らされている地図でした。

たくさんの潟や沼をもつ低湿地の中を、信濃川をはじめとする大小の川が、曲がりくねって流れていました。川筋は洪水があるたびにしばしば変わりました。加治川も阿賀野川信濃川に注いでいました。

 

関東平野の歴史が重なります。

 

「行き場のない水が容易に引かない」、それが「潟」に込められているのでしょうか。

 

*明治から昭和への大工事*

 

江戸時代から計画があったものの、ようやく明治に入って「信濃川河身改修事業」が決まったようです。

ところがしばらくすると、当時工事が行われていた新潟港へ土砂が流入することや、地元の反対運動で一旦中止されたようです。

その後、1896年の信濃川の空前の大水害とされる横田切れを契機に、分水工事を求める声が高まり1909年(明治42)に再開されたようです。

 

計画当初とは比べものにならない掘削機などの機械や技術の驚異的な変化の時代を迎え、1922年に分水路が開通しました。

 

ところが、その5年後に自在堰が陥没し、この時には海水が周辺地域の水田や井戸にまで流入したため、何年もの間、大変な状況であったことが展示されていました。

資料館のサイトにはこう書かれています。

▪️6月24日は自在堰が陥没した日です 

1922(大正11)年に完成した自在堰は、水と空気の力を利用してゲートを動かし水量をコントロールする特徴的なしくみでした。しかし、完成から5年後の1927(昭和2)年6月24日に突如として陥没してしまいました。

ちょうど 今から92年前のことです。

 

その後も塩害や洪水の危機の中、補修工事が行われ、1931(昭和6)年6月20日に完了したそうです。

 

展示の中では、分水路による治水が行われなければ、地盤が不安定なこの越後平野に高速道路や新幹線を通すこともできなかったことが書かれていました。

日帰りで新潟まで分水路を見に行くなんて、一世紀前には夢物語だったのだと改めて思いました。

 

分水資料館から橋を渡って寺泊駅まで歩く途中で、廃線路が残っている場所がありました。

工事でトロッコが走っていた場所なのだろうか、当時の工事の風景はどんな感じだったのだろうと想像しながら歩きました。

 

 

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