散歩をする 362 小貝川と鬼怒川の間を歩く

福岡堰に圧倒され、小貝川がつくりだした地形と、ふらりと立ち寄った水田の歴史にまた圧倒されながらバス停へと向かいました。

 

蛇行した石積みの堤防も美しく、そのそばをしばらく歩いてから、名残惜しい水田の風景をなんども振り返りながらバス停のある高台へと坂を上りました。

竹やぶや林の向こうに落ち着いた住宅街が見え、地図にはない小さな神社がありました。

 

この散歩は2ヶ月前の11月中旬に行った記録なのですが、その時のメモにこんなことを書き残していました。

ランキングなんて不要

それぞれの地を築いてきた人への敬意がない視線が嫌い

たしか都道府県ランキングが出たあとで、感情が爆発したようなことを書いていました。

もう少し穏やかな表現にすると、「つまらない場所や自治体なんてない」という感じ。

 

 

さて、コミュニティバスはまた複雑に入り組んだ高低差のある場所や水田を抜けていきます。

途中の交差点に「治水豊穣」と書かれた石碑がありました。本当に何世紀もの先人の努力ですね。

なんと、パパイアを栽培している畑が見えました。三十数年前、日本に帰ったらもう二度と食べる機会はないかもしれないと思っていたことが嘘のようです。

 

つくばエクスプレス万博記念公園駅で下車し、そこから守谷駅関東鉄道に乗り換えて水海道駅に向かいました。あの「将来、何になりたいの?」と尋ねられた少年と出会った路線です。どうしているかなと懐かしく思い出しました。

 

*小貝川右岸の堤防を歩く*

 

12時35分に水海道駅に到着し、東側へと歩き始めました。数分も歩くと小貝川の堤防です。付近の住宅街よりも一段と高いところに土手があり、地元の方でしょうか歩いているのが見えました。

その向こうに小貝川が見えるかと思ったのですが、堤防の内側には林が広がり、水面は見えませんでした。

それでも土手の上を歩くだけでも、楽しいものです。

 

水門が見えて対岸の街が見える場所で、小貝川の流れが少し見えました。美しい川です。

ここで土手から降りて、そばに神社があるので立ち寄ってみました。駅の案内板では「愛宕神社」でしたが、「鷲神社」と鳥居にありました。

 

御由緒はわかりませんでしたが、地図ではこの辺りが小貝川と鬼怒川が最も近づいた場所です。

 

*八間堀から鬼怒川へ*

 

いったん、街の中心部へと戻りました。

鬼怒川と小貝川という大きな河川に挟まれた場所ですから、ちょっと小高い「尾根」のような場所を想像していましたが、水海道駅周辺はほとんど高低差を感じませんでした。

 

いつもの散歩や遠出はお昼ご飯を食べそびれるのですが、今日は時間に余裕があります。

蕎麦屋さんがあったので、ふらりと立ち寄ってみました。玄関で靴をぬぎ、庭園のある奥の間へ通されました。もしかして値段も高いお店だったのだろうかと、ちょっと冷や汗をかきながらメニューをみると、普通のお値段でした。

悩んだあげく、やはり親子丼とお蕎麦のセットになりました。

濃いめの関東風のお醤油なのですが、塩分は控えめで美味しくいただきました。

 

満足して歩き始めると、小貝川と鬼怒川との中間点ぐらいの場所でしたが、電柱に「2.0m    鬼怒川 想定浸水深」の表示がありました。小貝川より、鬼怒川の水が流れ込むようです。

 

目指すのは八間堀で、地図では小貝川と鬼怒川の間を北からまっすぐ用水路のような水色の線が流れてきて、水海道の少し北東で流れを変えて、途中、直角に曲がり鬼怒川へと合流しています。

橋がぐいと高くなっていて、「新八間堀川」がありました。のぞき込むとやはり放水路に近いような川です。その横から鬼怒川との合流地点まで歩き、鬼怒川の土手に出ました。

 

広々とした河川敷が広がっていて、川のすぐ近くまでいけます。

悠々とした流れと、遠くに見える山、しばらく川面を眺めながら歩きました。

 

堤防に石柱が建っていたので近づきました。

水海道河岸には「鬼怒川の水は尽くるともその富は尽くることなし」と称えられた豪商たちが店を連ねた。河岸の最も栄えた幕末から明治初期にはこの一帯に河岸が並び、1日の百艘ほどの舟が出航した。河岸の繁栄は常総鉄道が開通する大正二年(一九一三)まで続き、物資流通の拠点として活躍した。

 

その少し離れたところに、石が崩れそうな上に祠がある小さな「水神宮」がありました。

 

 

*二つの川の浸水域が交わる場所*

 

土手から離れて高台の水海道天満宮のそばを通り、また下り坂を下りて水海道駅に向かって歩くと、「4.0m  小貝川 想定浸水深」の表示がありました。ここはどちらかというと鬼怒川に近いのに小貝川の影響を受けるのかと思って歩いていると、数百メートルもいかないうちに今度は「4.0m   鬼怒川 想定浸水深」の表示がありました。

 

小貝川と鬼怒川が最も近づいた場所はほとんど平地に近いような場所だったことが、実際に歩いてみてわかりました。

 

と、あの日のことを書きながら思い返しているうちに、伊奈忠次が「鬼怒川と小貝川を分流した」というのはあの八間堀のことだったのだろうかと、またわからないことが出てきました。

 

 

 

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米のあれこれ 31 「禾黍油油」

小貝川の旧河道の堤防とに挟まれた場所にある川口公園は水田に囲まれていました。

田植えから稲刈りまで、どんなに美しい場所だろうと、11月中旬のちょっと茶色い風景の中で想像しました。

 

ここからひとつ手前のバス停まで歩いてまたコミュニティバスに乗る予定でしたが、上流側の水田地帯の中にポンプ場のような建物が見えました。

田んぼの端に水を入れるためのパイプがあるので、そのための施設かもしれません。

 

近づいて見ると、大きな石碑がありました。

「禾黍油油」と書いてあるのが見えました。

 

「黍」はトウモロコシかなと想像がつきましたが、「禾」や「油油」はなんだろう。

学生時代に習った漢文もこの程度ですね。

さらに近づいたら「かしょゆうゆう」と読み、「稲や作物などが、つやつやと勢いよく成長するさま」とあり、「禾」は稲や麦などの意味でした。

 

 

さらに大きな石碑に、この地域の歴史が書かれていました。

県営土地改良総合整備事業川口地区

 本地区はつくば市の西部に位置し、秀峰筑波山を望む一級河川小貝川流域東部に拓けた大字上郷、同田倉の一部に亘る水田の受益地である。かつて当地は大湿地帯であり、田舟等を利用しながら作業し、道路も狭く不整形な水田が散在し、自然の利水により農耕が営まれていた。又、小貝川への自然排水の為、大雨による湛水被害や日照り続きによる旱害など自然災害に幾度となく先人たちはさらされてきた。

 この現状を一掃すべく、昭和三五年に川口土地改良区が設立され、昭和三九年には第一次農業構造改善事業により区画整理、用排水の整備が実施された。続いて昭和五〇年に上原地区、昭和五三年に長峰地区が整備され、川口土地改良区に編入された。

 しかしながら、近年用排水施設の老朽化が進み、維持管理に多大の労力を要し、大雨等の被害も相次いだ。又、深井戸に頼った水量も年々減少したことから、水源の安定供給を図るため、霞ヶ浦用水の補給が予定され、これに備えて末端施設までの整備が急務となっていった。これら生産基盤の総合的な改善のため、当改良地区とつくば市との度重なる協議の結果、茨城県土浦土地改良事務所の指導のもと、県営土地改良事業を導入することとなり、平成八年度に事業計画を作成し、地権者全員の同意のもと、平成八年に施行要望を行い、同九年に県営とち改良総合事業川口地区として事業採択となった。平成九年度の調査設計ののち工事着手隣、川口用排水機場及び上原用水機場が新たに建設され、パイプライン、排水路、農道、客土及び根水処理の工事が行われ、農業近代化の基盤が確立されることとなった。

 ここに本事業遂行に多大のご尽力を賜った、茨城県つくば市および関係各位に敬意を表するとともに、改良区役員及び組合員各位に深甚なる感謝の意を捧げるため、記念碑をここに建立しこの事業を永く後世に伝えるものである。

 

「田舟」から、あの「稲刈りは水中での手探り」「刈り取った稲は舟に乗せる」という時代があった邑知潟の米作りを思い出しました。

 

それにしても、小貝川のすぐそばなのに水田を維持するための水不足もあったとか、霞ヶ浦から補給されているとは。

全国津々浦々水田は健在と思っていたのですが、水がどこから来たのかはそれぞれの水田のそれぞれの歴史があるのですね。

 

水争いとか水を盗むといったニュースを耳にすることなく「禾黍油油」の風景を見ることができるようになったのも、驚異的に変化する時代だったのかもしれませんね。

 

 

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散歩をする 361 小貝川 と上郷ジオパーク

福岡堰と伊奈神社を訪ねたあとはどこへ行くか計画の段階で地図をずっと眺めていると、福岡堰から上流側の数キロの区間に旧河道らしい場所がいくつかあることがわかりました。

水田地帯でもあるようです。

 

このあたりを散歩するにはどうしたらいいかと思ったら、福岡堰の近くのバス停からSe西部シャトルというコミュニティバスがあり、小貝川左岸側をずっと上流に向かって走るようです。時刻表を確認すると、9時59分という便が良さそうです。それで早朝に家を出発し、福岡堰に到着したのは9時頃でした。

 

バス停は「富士見ヶ丘団地」で、福岡堰から少しくだり坂を歩き、福岡堰に繋がっている細い水色の線が描かれていた低地を超えると、また少し上り坂になった場所にありました。

その水路は福岡堰から取水しているのかと思ったら、福岡堰の方へと流れる排水路でした。そういえば、福岡堰のすぐそばに「離山排水樋管」と表示された水門がありました。パッとみただけでは高低差がわからないような場所に、こうして用水路と排水路があるようです。

 

水路のそばに棚田が少し残り、その先を住宅地として開発したようです。都内のコンクリート製の防水堤のような団地群を想像していたら、一戸建ての家が整然と並ぶ住宅地でした。

 

*小貝川左岸の風景*

 

住宅地を抜けてつくば市との市境のあたりで、広大な畑が広がりました。少し高台の農家の家々が並ぶ道を走ると下り坂になり、交差点で「大雨冠水注意」と表示がありました。

キャベツや白菜など美しく広々とした農地が広がっています。

小学校も高台にあり、小貝川対岸が少し見えました。

鍋沼新田のあたりから、小貝川の堤防との間に水田が広がり、竹林があります。なんとも美しい田園風景が続きます。

 

途中で妊婦さんらしい女性が乗ってきました。この辺りではどこで出産するのかと気になっていたら、バスは低地と高台を行ったり来たりしながら万博記念公園駅に立ち寄り、そこで下車されていました。

また小貝川のそばを走り、左手に低地が続く風景です。

目的の川口公園バス停に10時51分につきました。

わずか数キロのところを1時間ほどコミュニティバスでぐるぐると回ったので、さまざまな風景を見ることができました。

 

*川口公園と上郷ジオサイト

 

バス停の前は鬱蒼とした森で、川口公園入り口とありました。おそるおそる森のような中を歩いてしばらくすると、目の前がパッと開けて公園がありました。

 

筑波山地域ジオパーク推進協議会による「上郷ジオサイト」という説明がありました。

蛇行河川がもたらす脅威と恵み

筑波山塊の西方では、小貝川が勾配のゆるやかな関東平野を大きく蛇行しながら流れています。小貝川の近くには、大きな氾濫などが原因で自然に流路が変わったり、河川を改修したりすることでできた、河跡湖(かせきこ、三日月湖)などの昔の川の跡(旧河道)が残されています。小貝川はたびたび水害を引き起こしてきましたが、氾濫の時には多量の土砂が堆積して独特の河川地形をつくり出し、里山の自然や、地形を利用した人々の暮らしと歴史・文化を育んできました。

 

蛇行河川がつくる地形

川の氾濫が起きると、川岸のそばに礫(れき)や砂が堆積して、水はけの良い小高い場所(自然堤防)ができます。また、氾濫のあとに川の流路が変わることがあり、流路から外れたところには旧河道が残されます。自然堤防の上には集落や寺社、畑が立地し、後背湿地は田んぼとして利用されています。

 

私がコミュニティバスの車窓から見ていた風景の説明が書かれていたのでした。

自分が生活している場を学ぶ機会があるのはうらやましいことです。

 

広い公園にはところどころベンチがあり、平日でしたが、近くをウォーキングする人や静かに座ったり、本を読む人など数人の人がいました。

地図で見つけた時には、誰もいないだろうと思っていました。

 

なんとなく立てた計画でしたが、大満足のコースになりました。

 

 

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水の神様を訪ねる 54 福岡堰と伊奈神社

福岡堰に立ってしばらく風景を眺めました。

ここから下流は1.5kmほど、小貝川は分流堤で本流と用水路の二つの流れになり、あの水門(みずもん)でさらに二つの用水路になって水田を潤していくようです。

 

どうやってこの場所が堰としてふさわしい地形だとわかったのだろう、どうやって過不足なくそして滞ることなく、水を下流に流す仕組みを作ったのだろう。

そして現在の堰になるまで、どれだけの失敗や困難があったのだろう。

考えれば考えるほど、目の前の歴史に圧倒されます。

 

そこから200mほど上流側に、伊奈神社があります。

一旦、小貝川の堤防の上に出て、神社を目指しました。

堰が造られた場所は、左岸側がほんの少し高く岩か何かがある場所だったらしいことはわかりました。

 

小貝川の流れを見ながら歩くと、またほんの少しだけ高くなった場所に鳥居がありました。

想像していたよりも質素な造りで、「伊奈神社」と彫られた石碑があるだけで説明はありませんでした。

 

つくばみらい市観光協会」に説明があります。

谷原領開発の祖、伊奈半十郎忠治公を祭神として昭和16年に創設された神社です。伊奈忠次・忠治親子は水害の多かった鬼怒川と小貝川を分離させ、谷原領一帯を干拓しました。

寛永元年(一六二四年)から新田開発を行い、「谷原三万石」と言われる美田の開発を完成させました。その新田用水の供給源として山田沼に堰が造られました。

その後、堰は下流の福岡地区に移され福岡堰隣、現在もつくばみらい市の農業に重要な役割を果たしています。

 

1923年(大正12年)に鉄筋コンクリートに改築し、それからまた十数年たった時期のようです。

この神社を造ろうという雰囲気はどんな感じだったのでしょうか。

 

 

境内に参拝するために入った時には気づかなかったのですが、振り向いたところ、神社と参道はまるで福岡堰をながめるかのような角度に建っていました。

 

 

 

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水のあれこれ 207 福岡堰と遊歩道

福岡堰を訪ねる計画はだいぶ前から散歩の計画ノートにあって、おおよそのルートまで書き込まれていました。

躊躇していたのは、航空写真を見ても最寄りのバス停からかなり人気のない水田地帯を歩く可能性でした。

 

江戸時代だったらいや現代でも、女性が一人では歩くことは想定していないだろうなという躊躇です。

実際に訪ねてみると怖れているようなことはまず起こらないのですが、やはり追い剥ぎや暴漢を妄想してしまいます。ヒトの世界は物騒ですからね。

あるいは誰かの所有地の農道であれば、勝手に歩くこともできません。

 

ところがそこに、伊奈忠次を祀っている伊奈神社がある。

是非、この地域を歩きたいという思いが強くなりました。

 

*水門バス停から福岡堰へ*

 

いつもの出勤時刻よりさらに早朝に家を出て、つくばエクスプレスみどりの駅で下車しました。

 

地図では福岡堰から2kmほど下流に用水路が始まっているような場所があり、「水門バス停」があります。

ちなみに「すいもん」と読むのではなく、「みずもん」でした。

 

そこで下車して100mほど歩くと、地図に描かれている通り、小貝川から導水した水を水田に二手に分ける水路がありました。

道路を渡ると小貝川の堤防です。堤防沿いは人気がなさそうなので県道沿いを歩くつもりでしたが、白線しかない歩道で交通量も多く、ここで断念するしかないのかと諦めかけた時に、堤防沿いに遊歩道らしき道が整備されていることに気づきました。

 

「福岡堰土地改良区 谷和原村観光協会」による周辺の案内図がありました。

桜並木が堤防沿いにあり、トイレなども整備されているようです。

先ほどの分水路は、「台通用水路」「川通用水路」であることが書かれていました。

 

その横に、「この水路は今から約370年前に生まれました」という説明がありました。

福岡堰(ぜき)の由来

 この水路は水田灌漑のための用水路で、谷和原村伊奈町・藤代町にまたがる広大な農地を潤しています。

用水は四月から九月まで福岡堰によって小貝川から取水されています。

 江戸時代の初めまでは、小貝川と鬼怒川が合流してこの地域に流れ込んでいたものを、時の関東郡代伊奈忠治が分流させ、鬼怒川の水がこの地域に流れ込まないようにし、常陸谷原(やわら)三万石の新田開発を可能にしました。開墾する新田に対する用水源として寛永二年(一六二五年)から、当時小貝川の途中にあった山田沼に堰を設ける工事を、さらに翌年には水路網も掘削し始め、寛永七年頃完成しました。これが現在の福岡堰と用水路の原型です。その約百年後、八代将軍徳川吉宗は幕府の財政を立て直すため、新たな新田開発を奨励しました。その際、山田村の開墾が計画され、堰をやや下流の福岡地区に移す工事が行われました。こうして享保七年(一七二二年)、福岡堰が誕生したのです。それ以来、水田を潤し人々の暮らしを支え続けてきた福岡堰とその水路は貴重な施設・財産として大切に守り育てられてきたのです。

そして最後に「用水は江戸時代から続く地域の宝物です」「ゴミを捨てないでください」「水路の流れは危険なので決して入らないでください」とありました。

 

この案内板を読んで、一気にこの地域への親近感と信頼感が湧いてきたのでした。

福岡堰まで1.5km、伊奈神社までは1.7kmだそうです。

 

桜はすっかり葉も落ちていますが、土手は緑の草が生え、白鳥とアオサギがいました。冬の青空に映えています。

用水路は石を針金で固定したものが続いています。

時々、散歩をされている地元の方とすれ違うくらいで、誰もいない静かで美しく整備された小貝川の遊歩道を独り占めです。

途中、国土交通省が管理しているという立て看板がありました。

 

*福岡堰へ*

 

次第に福岡堰が見え始めました。

近づくと堰自体の高さもさほどではなく、浅い池のような景色でした。

 

つくばみらい市による説明がありました。

 福岡堰は谷和原村の最北端にあり元和年間関東郡代伊奈半十郎忠治の支配する鬼怒・小貝川の分流域にあたる谷原領三萬石が干拓され、その用水源として寛永二年(一六二五)小貝川を萱洗堰で堰止め、一・六キロメートルを導水し、台通、川通の両元圦(もといり)から地区内へ灌漑用水したのが始まりで、山田沼堰ともいわれ、享保七年(一七二二)福岡地内に改設して福岡堰となった。小貝川締切工事は毎年春の彼岸に竣工し、用水の済んだ秋の彼岸に切流した。

 のち、明治十九年木造堰枠に改築され十年ごとに伏替していた。大正十二年に工費十五万円で鉄筋コンクリート造りに改築しその恩恵を受けていたが、小貝川の流量増大と本体の老朽化のため、昭和四十六年工費十億円余りで竣工したのが現在の福岡堰である。

 

「鉄筋コンクリート造りに改築しその恩恵を受けていた」の一文に、明治終わり頃からのコンクリートの普及を思い出したのですが、当時の人はどんな思いで新たな工法を見ていたことでしょう。

 

しばらく堰の上流の広々とした水面と、ずっと平地が広がる地域を眺めました。

「鬼怒川と小貝川の分流工事」

想像がつかないのですが、Wikipedia「鬼怒川」の「歴史」にある「江戸時代以前の利根川、荒川、渡良瀬川、鬼怒川水系」の図を見ると、「洪水」の意味が現代とは違うのかもしれませんね。

 

訪ねてみて良かったと思う風景と歴史でした。

 

 

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散歩をする 360 小貝川と鬼怒川を歩く

壮大なタイトルですが、これが可能なのが水海道(みつかいどう)のあたりです。

 

ちょうど3年前に通過した時にはすでに夕闇の中でしたから、いつか歩いてみようと計画がいくつかありました。

6年半前、初めて「線状降雨帯」を知り、一晩中天気図とニュースでこの地域の状況を追っていました。

 

*小貝川と鬼怒川がぐっと近づく場所*

 

このあたりは大きな川が近い場所だと、地図を見て漠然としたイメージはありました。

30年以上前、知人が牛久沼に連れて行ってくれた時に、途中、「小貝川」という表示がある川を渡ったことを覚えていたので、時々その流れを地図で追っていました。

水辺は木がたくさんあってゆったりと流れるその川は、穏やかな美しい川という記憶です。

 

一方、鬼怒川は観光地として耳にはしていたのですが、どこをどう流れるのか、ほとんどイメージできませんでした。

次第に、利根川流域を眺めるようになって、あの利根運河の対岸で合流していることがわかりました。

 

小貝川も鬼怒川も大きな河川なのに、利根川水系の支流の一つということに驚きます。

その二つの大きな川がぐっと近づくのが水海道で、川と川の間はわずか1kmほどです。

小貝川の右岸が鬼怒川の左岸である、ともいえそうな場所はどんなところなのでしょう。

 

伊奈忠次、忠治とつながる*

 

昨年9月下旬に見沼代用水の瓦葺懸樋跡を訪ね、その帰り道に伊奈屋敷跡に立ち寄り、その記録を書いている時にWikipedia伊奈忠治の「略歴」を読みました。

忠次は父、兄の仕事を引き継いで関八洲の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。江戸初期における利根東遷事業の多くが忠次の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国常陸国一帯の堤防工事などを担当した。なお、この業績を称えて忠次を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくば市真瀬にある。

 

福岡堰、以前から地図で気になっていた小貝川の途中にある水色のダムのような場所で、いつか歩いてみようと計画ノートに書いておいたのでした。

 

ということで、昨年11月の半ば、出かけてみました。

昨年の散歩の記録がまだまだ続きます。

 

 

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水のあれこれ 206 大雪とは何か

1月6日に都内にも「大雪警報」が出されて、プールの外に出たら別世界になっていました。帰りの車窓の風景も、今まで沿線を散歩して見慣れているはずの風景が一変しています。

水墨画のように色がなくなり、ランドマークになるような建物も見失いそうでした。一度歩くとたいがいの道を記憶しているのですが、もし今ここで電車が止まって歩いて帰ろうとしてもどこにいるのかわからなくなりそうな変化でした。

 

都内で「大雪」というと数センチぐらいでさまざまな機能が麻痺し始めるのですが、建物が多く道路が整備されているのに道を失うかもしれないことも災害の一つかもしれませんね。

 

翌日夕方には日陰の部分の雪以外はほとんど溶けて、またいつもの街の風景になっていました。

 

*大雪とか大雪警報の定義は*

 

そういえば、「大雪」って何センチからなのだろうと素朴な疑問が湧いて来ました。

「大雪に関する気象情報」(気象庁大気海洋部 気象リスク対策課、令和3年12月17日)に、「大雪に対する緊急発表」がありました。

・普段とは異なる顕著な降雪や猛吹雪が予想される場合、普段降雪が少ない地域においてまとまった降雪が予想される場合など、大規模な車両滞留や長時間の通行止めを引き起こすおそれのある大雪が予想される場合には、国土交通省気象庁が共同して報道発表を行い、車両の立ち往生などに対して一層の警戒を呼びかけます。

・各地方でも地方整備局と気象台、高速道路事業者と共同して報道発表を行い警戒を呼びかけます。

 

それぞれの地域で「普段とは異なる」降りかたで、何センチといった基準では無いようです。

 

*「大雪による被害」への対応*

 

その資料に「大雪による被害」が書かれていましたが、「鉄道の間引き運転」「高速道路の通行止」「交通機関の運休」「立ち往生車両の発生」などが、わずか数センチの雪でも都内では大きな影響がありますね。

 

1月6日も翌日の交通機関の運休などのニュースがないかずっと追っていましたが、幸い、ほとんどの路線が通常通りでした。

それでも駅や勤務先まで滑らないようにゆっくり歩く時間を考えると、いつもよりはだいぶ早めに家を出ました。

 

踏切や駅周辺は大勢の人が歩いて雪を踏み固められていたり、雪が靴について持ち込まれていたりするので、おそるおそるゆっくり歩く必要があります。

覚悟していたら、踏切だけでなく駅周辺に融雪剤が撒かれていたのか全く雪もなく、滑る心配もありませんでした。

 

早朝までに誰かが、こうして除雪してくださっているのですね。

 

歩く人が多い都内の「大雪」とは、安全に歩けるかどうかあたりも一つの目安かもしれません。

あるいは通勤通学で歩くと1時間ほどかかる道のりを自転車やバスを利用している人もいるので、雪の日には大勢が車道にまでソロリソロリと歩き、雪道に慣れない自動車も走り、混沌とした状況になります。

何センチはでなく、それぞれの地域のそれぞれの機能への影響ですね。

 

大雪の正確な予想のために、そして大きな「災害」にならないように昼も夜も誰かが対応をしている。

なんだかすごい社会だと改めて思いました。

 

 

 

 

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数字のあれこれ 75 昔取った杵柄

1月6日は寒く、天気予報では「にわか雪」と伝えていました。にわか雨ならぬにわか雪という言葉を初めて耳にしました。

たしかに家を出るころには小雪がちらほらと舞っていて、予測の正確さに驚きました。

 

さて、この日は都内のとあるプールに向かいました。

雨が降ろうが台風が来ようが槍が降ろうがプールに来る河童族は雪の日は来ないという長年の経験則から、今日は空いているだろうと予測しました。

 

久しぶりに50mの長水路プールで泳いでみたくなりました。

最後に50mプールで泳いだのはいつ頃だったでしょうか。1990年代ごろから長水路プールに自転車で通った時期があって、月に2〜3回は長水路で泳ぎ、それ以外は近所の25mプールに通っていました。

かれこれ十数年ぐらい、50mプールから離れているかもしれません。

 

50mプールは単純に25mの倍の長さを泳ぐというわけではなくて、ペース配分が全然違うことを実感しました。

少しずつ加速して後半に勢いに乗りながら泳がないと、次第に失速して対岸にたどり着けなくなりますから、50mを泳ぐのは大変だと最初のころは思いました。

 

その後、競泳観戦するようになって、選手の皆さんの多くが普段は25mプールで練習して、試合では50mプールでぶっつけ本番のように泳いでいることを知りました。

達人は日々の練習もまた達人ですね。

 

久しぶりに50mプールのプールサイドに立ってみると、やはり対岸は遠いですね。

泳げるかなとちょっと心配になりましたが、案外と体が50mの泳ぎ方を覚えていました。

十数年前はまだクロールだけで泳いでいて、その後背泳ぎが好きになりましたが、いつもは25mプールで泳いでいます。

 

コースにほとんど人がいなかったので、背泳ぎで泳いでみました。

初めてとは思えないくらい、50mでも背泳ぎでスムーズに泳げました。

 

泳ぎながら「昔取った杵柄」という言葉を思い出していました。

しばらく遠ざかっているが、かつて修練して自信を持っている事柄のたとえ。年月を経ても腕に覚えのある技量などをたとえていう。(コトバンク

 

本日のタイトルは数字の話っぽくはないのですが、「どれくらい前」「どれくらい練習をしたこと」が、「どれくらいの間が開いても」体が覚えているのだろう。

そんなことを数字で表したら・・・と考えながら泳いでいたのでした。

 

2時間ほど泳いでいるうちに、人が増えてきました。

雪が止んで皆さんプールに来始めたのかと思いましたが、外に出るとすでに5cmぐらい積もり始め、まだしんしんと降り続いています。

 

天気予報の「にわか雪」もちょっとはずれて、都内は大雪警報が出ました。

私の「雪の日は河童族は来ない」という経験則もはずれました。

 

 

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水のあれこれ 205 綾瀬川の水源

綾瀬川のそばを歩き始めたのは2017年で、堀切菖蒲園を訪ねた時だったと思い返しています。

玉川上水から都内の河川や水路に関心が出て、あちこちを歩き始めました。綾瀬駅の近くを流れ、東京拘置所のそばを流れて荒川に合流、その河口には運河や葛西臨海公園がある、ようやくそのあたりまで私の頭の中の地図が整理されたのでした。

 

その頃に、綾瀬川はどの辺りを流れているのだろうとMacの地図を拡大したり縮小したりして追った時に、水田地帯で直角に曲がる水路まで行き着きました。

たしかその時には「綾瀬川」と地図には表示されていたような気がしていました。

昨年8月ごろからMacの地図から忽然と河川名が消えたままになっているのですが、疑いもなくそこが綾瀬川の水源地だと思って、11月に出かけました。

 

数年来楽しみにしていた「綾瀬川の水源地を歩いた」と満足しました。

 

綾瀬川の水源は別の場所だった件*

 

昨日の記事を書くにあたって、タイトルを「綾瀬川の水源地を歩き、氷川神社を訪ねる」にするつもりでした。

念のため綾瀬川を読みました。

「地理」を読み始めて、なんだか違和感がありました。

埼玉県桶川市の小針領家の田園地帯の排水に源を発し、桶川市営運動場を流れ東に向かう。

 

地図で確認すると、私が歩いた川の東側、あの伊奈町立図書館から下り坂になったところを流れる川の方が綾瀬川本流だったようです。

iPhoneの地図で河川名を確認すると、やはりそちら側に「綾瀬川」と表示されていました。

 

瓦葺懸樋跡は見沼代用水と綾瀬川が交差しているのですが、その200mほど上流で二つの川が合流しています。

綾瀬川より西側から流れてくる川の方がしばらく太い水色なので、そちらが綾瀬川本流だと思い込んでいました。

 

では私が喜こびに満ち溢れて歩いたあの小さな水路はなんというのかというと、「右岸が上尾市に変わるところで原市沼川を合わせる」(Wikipedia)とありますが、iPhoneの地図には何も表示されていません。

 

もう一度、当日撮った写真を見直しましたが、埼玉県立がんセンターの側で橋を渡った時に「川をきれいにしましょう」の表示板に「綾瀬川上流治水促進連絡協議会」と書かれた写真がありました。

地元ではここもやはり綾瀬川ということなのでしょうか。

 

*一つの川の流れを正確に知ることはなかなか大変*

 

今回あらためて綾瀬川について読み直して、もう一つ大きな勘違いを発見しました。

下流で「荒川に合流」しているものだと思い込んでいましたが、正解は以下の通りです。

足立区では花畑運河で中川と連絡する。葛飾区で荒川放水路の左に沿って流れ、葛飾東四つ木で中川に合流する。

 

確かに、河口付近まで荒川放水路と中川には分流堤が続き、新左近川の300mほど上流のところで初めて荒川と中川が合流しているのでした。

 

一本の川の流れひとつとっても正確に知るのは大変ですね。

 

 

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水の神様を訪ねる 53 伊奈町から上尾まで氷川神社を訪ねる

散歩の記録が2ヶ月遅れになっていますが、昨年9月下旬に見沼溜井の北端だったあたりを歩き、その伊奈町の周辺にある他の氷川神社を11月上旬に訪ねました。

 

ニューシャトル羽貫駅で下車し、水田地帯の真ん中にある川沿いを歩いてから、伊奈中央駅まで歩いてみました。

最初の氷川神社伊奈中央駅のそばにあるのですが、少し遠回りをしたのは、地図ではその川が水田地帯の途中で直角に西側へ曲がり、そこで忽然と水色の線が消失しているからです。

水源を見ることができるかもしれないと、歩いて見ました。

 

羽貫駅から南西へと1kmほど歩くと、下り坂になり川に沿って水田地帯が広がっていました。

地図にのっていた通り、用水路が直角に曲がり、そのさきに少しだけ小高い場所があって、そこから用水路が始まっていました。

実際には暗渠の水路がまだ先にあるようで、水源というわけではなさそうでしたが、水路の中に澄んだ水が流れ、水草が揺れて美しい場所でした。

 

満足してその川の左岸側をまた上り、人参畑や果樹園のそばをのんびりと歩いて伊奈中央駅に向かいました。その途中に、伊奈町配水場の大きなタンクがありました。どこから取水しているのでしょう。

ニューシャトルと新幹線の高架橋をくぐると、その先には雨水貯水場がありました。先ほどの川からは結構上ったように見えたのですが、浸水する可能性があるのでしょうか。

 

*伊奈中央の氷川神社

 

その先の道も少し上り坂で、上り切ったところの交差点を東へと歩くと、伊奈町立図書館の近くに氷川神社があります。

鬱蒼とした森の中で、「伊奈町氷川神社社叢ふるさとの森」という昭和61年に書かれた説明板がありました。

 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。

 この神社の建立は古く、境内の石碑には寶治二年(一二四八年)の記述があり、小室郷(こむろごう)八ヶ村の総鎮守として、伊奈町最古の神社です。

 境内には、杉、松の古木が何本もあり、神社の風格を醸し出しています。また、杉並木の参道は隣接の建正寺まで続いており、境内のみどりとあいまって、緑の空間となっています。

 林相としては、スギ、ヒノキなどで構成されています。

     埼玉県

 

こうした説明板は、時代の大事な記録ですね。

樹木の中の遊歩道のような参道が、隣の氷川児童公園まで続いていました。

 

神社の由来がありました。

 この神社は、鎌倉時代の宝治二年(一二四八年)に勧請され、当時は素戔嗚尊を祀る男体宮と稲田姫命を祀る女体宮の二社であったがいつの間にか合祀されたと伝えられている。その後、南北朝時代の応安三年(一三七〇年)に社殿が再建され、江戸時代には小室郷八ヶ村(別所、小室宿、本(ほん)、柄(がら)、柴、小貝戸、中荻、丸山)の総鎮守となる。明治六年(一八七三年)には村社となり、明治四十年(一九〇七年)から四十三年(一九一〇年)にかけては旧小室村内の三十九の社が合祀され、昭和十九年(一九四四年)郷社に昇格した。原社殿は、昭和五十二年に完成している。

 江戸時代には大河内氏や松平伊豆守信綱(老中、忍・川越城主)に由縁が深く、両氏によって度々修復がなされている。

 境内にある天神社は、「知恵伊豆」と称されていた松平信綱にちなみ「伊豆天神」と呼ばれ、広く親しまれてきた。

 毎年、四月十五日と十一月二十三日の例祭のほか、十二月二十二日には「火渡り」が行われる。これは松薪を燃やし、その上を素足で渡ることにより、無病息災、鎮火防盗を祈願するものである。

 

「水の神様」とも少し違う氷川神社のようです。

 

境内の北側へと向かうと、そこは、北側の地域からは一段高い場所になり、そこから北側へと下り坂になっていました。

別の川の河岸段丘の上のような場所でした。

 

 

*芝川右岸の氷川神社

 

この日は、ここから先ほどの川を渡り、さらに芝川を渡ったところにある氷川神社を訪ねて上尾駅まで歩く予定でした。

伊奈町立図書館の前にコミュニティバスのバス停があり、5分ほどで志久駅方面へのバスが来るようです。

少し疲れてきたし、日没までの時間を考えてそれに乗ってみました。

 

バスはぐるりと田園地帯や住宅地を周り、前回、瓦葺懸樋跡を訪ねたあとに歩いた遊水池のそばを通りました。あの時は背の高い葦でどんな場所か見えなかったのですが、反対側からみると水の溜まっていない広大な貯水用池が見えました。

 

途中、昔からの農家と思われる広い敷地のお屋敷のような家もありました。

志久駅を越えて、埼玉県立がんセンター前で下車しました。ホテルのようにおしゃれな建物の裏へと周り、先ほどの川を越えて芝川の近くまでただひたすら歩きます。

 

住宅街から突如として三井金属の工場地帯が現れ、その先に芝川が流れていています。

その少し手前の鎌倉街道沿いに二つ目の氷川神社がありました。

 上尾は既に戦国期に郷村名として見え、元亀・天正のころ(一五七〇〜九二)のものと推定される旦那引付注文写(熊野那智大社書)に「足立郷あけをの郷原宿」と記されている。当社の鎮座地はこの辺りでは一番の高台で、かつての上尾三か村の中心地にあり、小字名を二ツ宮という。

 その創建は、当地一帯を上尾郷と称していた中世にまでさかのぼることが推測され、『風土記稿』上尾村の項には「氷川社 上尾三か村の鎮守なり、男体女体の両社にて、間に道を隔てるならびたてり、村内遍照院の持」と記されている。これに見えるように、当社は元来男体・女体の両社からなり、小字名二ツ宮の由来ともなった。

 明治初年の神社分離を経て、男体・女体の両社は、いずれも氷川社と称し、明治六年に村社に列した。しかし、明治四十二年に女体社を継承した氷川社の方が隣村の上尾宿の鍬神社に合祀される事態となった。鍬神社は社名を氷川鍬神社に改め、村社に列した。一方、当地では男体社を継承した氷川社が一社だけとなり、一宮の氷川神社に倣った古くからの祭祀形態は変容を余儀なくされたのである。

 当社の『明細帳』によると、いつのころか字二ツ宮の神明社末社八雲社・稲荷社が合祀され、明治四十年には上尾下字上原の無格社天神社、字下原の無格社稲荷社、字榎戸の無格社稲荷社・厳島社、翌四十一年には上尾村字北本村の無格社稲荷社がいずれも合祀された。

 

いろいろな神社の御由緒を読むようになってだいぶ読み慣れてきたつもりでしたが、「無格社」初めて見ました。神社の歴史も膨大な言葉と概念がありますね。

 

神社の境内のそばに湧き水があるようで、参道の入り口のあたりから水音が聞こえ、それが水路になって芝川へと流れ込んでいました。

一気に疲れが吹き飛びました。

 

芝川まであまり高低差を感じなかったのは、「排水路とされて田圃の最も低いところが開削されて、現在の芝川の河道がつくられた」(Wikipedia「芝川」「歴史」)のためでしょうか。

 

 

あたりが薄暗くなってきました。ここから30分ほど歩いて上尾駅に着いた時には、空腹と疲労感でちょっと朦朧としてきましたが、開いているお店もなくそのまま湘南新宿ラインに乗りました。

 

乗ってから、もう一つ氷川神社を訪ねる計画があったことを思い出しました。

上尾駅の目の前にある鍬上尾神社です。

芝川を渡る時には覚えていたのに、駅に着いた時には空腹と疲労で意識が飛んでしまったのでした。

 

 

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