水のあれこれ 100 母の用水路の記憶

母に水が張られた田んぼが美しいという話をしたら記憶を刺激したようで、水についての昔話をたくさん話してくれました。

 

「すぐそばの川は、ほんとうにきれいな水が流れていたのよ」「学校から帰ると、畑からトマトをとっきてその川にポンと投げて、そこで洗って食べるの」。

どうやら母の言う「川」は用水路のことのようでした。

私が小学生の夏休みに遊びに行った頃も、まだ周囲は草に覆われて土で固めた水路だった記憶がありますから、あれが母にとっての川でした。

 

「田んぼの角に、水を取り込むところがあるでしょ?あそこでドジョウとかたくさん採れたの」「川にはフナや小さな魚がたくさんいて、ちょっと網ですくうだけでいっぱい採れて、それを煮て食べたの。ほんとうに美味しかったわね」「川にはしじみもたくさんいたし、水門の方に行くとウナギもいたのよ」「いとこが魚取りがうまくて、夜になるとウナギを採りに行ってた。それを焼く匂いが美味しそうだったけれど、その家のおばさんがケチで、絶対に分けてもらえなかった」「女の子は『魚採りなんてしてはいけない』と言われていたから、しじみぐらいだったわね」

「水」から連想することの多さは、親子で似ているものだと可笑しくなりました。

 

ただ、母もまたその水がとこからくるのかまでは考えたことがなかったらしく、東西用水酒津樋門のことは知らなかったようです。

 

私が小学生の頃もまだまだ「女の子はそんなことをしてはダメ」と言われることが多い時代だったけれど、そういえば裏山の清流で沢蟹をとって遊んでいたけれど、やめなさいと言われた記憶がないのは、本当は母も魚採りとか好きだったのかも知れません。

 

水田と水路というのは、お米だけではない豊穣な恵みをもたらしていた場所だったことを母の記憶からまた知りました。

たとえ干拓地という人工的に作られた場所でも、時間をかけてまた生き物が育つ場所になっていた時代があったことも。

 

 

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水のあれこれ 99 田んぼに水を張る

母の面会に行く途中、水田が多い場所を通ります。

都内より気温が低いので、今が一斉に花が咲き始める桃源郷のような風景と、水が張られ始めた田んぼの風景がなんとも美しい季節です。

あちこちの用水路も、この季節はますます元気です。用水路が元気っていうのも変な表現ですけれど。

 

いつもはその風景に癒されるのですが、今年はちょっと冷や汗をかきそうになりました。

「水田はどうして水を張ったままにできるのだろう」

ふと思いついた疑問でしたが、今まで日本や東南アジアの水田をたくさん見ているはずなのに見ていないという冷や汗でした。

 

3年ほど前に初めて、3月から4月の初めに、一度田んぼが掘り起こされて少し水を溜めることを代掻きということを知ったのですが、その時にもまだそれ以上深く考えていませんでした。

稲刈りが終われば雨が降ってもじきに乾燥する田んぼなのに、なぜ、春になると水を溜められるようになるのかということを。

 

すごいですね。一発で、知りたいこと以上のことが書いてあるサイトにたどり着けました。

「くぼたのたんぼ」というサイトの田んぼの仕組みにわかりやすく説明がありました。

地球に届く有効な太陽エネルギーの約1%が、緑色植物によって有機化合物という生命のおにぎりになる。農業はこの太陽エネルギーを稲に貯えて人間の食糧というエネルギーに変換する営みである。田んぼは、日本の不利な土壌、気候問題をクリアしてお米を日本の主食とした、優れた人工栽培装置です。

 

その田んぼは、「作土層(さくどそう)」「鋤床層(すきどこそう)」「畦(あぜ)」「水路」「せき」で作られているそうです。今まで「水路」と「せき」には関心があったのですが、肝心の水田本体のことを全く知りませんでした。

 

水を溜めるために必要なのが「鋤床層」のようです。

・人や機械を支える働きをします。水田をつくるときは、まずこの層をつき固めて硬くします。

水を漏らさず、しかし全然漏らないのも困るという微妙な硬さにする名人芸が要求されます。 

これを知ったら、同じ風景がまた違って見えてきそうですね。

 

そして「水田に水がある」ことが当たり前すぎて疑問にも思っていなかったことの意味が書かれています。

「田んぼに水を溜める、という大発明」 

 

日本の土壌は本来、お米を育てるのに向いていたわけではありません。表面に水を溜めるという大発明によって、全てを解決したのです。もともと稲は、熱帯の作物です。それが日本列島のような温帯で安定的に栽培できるようになったのも、この大発明のおかげです。

 

水を溜めることにより

・肥料をあまり与えなくても空気や水、そして土壌の中から天然の肥料である窒素やリン酸などを取り出して吸収・利用できる。

・土の中の水分調節が不要である。

・連作障害がなく、同じ作物を毎年栽培し続けられる。

・雑草が少なくなる。田んぼの表面に長時間水が溜まっているため、酸素欠乏のような状態になり、この条件で生育できる雑草が少ない。

・稲を寒さから保護する。水は一度取り入れた熱はなかなか発散させない。(比熱が大きいのです)田んぼの水は稲のセーターとなります。

 

すごい。

田んぼの水についても、ここまで長い長い人間の経験が言語化されていること圧倒されます。

素人にわかりやすい言葉で書かれていますが、その行間の専門的な知識や失敗学はどれほどあるのだろう、ちょっと気が遠くなりそうです。

 

 

水を張られた田んぼは美しいだけでなく、複雑な生物の別世界が広がっていた。

長い長い人間と水の歴史とともに。

 

 

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「米のあれこれ」もあわせてどうぞ。

アスパラガス

今年はアスパラガスが手頃な価格で手に入るので、ここ1ヶ月ほど、連日のように購入して食べています。

アスパラガスは、子どもの頃から大好きな野菜のひとつです。

 

ただ、子どもの頃の「アスパラガス」は白くて缶詰のものでした。

ちょっとふにゃとしていてマヨネーズをつけて食べていたのですが、今思い返しても子どもが好みそうな味ではなかったのに、なんで好きだったのかと不思議です。

 

1980年代ごろを境に、私の中での「アスパラガス」は今のようなグリーンアスパラガスに変わりました。

私が初めてグリーンアスパラガスを食べ他のはいつか、あの白いアスパラガスと同じものだと驚いたはずなのですが、それがいつだったのか、どうもそのあたりの記憶がないのです。

Wikipediaアスパラガスの「種」に日本でのアスパラガスの歴史が書かれていました。

江戸時代にオランダ船から観賞用として日本にもたらされたが、食用として導入されたのは明治のことである。本格的な栽培が始まったのは大正からで、欧米への輸出用缶詰に使うホワイトアスパラガスが始まりであった。その後国内でも消費されるようになり、昭和40年代以降はグリーンアスパラガスが主流となった。現在では生のホワイトアスパラガスや調理しやすいミニアスパラガスなどが店頭に並んでいる。 

 

1970年代ごろからグリーンアスパラガスが市場に出回るようになり、次第に受け入れられて80年代ごろにはアスパラガスといえばグリーンアスパラガスぐらいに逆転したのかもしれません。

そういえば最近では、近くのスーパーではあの缶詰のアスパラガスを見なくなりました。

最後に食べたのはいつ頃でしょうか。

 

 

*アスパラガスの端境期*

 

最近では、ほぼ一年中、グリーンアスパラガスを買うことができます。

以前は、本当に旬の野菜で、春から初夏を感じさせる季節のごく一時期だったような記憶があります。

90年代に入る頃には、日本産のアスパラガスが終わる頃に、輸入品が見られるようになりましたが、まだまだ珍しいものでした。

Wikipediaの「出荷時期と産地の例」を見ると、最近では「10・11月:輸入」でそれ以外は産地を変えながら国産のアスパラガスが供給されているようです。

 

1990年代初めの頃は年間で2〜3ヶ月が国産品、それ以外の時期はいろいろな国からの輸入だったように記憶しているので、30年ほどでほぼ年中、国内産のアスパラガスが食べられるようになったことになります。これもまたこちらの記事で紹介した「産地リレー」のひとつでしょうか。

 

*アスパラガスの端境期を埋める*

 

グリーンアスパラガスが大好きだったこともありますが、アスパラガスの端境期が気になってきた理由がもうひとつあります。

端境期を埋める野菜はどこからくるのかで、「1990年代初めのころ一時期住んでいた東南アジアのある地域で『日本の端境期をうめるため』にある野菜の栽培が奨励されて広がり始めていました」と書いたのがアグリーンスパラガスでした。

 

涼しい高冷地で栽培されるイメージがありましたから、現地の人からその話を聞いたときには半信半疑でした。

でもじきに、日本向けの輸出にはねられた細くてふぞろいのアスパラガスの束を、暑いその地域の市場で見かけるようになりました。

 

栽培を奨励されていたのは、少数民族の人たちの住む高地でした。

現地の友人が、アスパラガスの栽培を始めた人のところへ連れて行ってくれました。

当時、私も写真でしか見たことがなかったあのふわふわとしたグリーンアスパラガスの茎(葉だと思っていました)が一面に広がっていました。

Wikipediaによると「収穫できる株になるまで2年から3年かかる」そうですから、私が訪ねたのはようやく収穫ができるようになった頃だったようです。

収穫までは現金収入がないこと、日本への輸出に耐えるだけのレベルの高い出来が求められているので、栽培から出荷まではさまざまな経済的なリスクがありました。

それでも将来の可能性にかけてその少数民族の方々が日本向けのアスパラガス栽培を自由に選択できるのでしたら、ここまで私の記憶に残らなかったことでしょう。

 

 

問題は、土地は神のものであって、個人が所有するものではないこの地域の土地が、栽培が失敗すれば借金と引き換えに外部の人たちの名前で登記されていくことでした。

内戦状態のその地域で、半ば強制的、脅迫ともいえる契約方法でグリーンアスパラガスの栽培が行われている話を、その村で聞いたのでした。

 

「野菜ナビ」の「アスパラガスの輸入先と輸入量」には、「アスパラガスは12カ国から輸入されています」と5位までの国が書かれていますが、あの地域の名前はありません。私のいく店でも見かけることがなくなりました。

 

あの地域がその後どうなっているのか確認したい、と思いながら時間だけが過ぎています。

 

散歩をする  128 武蔵五日市から草花丘陵へ

駅周辺の湧水と水路の水音に癒されて、ふたたび東秋留駅に戻ってきました。

 

当初の予定ではこのあと拝島駅へ戻り、近くにあるあの玉川上水の失敗学ともいえる水喰土公園を訪ね、そのまま玉川上水沿いに玉川上水駅まで歩くつもりでした。

拝島駅から玉川上水駅までの間は、玉川上水の全区間の中でもまだ歩き切っていない部分があるのです。

 

ところが、 東秋留駅で拝島方面の列車を待っていると、武蔵五日市方面へ向かう線路がぐんと上り坂になっているのが見えました。

あの先を見て見たい。

 ちょうど来た武蔵五日市行きの列車に乗り、気づいたら反対方向に向かっていました。

 

五日市線

中央線を利用して通勤していた頃から、五日市線と武蔵五日市という駅名はよく目にしていましたが、当時は、その列車が向かう地域がどんなところなのか、想像することさえないままでした。

ここ数年でようやく秋川に沿って走っている路線であることや、武蔵五日市が秋川渓谷の入り口になっていることが見えてきました。

そして五日市街道との関わりも。

 

東秋留から4駅、17分ほどで終点の武蔵五日市です。

地図ではその区間はまっすぐな線路が描かれているとおり、列車はカーブもなく緩やかな勾配を登っているようです。

両側の車窓からは、春の草花が一斉に芽吹いている桃源郷のような風景が続いていました。

左側の車窓からは、秋川の対岸の丘陵地帯がずっと見えます。線路のあたりから、左側の車窓から見える住宅街が川へ向かって下り坂になっているので、河岸段丘のきわに近い部分を列車が進んでいるようです。

 

平日の午後3時ごろにも関わらず、6両編成の車両はけっこうな人が乗っていました。

終点の武蔵五日市は想像していた古い駅舎とは違って新しくきれいな建物で、内装には木材が使われていました。

 

駅のすぐ前に秋川の河原があるのですが、場所によっては両岸が険しい深い谷の間を流れているようです。駅前の道路から急な階段を降りて、しばらく川のそばを歩いてみました。

鳥の声が時々聞こえるくらいで、ただただ水の音だけの世界でした。

 

*草花丘陵から福生へ*

 

夕方になったので、玉川上水沿いを歩くことはまた次回になったのですが、せっかくここまで来たので今まで通ったことがない場所に行ってみたいと思ったところ、「福生行き」のバスが目に止まりました。

どこを通るのか見当がつかなかったのですが、乗ってみました。

 

秋川沿いを走るのかと期待していたら、途中から左折してぐんと山の中へ入っていきます。乗客は3人ほど。一人降りてはまた一人乗って、しばらくはその人数のままでした。

「日の出町」を通過しているようです。この辺りが日の出町だったのかと、また初めてつながりました。

そのうちに、川の蛇行に近づいたり離れたりしながら下り坂になり、「草花」という名前が増え始めました。

多摩川の支流である平井川に沿ってバスが走っているようです。いつのまにかバスの車内もいっぱいになり、多摩川を渡ると見覚えのある街に入り、玉川上水を越えて福生駅につきました。

 

期せずして、秋留台地から草花丘陵を見ることができた散歩になりました。

「東京湧水 せせらぎ散歩」では、まだこの辺りにいくつか湧水があるようです。

 

どの川も水路も、水が本当にきれいでした。

こうした小さな流れが多摩川をつくっている、そんなことを実感した散歩になりました。

 

 

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散歩をする 127 秋留台地の湧水

桜の花が散り始めると、一気に新緑の季節になります。新緑に誘われて、山の方へ行ってみたくなりました。

以前、購入した「東京湧水 せせらぎ散歩」 に紹介されているコースも、いつの間にか大部分制覇しましたが、まだ行っていないところがあります。

「拝島丘陵・秋留台地・草花丘陵」もそのひとつ。

 

四半世紀ほど前に一緒に働いていた同僚がこの「草花」に住んでいたことがあって、その地名を聞いただけで花の楽園でもあるかのように妄想したのでした。

当時はまだ秋川市で、その後市町村合併あきる野市になりました。

1990年代の市町村合併では平仮名やカタカナの地名を選択する自治体が多かった印象ですが、その中でもあきる野市はとても印象に残っています。

というのも、それまで使われていた「阿伎留」とか「秋留」という漢字と読み方から、なんだかそこには邪馬台国をイメージするようなすごい歴史のある別世界を勝手に思い浮かべていたのでした。

漢字のままの方がいいのにちょっと残念と、記憶に残っているのです。

 

多摩川の右岸にあたり、秋川(あきがわ)が流れ込むその地域を歩いてみようと、その本に紹介されていた東秋留駅周辺から散歩をスタートしました。

 

二宮神社八雲神社

 

「東秋留」と漢字で残っていることに、以前の妄想が思い出されて心が踊りました。

地図を見ていると、駅周辺には青い水路があちこちに残っているようです。

 

駅に降りると駅の北側は一段高くなっていて、秋川の河岸段丘のように見えました。その勾配を感じながら二宮神社に向かうと、さらに小高いところにある神社でした。

湧き水を探したのですがよくわからず、隣接する二宮考古館も休館日でした。

一旦、駅へ戻る途中に小さな池のある公園があって、せめてその池の水を見たいと思ったのですが、高校生がたむろしていたので立ち寄らずに八雲神社へ向かいました。

 

帰宅して「東京湧水せせらぎ散歩」を読み直したら、こんな説明が。

社殿は秋留台地の東端崖上に位置し、参道階段下の道を隔てた飛び地に湧水がある。湧水量は非常に豊富で、透き通った池は古来より貴重な水源だった。

ああ、あの公園のことではありませんか。

人の書いたことをしっかり読みなさいということですね。

 

駅の反対側の八雲神社に行って見ました。踏切を渡ると、秋川の河原に向かっていることを感じるような緩やかな下りの道です。

八雲神社の境内に入って見渡しましたが、それらしき池がわかりませんでした。

もう湧水が枯れてしまったのだろうかと一抹の不安を抱きながら境内を歩くと、桜の花びらが掃き集められていると思った場所が、よくよく見ると池でした。

花びらの下には、透き通った湧水が少しずつ湧いているのがみえます。

 

その池から出る水路をたどっていくと、神社から離れるにしたがってまた別の湧水からの水路が合流し、100mもいくとかなり水量の多い水路になっていました。

 

そのそばを下校する小学生が歩いています。

子どもの頃に用水路のそばを歩いて登下校していた自分と重なって、楽しくなりました。

 

残念ながら200mほどできれいな水は暗渠に入ってしまいました。

あっけなく終わった散歩に、秋川の川岸まで行こうか考えたのですが、地図をみるともう一本水路があることに気づきました。

まっすぐな水路なので農業用の用水路なのかと思っていたのですが、片側の方が少し高い地形に沿って清流が流れ、草花が植えられてよく整備された遊歩道になっていました。

それをずっと辿っていくと、どうやらあの八雲神社辺りからの水が分かれて流れているようです。本にも、「このあたりは湧水を利用した米どころであった」と書かれています。

 

線路のそばに公園があり、「前田耕地遺跡」についての説明がありました。

前田耕地遺跡は、多摩川支流の秋川と平井川に挟まれた段丘上に位置し、昭和51年(1976年)から59年(1984年)まで発掘調査が行われました。この調査で、縄文時代草創期から古代に至る集落跡が確認されました。

とりわけ、草創期に属する二軒の住居跡は、この時期に属する住居跡としては我が国での最初の 発見例として注目されました。そのうち一軒の住居跡からは、クマなどの動物骨とともに、サケ科魚類の顎歯が約八千点出土しました。これは、日本列島における最古の内水面漁撈活動を示す考古資料となっています。

また、河原の高まりに進出した縄文人は付近に豊富にある良質のチャートを石材として、石槍などを大量に製作しました。その際に生じた石の破片のまとまりが六ヶ所発見されています。

 平成二十二年三月  東京都教育委員会

 

 

私の邪馬台国の妄想も、当たらずとも遠からじといった古い歴史のある台地だったようです。

 

 

 

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難民についてのあれこれ 6 難民になれなかった人

ご両親が難民として日本に定住し、日本で生まれ育った方と出会いました。

私が難民キャンプで働いていた頃の同世代の子どもたちが、30歳前後になる時期なのかと感慨深いものがありました。

 

難民キャンプで働いていた1980年代半ばは、欧米各国の今で言う「人道的援助疲れ」が見え始めていた頃で、経済難民という言葉が聞かれていました。

通訳ボランテイアとして仲良くなった難民の人たちの話を聞くと、「強制送還されれば殺されるか、過酷な再教育キャンプに入れられるかのどちらか」という話が多く、祖国で安全に生きられるのであればあえてボートで脱出したりはしなかっただろうと思えました。

 

当時もそして今に至るまで、私自身がまだあのインドシナ難民問題とはなんだったのか全体を理解できていないし、記憶も曖昧になっていく中で、ひとつ気になっていることがあります。

 

当時、予防接種や性病・結核・ハンセン病の治療プログラムを行い、第三国へ定住するための健康診査やその書類を作成することが仕事でしたから、キャンプ内全員の健康状態を把握する立場にいましたが、今、思い返しても、「障害」を持った人はほぼいなかったことです。

ごくごく稀に、戦闘で片足切断したなどのために松葉杖が必要な方がいたぐらいでした。

 

当時はまだ精神疾患の分類も今と比べると格段と少ない時代でしたが、分裂病(現在の統合失調症)と診断された人も記憶にないですし、明らかな知的障害や身体障害を持った子どもも見ることはありませんでした。

 

おそらく祖国に残されているのだろうと。

難民として出国することができなかった人たちは、どれくらいいてどのような状況だったのか。そして何を思っていたのだろう。

 

当時はそのことを考えると、自分の中の正義感の感情で千々に乱れそうになっていたのですが、蜘蛛の糸の話は現実にどこでもいつでも起こるのだと思ったのが、東日本大震災原発事故の時の混乱でした。

あの状況で誰を助けるか。

医療従事者の一人として自分だったらどうしていたか、また高齢者施設に両親が移った時期でしたから家族としてどう考えたらよいのか。

そして、もちろん私自身も難民にあるいは避難民になれない状況も起こりうるわけで。

「あなたたちだけは助かって」と言えるだろうか。

 

答えがない問いであり、理不尽さに耐えるしかない。

でも何か考え続けることに意味があるのかもしれない。

 

 

目の前の彼女も容貌はその国の人なのに、日本で生まれ生きていることだけでも、十分に理不尽なことですから。

 

 

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トイレについてのあれこれ  8 和式トイレの行く末

以前、洋式トイレに変わるといいなと書きました。

最近、あちこちの鉄道の駅のトイレを利用する機会が増えたのですが、ほんとうにどこもとても清潔になっていてありがたいと思います。

ただ、都市部を離れるにしたがって和式トイレ率があがる印象です。あくまでも印象で、正確な数字はわかりませんが。

 

中には半分以上が和式トイレというところもあって、これは好みの問題なのか、それとも付け替え費用の問題なのだろうかとちょっと気になっています。

都内でも乗降客が少なそうな駅や少し郊外の駅になると、和式トイレが存在感を増してくるので、たぶん後者の理由でしょうか。

 

日本レストルーム工業会のトイレの年表を見ると、すでに1980年代には「和風便器の出荷構成比が20%を下回る」とあり、さらに2000年代前半には出荷構成比が5%以下になっているそうですから、今使用中の和式トイレが壊れたら洋式トイレに取って代わられるのかもしれません。

 

あと20年もすると、「洋式トイレ」という言葉もなくなるかもしれないですね。

 

*洋式とか和式とも違う使い方*

 

洋式トイレというのは、、不特定多数の人がお尻というか大腿部をじかに便座につけて座るので、抵抗がある人もまだまだいるのかもしれません。

そういえば、1980年代は公共の洋式トイレには便座シートが備え付けのところもありました。

その後、1990年代に入ると感染症対策の広がりで アルコールでの手指消毒が一般的になり、少し遅れて便座用のアルコール消毒薬が設置されるところも増えてきました。

 

私自身は、便座がはっきりと汚れていない限り、他の人が座ったから嫌だという感覚はあまりないのですが、洋式トイレを使用するときに無意識のうちに確認していることがあります。

それは、便座に足型がついていないかどうか、です。

 

80年代に東南アジアで暮らすようになって、その国ではどこでも日本でいえば「洋式トイレ」のタイプでした。

ところが使い方が違いました。

便座の淵に上がって、その上で和式トイレのように使う人が多かったのです。ですから便座にはくっきりと足型が残っていることが多く、その後に入ると、便座に触れないように中腰で使わざるを得なかったのでした。

 

訪日する外国人が急増するようになって、「便座の上に足をかけて座ってはいけない」という注意喚起の絵がつけられるようになりました。

ああ、あの国だけでなくそういう使い方をする国はけっこうあるのかと納得しました。

でも、もしかしたらあの絵の意味がわからない日本人の方が多いかもしれないと思ったのですが、どうなのでしょう。

 

 

日本に洋式便器が普及し始めて、ちょうど60年ほどだそうです。

トイレの様式や文化が驚異的に変化する時代に生きているのだと、ちょっと感慨深いものがあるこの頃です。

 

 

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トイレについてのあれこれ 7 「5分の1の水で利用できる水洗トイレ」

少し前に、こんなNHKのニュースがありました。

 避難所などで活用 5分の1の水で利用できる水洗トイレ開発

(2019年4月9日)

 

地震が起きた際の避難所などでも衛生的な水洗トイレを利用できるよう、通常に比べて5分の1程度の少ない水で流せるトイレが開発され、メーカーが震度7を観測した自身からまもなく3年となる熊本市で説明会を開きました。

このトイレは大手住宅設備メーカーの「LIXIL」が開発し、災害への備えを考えるきっかけにしてもらおうと、熊本市内で説明会を開きました。

それによりますと、通常のトイレは5リットルもの水を使って配管に流しますが、新たなトイレは便器と配管との間にバネの力で開閉するふたがあり、水は1リットルあれば十分だということです。

また、ふたによって配管からの臭いも防げるほか、構造が簡単になったことで、手入れも容易で衛生的だということです。

水の量については平常時は5リットルに設定し、災害時に1リットルと切り替えることも可能だということで、メーカーは避難所になる公共施設などでの設置を勧めています。

LIXILトイレ・洗面事業部の松本新主幹は「災害時にも快適なトイレを提供できないかと開発にあたりました。避難所などの生活の質の向上に少しでもつながってほしい」と話していました。

 

正確な水の量はわからないのですが、家庭のトイレに比べたら少ない水で流せるトイレは時々見かけます。例えば、列車や高速バスの中のトイレとか、イベント会場での簡易トイレなどです。

 

「1リットルくらいで流せるトイレ」と聞いて、まず思い浮かべたのが1990年代に一時期居候させてもらっていた家のトイレでした。

 

*500mlから1リットルぐらいで流せるトイレ*

 

その家には水道はなかったが手押しポンプの井戸があったので、そこで汲んだ水をトイレにためて使用していました。

トイレは、井戸からも家からも数m以上は離れた場所に作られてました。

水を溜めた容器には500mlぐらいの小さな容器があって、だいたい1〜2杯で流していました。

トイレットペーパーを使わない天然のウオッシュレット方式でしたから、少ない水で流すことも可能だったのかもしれません。

 

1980年代から行き来していたその国に行って、印象的だったのが水洗トイレの普及率の高さでした。

日本の場合、水洗トイレか汲み取りかの二択になりますが、その国なら水洗トイレか青空トイレかになるので、まず汲み取り式トイレというものを見ることがありませんでした。

日本に比べたら下水道のインフラが貧弱だと思っていたその国で、わずかの水で流せる水洗トイレが当たり前のようにありました。

 

日本との差は、その流したものをどう処理して川や海に戻すかまでが社会のすみずみまで整備されているかどうかが大きといえそうです。

 

その居候させてもらった家は小さな家でしたが、庭にパパイアグアバが植えられていましたし、ヤギやニワトリ、あひるが庭を闊歩していましたから敷地はそれなりにありました。

それくらいの敷地があれば、生活用水の井戸の水源からも離して各家庭ごとの簡易浄水槽を作ることができるのかもしれません。そして簡易浄水槽で処理されたものが地中に戻されていたのだと思います。

1980年代に、イギリスの海外医療援助団体OXFAMから出されていた「Where There is No Doctor」に書かれていたように、安全な飲み水と排泄物を安全に処理して感染を防ぐために、わずかの水で流せる水洗トイレが普及していたのかもしれません。

 

反対に、日本では下水道が普及するにつれて下水処理センターまで長い下水道が整備されていますから、ある程度多目の水で流していかなければならないのかもしれませんね。

ちなみに、日本レストルーム工業会の「トイレナビ」の「トイレの年表」を見ると、1970年代前半は、水洗トイレを流すのに16リットル必要だったようです。

 

日夜、快適性と環境のことを考えてトイレの改良に取り組んでいる方々に、本当に頭が下がります。

 

あっという間に排泄物が水に流されて目の前から消えるのですからね。

そしてさらに少ない水になり、災害時にもトイレの心配が少なくなるのですから。

 

 

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つじつまのあれこれ 14 液状ミルクと「世界に取り残されている日本の母乳指導」の話

buzzfeed社の「その「液体ミルク批判」誰のため?世界に取り残されている日本の母乳指導」という記事が目に入りました。

液体ミルクの発売でさっそく 「楽をするな」「母乳が最良」という批判や圧力の声が広がっていますが、日本の母乳指導の常識は世界の非常識。赤ちゃんと親御さんのために本当に必要なこととは?

 

先日の「授乳と・離乳のガイド」改訂を受けて、「母乳の利点を啓発することは『肝要である』としつつ、母乳の良さを強調するあまり養育者を追い詰めることのないように」という方向に沿った話かと期待して読みました。

 

「大半は『できれば母乳で育てたいが、こだわり過ぎる必要もない』では?」あたりまではそういう内容でしたが、「母乳が出るメカ二ズムは?」から話の方向性が大きく変わりました。

「日本の『母乳育児推進の常識』は海外では非常識に」では、以下のようなことが書かれています。

海外では、出産で疲れ切ったお母さんに赤ちゃんに何度も直接授乳を吸わせるよう励ますことを母乳育児と呼ぶ時代は終わっていました。 

 

ああ、ようやく「母乳育児成功のための10か条」はやってもやらなくても同じということが社会の主流になって来たのかなと期待しました。

 

ただ、筆者は「母乳の出るメカニズム」で「出産直後に頻繁に乳頭を刺激しなくては十分に分泌されないのです」とも書いているので、その辺りどう整合性があるのだろう、具体的に出産後にどうしたら良いのか、日本の分娩施設で行われている方法で「非常識」と指摘されていることはなんだろうと読み進めていくと、どうやら搾乳機を使用して「母乳量を増やす」話のようです。

 

 *母乳量を格段に増やす方法?*

 

搾乳機の会社主催のシンポジウムであることは考慮しなければなりませんが、母乳は、片方の乳頭を刺激するより両方の乳頭を刺激する方が約2割、母乳を飲む量が増えるため、赤ちゃんが片方から吸っている間に反対側で電動搾乳機で吸ったり、両側に搾乳機を頻繁につけたりすることで、母親の労力を最小限にしながら「不都合な真実」に対応することがスタンダードになって来ているそうです。 

 

不都合な真実」の意味がわからなかったのですが、両方の乳頭刺激で分泌が増える可能性については、双子の授乳で二人の赤ちゃんが両方で同時に授乳をすれば、刺激しあって分泌が増える可能性があるということは80〜90年代から知られていました。 

 

ただ、直接どれだけ飲んだかを正確に測定することは難しいので、「約2割」という数字はどのように導き出されたのだろうと、その記事の写真を見てわかりました。「premature infants」「low birth  weight infants」とあります

早産児や低出生体重児であれば、最初の1〜2ヶ月は赤ちゃんが直接吸えないので搾乳になりますから、機械で測定すればある程度、母乳量はわかります。

正期産児の場合、搾乳機を同時に使えば「母乳量が2割増加」ということをどうやって検証できるのか、ちょっと私には思いつきません。

 

早産児や哺乳障害のある乳児の授乳支援を行なっている周産期センターであれば、多少、有用な情報かもしれませんが、写真にあるように片方を搾乳機で授乳しながら反対側で直接吸わせるというのは、通常、現実的な方法ではないですし、搾乳機を固定しながらの授乳は乳腺をひっぱったり歪めて飲ませややすく、授乳の体勢がうまく取れずに乳腺炎の一因にもなることでしょう。

 

 

搾乳機の刺激は万能かといえば、現実には搾乳機を使用し続けても1〜2ヶ月頃から分泌量が激減してしまったり、反対に刺激しすぎた状態になることもあり、色々とトラブルがあります。

 

特に、出産直後からの使用は、トラブルを起こしやすいという印象があります。

必要なのは、出産直後の母親が苦労せず授乳姿勢を取れるように医療従事者が手を動かしたり、電動搾乳機をつけて回ったりするようなサポートだと思います

 なんだかシュールな光景だと私には思えてしまうのですが。

 

搾乳機があることで本当に助かる場合もありますが、そのメリットデメリットは案外、言語化されていないのが現状です。何にしても、万能なものはないので。

 

検索したら、nippleという言葉は使わずにdeviceと呼ぶと宣言した哺乳瓶・人工乳首のメーカー主催のシンポジウムでした。

もしかしたら「不都合な真実」とは、「もっと乳房を刺激すれば母乳分泌が増えるのにそれを隠している」というニュアンスでしょうか。

 

 

完全母乳という言葉が出て来た時代背景を考えていかないと、授乳関連の話は結局、「母乳かミルク」の話になってつじつまが合わなくなる印象です。

 

まあ、日々接するお母さんたちは、液状ミルクの話題さえまだ浸透していないぐらいなので、もう少し現実の世界はネット上とは違うと思っています。

 

 

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10年ひとむかし  49 鉄道を残して欲しいな

まったくの個人的な想いなのですが、幼少の頃からの記憶をたどっていくと自動車で出かけた時のことよりも、列車に乗った時の記憶の方が残っています。

都内にいた1960年代前半の丸ノ内線が、列車の最初の記憶かもしれません。

その後じきに父が運転免許を取り、鉄道とはあまり縁のない生活になりました。

高校を卒業するまで列車に乗る機会の方が少なかったのですが、そのためにむしろ記憶が残っているのでしょうか。

 

たぶん列車の匂いとか音とか、そんなレベルの記憶がどこかにあって、郷愁を感じるのかもしれません。

 

1987年の国鉄からJRへと変化する頃から、赤字路線廃線のニュースが時々あった記憶があります。

その反面、都内近郊では次々と地下鉄や私鉄が延伸され、相互乗り入れが始まりました。

通勤ラッシュや混雑緩和、あるいは利便性のために新しい路線ができてもまたすぐに混雑して、どこにこれだけ移動する人がいるのだろうといつも不思議に思います。

 

1970年代から80年代初めの頃は、たとえば東横線の一部区間は山と畑しかない場所だったのが、いつの間にか住宅がぎっしりと建ち郊外へ郊外へと通勤圏が広がっています。

 

*鉄道があるからこそ*

 

対照的に、地方の鉄道が利用者が減ってその歴史を閉じているのですが、私も高校生まで過ごした地域のことを思うとその変化も理解できます。

駅まで車で15分ぐらいかかりますし、バスも減っていく中で、鉄道を利用するよりも車で通勤した方が早いですし、駅前はどんどんと寂れて、郊外へとショッピングセンターが移動しているので車がなければ生活できない地域でした。

 

ただその地域も、90年代ごろには列車の本数もかなり減っていたのですが、その後また本数が増えています。

観光地や工場があるのも一因かもしれないですが、車の方が便利そうな場所です。

ところが、通勤通学の時間帯以外でも、3両編成の列車は満員になっていることが多いのです。

誰が鉄道を利用しているのでしょう。

何がこの地域の変化をもたらしているのか、たまに乗るだけではわかりません。

 

単線で、途中は山や谷をいくローカル線ですが、たまに乗るととても懐かしく、新幹線に心が踊るのと同じくらい大好きです。

 

最近、銚子電鉄天竜浜名湖線など、経営が厳しそうな鉄道にも乗るようになりました。

あるいは、あの険しい山と海岸線を走る南紀の鉄道のように、難工事を乗り越えて鉄道が敷かれ、それを安全に維持していくために多くの人と時間が費やされて来たであろう歴史が見えると、「赤字」だから廃線にしてしまうことは長い目で見たら大きなものを失ってしまうのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。

 

私が高校生までいた地域も、少しずつ人口が増えています。

鉄道が残っているからこそ、人が移動して来たのかもしれません。

 

車を持たない私が、ふらりと気軽に日本各地に散歩に出かけられるのも、鉄道があるからこそというまったくもって個人的な願いなのですが、日本津々浦々、今ある鉄道をぜひ残して欲しいなあと思います。

 

初めて日本で蒸気機関車の模型が走った1854年から約一世紀半、これから日本の鉄道はどう変化していくのでしょうか。

 

 

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