行間を読む 82 半世紀の母子保健の変化

東北本線の車窓から見えた胆沢川扇状地の水田地帯は、稲穂がでる少しぐらい前の時期でしょうか、深い緑が一面に広がり、夏の風に揺れていました。

そして北上駅を出ると、国道に北上工業団地の表示がありました。

検索すると北上工業団地のホームページがありました。

昭和63年6月に県内の中核的工業団地の先陣を切り完売した北上工業団地は、北上市の理念である工業の振興を目指し、当市が昭和30年代後半から事業を開始した県内で最も歴史のある団地であり"工業都市北上"のシンボルとなっています。 

 

「誘致企業の進出の極めて著しいところ」にある胆沢母子健康センターの状況として記録が残された地域です。

 

車窓から見える風景も駅の周辺を歩いて見ても、どこもよく整備された地方都市で、江戸時代や明治時代からの北上川周辺の歴史を感じさせる落ち着いた街という印象でした。

 

*1970年代の胆沢地域の母子保健はどんな感じだったのか*

 

2013年に、「岩手県の1970年代の母子保健センターの記録より」「昭和40年代、無介助分娩が多かった地域」という連続した記事で、岩手医大の「母子健康センターのあり方」という調査報告を引用しました。残念ながら現在は一般公開ではなくなってしまいましたが。

 

この調査報告書にでてくる胆沢町の様子はこんな感じでした。

一方農村地域(胆沢町)では数年来中毒症の発症が多く、今回の調査でもセンター受診者の35.3%に中毒様症状が認められ、かつ中等度の病型を示すものが多く、今後さらに追求する必要がある。

 

「センター」というのは「助産施設」であり、産科医がいない施設という意味です。農山漁村やへき地だけでなく、都内でも1980年代終わり頃まで産婦人科医のいないこうした助産施設があったことはこちらに書きました。

 

県内31カ所の助産施設としてのセンターの利用状況は既に数箇所で助産部門を廃止し、他のセンターでも2〜3を除き入所者は減少傾向にあり、表2に示す如く今回の調査対象の4地区についても、胆沢町を除き、他は減少傾向にある。

(中略)

この表からは一定の傾向は見えないが、たまたま平均措置率の比較的効率の浄法寺町センター、胆沢町センターはともに病院が隣接しているものの産婦人科医が常在せず、これに対し岩泉町センター、石鳥谷町センターは隣接して病院があり、かつ産婦人科医が常在している環境である。

 

産科医とともに分娩介助をしていても、妊産婦さんの血圧が急激に上がると、重症な合併症を予測してこちらの足がすくみそうになります。

血圧の高い妊婦さんを、助産婦だけで対応しなければならなかった時代があった。

そんなに昔の話ではなく、私が高校生ぐらいの頃にもあったのでした。

 

*現在の胆沢地域のお産事情はどうなのか*

 

1980年代終わり頃に助産師になった頃は、まだ周産期医療ネットワークシステムこそなかったし、救命救急も曙の時代ではありましたが、分娩場所がなくて困るという話題はほとんどない時代でした。

2004年の産科崩壊あたりから、周産期医療は厳しい話題ばかりになりました。

 

 

 

車窓から見えた胆沢地域の最近のお産はどうなのだろうと検索してみました。

2007年の岩手県議会に出された「県立胆沢病院と小児科の常勤医師増員確保を求める請願」が公開されていました。

県立胆沢病院はこれまで胆江管内のみならず、両磐や沿岸そして北上・花巻地域からの患者を引き受け、名実ともに地域医療の中核病院として県民・住民の厚い信頼を受けてきた。

しかし、この6月中に産婦人科の3名の医師のうち1名が大学病院へ戻るため退職し、もう1名の医師は産休に入るため、常勤医師は1名となっています。

地域の住民・県民は県立胆沢病院でこれまでのような診察・治療を行って行くことを切望しているが、産婦人科医師1名では、これまでのような診療や救急体制を継続することは不可能である。

 小児科医も1名になってしまったようです。

 

それからちょうど10年後の2017年に出された、「県立胆沢病院ー近況と課題ー」というPDFが公開されていました。

産科不在・小児科医のパワー不足 

産婦人科常勤医不在

ー当医療機関で約1000件/年のお産あり

ー約200件/年行っていた某開業医が体調不良でお産を取り止めたため、現在非常に厳しい状況となっている

ー胆江地区では里帰り出産ができない

ーまた産科の救急医療ができない

 

・小児科の常勤医が定年間近の一名のみ

ー小児2次救急の受け入れに限界がある

 

全ての分娩に産科医あるいは小児科医が立ち会ってくれるという人類にとって夢のような時期は短かった 、ということになっていくのでしょうか。

「死亡率の改善という努力の代償はあまりにも残酷すぎた」と産科医に言わしめた半世紀の変化は、これからどうなっていくのでしょうか。

 

 

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記録のあれこれ 42 平和街道

夏のこの時期はあの戦争についての話題が増えるので、これも平和への祈りをこめた街道名かと思いますね。

 

北上川の堤防から駅へ戻る途中に、「平和街道」の説明が掲げられていました。

少し長いのですが、全文、記録しておこうと思います。

平和街道は、この地を起点として秋田県横手市と結ぶ道路として、明治十五年(1882年)に開通しました。

◎名前の由来ー和賀郡黒沢尻と平鹿郡横手の「平」と「和」から平和街道と名付けられました。

◎路線ー明治政府の土木局長とオランダから招いた技師ファン・ドルンによって決められ、費用を安くするため、トンネルを掘らず橋もできるだけ架けないという方針でした。

川岸のこの地点から若宮町、旧北上病院北側を通り北鬼柳まで真っ直ぐな道路で、それが和賀川北岸沿いに造られ、和賀仙人付近では山すそを切り開き、そのまま川尻まで続いていました。そして、県境の巣郷までが岩手県分で、岩手県分の距離は約45km、秋田県分の距離は約20kmでした。

◎新設の理由ーここから秋田県に行く昔の道路は、仙人峠や白木峠などの難所があり、馬や馬車などは通れませんでした。そんな中、江戸時代の秋田藩御用商人山中新十郎が、江戸や上方(関西)から商品を仕入れるのに、陸路山形経由で運ぶより、北上川舟運で黒沢尻まで運び、横手まで陸送して運ぶ方が、経費が安く時間的に早いと提言していました。

初年の頃明治政府は東北地方の開発を必要とし、この地に眠る鉱山資源の開発のためにも道路整備が必要とされました。

明治十三年(1880年)には岩手県秋田県が共同で、国の費用による平和街道の新設を申請しています。

明治十三年秋田県側と岩手県側の双方から、工事が始まりました。国が出した費用は、当時のお金で九万三千三百四十九円でした。費用が足らず、用地の無償提供や労働奉仕が相当あったとされます。

完成は明治十五年(1882年)で、県境の巣郷で開通式が行われました。

◎道路の効用ーこの道路の完成により、人や荷を積んだ馬、馬車などの交通が盛んになりました。明治二十九年(1896年)の横手市の旅館の宿泊客の七割は平和街道の利用者だったといわれます。

さらに、明治二十三年(1890年)東北本線黒沢尻駅の開業により、平和街道の交通は益々盛んになりました。明治三十年代には、和賀郡西部の諸鉱山の開発が大規模になり、その物資輸送のためにこの道路が大いに利用されました。黒沢尻の町場はそれにより大いに発展してきました。

◎移り変わりー明治三十八年(千九百五年)奥羽本線横手駅開業により、秋田県側の輸送は鉄道に変わりました。明治四十年(1907年)には平和街道に沿って、和賀郵便鉄道が黒沢尻駅から仙人駅まで開通し、物資の輸送が盛んに行われました。そして、大正十三年(1924年)には、横黒線(北上線)が横手まで開通して、人々の交通や物資の輸送が鉄道を利用するようになりました。

昭和四十年(1965年)平和街道は、一部路線改良され現在の国道107号として生まれ変わりました。そして、平成九年(1995年)東北自動車道秋田線が秋田県と結ぶ大動脈として完成しました。

俳人正岡子規は、明治二十六年(1893年)秋田から湯本温泉に来て泊まり、この平和街道を通って黒沢尻を訪れています。

 

平成二十六年一月  黒沢尻東地区自治協議会

 

Wikipedia平和街道の「概要」によれば、最初の頃は「ひらわかいどう」と読んでいたようです。

 

1882年(明治15年)に開通し、その12年後の1894年(明治27年)には日清戦争、さらに1904年(明治37年)には日露戦争と日本は戦争の時代に入ります。

「ひらわかいどう」と命名した当時、もしかしたらあの人類という日本語と概念ができ始めた頃のように、「へいわ」という読み方は馴染みがなかったのではないかと思いついたのですが、事実は如何に。

 

「平和(へいわ)」という言葉はいつ頃から日本で使われるようになった言葉なのでしょうか。

最近、通りすがりに見つけるこうした歴史の記録に、ふと立ち止まって読みふけることが増えました。

 

 

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散歩をする 155 北上と北上川

妄想の旅の計画ができ始めた頃、日帰りならどこまで行けるか考えながら地図を眺めていました。

北上川をたどって行くと、北上駅の手前でふたつの川が合流しています。

新幹線の駅からも歩いて数分でその合流点を見に行けそうなので、散歩の最終目的地に決めました。

 

地図の上では山形との県境の方から流れてくる川の方が大きな川なので、それが北上川の本流だと思ったのですが、よくよく見るとそれが和賀川で、さらに花巻や盛岡方面から流れてくる細い水色の線の方が北上川でした。

岩手県南西部を流れる北上川の支流。全長 80km。奥羽山脈に属する和賀岳東麗に源を発し、真昼山山地東麓の川舟断層に沿って南流し、湯田町川尻で鬼ケ瀬川を合わせて東流し、黒沢じり付近で北上川に注ぐ。上流から中流にかけては豪雪地帯で、川沿いの国道107号はしばしば雪崩によって閉鎖される。

1965年中流部の大荒沢に多目的ダムが完成、人造湖錦秋湖と名付けられた。3つの発電所が操業している。

 

北上川にほ、全長80kmもある一級河川、しかも豪雪地帯に源流がある川が支流として合流するのですね。

半世紀前の北上川和賀川の流域の生活は、どんな感じだったのでしょうか。

「真昼山」「川舟断層」「鬼ヶ瀬」といった地名や言葉にも魅かれます。

 

 

北上市北上川

 

北上駅に着く直前に、この大きな和賀川の鉄橋を渡ります。そしてその向こうに北上川との合流した場所が見えるはずです。

右手の車窓に顔をつけるようにして、その時を待っていました。

和賀川にかかる鉄橋にさしかかりました。

あ〜あ残念。並走する新幹線の鉄橋で視界が遮られて、北上川との合流部分はほとんど見えませんでした。

 

気を取り直して北上駅に降り立ち、繁華街とは反対の東口へ向かいました。

駅を出ると、真正面に北上川の堤防が見えます。堤防からみえる北上川を想像しながら、天端に上がりました。

悠々と流れる美しい川でした。

あの三面川と似ています。

 

対岸には遊水地も兼ねているのでしょうか、広い公園が広がっています。

そしてこちら側の堤防の下にも、川のそばに木で作られたベンチがあちこちにありました。

散歩でここに立ち寄り、そして川面を眺める方たちがたくさんいるのでしょう。

 

ここもまた、この暑さの中で堤防の芝を刈り、点検作業をされている方々がいらっしゃいました。

 

地図を眺めて偶然見つけた北上川河川歴史公園から、ただただひたすら北上川の流れをたどる一日が終わりました。

そして、8年前から記憶の中に残り続けていた場所を訪ねることができました。

 

 

でも、これでもまだ北上川の半分の地点です。

いつか、もっと上流や支流を見てみたい。また散歩の計画が増えました。

 

 

帰りの新幹線は刻々と日が落ちて行くのを眺めていました。

東京に向かって右側の車窓、日本海側の方からずっと夕陽が入ってくることで、また方向感覚を失いそうになりました。

ほんと、日本は広いですね。

 

 

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散歩をする 154 気仙沼から一ノ関、そして北上へ

バス( BRT)での気仙沼線の旅が終わりました。

バス専用路線の向こうに、線路があり列車が停まっています。

バスの旅も快適でしたが、列車と線路を見たらなんだかホッとしました。

 

気仙沼駅は小高い場所にあって、背後に小さな山がありました。

駅舎と山の緑、そして青い空がなんとも素敵な風景です。

国内外からの観光客もぼちぼちといるようで、坂道を降りて海の方へ向かう人たちの姿もありました。

駅前の国道沿いにある街並みは、あの震災では大きな破損はなかったのかもしれません。

 

漁港付近まで歩いて見たかったのですが、まだ昼食をとっていなかったのでお腹が空いていました。

列車まで1時間、あまり時間がないので駅の目の前にあるホテルのレストランに入りました。

よくあるランチメニューのカレーを頼みました。「列車の時間は大丈夫ですか?」と尋ねられて、1時間ぐらいはあると伝えましたが、正直なところすぐに出てくるごく普通のカレーだと思っていました。

 

ところが上に載っているカツも揚げたてで、お店の方の質問の意味がわかりました。

カレーもさまざまなスパイスがよく効いた手作りのもので、期待以上の美味しさでした。

 

働いていらっしゃる30代から40代ぐらいのスタッフの方々は、あの日以来どんな日々をおくってこられたのだろうと思うのですが、やはり言葉が出てこなくて、とても美味しかったことを伝えてお店を出て駅に向かいました。

 

大船渡線

 

気仙沼駅からは大船渡線一ノ関駅まで行く計画です。

この大船渡線も、気仙沼から大船渡方面は気仙沼線と同じく、沿岸部の被害が大きくBRT(バス・ラピッド・トランジット)になっているようです。

 

東日本大震災の発生直後に、その尋常でない規模を知ったのは大船渡の大津波の映像で、また初めて大船渡という地名を知ったのでした。

岩手県がネット上で公開している「岩手県 2011.03.11 東日本大震災津波の記録」によれば、「地震発生から30〜50分後に東日本の太平洋沿岸に観測史上最大級の巨大な津波が押し寄せた」とあります。

 

東日本大震災と原発事故発生時の記憶に書いたように、その日は夜勤明けで寝ようと思ったところで地震が発生しました。

長く続く大きな揺れに、ガスは大丈夫だろうかなど心配しても本棚から手を離すことができず、しばらくテレビもつけられなかったのでした。

近所からはどこからも声が聞こえず、不気味なほど静まり返っていました。

 

ようやくテレビをつけた時には、NHKが大船渡付近の映像を映していました。

あの間、30分もあったのかと、今改めて時系列で記憶をたどって見て混乱しています。

 

私が今乗り込む列車の反対側に、あの映像の大船渡に向かう線路があったのですね。

 

*一ノ関まで*

 

午後2時ごろの大船渡線一ノ関行きの列車でしたが、地元の方々と思われる人たちで満席になりました。

風景を見たかったので2両編成の一番後ろに移動しました。

パンタグラフと電線のないデイーゼル車なので風景を遮るものがなく、後ろへと去っていく風景がまるで切り取られた絵画のように見える特等席です。

気仙沼から一ノ関までは1時間ほどなので、立ってその風景を見ることにしました。

 

小さな川に沿って水田があり、山やお寺や家並みが次々とあらわれます。

まるで夢の中にいるような景色でした。

そしてヤマユリが群生している場所があちこちにあり、ここでもユリの香りが車内に立ち込めてきました。

 

途中から北上川の支流である砂鉄川沿いに列車は走り、北上川を渡って一ノ関に到着しました。

 

*一ノ関から北上へ*

 

一ノ関駅からは再び東北本線で北上まで向かいます。

右手に北上川が近づいたり離れたりしながら列車は進むのですが、一ノ関駅を出るとじきにまっすぐで大きな用水路と併走します。

その向こうに堤防があるので、堤防の向こうが北上川なのかと期待していると、堤防の向こうにも水田が広がっていて、川の姿はありません。

もしかしたら、北上川の氾濫に備えた堤防なのかもしれません。

 

左手の小高いところに有名な中尊寺がある平泉を過ぎ、 しばらく行くと左手に水田地帯が広がります。

これがあの胆沢川扇状地のようです。

そばに北上川もあるのに「鉱毒のために農業に使えなかった」という歴史は何を指しているのだろう、そして寿庵堰も見て見たい。

いつか、絶対に訪ねてみよう。

 

そんなことを思っているうちに、右手にぐんと北上川の堤防が近づいて、北上駅に到着しました。

 

 

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行間を読む 81 気仙沼線

地図で見ると、南三陸町の中心部を過ぎると気仙沼線はいったん西側にある志津川中央団地内を回ってから本線に戻るように描かれています。

私が乗ったバスは団地の方へは向かわず、そのまま右折して気仙沼方面へと向かったように見えましたが、何れにしても「鉄道」ではない「BRT(バス・ラピッド・トランジット)」に置き換えられていることが地図上の線路を描く線からも読み取れます。

 

柳津から南三陸町までも、途中までは元の線路の上を走っていることがはっきりわかるのですが、ところどころ新しいバス専用道路が造られたように見える場所もありました。

気仙沼線全線がBRTになったということは、相当なダメージがあったからなのでしょうか。路線距離は72.8kmもあるようです。

 

Wikipedia気仙沼線の「東日本大震災以降」に、その状況がまとめられていました。

2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震東日本大震災)では全線が不通となった。特に地震による津波陸前戸倉駅、志津川駅、歌津駅陸前港駅、陸前小泉駅、小金沢駅、最知駅、松岩駅、南気仙沼駅が消失、津谷川橋(気仙沼市本吉町陸前小泉・本吉間)が落橋、各所で路盤・築堤が流出(消失)するなど、沿岸部を通る陸前戸倉南気仙沼間は壊滅した。同年4月29日には前谷地・柳津間が復旧したが、残る区間の復旧は自治体の復興計画において路線の変更があるために年単位になることをJR東日本は明らかにしている。

 

*南三陸から気仙沼へ*

バスラピッドトランジット」という名前の通り、一部をのぞいてはバス専用道路を走るので、信号で止まることも無く、まばたきを惜しんで車窓の風景を見ていましたが、あっという間に通り過ぎて行きます。

メモがわりの写真も何枚かは撮ったのですが、南三陸町からは生活や通勤・通学で利用されている方々が増えたので、震災の痕を撮すことがためらわれました。

途中で、なんとかメモしたことを頼りに記憶を呼び起こしながら、帰宅してから地図を辿ってみました。

 

南三陸町を出ると、震災で残ったと思われるトンネルに入ります。

そこを出ると、川沿いに「清水浜(しずはま)駅」があり、そこも真新しい高い堤防が造られていて、沿岸部は更地になっていました。

再び坂道を登ると、ここからしばらくは内陸部の元の路線を利用したバス専用路線だったと思います。

その付近は、高い場所にあるためか、昔からの家や畑が見えました。

 

そして時々、海に近づくようにして川筋のまちがあり、白くて高い新しい堤防が見える風景です。まだまだ南三陸町が続いていていましたが、急に大きく開けた場所が見えてきて、気仙沼市に入りました。

そこではまだ大きな橋が建設中のようで、BRTは海岸よりも高い陸橋と橋を通過していたと記憶しています。

ここが、落橋した「津谷川橋」付近だと、後でつながりました。

 

気仙沼に入ったので、あと少しと思ったところ、ここでまだ気仙沼線の半分の地点でした。ここから気仙沼市内を海岸部に近づいたり、内陸部に入ったり、坂道を登ったり降りたりしながら気仙沼駅まで走りました。

 

真っ青な海と空、山の緑、そして谷津のわずかな場所にも青々と棚田があり、あちこちの咲いているノウゼンカズラのオレンジ色とオニユリの白さが映えて、車窓の風景は美しいものでした。

バスの中までユリの香りが漂ってきました。

 

気仙沼というと大きな漁港を中心にした海沿いの街のイメージだったのですが、とても広く、さまざまな街の顔がありました。

そして終点の気仙沼の駅は小高い場所にあり、漁港のある場所へはぐんと坂道を降りて行くようです。

 

*災害によって始まり、災害によって変化する路線*

 

Wikipediaの「気仙沼線」の「歴史」を読んで、この路線が明治時代に計画された経緯を知りました。

三陸地方沿岸に鉄道を敷設する構想が生まれたのは、1896年(明治29年)である。この年の6月に明治三陸地震が起こり、大津波によって死者が2万人以上に達するなど三陸地方沿岸は大きく被災した。この時に災害復旧の一環としてこの地域に鉄道を敷設する構造が生まれたが、具体的には進展しなかった。

 

なかなか鉄道が実現することがないまま、再び大きな地震津波がきっかけで、気仙沼線の計画ができたものの、実現したのは戦後に入ってからだったようです。

1933年(昭和8年)3月、昭和三陸地震が発生し、三陸地方沿岸はまたも大津波に襲われた。この時に、災害復旧の一環として再び鉄道の建設に焦点が当たったが、鉄道敷設法では本吉から前谷地に至る経路と田尻に至る経路の二つが記されており、これが問題となった。

 

1935年(昭和10年)、鉄道省気仙沼から前谷地に至る鉄道路線の建設を翌年から着手することに決めた。しかし、1936年(昭和11年)、着工を目前にした時期に再びルート問題がにわかに降って湧いた。(中略)

気仙沼線の工事は予算714万2000円をもって気仙沼から南へ向けて進められたが、1937年(昭和12年日中戦争の勃発によって工事は中断し、1939年(昭和14年)に再開するも、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)に再び中断した。戦時中まで工事が行われていたのは、大谷鉱山の地下資源を気仙沼線で輸送することが考えられていたためと推測されている。

 

終戦後の1946年(昭和21年)、本吉郡4町13村と登米郡および桃生郡の関係町村は「三陸鉄道促進期成同盟会」を結成し、鉄道工事の再開を求めて請願や陳情を始めた。しかし、戦後すぐのこの時期は既成線の復旧が急務とされていた。1952年(昭和27年)にはBクラス着工線として気仙沼線に追加予算が当てられ、1953年(昭和28年)に工事が再開された。

 

そして念願の鉄道開通から半世紀後に、列車はバス輸送へと変わったのでした。

地震津波、そのたびにこの地域の人や物の移動が大きく変わらざるをえなかったのでしょうか。

 

あのリアス式海岸の複雑な地形に気仙沼線が開通した当時は、夢のような交通手段として待ち望まれていたのだろうと、私が生まれる数年前ぐらいの時代を想像しました。

列車が走っていた時代に乗って、車窓の風景を見てみたかったですね。

 

 

地図で偶然見つけた北上川河川歴史公園から、期せずして気仙沼線の歴史を垣間見る散歩となりました。

 

 

 

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散歩をする  153 柳津から気仙沼へ

タクシーでぐるりと北上川の分岐点周辺を回ったあと、柳津駅に着きました。

ここから気仙沼を経由して大船渡線で一ノ関まで行き、北上まで北上川を見ようと思っていることを話すと、タクシーの運転手さんが「南三陸あたりは、ほんとうに何も無くなっちゃったよ」と教えてくださいました。

ああ、やはり。

事前に地図の航空写真で見ても、沿岸部は更地になっている場所が多いようです。

 

ここからは、気仙沼線の中でも完全にBRTというバス路線だけになるようです。

前谷地駅からの線路がここでなくなり、今まで単線の線路があった場所が舗装されて、一般自動車や自転車・歩行者が侵入禁止の、バス専用道路になっているようでした。

一般道と交差するところでは、自動で遮断機が降りて、バスが優先して走るようになっています。

以前は列車が走っていたところをバスで走るのは、少し不思議な感覚です。

 

柳津からの乗客は、地元の方と旅行者らしい方、そして私の4人でした。

途中の停留所(駅)で止まることもありません。

反対側からのバスとの通過待ちの時間調整があるのは、単線の路線と同じです。

 

*越前戸倉から志津川へ*

 

しばらく小さな河川に沿った山あいの風景が続き、長いトンネルを出ると、川の堤防のかさ上げをしている風景が見え始めました。

白く見える新しいコンクリート部分が、おそらくそれまでの堤防より3〜4メートルは高くなっているようです。

その手前の工事現場に、仮設住宅に使われていたと思われるプレハブ住宅がいくつも重ねられていました。

越前戸倉で、ここから三陸海岸沿いを気仙沼まで走るようです。

 

この辺りは、もともと気仙沼線が海岸線より高い場所に走っていたのでしょうか。線路がそのままバス専用道路になっていました。

小さな川は全てと言ってよいほど、かさ上げ工事をしていました。

 

そして少し海岸部が開けた場所に出ると、そこにはホテルでしょうか建物が残されていて3階部分あたりに「津波到達地点」と表示されていました。

あの当時、ニュースでしばしば耳にした志津川でした。

「内陸部から海沿いに出てくる場所に位置するため、観光上有利な点となっている」「1977年(昭和52年)12月11日・気仙沼線が全線開通し、町内に3駅が開業」と書かれています。

 

目の前の美しい海や海岸線の風景の真ん中に、かなり高い真っ白な防潮堤ができていました。

沿岸部は更地も多いのですが、バス停のそばにはコンビニや食堂があって、人も車も集まっていました。

ここからたくさんの地元の高校生が乗ってきて、ちょっとホッとした気持ちになりました。

 

南三陸町

 

志津川を抜けると、バスは山の方へ坂道を登り始めました。

周辺には新築の家が多く、丘の上までくると真新しい病院と町役場を中心にした街が広がっていました。

 

真新しい病院の前のバス停で、ひとり降車して行きました。

あ、ここがあの南三陸病院だとわかりました。

そして、沿岸部にあって大きな被害を受けたあの公立志津川病院がここに移転したことと、記憶がつながったのでした。

 

地図を見るのは好きなのですが、震災でニュースになった場所を地図で見るのは避けていたのだと思います。

 

病院の一角に、「台湾の皆さんありがとう」と書かれた石碑がありました。

 

柳津から気仙沼までは約1時間50分。

まだ半分以上のバスの旅が続きます。

 

 

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記憶についてのあれこれ 145 災害の記憶

私自身がまだ東日本大震災のことをあまり思い出したくないぐらい、あの理不尽な日々のことが整理できていません。

2012年にこのブログを書き始めたのは、生きている間に遭遇するたくさんの理不尽なことをどうやって考えたらよいか、反対に何を避けたらよいかを少しずつ言葉にしてみようと思ったのですが、大震災が大きな転機になったのだと思い返しています。

 

さまざまな思いがあり、言葉にできないものもたくさんある。

ですからタクシーの運転手さんにはこちらから当時の状況を尋ねることはしませんでした。

北上川に放水路が造られて、旧北上川と別れていることを地図で見つけて、いつか行って見たいと思った」とだけ伝えたのでした。

 

*70年前の記憶*

 

放水路が造られるぐらいなので旧北上川は相当水量が多い川だったのでしょうと尋ねると、「この辺りでは大きな水害は聞いたことはないけれど、何十年か前には上流の堤防が決壊して大変だったらしい。カスリーン台風だったっけ?北上川の水流を減らして下流の被害を減らすために、どこかもう一ヶ所壊すことになった時に、町長同士でかなり揉めたという話を聞いたことがある」とのことでした。

 

あの多摩川の築堤爆破と同じような状況だったのですね。

Wikipediaの「北上川」の台風で改められた河川改修に書かれていることとつながりました。

1947年(昭和22年)のカスリーン台風、翌1948年(昭和23年)のアイオン台風と北上川流域には2年連続で台風が襲来。一関市等では立て続けに甚大な被害を受けた。宮城県でも低湿地帯の多い登米郡・栗原郡付近においては甚大だった。

 

この行間には、そんなに厳しい判断を突きつけられた状況があったのですね。

どちらが正しいかなんて判断はつかず、簡単に折り合いをつけられるようなものではない。

でも大事な記憶が、運転手さんのようにその後に生まれた世代にも引き継がれている。

 

東日本大震災の記憶*

 

そのうちに、運転手さんの方からあの日のことを話し始められました。

「この川(現北上川)の下流が、あの大川小学校」と。

 

どの立場にたっても辛すぎることで言葉に詰まり、「ああ、つらいですね」と答えた後、しばらく会話が途絶えました。

 

東日本大震災の被災地は広範囲だったので、この北上川下流だったことがつながっていませんでした。帰宅して確認すると、国土地理院の災害伝承碑ではないのですが、「大川小学校献花台」が地図にありました。

 

 

ようやくこの地域の当時の状況を尋ねてみましたが、「この辺は大丈夫だった」とおっしゃられただけでした。

おそらく長く続く余震や停電、物流も止まり、生活すること自体が大変だったことと思いますが、まだまだ言葉にならなかったのか、それとも下流の状況に配慮して言葉を飲み込まれたのでしょうか。

 

 

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散歩をする 152 北上川を渡る

バスの車窓から見えた北上川河川歴史公園ですが、柳津駅からは徒歩でもまわれそうな距離にあります。

ところが、あらかじめ航空写真などで想像していた通り、現北上川の左岸は小高い山になっていて橋に行くまでに坂道を登るようになりそうです。

また、公園内も灼熱の太陽から避難できるような場所ものもなさそうだったので、タクシーで回ることにしました。

出発前に、タクシー会社の場所を確認しておいたのは幸いでした。

 

「次のBRTの出発時間までに戻ってこれるように、北上川河川歴史公園と周辺を回って欲しい」と運転手さんにお願いしました。

おそらく、最初はなんと酔狂な客と警戒されたのだと思いますが、「川と水田に関心が出て、北上川を見てみたいと思って来た」ことを伝えたら、私と同世代ぐらいの運転手さんが、俄然、いろいろな話をしてくださいました。

 

*柳津大橋で北上川を渡る*

 

北上川河川歴史公園へ行くためには、北上川にかかっている柳津大橋をまず渡ります。

周囲の山々の緑と北上川の青い水が映える、美しい薄緑色の橋です。

気温が33℃もある熱風の中で、橋の改修工事が行われていました。

 

「この橋ができる前は木の橋だったから、バスなんかゆっくり走ってた。今はしっかりした橋になったから助かった」とのこと。

「昔は、舟と舟をつないだ橋だったそうだし、だから『ふなはし』という地名は大事だね」と、まるで私が知りたいことを見越してくださるような話が続きました。

かなり水量も多く流れも早そうな北上川で見ているだけで足がすくみそうですが、橋がない時代は渡し船もあったのか尋ねると、「あの反対側に見える場所が船着き場で、数年ぐらい前までまだ舟があった」と教えてくださいました。

北上川旧北上川の分岐する手前に、コンクリート製の船着き場が見えました。

 

帰宅して検索すると、「仙台・宮城・東北を考える おだずまジャーナル」というサイトに「宮城県の渡船を考える」(2010年6月5日)という記事があり、「登米市内の北上川渡し船が今月4日に運行を打ち切った」と書かれていました。

そして「登米の渡し(北上川)」には渡し船と橋の歴史が書かれています。

登米市柳津町豊里町を結ぶ、住民の足として運行され、一般人も利用できた。今回廃止の報道。

ところで、肝心の渡しの名称が不明だ。河北も毎日も、記事では固有名詞を記さずに北上川の渡しなどと表現している。地元でもあえてネーミングなして通用していたのだろうか。或いは片岸だけの地名を迂闊に出すわけにはいかないという深慮か。ネットで検索してみると、ブログなどでは、鴇波渡し、とも、白鳥渡し、とも表記されていた。

 

 

なお、宮城県内の北上川には、今回廃止の登米市を含めて2つの渡しが残っていたが、かつて北上川旧北上川には多くの渡船場があった。ishinomaki-wikiによると、梨の木渡、釜谷渡、元舟場渡、新舟場渡、門脇渡などがあった。明治15年、内海橋が中瀬を挟む両岸に架けられたが、県内の北上川最初の橋である。福井出身の内海五郎兵衛翁が個人で架橋し、時の松平正直宮城県令が翁を讃えて命名したもので、建設費を賄うための有料橋であった。明治28年に錦桜(きんおう)橋(初代)が、同38年に楓橋(米谷大橋の前身)、大正6年に来神橋(登米大橋の前身)などが、架けられる。更に、昭和8年内海橋(3代目)、昭和34年天王橋、昭和40年代には神取橋、石巻大橋、柳津大橋(2代目)、開北橋、豊里大橋、飯野川橋などが完成。昭和51年の新北上大橋開通に関しては、釜谷橋が廃止。市内の門脇と湊を結んだ最後の渡船も、昭和63年11月に歴史を閉じた。

 

木製の初代の橋に代わって今の橋になったのが昭和40年代だったようです。

 

旧北上川を渡り対岸へ、そして柳津駅へ*

 

柳津大橋を渡るとじきに北上川河川歴史公園があります。

 

門脇洗堰の上を通り、公園内へ。

最初はこの公園内にある歴史的建造物を見ようと思ったのですが、タクシーの運転手さんのガイドをもっと聞きたくなり、このまま北上川右岸から左岸を周ってみようと計画変更しました。

 

公園内を通り、旧北上川を渡ると、右岸の堤防の上を車が通行できるようになっていています。

 

「あの川の中にある杭がたくさんある場所、あれが上流からの流木やゴミを受け止めるもの。時々、溜まったゴミや木を取り除く作業がある。子どもの頃は、あのあたりでよく泳いだ」とのこと。

そういえば、あちこちの川で見かけるのですが、魚を採る仕掛けだと思っていました。

 

しばらく行くと取水塔が見え始めました。

「あれが取水塔。登米市全域の水道をまかなっている」

ああ、質問しようと思った答えが、次々と出てきます。すごい!

 

行く前に地図で登米市周辺をながめながら「どんな街なのかな」と想像しつつ、行くにはタクシーしかなさそうなのであきらめていた風景が目の前に広がっています。

古い町並みもところどころ残されていて、北上川とともに歴史を重ねてきた街なのだろうと、また一つ記憶に残る街が増えました。

 

登米大橋を渡って柳津駅へ戻る途中では、「この辺りを松尾芭蕉が歩いたらしい。あまりにみすぼらしい姿で、追い返されたという話を聞いたことがある」と。

この北上川沿いを歩いたのですね。ここから一ノ関まででも50kmぐらいはあるそうですが、今でもこんなに惹きこまれる北上川河畔の風景ですから、当時は過酷な旅を慰めてくれたのかもしれないと、勝手に想像しました。

 

柳津駅が近づいてきました。

「駅から上流側の集落は、この北上川(放水路)ができる時に今の北上川下流の地域から移転してきた人たち」とのことでした。

そういえば柳津駅に降り立った時、駅の北側がまるで崖があったかのように3mほど高くなっていました。もしかしたら、放水路より相当高い場所へと移転がすすめられたのかもしれません。

 

北上川の「近代河川工事〜付け替えと運河〜」によれば、この開削工事は1911年(明治44年)から1934年(昭和9年)ですから、一世紀ほど前のことです。

北上川流域では、柳津駅周辺の集落は比較的新しい街として認識されているのでしょうか。

 

一人で歩いただけでは気づかない話をたくさん知ることができたのも、タクシーの運転手さんに出会ったからこそで、金銭の価値以上の何かでした。

 

もう少し続きます。

 

 

「散歩をする」まとめはこちら

 

散歩をする 151 仙台から柳津まで

今回の最初の目的地北上川河川歴史公園に近い駅は、御岳堂と柳津があります。

最初、御岳駅で降りて河川歴史公園から柳津駅まで歩いてみようと思い検索して見たのですが、どうも乗り継ぎの時間がうまく行きません。

それで柳津駅に変更してみたところ、その方が「列車」本数があるようです。気仙沼線に急行と各駅停車があるのかと思ったのですが、それが前谷地から柳津駅まで、従来の列車とBRT(バス・ラピッド・トランジット)が並列して運転している意味だということに、あとで気づきました。

 

あらかじめみどりの窓口で乗車券を購入する時、このBRT区間も含めた1枚の乗車券にできるか確認した時にも、窓口の方が「?」という表情で調べてくださったので、ちょっと特殊なルートになりそうな気配を感じました。

 

*仙台で列車が遅れる*

 

先に乗り換え案内で検索したので、「仙台→小牛田→前谷地→柳津」で乗り換えることがすぐにわかりましたが、地図と時刻表だけだったらおそらくどこでどう乗り継いだらよいか相当悩んだのではないかと思うほど、そのあたりの路線が複雑です。

ネットの乗り換え案内がある時代で、ほんとうに助かったと思いました。

 

さて、今回は東京駅から新幹線に乗りました。さまざまな新幹線が通過する大宮駅にさらに東海道新幹線のホームもありますから、さぞかし壮観だろうと期待したのですが、東海道新幹線の改札とは別になっていて、ホームも少し離れているので想像と違いました。

それでもワクワクしながら東北新幹線に乗り、何度見ても飽きない利根川が作り出した関東平野、そして次に阿武隈川流域の風景を見ていたらあっという間に仙台に到着しました。

 

順調な旅の始まりと思ったら、仙台駅で東北本線に乗り換える際、近くの踏切で車が立ち往生したとのことでダイヤが乱れていました。

小牛田で石巻線への乗り換え時間はわずか10分ほどですから、間に合いそうにありません。

これは柳津で降りて北上川河川敷公園に行くことは無理で、1時間後の「列車」で通過するだけになりそうです。

がっかりですが、立ち往生の車も無事に救出されたようですし、列車が動き始めたことに感謝して、ここからはいきあたりばったりの旅だと気持ちを切り替えたのでした。

 

*仙台から塩釜、松島*

広々とした仙台郊外を抜けると、じきに小高い場所が多くなり、駅名も岩切、陸前山王、国府多賀城と、初めての東北本線でしたが、川が作り出した地形を想像できるかのようです。

そして塩釜駅は、坂道の多い小高い場所にありました。

塩釜というと漁港の町というイメージだったのですが、Wikipedia塩釜の概要を読むと、この丘陵地から埋立地へと市街地が広がったようです。

 

しばらくすると、楽しみにしていた美しい松島の風景が途切れ途切れですが見え始め、牡蠣の養殖養殖場や改修の進んでいる漁港が見えました。

こんどはこの海岸沿いをぜひ歩きたいと思っているうちに、あっという間に松島駅を過ぎて、高城川に沿ってぐんと内陸部へと入ります。

 

 

松島も塩釜と同じく小高い場所に駅がありましたが、ここからは少しずつ下がり、ひろびろとした田園風景が続きます。

地図で確認すると、成瀬川とその支流の吉田川によってつくられた水田地帯かもしれません。

その名も品井沼駅付近では、見渡す限りの水田が広がっていて、息を呑むような美しい風景です。

 

この東北本線からの車窓の風景を見ることができただけでも、来た甲斐があったと思いました。

 

小牛田には16分遅れの到着ですが、なんと、接続の石巻線が待っていてくれました。

ちなみに、「こごた」と読むようです。

小牛田町の歴史を見ると「明治22年(1889年)に南小牛田町と牛飼村が合併」とありますから、かつて牛がいたのでしょうか。

 

1本列車が遅れるのなら周辺を歩いてみようと思ったのですが、待っていてくれた列車に飛び乗ったのでした。

 

*前谷地から気仙沼BRTに乗る*

 

小牛田からも美しい水田と、アオサギがたくさんいる風景が続きます。

水田の周囲もきれいに草刈りがされているので、張り巡らされている用水路がよく見えます。用水路を求めての散歩にシーズンオフはなかったのでした。

 

前谷地に到着。ここからはいよいよ気仙沼線です。

ここから柳津駅までは列車とバスの両方が運行されているようですが、私が予定しているのはバスの方でした。

乗車時間まで時間があったので、外の待合所に行ってみました。

そこには、父を思い出させるような方が座っていました。会釈をして座ると、いろいろと話をしてくれました。最初は、独特の話し方で話の半分ぐらいしか聞き取れなかったのですが、大手建設会社で日本中のあちこちに行ったこと、沖縄の海洋博の建設現場でも働いたとのこと。

「でも、やっぱりここの風景が一番だな」と。

なんだかわからない感情がこみ上げて来て、「ほんとうに!」と答えたのでした。

 

気仙沼行きのバスが来たので乗りました。乗客はずーっと3人だけです。

このBRTは列車と違って、前谷地駅から柳津駅までは止まらないことが乗ってみてわかりました。

そしてこの区間は、地図で見た旧北上川沿いに通る線路とは違い、旧北上川とはだいぶ離れた一般道を走っているようでした。

 

35分ほど走ると北上川河川歴史公園が見え、滔々と流れる北上川を越えて柳津駅に到着しました。

 

地図上の妄想の旅の風景が、目の前に広がっています。

そして仙台駅での踏切事故の影響で大幅な計画変更を覚悟したのに、旅の計画どおりにこの地に立ったのでした。

あ、でも私の乗った東北本線の接続待ちのために、石巻線に乗っていた方の中で大幅に予定が狂ってしまった方がいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。

 

 

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散歩をする 150 北上川を見に行く

5月に八郎潟を訪ねた時に、新幹線の車窓から見えた阿武隈川北上川の流れ方が興味深く、その後も地図で時々眺めていました。

北の河川の中では、三面川信濃川はだいたいその流れが頭の中に入っているのですが、他の河川については曖昧なままでした。

 

北上川の河口の近くが、あの東日本大震災の時に帝王切開を受け入れていた石巻赤十字病院がある石巻になるのかと初めて繋がりました。

その付近を何度か眺めているうちに、石巻北上川の分岐した河口にまるで「島」であるかのように分離した地形であることに気づきました。

そしてその分岐した川の中州に、北上川河川歴史公園があります。

 

もしかしてここにも放水路が作られたのではないかと検索したら、やはりWikipedia北上川に「近代河川工事〜付け替えと運河〜」にまとめられていました。

明治時代に入ると政府主導による治水工事が各地で行われたが、その代表的なものに旧内務省による「北上川改修工事事業」がある。北上川は、かつて石巻貫流して仙台湾へと注いでいたが、度重なる洪水から石巻などの下流地域を守るため、下流域の手前から分流させる工事に着手することとなった。1911年(明治44年)から1934 年(昭和9年)までの23年をかけて北上川登米市付近で派川である追波川を利用した開削工事を実施。旧北上川新北上川に流れを分け、新北上川を放水路として東の追波湾へ遷させた。旧北上川についても1920年大正9年)より1932年(昭和7年)まで12年の期間をかけて北上川の分流工事と河川の改修工事を行い、分流堰として鴇波洗堰・脇谷洗堰が建設され、水運確保のための脇谷閘門も設置した。また分流地点より下流には飯野川可動堰が建設され、洪水調整と用水確保が図られる。

 

この旧北上川と放水路の分岐点を訪ねて見たい。

地図での妄想の旅が始まったのでした。

 

*日帰りの旅を計画する*

 

天竜川を訪ねたあと、妄想の旅が現実味を帯びてきました。

交通費を考えると一泊した方が無駄がないのですが、猛暑の中で川を見て歩くために、今回は日帰りにすることにしました。

 

朝一番のはやぶさで仙台に向かい、仙台から東北本線気仙沼線を乗り継ぐと、柳津駅には10時43分には到着します。

1時間ほどその北上川旧北上川の分岐点で過ごし、気仙沼線気仙沼へ出て、大船渡線で一ノ関に行き、そこから北上川沿いに東北本線北上駅へ向かい、北上駅からはやぶさで帰宅するという、大人の贅沢な旅です。

 

石巻気仙沼あるいは大船渡という地名を聞くと、いまも大津波が人を車を飲み込んでいく様子をリアルタイムに、そして自分自身も大きく揺れる自宅で本棚を押さえながらその映像を見た日を思い出してしまうので、この旅はまだ数年後ぐらいになるだろうと思っていました。

 

地図を見ながら、どうやったら柳津に行けるのかなと調べていたら、気仙沼線は一部区間が、BRT(バス・ラピッド・トランジット)になっていることを知りました。いつ頃だったか震災後に鉄道の代わりにバス路線になった地域のニュースを見た記憶があったのですが、ここだったのだとつながり、急に行ってみたいという思いが強くなりました。

 

もうひとつ、以前ブログで引用した資料にあった地名がつながってきました。

岩手県の1970年代の母子保健センターの記録の「農村地域(胆沢町)では数年来中毒症の発症が多く」という箇所と、岩手県の穀倉地帯であり、「誘致企業進出の極めて著しいところ」にある胆沢母子保健センターの状況に出てくる「胆沢」です。

 

Wikipedia北上川」の「江戸時代以前の開発状況」に以下のように書かれています。

利水面においては、仙台藩領の寿庵堰がよく知られている。北上川本流は鉱毒によって汚染されていたため、直接水を引くことが出来ず、取水は支流の河川から行わざるを得なかった。胆沢郡においては胆沢川の河水を利用していたが、天候による流量の増減が大きく水の安定供給が求められていた。そこで元和4年(1618年)、胆沢郡福原館主・後藤寿庵は、郡内の灌漑に供するための用水路を整備する事業に取り掛かった。ところが、キリシタンであった寿庵が禁教令に従うことを拒んで仙台藩から出奔したため工事は頓挫する。しかしこの事業の重要性を認識していた政宗は、寛永2年(1625年)に千田左馬と遠藤大学に命じて工事を再開させ、寛永8年(1631年)には全長43.0kmに及ぶ用水路が完成し、胆沢郡内の約3,000haに及ぶ田畑への給水が可能となった。寿庵堰は河川の水位を利用して胴(ど)と呼ばれるサイフォン式の設備を備えており、これにより安定した水量を水田に供給することが可能になった。

 

岩手県の穀倉地帯は、この寿庵堰あってこそのようです。

検索すると、あの二ヶ領用水の久地円筒分水と同じような設備が残っているようですが、今回は訪ねるのをあきらめ、東北本線一ノ関駅から北上駅まで北上(ほくじょう)することで、この胆沢川扇状地の水田地帯を見てみようと思いました。

 

 

北上川の歴史と現在を知るにはあまりに大雑把なルートですが、まずは出かけてみました。

 

 

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