小金がまわる 25 金利の移り変わりを思い出す

昨年3月から、家賃を銀行で振り込む時に220円の手数料がかかるようになりました。

1年で2,640円ですから、結構な額になりますね。

振込手数料がかからないようにと銀行口座をその支店に移したのに、意味がなくなりましたね。

 

「小金がまわる」のまとめに、「20代の頃は何とかなると思うものですね」と書いたのですが、全く無鉄砲というわけでもなかったといろいろと思い出しました。

 

時々、ネットで話題になる「昔の預金金利の高さ」ですが、1980年代初めの頃には「預金の100分の1ぐらいは利子が入ってくる」という安心感も気を大きくしていたのだと思い返しています。

20代前半の私の普通預金でさえ、1年に1万ちょっとが口座に振り込まれるのですからね。

あの当時の金利なら、将来は少し小金持ちになって溜まっているであろう定期預金の利子と公的年金で十分に生きていけるだろうと計算していたのでした。

 

ところが、銀行の手数料は増えるのに、年間の利子はその手数料にも満たないような額で、まるで預金をしていることへのペナルティ料を課されている感じですね。

 

 

*「定期預金の金利の推移」より*

 

銀行の利子はいつ頃どれくらい変動したのか、検索してみたら「定期預金の金利」というサイトの「定期預金の金利の推移」がわかりやすそうだったので、読んでみました。

わかりやすそうだったのですが、読むとどうしても目が滑って頭に入ってきません。赤字で強調されている箇所だけが、かろうじて理解できるぐらい、経済はほんと苦手です。

 

自分の頭の整理のために、小見出しと赤字の部分を書き出しておきます。

現在は空前の低金利時代

定期預金の金利の推移を見てみると、戦後の復興期から高度経済成長期に突入する頃までは比較的ゆるやかに上昇しています。しかし、高度経済成長期とその後につづくバブル経済期に急激にその数値を高めています。その後バブル経済が崩壊してからは、定期預金金利の数値は坂を転げ落ちるように低くなっていき、この20年ほどはずっと低い水準で推移しています。

そして現在は「空前の低金利時代」だといわれています。

 

日本の高度経済成長と預金金利

日本は戦後の復興期を乗り越え、1955年ごろからおよそ20年間にわたり、世界でも他に類を見ないほどの高度経済成長を遂げました、そのこうど経済成長を支えたのは多くの日本企業でした。(中略)

企業において資金の需要が高まれば、金融機関では融資するための多くのお金が必要となります。多くのお金が必要になれば市場に出回るお金が足りなくなって供給不足になるので、融資を受けるための金利は上昇します。商品が品薄になるとその商品の価格が高騰するのと同じ理屈です。

そして融資のための金利が上がれば、預金金利ももちろん上昇していきます。

 

このあたりまでは、当時、中学や高校で学んだレベルの知識でも理解できていました。

記憶にないのですが、この頃、「1974年には公定歩合は9.0%に上昇し、定期預金金利の公式データーは残されていないものの、普通金利は3.0%を記録しています」とあり、また郵便局の定期貯金には預金金利が10%を超えるもあったそうです。

そりゃあ、将来への気持ちも明るくなりますね。

 

欧米との貿易摩擦公定歩合

高度経済成長が終わっても、日本経済は安定して成長していきます。経済成長率は5%ほどに落ちましたが、自動車や電化製品の輸出が増加して日本の貿易黒字は大幅にふえました。

しかし、あまりにも輸出が増えたために欧米との貿易摩擦が生じることになります。貿易摩擦の解消を目指して1985年に締結されたプラザ合意が発端となり、今度はバブル経済期を迎えることになります

 

「1985年プラザ合意」。

経済に疎い私でも、当時ドルで支給されていた難民キャンプでの給料が、日本に帰国する頃に半額の価値になったので覚えています。

 

バブル経済と預金金利

金利が大幅に下がれば企業は資金調達がしやすくなりますが、同時に預貯金による運用益も少なくなりますので、個人は預貯金以外の資産形成にも目を向けます。その結果、土地や株に投資することになったのがバブル景気のはじまりです。

土地や株は異常に値上がりしつづけ、危機感を抱いた政府や日銀は加熱しすぎた景気を抑えるために今度は公定歩合を引き上げました。1989年に2.5%だった公定歩合は翌年には6.0%に引き上げられます。それに呼応するように金利は上昇し、普通預金金利は2.08%、定期預金金利も6.08%と非常に高くなります

 

日銀と定期預金の金利

現在では「基準割引率および基準貸付率」と名称を変えた公定歩合中央銀行である日本銀行によって変更されれば、定期預金をはじめとする預金金利に大きな影響を及ぼします

 

バブル崩壊と預金金利

(途中、略)

この年、普通預金金利は0.1%となり、定期預金の金利も1.091%にまで落ち込みます。更に翌年には公定歩合普通預金金利に目立った動きはなかったものの、定期預金の金利は0.504%になってしまいます

 

金融ビックバンとインターネット銀行

この様な背景を受けて、金融市場再生を目指して1996年ごろから行われた金融改革が金融ビックバンです。様々な金融緩和によって金融業界の自由競争が進んでいく中、多くの金融機関は生き残りをかけて再編を繰り返し、独自のサービスを追求する様になりました。

(途中、略)

また、以前は横並びであった振込手数料やATM手数料、そして預金金利も金融ビックバンの理念である金融自由化によって、各金融機関で決められるようになりました

 

西暦2000年以降の預金金利

金融ビックバンによる金融市場の改変は進んでも活性化はなかなか進まず、2000年以降現在までずっと普通預金金利は0.1%を下回り、定期預金金利も1%以下と低迷したままになっています。

詳しいデーターが残っている2003年時点では、普通預金金利が0.001%、定期預金の金利は0.068%まで下がってしまっています

 

こうして自分の中の年表を正確にしていくことで、少し頭の整理になりました。

 

ただ、経済の歴史は知らないことばかりという私自身の不勉強もこうした文章を読んでも目が滑ってしまう理由ですが、経済はまるで占いか何かのように感じるあたりにも理由がありそうな気がしています。

 

 

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記憶についてのあれこれ 165 怖さを忘れていたのか

楽しかったことや自信を持っていたことよりも、怖い経験というのは忘れにくいものだろうと思っていました。

 

特に、「10年やってわからなかった怖さを20年やって知るのがお産」という言葉に出会った頃は、お産は怖いとおっしゃっていた大先輩の気持ちが少しわかる年代になっていました。

 

さて、自分の年表を整理し始めたのですが、その手帳をつけ始めたのが2004年頃です。

それ以前の記録はつけていなかったのは、残念です。

 

ここ十数年の手帳を読み返して、けっこう怖い状況に当たっていたことを思い出しました。

手帳なので、わずか1行ほどで何があったかだけを書き留めているのですが、その1行だけでも「よくぞお母さんと赤ちゃんが無事だった」「よくあのマンパワーで対応した」「すぐに搬送先が見つかって助かった」「あの時は数時間も搬送先が見つからなかった」といった記憶が蘇ってきたのですが、いまは怖すぎて、二度と同じ状況には遭遇したくないとおじけづいています。

 

「怖いことを忘れていた」わけではなくて、封印しているのかもしれません。

 

新しい治療方法とかそのケアを知らなくて対応できないことのないように、という不安と緊張ももちろんあるのですが、やればやるほど「想像もしていなかった状況」が出てくるので、人間の体のことでわかっていることなんて本当にわずかなのだというあたりで怖さを感じています。

 

それは今までの経験からきた自信なんて吹き飛ぶ「わからなさ」が見えるようで、それを直視したら仕事を続けられなくなりそうな、そんな気持ちに揺れている感じです。

 

30代とか40代の頃は、なんであんなにバリバリと仕事をしていたのでしょう。

あの頃の自信はなんだったのでしょうね。

 

 

「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら

 

 

 

 

記録のあれこれ 88 人生の年表を作る

先日、棚から一冊のノートが出てきました。

表紙は記憶にあるのですが、何を書いたものかは全く思い出せません。

 

最初のページは「2003年11月  手紙が1~2回/月に届くようになる」と書かれています。

その次は1年飛んで、「2005年1月  年賀状届かず  認知症のため専門病院受診」と書かれ、そこからは父の様子についての記録が細かく続いています。

記録魔は母譲りですが、書いた私自身が忘れてしまっていたノートでした。

 

1週間の間に2通も3通も手紙が来たあと、じきに母が父を専門病院へ連れていったのが2005年だったようです。

自分で記録しておきながら、本当に記憶はあいまいですね。

 

当時は「服の場所がわからなくなる」とか「出かけ先でトイレの場所がわからなくなる」などあったようですが、記録をみると、そんな父を連れて母は北海道や九州、全国あちこちを旅行していたようです。

2006年には両親が「小平まで墓参りに行った」ことが書かれているので、まだこの時に父方の祖父は小平霊園に眠っていたようです。30年ぐらいでお墓も引っ越したと書いたばかりですが、半世紀ほどは小平霊園だったことになります。

いやはや、本当に記憶はあいまいなので、正確に記録することは大事ですね。

 

冒頭のノートは、時々電話で母から様子を聞いていたことを、看護記録のような感じで記録していたのでした。

 

さて、この父の様子を書いたノートは、残念ながら2007年でばたりと終わっています。

なんとなく父の状況に慣れてきたのかもしれません。

 

再び、別の手帳に書き始めたのは2011年からでした。

今度はそれまで父の世話をしていた母が手術で入院、施設へ転院し、父と母それぞれの生活の場が大きく変化した年でした。

 

特に、母が術後の半身麻痺から回復していく変化を書き留め始めました。

最近はあまりその記録を読み返していなかったのですが、このノートが出てきた後にまた読んで見ました。

簡単だけれど、月日と何があったか書き留めるだけで、人生の年表になりそうです。

 

ちょうど咋年末から、私自身の毎日の行動を書き留めた手帳から1年の中で特記しておくようなことを抜き書きして、自分の年表のような記録を作り始めていました。

 

誰に必要とされているわけでもない私の年表ですが、いい加減な記憶のままブログに何かを書かないための覚え書きです。

 

 

「記録のあれこれ」まとめはこちら

 

 

 

 

小金がまわる 24 この世のあとの居場所の費用

新年早々から霊園の話が続き、この世のあとの居場所のお値段が気になりました。

 

昨年の散歩で見つけた第一候補の樹木葬は、「永代供養、宗教不問、後継者不要でお一人数十万円」でした。

ただ、いつから準備するのかによって、もしかするともっと金額が大きくなるかもしれません。ちょっと怖くて、具体的な話をそのお寺に聞きにいけていないのですが。

もし、今から予約して、あと半世紀以上生きてしまってギネス記録に乗る長寿者になってしまったら、生きている間に相当、予約料のようなものを支払わなければならないかもしれないですからね。

 

ほんと、この世のあとの居場所のための費用も大変な時代になりました。

 

*都立霊園のお値段は*

 

小平霊園を歩いて、父方の祖父が一時期眠ったこの場所もいいかなと思い始め、都立霊園のお値段を検索してみました。

 

東京都の「令和2年度都立霊園の使用者を募集」を読んでみました。

 

「都立霊園の使用者」。

「使用者」とは死んだ側なのだろうか、それとも遺族のことだろうか、出だしから引っかかってしまいましたが、死というのは現実味が超現実に感じるところがありますね。

 

さて、祖父がいた小平霊園の一般区画は使用料が「1,662,500~5,206,250円」で、さらに年間使用料が「1,400~4,200円」だそうです。

祖父が亡くなったのは私が生まれる以前で、1954年(昭和29)だったそうですから、当時はいくらぐらいだったのでしょう。

 一区画がだいたい均等に見えた小平霊園でも、数倍の価格差があるのですね。

平等を求める気持ちが明治頃から少しずつ社会に根付き、戦後にこうした公的墓地で実現したのかと思ったのは勘違いだったようです。

 

ちなみに、都立霊園の最高額は青山霊園の「10,078,450円」でした。

お金と数字に疎い私ですから、一桁読み違えたかと思いました。

 

小平霊園の「年間管理料」が不要な墓地は以下のようです。

合葬埋蔵施設(一定期間後共同埋蔵)  遺骨1体あたり70,000円

合葬埋蔵施設(直接共同埋蔵)     遺骨1体あたり60,000円

樹林型合葬埋蔵施設          遺骨1体あたり134,000円

  〃                粉状遺骨1体あたり44,000円

樹木型合葬埋蔵施設          遺骨1体あたり194,000円

 そうか、この世のあとの居場所は「埋蔵施設」というのですね。

 

「樹林型」と「樹木型」の違いがよくわからないけれど、死んだら別にどちらでもわからないし、一番安い、「粉状遺骨」にして樹林型合葬埋蔵施設でいいかな。

これなら「東京都に3年以上居住」の条件はなんなくクリアしているし、生前申込もできるようです。ただ、応募して抽選制であれば、居場所の確保も競争ですね。

 

 

いやはや、自分の体の後始末も大変ですね。

さらに消費税がかかるとしたら、シュールですね。

 

 

でもこれも、平和だからこそ、最後はどこで眠りたいとかいくらお金をかけようとか考えていられるということでしょうか。

 

 

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鶏が先か卵が先か 4 「失敗を認める」ことが先か、「失敗を赦す」ことが先か

そういえば「鶏が先か卵が先か」なんてタイトルも作っていたことを、ふと思い出しました。

 

「3密」「マスク着用」「手洗い」が基本なのはわかるのですが、感染対策で具体的にどんな行動に気をつけたらよいか反対に何が意味がないあるいは逆に弊害があるか、ここまでわかったという点が統一された情報としてなかなか伝わってこないのはなぜなのだろう、と考えています。

 

おそらく、患者さんに直接対応している保健センターや感染症受け入れ施設の方々、あるいは専門分科会の方々などはかなりはっきりと原因をつかんでいたのでしょうが、12月25日の会見で、ようやく初めて公に明確にされたという印象をもつぐらい、「夜の街」「会食」「飲食を伴う」といった漠然とした表現に置き換えられてしまって、生活の中で具体的にどう気をつけたらいいのか溢れる情報の中で大事なことが伝わっていないのかもしれません。

 

「わからないこと」はわかったことにはしてはいけないですし、また、あまり具体的な状況を書くと個人が特定されて誹謗中傷されるリスクをおもんばかっているのだろうと理解していますが。

 

 

ヒヤリハットがうまく浸透しない*

 

ただ、あの三毛別羆事件とヒューマンエラーで引用した、「どう気をつければいいのか、までは教えてくれなかった」「現場の判断だけに任せている」という言葉を思い出しています。

 

「どう気をつければよいか」

三毛別羆事件でも、「単なる伝聞情報だけで書かれたものや、過剰な脚色が入ったっものもあり、客観的な事実が掴めなかった」と書かれています。

今はテレビやインターネットで、こうした非常時に膨大な情報が流れますが、「伝聞情報だけ」「過剰な脚色」は当時と変わらない問題点かもしれませんね。

 

お忙しい中、感染症関連の方々が様々な情報を伝えてくださっているのですが、「飲み会やパーティで感染拡大した」あるいは「職場の洗面所での歯磨き」とか「喫煙所での会話」という知りたかった事実さえ、一般社会にはまだまだ伝聞レベルにしか伝わりにくく、「気をつけかた」に混乱していると言えるかもしれません。

 

最前線にいる方々には「こんなに伝えているのに」と庶民への呆れになるのでしょうが、こちら側には医療関係者でさえも具体的な事例の情報を把握することができないので、現場の判断でなんとかするしかない感じです。

 

まあ、これが非常時の混乱といえばそうなのですけれど。

 

*感染した人の個人的体験談の限界*

 

11月ごろに関東でもまたホテル療養者が増え、ネット上にその経験を伝えてくださる方が増えました。

どんな状況なのだろうとその経験談を追っていましたが、多くが「ホテル療養に必要な物品」「症状のつらさ」といった内容でした。具体的で参考になりましたが、「感染のきっかけ」が書かれていたものはごくごくわずかでした。

 

おそらく、それを書くことで個人が特定されてしまうことや、はっきり感染経路だと言い切れない場合などもあることでしょうから、それも仕方がないのかもしれません。

あるいは療養中の体調が悪い中に他の人のためにと状況を伝えてくださっても、社会から責められる風潮もまた、事実を伝えることを躊躇するかもしれません。

 

*「失敗」と思いたくない*

 

「感染のきっかけ」を具体的に書く人が少ないのは、自分の行動が感染につながったことを薄々自覚していても、それを認めたくないという気持ちもあるかもしれないと想像しています。

ですから、「失敗」を認めたくない気持ちを合理化しようとして、「どこでかかったのかわからない」と思い込もうとするかもしれないと。

 

個人的体験談は貴重ですが、効果を示すものではないと同じく、「失敗の教訓を正確に伝えてくれるものでもない」あたりでしょうか。

 

感染したことが「失敗」ではなく、感染につながる行動をしたというヒヤリハットを認めるというのは、まだまだ一般社会では難しいことなのかもしれません。

「インシデントを認め、報告する」歴史もたかだか半世紀ですからね。

 

そうそう、今日のテーマの「鶏が先か、卵が先か」は、感染した人を責めないという社会の雰囲気は大事だけれど、社会にあまねく失敗学が根付かないと、ただの同情だけで次に活かせる教訓は得られないのではないかと思ったのでした。

 

 

「鶏が先か卵が先か」まとめはこちら

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つじつまのあれこれ 30 泳ぎに行っていいのか悪いのか

ようやく初泳ぎに行きました。

年末の2週間は「超」がつくほど忙しくて疲労困憊していたので、なかなか泳ぎに行けませんでした。かれこれ4週間ぶりのプールです。

太陽がプールサイドに射し込んで、水がほんとうに綺麗でした。

 

3月の緊急非常事態宣言の時には、9週間ほどプールが閉館していました。

今回はどうなるのだろうと、区やプールの施設のサイトを何度も確認したのですが、休場するともしないとも何も書かれていませんでした。

開いているのだろうか。

電話で問い合わせるのもお手数をおかけするし、まあ閉まっていたら付近を散歩して帰ってこようと行ってみたら、いつも通りでした。

 

*3月と同じメッセージではわかりにくい*

 

基本は人と人との接触を避けることが大事というのは理解できるのですが、3月の時点に比べて「マスクをせずに唾液が飛ぶような行動」が「急所」だと、年末の説明で理解していました。

ここまでだいぶ具体的になったと、納得できました。

 

ところがまた、「不要不急の外出は控えて」というメッセージと、「繁華街ではこれくらいの人出」と相変わらずの映像に、いやいや今はもう「唾を飛ばすような行動に結びつく外出を控える」ぐらい具体的なメッセージにしないと、混乱しそうですね。

 

さて、泳ぎに行くのは不要不急の外出なのか、でも閉場していないのだから行って良いということだし。

なんだか行動を試されているような監視されているような、疑心暗鬼になりながらプールへ向かいました。

 

*人の行動を変えるには、「禁止」の表現も必要ではないか*

 

先日、駅のトイレで手を洗っていたら、横で盛大にうがいを始めた方がいました。

おっと、危ない。慌てて、そばを離れました。

職場の洗面所での歯磨きから飛沫感染を受けた事例の情報が、社会にはまだまだ浸透していないのでしょうね。

 

プールは泳ぎに来る人が減ったのか、空いていました。

10秒ほどスタートするのを待てば追い越す必要もないのに、前の人との間隔を開けずにスタートして荒い息遣いで迫ってきてがむしゃらに追い越そうとする人が、相変わらず多いですね。

そういうタイプの人がコースに入ると、そばを離れるようにしています。

なんといっても、泳いでいる時にはお互いにマスクをしていないのですから。

 あるいは水泳教室が復活してプールサイドからマスクをせずに大きな声で指導する人や、プール内ではしゃいで喋る人や、人がそばにいるのに激しく咳をする人などもまだまだいます。

そこを通過する時には、できるだけ水中に潜るようにしていますが。

 

人の行動を変えるのには、「会話を控え目に」といった遠慮がちのお願いではなかなか変えられないし、具体的な事例が伝わらないと難しいのではないかと思います。

 

せっかくの非常事態宣言中ですから、今までの表現ではなく「マスクをしていない時には喋るな」「食べながら喋るな」「唾を飛ばすな」ぐらいの表現をする雰囲気になればよいのに、今回の非常事態宣言とはなんだろうともやもやしています。

 

 

 

 

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行間を読む 101 千葉県にある都立霊園

都立霊園である八柱霊園が、なぜ千葉県に造られ、そのまま現在も都立霊園として続いている歴史はどんなことだったのだろうと気になり続けています。

 

松飛台駅の名前の由来から、旧陸軍の跡地を墓地にしたのかと思ったのですが、東京都立八柱霊園を読むと、戦前の「1935年(昭和10年)に、東京市が東方墓地として開設した」とあります。

 

八柱(やはしら)村の歴史に、1889年(明治22年)に合併してできた時代のことが少し書かれていました。

当時の八柱村はいわゆる陸の孤島であり、米やネギなどを栽培する純粋な農村地域であった。明治33年(1900年)八柱村大橋(現在二十世紀が丘に属する)の松戸覚之助が二十世紀梨の生育に成功すると、この地域の梨栽培が注目されるようになり、高塚新田などを中心に村内で広く栽培されるようになった。昭和10年(1935年)、東京市が田中新田の土地73町3反余りに墓地を設置した。後の八柱霊園である。

 

これが「誘導路があった西が八柱霊園の一部にあたる」という意味だったのでしょうか。

 

ところで「73町」ってどれくらいの広さかと検索すると「0.7㎢」で、 実際にどれくらいの面積なのかWikipediaの「面積の比較」を参考にすると、新宿御苑が0.583㎢とあるのでそれより少し広いくらいでしょうか。

現在の広さが「105ヘクタール(約1平方キロメートル)」なので、旧陸軍の土地を墓地にしたというよりも、もともと墓地として計画されたのでしょうか。

 

*「陸の孤島」に都立霊園を計画したのは?*

 

私は北総線を利用して八柱霊園を訪ねましたが、それ以外には新京成線、JR武蔵野線に囲まれた場所です。

 

新京成線が開通したのが1955年(昭和30)、JR武蔵野線の府中本町〜新松戸駅が開通したのが1973年(昭和48)、そして北総線は1991年(平成3)ですから、1935年に開園したあと20年間ぐらいは鉄道の交通手段がない場所だったようです。

どうやって、都内からお墓参りに行ったのでしょう。

 

戦前にはすでに武蔵野線の計画もあったらしいので、そうした鉄道網の充足を見越しての開園だったのでしょうか。

 

ところで、江戸川を渡ると一段と小高い場所が見えるのですが、松戸市の「地理」を読んで、それが下総台地であることを知りました。

東部地域は下総台地(海抜20〜30メートル)の西端となっていて、現在では概ね住宅地が広がっているが、1960年代以前は、山林や果樹園、畑が多く見られた。標高は市域のほぼ中央に位置する常盤平駅周辺が最も高く、ここを境にして市内の河川は西に向かい東京湾へ流れる江戸川水系と、東に向かい太平洋へ注ぎ込む東の手賀沼利根川水系に分かれている。 

 

下総台地にこんな説明がありました。

辺縁部は侵食により樹枝状の無数の谷が切れ込んでおり。谷津田が拓かれた。しかし、台地の奥の部分は生活用水の入手が困難なことから集落はあまり形成されずに原野が広がっており、江戸時代には「小金牧」や「佐倉牧」などといわれる江戸幕府の馬の放牧地が広がっていた。 

 

車窓から見える複雑な地形も、八柱霊園の北西にある谷津のような部分も、この「樹枝状の谷」のひとつだったのかもしれません。

 

下総台地、あの成田空港開港直後の周辺の風景を思い出しました。

そうそう、あの辺りも「御料牧場」でした。

以前から江戸との直接のつながりがあったことも、都立霊園の飛び地の歴史と何か関係があるのでしょうか。

 

 

都立霊園の使用者募集を読むと、一般区画は「都内に5年以上継続して居住していること」が条件なのですが、この八柱霊園には「都内または千葉県松戸市に5年以上継続して居住していること」とありました。樹木葬になると、それぞれ「3年以上」だそうです。

 

今年は、下総台地をもっと歩いてみようと思いました。

 

 

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散歩をする 268 松戸にある都立霊園を訪ねる

今まで漠然と都立霊園の名前を思い出す程度でしたが、「小平霊園のあらまし」に、「昭和10年には東方面の八柱霊園(松戸市)を併設」と書かれていて、飛び地のような都立霊園のある場所がどんなところなのか気になりました。

 

遠出をするようになって、けっこう常磐線に乗る機会が増えたので、松戸のあたりも何度も通過していますが、まだ歩いたことがありません。

地図を見るとJR松戸駅の方ではなく、武蔵野線東松戸駅北総線の松飛台(まつひだい)駅が近いようです。

一昨年、じゅん菜池緑地を訪ねた時に降りた、北国分駅の3つ先に松飛台駅があります。

 

また、昨年夏に武蔵野線から東部アーバンクラインに乗って水田を眺めに行った時に、すぐそばを通っていたようです。

江戸川を越えると、またトンネルや山を削った起伏のある場所を通ります。 

そのあたりだったようですが、あの時は中山競馬場の馬を車窓から見ることができるかということに気を取られていて、反対方向の地形や街は意識になかったのでした。

まさか、そこに「都立」霊園があるとは。

 

どんなところだろう、なぜ飛び地のように都立霊園があるのだろう、とにかく行ってみようと新年早々の霊園巡りです。

 

*八柱都立霊園*

 

馬喰横山駅で、北総線直通の電車に乗り換えです。駅構内に、駅そばの香りが漂っていて、ついつい寄り道をしたくなりましたが、冬の日は短いので先を急ぎます。

 

浅草線と京成線、そして北総線も路線図が複雑で、たまに乗るくらいだと行き先を間違えそうになりますね。あやうく成田空港に行きそうになりました。

京成線の区間は、たくさんの川を渡る風景です。このあたりの川はすっかり覚えました。

 

江戸川の対岸は、低地に田畑が広がり、その先に市川の小高い場所があります。江戸川が利根川から開削された人工の川であることを知らなければ、あの高台も川が作り出した河岸段丘だと思ってしまいそうです。

まるで武蔵野台地のような場所がその先に続いているようなイメージです。

でも、実際に北総線に乗って見ると、北国分駅の手前はトンネルになったり、切通しになっていたり、この先に本当に広大な霊園があるのだろうかと思う複雑な地形が繰り返し車窓に見えます。

 

松飛台駅周辺も少し窪地になったような場所で、そこから北へ少し坂を上ると、広い平らな場所が広がり、そこに八柱霊園がありました。

駅北側の地名でもある「松飛台」は、旧陸軍が監督した逓信省航空局中央乗員養成所の飛行場の滑走路が所在した台地に由来する。格納庫等があった東が松戸駐屯地、誘導路があった西が八柱霊園の一部にあたる。

Wikipedia「松飛台」の「駅名の由来」より)

それで、こんなに広大な土地を都立霊園にできたのですね。

飛び地の理由が少しわかりました。

 

南側には壁型の墓地が広がり、暮石には「〇〇家」に混じって、家や個人名ではなく「感謝」とか「こころ」といった文字が刻まれているものもあり、これもまた時代の変化なのでしょうか。

 

地図では園内に細長い水色の場所が描かれているので、そこまで歩いて見ました。細長い小さな谷津のような場所でしたが、水はありませんでした。そのまま北側へと下り坂になって行くようです。

 

もう一度南の方へと歩き、東松戸駅からバスで松戸駅に行きました。

途中の風景も起伏が多く複雑な地形で、平らな場所には工場が多く見えました。同じ関東でも、神奈川や東京、埼玉とも違う千葉の起伏に富んだ地形というのはどんな歴史があるのでしょうか。

今年は少し、この辺りを歩いてみたいと思いなから家路につきました。

 

 

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小金がまわる 23 「年間二十数億円のタバコ税が皆様の暮らしに役立っている」?

昨年4月に「原則屋内禁煙」の都の条例が出たあと、近所の踏切の遮断機が降りているときに副流煙をすわされていた自動販売機の前の灰皿もいつも間にかなくなり、ほっとしました。

 

ところが、先日、その自動販売機にステッカーが貼ってあることに気づきました。

「年間二十数億円のタバコ税が皆様の暮らしに役立っている」という主旨です。

23区ですが、その某区では二十数億円のタバコ税が入ってくるから「みなさん、暮らしに役立っていると思って吸ってくださいね(世の中の禁煙ムードに罪悪感を覚えなくていいですよ)」という意味でしょうか。

 

こういうのを矛盾というのでしょうね。

 

 

私が経済に疎いのは、百万円単位ぐらいまではお金の価値を体感できるのですが、それ以上になるとその金額が何を指しているのか世界が違いすぎてわからなくなることも理由のひとつです。

区税の二十数億円って、どんな割合なのだろう。それがなくなると、暮らしにかなり影響があるのだろうか、というあたりがすぐにパッと思いつきません。

 

 

*「たばこが原因の損失は医療費だけ?」*

 

いちおう医療関係なので、喫煙というと健康被害にかかる医療費がすぐに思い浮かぶのですが、具体的にどうなのだろうと検索してみました。

日本医師会の「禁煙は愛」というサイトがあって、「日本のたばこの害による損失は、病気から介護、火災まで」にこう書かれていました

 

2018年8月に厚生労働省から、たばこの害は社会全体の大損失になるという驚きの研究結果が出されました。2015年度の医療費や介護、火災などたばこによる損失を合わせると、その額は推計で2兆500億円!

主な内訳は、たばこが原因と考えられる病気(がん、脳卒中心筋梗塞認知症)にかかる医療費が1兆6,900万円、これらの病気で必要になった介護費2,600万円、たばこによる火災などの関連費が1,000億円でした。

 

「兆」になるともう頭がついていかないのですが、比較的人口が多い一つの区の二十数億円の税収なんてかすんでしまう損失額のようです。

 

 

そういえば、年末から放送されていた「孤独のグルメ」の第1回目の放送の中で、五郎さんが店先でたばこを吸っているシーンがありました。

2012年ですから、この8年間でこうしたドラマでの喫煙シーンもなくなり、社会の中での喫煙に対する考え方や行動が驚異的に変化する時代でしたね。

2000年代初めまで、ナースステーションでも当たり前に黙々と紫煙が漂っていたのですからね。

 

そうした時代の変化に、そしてこの新型コロナと喫煙の影響がいわれている時期に、あえてこういうステッカーを貼る意図はなんだろう。

これはちょっと筋が悪いなと思いながら、毎日そこを通っています。

 

たばこが関連する区の損失はどれくらいなのだろう。

私も勉強不足でした。

 

 

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食べるということ 63 「弱っていても腹は減る」

昨年はもう観られないと思っていましたが、年末スペシャルがありました。

 

五郎さんがマスクをしていたり、石鹸で手を洗ったり、店員さんとも距離をとっていたり、昨年から今年の社会や飲食店の雰囲気の記録になりそうです。

そんなことを考えていたら、五郎さんの後ろを猫が横切って行きました。あれはエキストラではないですよね。

 

「俺も弱っていたのかな。弱っていても腹は減る」という五郎さんの心の声と、お店の方の「今年は予約入っていないから」「仕事があるだけでもありがたい」に、まさかの「孤独のグルメ」で泣きながら観ました。

先の見えない中、いつ自分の周囲にも何が起こるかわからない一年でした。

いつもどこか気が張って、五郎さんの「私も疲れていたんだろうな」の一言に、まだまだ言葉にならない感情がどっと溢れた感じです。

ほんと、みんなの思いですよね。

 

焼肉で頼んだシソの葉漬けに「簡単そうで素人にはできない」とか、「この大変な中、頑張ってくれている飲食店に感謝」と、いつもに増して長いこと、無名でも、たくさんの人に美味しい食事をつくってきたお店への気持ちが表れていたような気がしました。

 

ちょうど1年前は、初めてスクリーントーンズのライブに行って、次を楽しみにしていたのでした。

まさか、こんな1年になるとは。

でもだからこそ、こうして年末スペシャルを観ることができたのは、スペシャルのさらにスペシャルですね。

 

「うまさは豊かさの夢」

本当に、社会全体が安定して豊かになってこその、今までの夢のような時代だったのだと、また泣けてきました。

 

とうとう、今日からまた緊急事態宣言が出されてしまいました。

もっと、お店や関連の仕事の方々を守る、別の方法があったのではないかと社会のつじつまの合わなさが悲しいですね。「国会議員は4人までの会食OK」とか、ほんと、何もわかっていないのですねえ。

 

年末年始から「孤独のグルメ」が一気に放送されていたのを繰り返し見ながら、元気を出していこうと思います。

五郎さんも最後に、「またお会いしましょう」と言っていたし。

 

 

 

 

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