行間を読む 205 「堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せる」

昨年9月に7世紀の南河内の地溝開発と1704年の大和川の付け替えを知ったあと、どのあたりがどのように変化したのだろうと地図を眺めては地名や現在の水路や川から想像していました。

Wikipediaの「大和川」に「治水・流路変更の歴史」がまとめられているのですが、大阪の土地勘がないので地図を重ね合わせてもわからないままでした。

 

今回の散歩で目立たないけれど重要な大水川の11ページもの説明の中に「大和川藤井寺市の川と池ー」へリンクがあったので開いてみると、なんと19ページにも及ぶ大和川付け替えの資料がありました。

 

過去から現代へ、大和川の流れ方、地形、それぞれの地域への影響などがくまなく書かれていました。

 

川の説明でこんなに詳細に書かれたものを初めて目にしました。詳細でいて全体像を見失うことなく情景が浮かぶ、わかりやすい説明です。

そしてあちこちを歩いて知った川や水路の歴史をたどろうとしても、歴史というと著名な武将の視点からの歴史はたくさん書き残されているのに、川や農業の要であった水路やため池の歴史がまとめられたものは少ないものです。

この資料は正確な地理から歴史まで、川とそこで生活する人の視点から描かれていることに圧倒されました。

 

 

*旧大和川だった地域*

 

奈良盆地から生駒山地金剛山地の間を抜けて、すぐに北へと流れを変えていた旧大和川のその先はあの巨椋池(おぐらいけ)のように広い湿地のような場所だったのだろうかと想像していました。

 

この資料の説明と図から、大阪へ出るとすぐに北へと向きを変えていた旧大和川は扇状に分かれながら、巨椋池よりももっと広大な地域を流れていたようです。

川の付け替えが必要だったのは、旧川筋が昔からしばしば洪水を起こし、流域の村々に大木は被害をもたらしてきたからです。旧川筋は、長年の間に天井川となっていて、ひとたび氾濫するとたちまち一帯が水びたしとなり水が引きにくいという流域でした。大阪平野、特に河内平野と呼ばれる旧川筋流域を安定した農作地帯にするためには、大和川による洪水を防ぐ治水対策が何としても必要でした。

(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井寺市の川と池〜大和川〜」「人工の川ー藤井寺市大和川」より)

 

現在の大阪城から淀川両岸のあたりの「河内平野」はかつては海、そしてだったようです。

生駒山地上町台地の間の河内平野は、「古代の大阪湾」とも言える「河内湾」という内海でした。縄文時代のことです。やがて弥生時代の頃には「河内潟(がた)」となり、さらには「河内湖」となりました。北からの淀川、南からの大和川、2つの川が運んでくる砂によって、だんだん小さく浅くなっていったのです。

(同上、「宿命の川ー砂で埋まる川」)

 

ああ、だから「河」「内」なのでしょうか。

 

 

 

*「川の付け替え」が決定されるまで*

 

この資料の隅から隅までただ圧倒されるのですが、中でも川の付け替えに対する賛成・反対の立場の意見まで網羅されていたことでした。

 

 洪水の原因が、もともと川の地形のでき方にあるのであれば、川そのものの在り方を変えるしかないということになります。つまり、洪水を起こす川を無くして、代わりに洪水を起こしにくい川を新たに造るという考えです。そう考えた人々の中から「大和川を付け替えたい」という願いが広がっていきます。現在中河内と呼ばれている地域の庄屋たちが中心でした。中でも、今米村(現東大阪市今米)の庄屋であった甚兵衛(じんべえ、後に苗字帯刀を許されて中甚兵衛)は、付け替えを願う人の中心となって長い期間に渡って大きな役割を果たします。

「中甚兵衛」、大和川治水公園の説明板で知った名前です。

 

 一方では、甚兵衛達の動きに対応して、川の付け替えに反対の考えを持ち、奉行所に対して逆に付け替えをしないように願い出る人々がいました。甚兵衛たちの計画で新川の予定地となっている場所に関わる村々の農民たちです。付け替えが実現すれば、農地が新川の川ゆかとしてつぶれ地となってしまう村、農地は失わないが大和川の流路が関わることで新たな危険や不利益を被ることになる村々など、多くの村が反対の動きに加わりました。後に、実際に多少なりとも農地を失うことになった村は40カ村にも及びました。

 甚兵衛達が奉行所に嘆願書を提出すると、反対の人たちもすぐに多数の村々の連盟で嘆願書を提出するという、お互いの願いがぶつかり合う激しいものとなりました。大きな開発公共事業を巡って推進派と反対派が対峙するという、現代にもよく見られる構図ができてしまったのです。現在と違うのは、事業の決定者は幕府であり、それも一方的に決定する権力を持った支配者だったということです。

こうした激しい紆余曲折が半世紀ほど続いた後、大和川が付け替えられたそうです。

 

それによって大きな洪水はなくなったそうですが、「偉業の物語」では終わらないところがこの資料でした。

大和川の洪水を防ぐ」という付け替えの最大目的は達成されましたが、大和川という大きな川の流れを変えたことで、付け替えの後、様々な問題が起こりました。中には、300年後の今でも続いている問題でもあるのです。これらの問題のほとんどは、かつて付け替えに反対した村々の農民達が嘆願書の中で反対の理由として指摘していたことでした。付け替えの後に、次々と現実のものとなっていったのです。もともと反対派の農民達が指摘していたことは、川の実態や農業水利、地形(土地の高低)などに基づいて予測され、相当高い合理性を持つものだったのです。

それについて具体的にいくつか挙げられています。

 

昔の人たちもまた「公共のためとは何か」という正解のない葛藤に対峙してきたことが書かれていて、公共事業の歴史を知らずに批判から入っていたことをまた恥入りました。

 

大和川の説明の最後にこうまとめられていました。

大和川の堤防を歩きながら、1本の川をめぐる多くの先人達の願いや苦悩に思いを馳せてみるのも、また、一つの歴史の楽しみ方ではないでしょうか。

 

まさに。

こういう思いからまとめられているから、この資料に惹きつけられたのだと思いました。

「大水川(おおずいがわ)」を検索していなければ出会うことがなかったのですから、幸運でした。

 

 

 

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