玉川上水への関心から都内の川や水路ぞいを歩くようになった頃、次はどこを歩こうかと地図を眺めていて川と川が交叉している場所に目が行くようになりました。
最初はそのどちらも最後は海へと流れ着くのだろうと思っていたところ、二ヶ領用水のように、一方は多摩川からの取水で、もう一方は多摩川へ流れる水色の線もあることを知り、ますます目が離せなくなりました。
二ヶ領用水は江戸時代に造られたにしても、そこに水路を交差させるなんてマジックのような技術は近代以降だろうと思っていたところ、江戸時代にはすでに掛樋や伏越という技術があったことを見沼代用水沿いを歩いて知りました。
ほんと江戸時代は決して遅れた時代ではないし、その高い技術や知識を当時の農民自体が持っていたようです。
*大水川の「川の下に川!」*
目立たないけれど重要な川である大水川(おおずいがわ)にも旧大水川と交叉する場所があるそうで、「川の下に川!ー交叉する新旧の大水川」という説明があります。
この「川の下に川!」の表現に、あんがい私もいい線を気づいていたと満足したのでした。
大水川に旧大水川が暗渠で交叉しているのは内水氾濫を防ぐための昭和40年代の改修時のようですが、続けてこんな文章がありました。
「水路の下を水路がくぐる」という構造は、昔から各地で用いられてきました。江戸時代から続く構造が各地に現存しています。それほど農業水利の管理は農作地帯にあたっては重要な課題であったことを物語っています。
(「Web 風土記 ふじいでら」「藤井市の川と池ー大水川」)
そして「藤井市の川と池ー大和川」では、当時の農民の知識や土木技術について書かれていました。
土と水に頼って生きる農民の知恵
以上のような技術的な対応策や設計上の工夫は、現代の私たちが想像する以上に綿密で優れたものであったと言ってよいでしょう。付け替え推進運動の中心となった中甚兵衛の子孫である中家には、大和川の付け替えに関する膨大な文書が残されています。それらの中には、実に多くの手間を掛けた綿密な調査記録や、新大和川の流路予定地に関する正確な測量図、細かい計算を経て作成された勾配図など、現代にあっても専門家でなければ製作は困難と思われるものが多数存在します。当時の農民層が持っていた治水・土木の知識や技術の水準には驚かされます。もともと何よりも用水が重要なものであった稲作農民にとっては、安定した用水確保のための治水の知識や土木技術は必須のものであったことでしょう。行政・司法の官僚として奉行所に勤める幕府役人よりは、こと治水・土木に関しては農民層の方が上まわっていたのではないかと思われます。
(強調は引用者による)
まさに、まさに。
そして最後の一文は、現代でも農業だけでなくさまざまな分野で当てはまりそうですね。
次に訪ねる地図の中の「水路の下を水路」には、どんな歴史があるのか楽しみになってきました。
*おまけ*
航空写真にしてみてもほとんど周囲に水田が残っていない百舌鳥・古市古墳群の周濠や大阪府内の大和川沿いは奈良県とは対照的で、今回の散歩に出かける時には正直なところあまり期待はしていませんでした。
なんといっても全国津々浦々の水田は健在な風景を見るための散歩ですからね。
ところが帰宅してからこの資料を読んで、見ていた風景の記憶が一変しました。
現在はすでにない水路や田畑の風景が見えてきて、また歩いてみたい場所が出てきました。
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