記録のあれこれ 173 大和川の付け替えと250年記念碑

近鉄南大阪線土師ノ里(はじのさと)駅についた時には空腹の限界でした。店はあっても閉店していたり、頭の中では「腹が減った」の音楽が流れているのに、さすがの五郎さんでも見つからないと思うほど食べるところに出会いませんでした。

 

予定を変更してこのまま南大阪線で奈良へ向かおうかと思いましたが、やはり今回の目的のひとつは大和川ですからね。

土師ノ里駅の次の道明寺駅道明寺線に乗り換えて大和川を渡り、柏原南口駅で下車してもう一ヶ所頑張って大和川沿いを数百メートルほど歩き、近鉄大阪線安堂駅から奈良へ向かうことにしました。

地図には何も描かれていないのですが、この辺りが大和川付け替えの場所のようです。なかなか詳しい資料に出会わないのですが、せっかくきたのでその場所を歩いてみようと思いました。

 

大和川治水公園があった*

 

大和川にかかる道明寺線の鉄橋を渡ってすぐに柏原南口の駅があります。「道明寺線の橋梁が『土木学会選奨土木遺産』に認定されました」と説明がありました。たった3つの駅を結ぶ不思議な路線ですが「近鉄の路線の中では最も歴史が古い」(Wikipedia)ようです。

 

国道25号線を渡って、大和川の堤防の上に立ってみました。ここから下流は傾斜がほとんどわからないような平地ですが、すぐ上流は渓谷のような場所をJR大和路線が川沿いに通過する場所です。

山あいから出てきた流れが北へと向かう方がなんだか不自然に見えるぐらい、かつてはここで大きく向きを変えていたようです。

 

国道25号線沿いに安堂駅の方向へ歩くと、途中、何やら堤防上の歩道が公園のようになって大きな石碑が見えました。「大和川治水公園」でした。

 

「西暦1703年代大和川流域の図」と「大和川付けかえと中甚兵衛(なかじんべえ)」という銀のプレートもあります。

 河内平野を幾筋もに分かれて淀川に注いでいた大和川が、今の姿に付け替えられたのは、元禄が宝永と改元された1704年のことです。工事は、わずか8ヶ月で完成しました。洪水に悩む地域のお百姓の訴えが実を結んだものですが、最初の江戸幕府への願い出から付けかえの実現までは、50年近くの月日を要しました。

 その間にも幕府は何度か付けかえの検分をしました。そのたびに新しく川筋となる村々から強い反対にあい計画は中止されました。しかし、3年連続して河内平野が全て泥海と化すような大洪水もあって、幕府は対策に本腰を入れ専門家を派遣、工事を行いました。この工事で、淀川河口の水はけは良くなったものの、大和川筋は一向に改善されず、川床には土砂が堆積して田畑より3メートルも高い天井川になってしまいました。

 しかも、幕府は付けかえ不要の方針を固めたため、依然洪水に悩む人々は、付けかえの要望が出来なくなり治水を望む運動の規模も、どんどん縮小してしまいました。しかし、多くの文書や絵図を作成して状況の改善と新田開発の有効さを訴え続けた根気と情熱が、幕府の方針を変更させたのです。

 この付けかえ促進派で終止運動の中心にあったのが代々の今米(いまごめ)村(現在の東大阪市今米)の庄屋に生まれた中甚兵衛で、同志の芝村・曽根三郎右衛門や吉田村・山中治郎兵衛の引退や死にもめげず、最後はたった一人で何度も奉行所に出向き工事計画を具申しました。そして、ついに力量を認められ実際の工事にも御用を仰せつかりました。また、その子九兵衛もそれを手伝ったと記録されています。

 甚兵衛、付けかえ時66歳。翌年剃髪して乗久(じょうきゅう)を名乗り、享保15年92歳の天寿を全うして亡くなりました。

 御墓は京都東山西大谷に、生地の旧春日神社跡には従五位記念碑が、またその北100メートルには生家の屋敷跡の石垣が残っています。

 

そばの大きな石碑は1954(昭和29)年の「大和川付替 二百五十年記念碑」でした。

大和川の流路を現在の如く一変した寛永元年の附替は永年にわたる郷土先賢の大なる努力の結實であり我国治水史上に輝く大事業である 大和川はもと大和盆地の諸水を集め亀瀬の峡谷を經て河内に入り石川を併せて柏原より西北に向い長瀬川玉串川に分流し玉串川は更に吉田川菱江川に分かれ深野池新開池の廣い沼澤に通じ西北に轉じて長瀬川と會し京橋に到り淀川と合流して海に注いだ 河内の流域一帯は土地低濕(しつ)のため水勢緩やかで土砂の体積夥しく河床が次第に本田より高くなり長雨ごとに堤防決潰し上代以来洪水相繼いだ 堤防を築き河床を浚えるなど應急の改修は度度行われたが根本的な治水の功を見ずして長い歳月が流れた 江戸時代に及んで水害愈々甚だしく大雨あれば氾濫して濁流襲い田畠流れ家屋没し非常な惨状を呈したので沿岸の村々は根本的な治水を切望した これに應えて今米村の川中九兵衛は芝村の乙川三郎兵衛 曾禰三郎左衛門らと協力し深く地形を研究して柏原より西に流れて直に海に入るよう大和川附替の急務を唱え幕府に訴願した 幕府は之を許さなかったが治水の根本策を樹てる必要を感じこれより度度役人を攝河の池に派遣して水域を實地踏査せしめその對策を検討することとなった 斯くして水害の根絶と新田の開發を説いて附替に賛成する者あり之に對して寧ろ河口を浚えるに若ずとして反對する者あり幕府の方針定まらずして新川豫定地の榜示が或は打込まれ或は引抜かれた 村々の間に附替賛否の論が沸き起こり激しい訴願が相繼いだ かかる間に先の人々は深い憂を抱きながら歿し幕府の瀬作も概ね河口の浚渫に傾いた この時今米村の中甚兵衛はよく先人の志を繼ぎ詳しく地域を調査し具さに得失を考究し窮境にあって少しも屈せず江戸に往來して益々熱心に附替を幕府に訴願し盡痺して己まなかった 代官萬年長十郎これに賛成し幕議ついに附替に決するに至った 元禄十六年十月二十八日幕府は大和川改修の令を發して役人を派遣し姫路藩らにこれが助役を命じて工を起こし一年の歳月を經て翌年寛永元年十月十三日この大工事は完成した ここに至って宿願全く達成せられ新大和川は西に流れて積年の水害そのあとを絶ち河床は開墾せられて廣い新田となり古川は用水川となって樋を設けよく田畠を潤して農業大いに興り嘗ての洪水の地変して近代文化の培養地となった 今や大和川附替二百五十年を迎え築留青地両土地改良區相議し記念碑を建てて先賢の功業を讃えるにあたり囑を承けてこの文を記する次第である

 昭和二十九年十月十三日  大阪府知事 赤間文三

 

 

大和川付け替えから今年でちょうど320年。

現代でも耐えられるような計画を立てたのはまさに「先賢」で、地道な調査と研究心によるものだったことを知りました。

 

予定を変更せずに立ち寄ってみて本当によかった、と思う記録が残されていました。

 

 

 

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