米のあれこれ 82 幻の水田地帯が見えた

初めての場所を散歩する時には、地図を航空写真に切り替えて「田んぼはあるかな」と確認しています。

全国津々浦々の川や水路、そして水田が健在なことを記憶していくことが目的になってきました。

 

今回の3泊4日の遠出の前半に訪ねる場所は、残念ながら水田どころか畑もほとんどなさそうな市街地でした。

周濠からの水路もおそらくほとんど暗渠で、かつての水田の痕跡も見つけらなさそうです。それでも周濠の水面を眺め、どこかで水が流れているのを見ることができればまあいいかと思って出かけました。

予想通り、ほとんど水田も水路もありませんでした。

 

ようやく、応神天皇陵の西側の周濠の外側に細長く水田地帯があるのを見ることができました。

そこから大鳥塚古墳の横を抜ける時に少し水田がありました。

そこから丘のような場所へと上ると西名阪自動車道が通っていて、その北側の古室山古墳から仲姫命陵古墳へと向うと近くにはアパートに挟まれるように小規模の助太山古墳、中山塚古墳、八島古墳がありました。国府(こう)台地の中でも近鉄土師ノ里駅のあたりは高台のようで、駅まで登り坂でした。

 

西名阪自動車道の高架橋の下にも赤面山古墳があるのには驚きましたが、駅の真前にも鍋塚古墳の墳丘があります。まさに古墳群の中を歩いて駅に到着しました。

 

本当は、駅北側の允恭(いんぎょう)天皇陵も訪ねたかったのですが藤井寺でお昼を食べそびれたまま歩き、「どこでもいいから何かを食べよう」と空腹の限界に達していたので、このまま奈良へ向かうことにしました。

 

散歩の前半2日間はほとんど田んぼを見ることができませんでしたが、残る2日は奈良ですから、田んぼをひたすら歩くことができますからね。

 

 

*大水川(おおずいがわ)の水田地帯*

 

ところが帰宅して大水川(おおずいがわ)についての説明を見つけて、地図と重ね合わせながら読んだことでかつての水田地帯が見えてきました。

 

大鳥塚古墳のそばの水田地帯は大水川のすぐそばにありました。「八ヵ村」の古谷から沢田にかけての地域です。

「Web 風土記 ふじいでら」ではこう書かれていました。

 話を写真8に戻します。改修によって流路が途中から大きく変えられましたが、それには当然理由があります。写真14でわかるように、旧大水川の流域は水田地帯で大水川がどれだけ重要な存在であったかは、説明するまもないでしょう。昔の地図を見ても、大水川流域にはため池など存在しません。必要がなかったからです。

(強調は引用者による)

 写真で府道12号・堺大和高田線から北側を見ると、旧大水川の流路に少しばかり疑問が湧いてきます。なんでこんな曲がり方をしているのだろうか?そう思いませんか。自然にできた流路が、こんなに直線的な曲がり方になるはずはありません。もちろん人の手によって造られた流路です。直線的な流路は、水田の地割りに沿って造られたからです。この地域一帯は古代条理の地割りがそのまま残っている所です。写真でも、正方形の地割りの並んだその様子がわかります。この条理地割りに沿わせて、わざわざ流路をグニャグニャと曲げています。おそらくは、多くの田に水を配水しやすいように考えられた流路がこの形だったのでしょう。大水川からは、さらに多くの小さい水路で方々の田に水が入れられます。このような大水川の姿は、近世以前すでに出来上がっていたものと思われます。

(同、「変えられた大水川の流路ー曲がりくねった旧流路」)

 

大和川左岸の沢田から大井のあたりでしょうか。

土師ノ里駅の北側の国府台地が終わったあたりから、大和川にかけて水田が広がっていたようです。

昭和30年代以降ベッドタウンとして住宅地に変わり、現在は田畑がほとんどなくなったようです。

 

 

応神天皇陵のそばの小さな川から、かつての水田地帯が想像できました。

いつか歩いてみたいものです。

 

 

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