雪が降ったり底冷えがしたり、寒さが1年中で一番厳しいのですが、コートを着ていると少し暑く感じ始めて春が近づいてると感じる頃ですね。
この時期になると咲く、フリージアが私は大好きなのです。
特に黄色いフリージアが。
最近は花屋さんの店頭にもさまざまな花が増えたので、以前に比べてフリージアの存在感がなくなってしまって淋しく感じます。
取り扱っていないお店もあります。
早春の花といえば、フリージアだったのに。
以前はこの季節になると、フリージアの大人買いをしていました。
最初は、大きめの花瓶にごっそりと入れて楽しみます。
フリージアの花はひと花ずつ枯れていくので、枯れたものを取り去っても茎自体が枯れるまではいくつもの花をずっと楽しめます。
1本に1,2個の花が残る最後の方になると数センチの高さに切り、何本かをまとめて小さなコップに入れて部屋のあちこちに飾るのです。
どんなにくたびれて帰ってきても、どんなに落ち込んで帰ってきても、あの黄色い花と香りが元気にしてくれるのでした。
南アフリカから来た花だったのですね。
そして黄色いフリージアの花言葉は「無邪気」。本当にそんな感じです。
<忘れられた女になりたくない>
「私は死なないような気がする」と言った宇野千代さんは、1980年代から90年代頃、女性誌やエッセイ本でよく名前を目にしていました。
自由奔放そうな生き方にあこがれる女性が増えたからだったのでしょうか。
そんな宇野千代さんの何の本に書かれていたのか記憶にないのですが、「私は忘れられた女にはなりたくない」というようなことが書かれていました。
この「忘れられた女」というのは、おそらくこちらの詩からきているのでしょう。
「退屈な女より もっと哀れなのは悲しい女です」から始って、「死んだ女より もっと哀れなのは忘れられた女です」という内容です。
「ふーん、そんなことを考える人もいるのか」と釈然としない反面、人が自分の葬式をどうしたいとか考えるのもそんなところなのかもしれないとも思いました。
私はフリージアを見ると、この宇野千代さんの「忘れられた女」のことを一緒に考えてしまうのです。
20代終わりの頃から私は、自分が死んだら棺の中にフリージアの花を入れて欲しいと考えていました。
ちょうど今ぐらいの季節なら、棺の中をフリージアで埋めてくれたら最高。
真夏だったら、1輪のフリージアを調達してきてくださったら感謝。
それ以上、お葬式も何もいらないと。
宇野千代さんはもっと華やかに自分のことを忘れないでほしいと思っていたのでしょうが、フリージアだけでいいという私の願いもまた、やはりどこか「忘れられた女にはなりたくない」思いを引きずっていたのかもしれません。
その後、40代に入って図書館で出会った池田晶子氏の本を読むうちに、棺にフリージアを入れて欲しいということもどうでもよくなってきました。
いろいろなことにこだわって生きている自分とは何者なのかということを、彼女の本を読むことで考えるようになりました。
彼女の死後、出版された「死とは何か さて死んだのは誰なのか」(毎日新聞社、2009年)あたりから、私は忘れられることを悲しいとか淋しいとか感じることから解放されたように思います。