念願の保津の環濠集落を歩くことができました。
桜井市から大和川沿いにここまですでに2万歩を超えていて足の疲労感は半端ではなかったのですが、同じ道をまた1キロほど歩かないと列車にも乗れない水田地帯の真ん中です。
足を引きずるように歩き、駅に着いた時にはしばらくベンチに座り込みました。
まだ13時半ですから時間はたっぷりあり、「奈良は案外歩ける距離なのだ」とたてた無謀すぎる今日の計画もまだ半分残っています。
それでも水路と田んぼを見ていると、歩きたくなってしまうのですね。
やり残した宿題のあの場所へ行こうと、近鉄橿原線に乗りました。
*神功皇后陵の周濠と田んぼ*
何度乗っても水田地帯が美しいこの路線にまた疲れが吹き飛びます。車窓の風景に集中していたら、大和川を越える直前に竹林とお寺の美しい風景が目に入りました。地図で確認すると、「白米寺」とあります。「米」がつく由来が気になりますね。いつかこのあたりも歩いてみたいと新たな宿題ができました。
懐かしい垂仁天皇陵の周濠と水田が見えて大和西大寺駅に到着。ここで近鉄京都線に乗り換えてひと駅の、平城駅で下車しました。
2023年3月に山上町の3つの周濠を訪ねて、平城駅から京都に向かった時に沿線に見えた水路と水田に、やはりもうひと頑張りしてこの周濠も訪ねれば良かったと後悔していました。
駅からすぐ近くですが、手前にある神社の20~30段ほどの石段も疲れている時には決心が必要ですね。
エイッと歩き始めて境内に入るとそこからは周濠にはいけないことがわかり、また石段を降りて左横の別の石段をのぼりました。
車窓からは気づかなかったのですが、古墳の西側にも水田が広がっていました。
境内の裏手に、古墳の入り口の鳥居があり、周濠がありました。
奈良盆地北部の佐紀丘陵において、丘尾を切断して築造された巨大前方後円墳である。
(Wikipedia「五社神古墳(ごさしこふん)」、「概要」より)
丘陵の先端部を「丘尾」と呼ぶらしく、古墳の説明によく見かける用語でしょうか。
墳丘周囲には周濠が巡らされているが、元来は周濠を伴わず、現在見られるものは後世に形成されたものと推測される。
(同上)
古墳自体は「4世紀末葉の築造」で、その後周濠が造られた「後世」というのはいつ頃なのでしょう。
丘陵の先端に造られた古墳の東、南そして西側の水田へと水を送りやすい場所だったので、ため池としての周濠が造られたのでしょうか。
その時代はどんな雰囲気だったのでしょう。
歴史というのはわからないことだらけですね。
周濠の東側へと緩やかな坂道を降りると、近鉄京都線との間のあの車窓から見えた田んぼがありました。
道路の端には暗渠が通っていて、「駐車禁止 用水路に付 山陵町水利組合」と注意書きがありました。
ここから京都との府県境の山あいには大小のため池が散在し、京都側に入ると木津川右岸の平地になるので田園風景が一変します。
田んぼと一口に言っても、水を得てきた歴史は本当にそれぞれの地域で違いますね。
真冬の茶色の田んぼの景色でしたが、水路には水が流れていてまた疲れが吹き飛びました。
長いことこの山陵(みささぎ)町の水路を管理されてきた生活はどんな感じだったのだろうと思いながら、平城駅から電車に乗りました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。