水のあれこれ 353 奈良駅前の幻のため池と水路と水田

神功皇后陵の周濠と周囲の水田を見ることができて満足しました。もう一歩たりとも歩きたくない疲労感で、その日の宿泊予定の桜井へ向うのには近鉄橿原線大和八木駅乗り換えが一番楽ではありました。

 

でもせっかくここまで来たのだからやはりあの風景を見たいと、大和西大寺駅近鉄奈良線に乗り換え平城宮跡内を列車が突っ切り、その広大な草むらの向こうに見える大極殿正殿を眺めて満足し、近鉄奈良駅に到着しました。

 

近鉄奈良駅とJR奈良駅は1kmほど離れているというのが、奈良の乗り換えのトラップですからね。

万葉まほろば線で桜井へ向かうのには、最後の力を振り絞ってJR奈良駅まで歩く必要があります。

 

 

*より蛇行した道を選ぶとその先に*

 

 

駅前の行基さんに挨拶をして、さてできるだけ人通りの少ない道を歩くにはどこがいいだろうと地図を眺めました。

 

柳町のあたりに西へ向かってくねくねと蛇行した路地が目に入りました。東へと辿ると、猿沢池の下あたりにつながっています。散歩に慣れてきた近頃は、どこを歩くか悩むときにはより蛇行した道を選ぶことが増えました。

 

観光客が多い三条通りから一本入るとそこで暮らす方々の生活の道の雰囲気になり、ひっそりと建つ隼人神社の前に小さな説明板がありました。

中街道

角振町から椿井、東城戸、南城戸…京終町に続く道路を中街道と呼ばれている。上街道、下街道とともに大和盆地を南北に通ずる重要産業道路として県道に指定された江戸時代から明治、大正、昭和の初期まで豪商が軒を並べていたところである。

なんとなく撮っておいた写真ですが、記録をまとめているうちに大和の古道とつながりました。

 

奈良はどこを歩いても古代から現代につながり、街全体が歴史資料館のようですね。

 

その豪商の屋敷の名残か黒い板張りの家と白い土蔵の残る道を西へと向かうと、開化天皇陵の近くの南北に通るやすらぎの道に出る手前で、住宅を挟んで二手に道が分かれていました。

よく見ると、「率川橋」と掘られた石が二つ並び、暗渠のようです。この流れがやすらぎの道の西側の蛇行した道へとつながっているようでした。

そして住所は「奈良市小川」のようです。

 

道を渡り、伝香寺に雅楽の奏者が住んでいた「楽人長屋」の跡の説明がありました。

南側の細い路地を入るとすぐに道は南へと曲がり、柳町のあたりでまた暗渠らしい道があり「長幸橋」と掘られた石が残っていました。

ここからが蛇行した道のようです。

1970年代か80年代以降から開発された住宅地のような面影を感じる地域の暗渠の上を歩いていると、奈良駅周辺のマンションがすぐ近くに見えてきたところに煉瓦造りの煙突のある工場の敷地の間を蛇行した道が通っていました。

何の工場だろうと思ったら、どうやら墨汁の工場のようでした。

 

 

奈良駅前にも大きなため池があった*

 

しばらく緩やかに蛇行を繰り返す道を歩くと、西側からもう一本暗渠が合流したような道になりました。その先に緑のフェンスで囲まれた緑地帯がまっすぐ150mほど続いたあと、南西へと暗渠が曲がるところに比較的新しい石碑が立っていました。

 

旧三条池(当地)埋立により犠牲となりし「一切の生物之霊」を此処に祀る

 当地は元々三条池と称し、周辺の農業用水の役目を果たしてきたるものなるが、人口の過密化に伴ひ、環境整備の必要を余儀なくされ、昭和五十四年九月敢えて埋立し、依って宅地に転用せるものなり

 斯かる人間本位の事業により、犠牲となりたる本池に棲息せし「萬物之霊」を茲に永久に祀り以て此を慰むるものなり

昭和五十九年六月  宗教法人公道社精神道

 

 

1979年(昭和54)に埋立されたということは、私が中学校の修学旅行で訪ねた時には奈良駅東側のすぐそばにはまだため池があり水田があったはず。

そしてアメリカの友人を連れて奈良を歩いたのが1980年代半ばですから、その頃にこの怒りが文章から伝わる石碑が建てられたようです。

 

いにしへより水に乏しい土地柄であったということが急速に忘れられた時代だったと言えるのかもしれません。

 

 

石碑からわずか100mほどでJR奈良駅になり、また観光客で溢れる風景になりました。

ふと交差点の信号を見ると「三綱田(さんごで)」とあり、この辺りは「三条池町」のようです。

 

 

 

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