電車の中でカメルーンの女性と話したきっかけだけで数日分のブログを書けてしまうのも、インターネットのお陰だとつくづく思います。
ソマリアとかエチオピアと検索するだけでたくさんの情報を知ることができるので、しばらく回想の世界に入り込んでしまいました。
「二度と来るものか」と当時は思ったソマリアですが、wikipediaで歴史や生活などを読んでいると懐かしくなり、また行ってみたいと思います。
ただ、外務省の危険情報では現在ソマリアには「全土に退避勧告」が出ているようです。
1980年代はまだ東南アジア各国の情報さえ少なく、アフリカになると大学の研究室などでようやく手に入るぐらいでした。
ガイドブックも日本語のものはスーツケースを持った旅行者向けぐらいしかなく、世界を放浪するバックパッカーはLonely Planetというガイドブックを使っていました。
知らないことは不安を大きくしますから、当時は東南アジアへも、そしてアフリカへ行くのも私には決死の覚悟のようなものがありました(笑)。
<インターネットの前の時代>
1980年代半ば、インドシナ難民キャンプを統括していた国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)などの国連機関でさえも、インターネットはまだない時代でした。
情報のやり取りは、テレックスと電話だけでした。
ファックスもまだ実用化されていませんでした。
事務所にはテレックス専用のスタッフがいて、テレックスからタイプライターで書類にしていくのです。
パソコンはもちろんワープロもまだほとんど使われていない時代でした。
そういえば難民キャンプの事務所ではコピー機も使用が厳しく限定されていて、複写にするためには紙と紙の間にカーボン紙を挟んで、何度も同じ文章をタイピングしてました。
私も難民キャンプでは、タイプライターを使って事務作業をしなければならなかったので、赴任前には丸善でタイプライターを買って独学で打ち方を学んだのでした。
80年代後半には国内でも一気にワープロが広まり、そして90年代にはパソコンの時代になり、あの10年間というのは情報の伝達手段が本当に革命的に変化した時代だったと今更ながらに思います。
<あるところにはある・・・地図>
世界地図や国内の地図をあきもせずに眺めている私が、1980年代に東南アジアの国に赴任したときにその首都の最大級の書店でも簡単な地図しか販売していなくて物足りない思いをしたことはこちらで書きました。
最近では、Googleマップがあるので、これもまた机の前に座っているだけで世界中に旅行をした気分になれます。
この地図データーという情報ですが、あるところにはあるのだということを知ったのは、1990年代にその国のアメリカ合衆国国際開発庁(USAID)の現地事務所に行った時でした。
地方の経済開発のためのインフラ整備として、空港や港湾などのアメリカによる無償援助計画が進められていました。
その地域には、アメリカ資本の広大な野菜や果物のプランテーションが広がっていました。
それらを輸出することで、たしかに地元にも経済的な貢献があるかもしれません。
空港や港湾建設用地には、たくさんの人が住んでいました。
最貧困層の人たちです。
土地のオーナーは土地を売却することで利益がありますが、立ち退かされるこれらの人たちは行く先もなく、仕事も失うことになりますがその補償はなにもありませんでした。
その問題に関わっていた地元の友人とそのUSAIDの事務所へ行ったときのこと、その地域で暮らす人が見たことも手に入れることもできないほど詳細な地図がそこにはありました。
あ、あるところにはあるのだと思いました。
地図を必要としてこなかった生き方だけではなく、情報を得ることができなかったという現実でした。
そして普段は国内線が一日に2便ほどあるだけのその地方空港には似つかわしくない、国際線用の滑走路が計画されていました。
「非常時」には軍事用に転用できるものでした。