水のあれこれ 369 川なのか水路なのか、白鳥川

岩倉コミュニティ水防センターの歴史はわからなかったのですが、ここにも隅に東屋がありました。

座ると、先ほど歩いてきた下羽田地区の田んぼがずっと広がっているのが見えます。

ああ、なんと美しく落ち着いた風景でしょう。一日中いや一年中でもここに座ってみていたいものです。

 

近くに何かの石碑がありました。

  侍井湯の由来

 古来この流域は、岩井明神池を源流として四分、四分、二分の割合をもって用水を配分していた。

 其の後、流域は盛んに開田が行われ用水もだんだん枯渇してきた。

ある年未曾有の旱魃に見舞われ打つ手もなく諏訪大明神に願をかけたが雨は降らなかった。

 時の社守、豪族の侍井五郎助なる者が屏風岩の下で数十日間水乞祈願をかけたが雨は降らなかった。

 疲れ果てて、うたた寝をすると諏訪神社の南の社有地(現侍井湯)の岩間に水の湧く音がした。五郎助は、神のお告げと早速その地に池を掘った。すると溢れんばかりの湯水が湧き出した。

 其の後誰云うことなくこの池を侍井湯又は、五郎助湯と呼ぶようになった。

 爾来その功により諏訪神社の社守は、西村(馬淵)の弊村右より出る様になったと伝承されている。

 又、この末路は東横関、若宮、遠くは土田町まで至っていたと記せられている。

 

現在は南の山側に沿って白鳥川が流れているのですが、かつてはこのあたりから湧き出していてこれより上流の白鳥川は後に造られたのでしょうか。

ちなみに、岩倉水防センターの北側を流れるのが御沢川で、1kmほど東にある御沢神社にある池のあたりが水源でしょうか。

 

琵琶湖周辺の山から流れてきた水が川になっていると思い込んでいたのですが、もっと複雑なようです。

そして、その湧き水だけでは水不足にも陥っていたようです。

 

 

一級河川白鳥川はどこからどこへ*

 

琵琶湖は淀川水系で、琵琶湖に流れ込む河川はすべて一級河川になることを数年前に知りました。

 

この地域を流れる白鳥川も一級河川の扱いになりますが、頼みの綱のWikipediaにはこの川の説明がありません。

でもきっと先人の記録があるはずです。名前もわからない水路のような川まで詳細を読むことができましたからね。

 

で、やはりありました。ブログのタイトルがないのですが、「淀川」「琵琶湖」「琵琶湖疏水」そしてなんと「大和川」まで、実際に上流から河口まで歩いた記録です。

 

白鳥川

 

 滋賀県・湖東地方を流れる、琵琶湖に注ぐ川。

一級河川の起点は蒲生郡蒲生町川合の下川原、南木。

北西流、東近江市(旧八日市市)西縁を流れ近江八幡市中央部を貫流近江八幡市南津田西端で琵琶湖東岸に注ぐ。

灌漑水路の性格が強く、最後まで高い堤は持たない。

 白鳥川の始まりは、日野川支流・佐久良川堤下の小流。

布引川を源流とする文献もあるが、現在は木村地区の橋標に「白鳥川」とある。

川相は、日野川水系の右岸地域に広がる田地を流れる水路状。

上写真のグリーンベルトが佐久良川の堤。写真は川合と木村の境付近。

下写真の奥の山なみは雪野山。山向こうに日野川が流れている。

 

 八日市市に入り上羽田町の広大な農地を流れた後、川は独立峰の雪野山に寄っていく。

上写真は古墳群や多聞院のある付近の山裾を流れる白鳥川。この付近から水量を増し川幅が広がる。

上しゃしん左の橋は雪野山ふるさと街道の橋。道はこのあとトンネルとなり竜王町へ抜けている。

この橋の下はツバメのお宿になっている。

上写真右の遠景に見える山は瓶割山。

 

 川は雪野山の北端をめぐり近江八幡市へ入る。

この付近には分流があり、岩倉団地を巻くように流れてまたすぐ本川に戻る。

 上写真は馬淵町の北端付近、近江八幡駅の南方。

上左写真の奥に霞む橋梁は新幹線、右写真遠景の山は八幡山

 上写真は2号・大津能登川長浜線から。

左は小船木橋から上流望、右は河畔の田地。

 上写真は八幡堀へ通じる道の橋から。

上左写真の山なみは右が雪野山、左は瓶割山。

上右写真奥の山は対岸の湖西の山なみ。

この付近から流れが緩くなる。

 南津田町付近では流れは完全に止まり、風向きによっては上流側に波が立つ。

上写真右、奥の山は八幡山

 

 

すごい、まるで「植物の持つ特性を変えない」で描くボタニカルアートのように、川を科学的な文章で描いているようですね。

 

そして初めての場所を歩いていると、見ている方向によっても姿を変えるのであの山は何というのだろうと混乱することがしばしばありますが、山の名前も詳細に書かれています。

 

そして白鳥川が「灌漑水路の性格が強い」「最後まで高い堤は持たない」そして、河口から数百メートルのあたりで「流れが完全に止まる」ということがわかりました。

 

ところで水源はどのあたりだろうと地図で確認すると、上羽田町の田園地帯から忽然と水路が描かれていました。

河口付近の近江八幡干拓地らしい場所まで、いつ頃、どのように水路や田んぼが造られて、いつ頃から「白鳥川」と呼ばれるようになったのでしょう。

 

それにしてもこの先人の記録を読んでいたら、やはり琵琶湖の全ての川や水路をたどってみたいという壮大な計画に火がついてしまいそうです。困りましたね。

 

 

*おまけ*

「侍井」は、「まちい」「まつい」「もちい」「たいい」などの読み方があるようですが、この場合はどの読み方かわかりませんでした。

日本語はほんと、難しいですね。

 

 

 

「水のあれこれ」まとめはこちら