仕事とは何か 4 <「女性」の仕事>

気象庁の観測船に女性職員が乗員されているのを知って、ちょっと軽いめまいを感じました。
この感覚はここ30年ほどちょくちょくあって、最初の頃に比べればだいぶ慣れてきましたが。


あまりはっきりした記憶はないのですが、1990年代だったでしょうか、ガテン系女子という言葉の広がりとともに、それまでは「男性の仕事」と思っていた分野で働く女性が出現したのは。
タクシーだけでなく長距離トラックの運転手とか、工事現場などで働く女性、それから自衛官や警察官や消防署員などもそれまでの「女性は事務系」から変化し始めていました。


2000年代ぐらいになると、私鉄の女性車掌さんを見かけるようになりました。
最初の頃はアナウンスが女性の声だと違和感を感じていたのですが、じきにごく普通のことになりました。
それから数年した頃でしょうか、電車の運転席に女性が座るようになり、時代の変化に驚きました。


「ああ、あと10年遅く生まれていたら、あと20年遅く生まれていたら、私ももっといろいろな仕事の可能性があったのに」と感じたあのめまいです。


1970年代半ばの高校生にとっては、女性の職業は看護婦、臨床検査技師、歯科衛生士、美容師、保育士といった「手に職をつける」ことが最優先で、しかも「25才までには結婚して第一子を出産する」という短いスパンでの仕事しか思いつかなかったし、選択も少なかったのでした。


最近、海上保安庁の巡視船にも女性職員が勤務しているドキュメンタリーを見ました。
そして、この気象庁の観測船の話を知って、「もし30年遅く生まれていたら、きっとこういう海に関した仕事を選択肢にしたかもしれない」とうらやましく感じました。


<こんな時代もあった>


女性の車掌さんを見かけるようになったのはいつ頃だっただろうと検索していたら、函館市史の「路面電車の車掌・運転手」という記事を見つけました。

昭和13(1938)年末、函館乗り合い自動車の車掌は31人で全員女性であった。(函館市交通局『市電五十年の歩み』)。彼女たちの乗っていたバス27車両中ガソリン車は12両だったが、ガソリン規制は強化されて戦争勃発直前の昭和16年夏にはガソリンの配給は停止となり、バスは木炭車か薪車だけとなった。

このような状況下で電車の役割は重要となり、昭和15年秋"チンチン電車"として親しまれた函館の路面電車に初めて女性車掌が登場した。9月15日の採用試験には90人前後の人が応募し、59人を採用、25日から制服着用の上実地訓練になり、10月1日から本格的に市中に乗り出すことになった(昭和15年10月1日付け「函新」)。

この時18才で車掌になった高島(旧姓平本)勝子は「男の人は毎日のように出征して減っていきました。でも女の車掌は次々と入って来たので、私は運転手の試験受けてみないかと言われて....五名が受けて運転免許をもらったのは私と池田なつさんと和田悦子さんの三名でした。一八年ごろと思います」(『道南女性史』)と話している。女性運転手の誕生であった。「市電女運転手座談会」では、9人の女運転手が新しい職場での体験談を語り、市交通局長は「昨年までは五十名足らずの女子従業員であった...が今年は百名を突破し車掌は全員女子をもって充当し、運転手も続々養成しつつあるので...戦時下の交通は女子の手で確保しようとその実現に向かって進んでいる」(昭和19年9月16日付け「道新」)と述べている。

この30年後に高校生になった私は、女性の仕事の選択の幅は少ないけれど、「でもきっと昔の女性に比べれば自由になった」と思っていました。
戦時下とはいえ、女性運転士が活躍していた時代があったなんて想像もしていませんでした。


女性の仕事の場が時代とともに広がったという一面もあるかもしれないけれど、もしかしたら広がりと縮小という反動から反動もあったのかもしれませんね。


最近、「もし生まれ変わったら、海上保安庁の巡視船に乗りたい」「もし生まれ変わったら、あのクレーン車を操縦してみたい」「もし生まれ変わったら・・・」と妄想の世界を楽しむことが増えました。
気象庁の観測船でも働いてみたいなあ。





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