記憶についてのあれこれ 20 <ベトナム戦争と韓国>

1980年代に難民キャンプで働いたことは何度か書いてきました。


最初の2年間は東南アジアのインドシナ難民キャンプで、とくにベトナムからのボートピープルと呼ばれる難民の人が大半を占めていました。

1975年、ベトナムラオスカンボジア(総称してインドシナ三国)が社会主義体制に移行したことにより、経済活動が制限されたり、同体制の下で迫害を受ける恐れがあったり、体制に馴染めないなどの理由から自国外へ脱出し、難民となった人々の総称。

社会主義に移行」は一因ではあるけれど、その前にはもっと長く複雑な植民地政策があったのですが、私自身、難民の方たちと接しながらも、まだまだこのインドシナ難民を生み出した歴史的背景については不勉強なまま来てしまいました。


今日は歴史の話ではなく、先日来、韓国のことを考えていてふと思い出したことについてです。


ベトナム戦争に参加した韓国>


難民キャンプで、たまに「あなたは韓国人か」とベトナムの人から尋ねられることがありました。


1980年代半ばごろは、経済大国になりつつあった日本から海外旅行に出かける人が増えましたが、当時まだ韓国のお金は日本の10分の1ぐらいの価値でしたから、韓国から海外旅行や留学に行く人は限られていました。


韓国人と日本人は似ていますが、見間違えるほど韓国人を見る機会はいつあったのだろうと不思議でしたが、ある日理由がわかりました。
アメリカ軍とともに派兵されていて、「村で見た」ということでした。



韓国と北朝鮮の緊張関係についてはニュースでよく耳にしていましたが、自国だけでなくベトナムまで派遣されている韓国の青年がいることに驚きました。
隣の国から私と年齢の近い青年たちがあの激しいベトナム戦争に送られていたこと。
そして、ベトナムの人たちからは感謝だけでなく憎しみの感情までもたれていることに、同じ時代なのにたまたま日本に生まれただけで、我と彼の理不尽な差にまた感情が乱れたのでした。


ベトナム戦争の「韓国軍・SEATO軍の参戦」には以下のように書かれています。

1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正当性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開することを意図してベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。

そして1964年の2000人から段階的に増兵し、1972年には36790人の韓国兵がベトナム戦争に派兵されたようです。


1973年にベトナムからアメリカが撤退するまでに、どれだけの韓国の青年が政府の経済政策のためにベトナムで亡くなったり、心身に傷を負ったのでしょうか。
またベトナムの人たちの、韓国への思いはどんなものがあるのでしょうか。


上記「ベトナム戦争」の中には以下のように書かれています。

1965年から1972年にかけて韓国では「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」をスローガンに官民挙げてのベトナム特需に群がり三星、現代、韓近、大宇などの財閥が誕生した。

1980年代終わりごろにようやく民主化が始まった韓国で、これらの戦争による経済的な「恩恵」を受けられるのはごく限られた人たちであったことでしょう。


常に軍事的緊張の中で生活をしてきた韓国の人たちというイメージと、1997年ごろから始まった「古き良き伝統の」産後調理院というイメージがどうしても私にはつながらないのです。






「記憶についてのあれこれ」まとめはこちら