ケアと自責の念

ここ10年ほどで、一気に両親との関係が「介護する側」と「介護される側」の関係になりました。
子どもが親を見守る側に逆転したという感じです。


日常生活の様々なこと、たとえば食事や室内の温度、衣服や清潔など、それまでは自分でできていたことがだんだんとできなくなる場面が増えました。
できなくなることを自覚していることもあれば、できなくなったことに気づいていない、あるいは気づいていても現実を見ないようにしていることもあります。


口や手を出し過ぎでも親の自尊心を傷つけることになると思いつつ、何かがあっては遅いからとつい先回りして手伝ってしまうこともあります。


私がこういう時期に入る前に、知人が認知症の実母を世話をしていました。
時々、何人かで集まって食事をする機会があったのですが、彼女は実母を連れてきていました。
認知症でも昔話は記憶にあるので、私たちはお母様のお話を伺うことも楽しいと思ったのですが、彼女は母親がしゃべり始めると「その話は何度も聞いたからいいの」と話をさえぎることがよくありました。


寂しそうに黙るお母様を見て、心がズキンとしていました。


たしかに毎日、認知症のお母さんを一人で見守っていたら、たまの外出で気分転換もしたいだろうと彼女の気持ちも理解はできました。
きっと母親を叱るようにしながら世話をして、自分を責める気持ちから目をそらさないとやっていられないところもあるのかもしれません。


高齢者のケアだけでなく、赤ちゃんのしぐさをかわいそうと感じる産後のお母さんたちの独特な心理状態も同じで、家族をケアをするというのは自責の念と表裏一体のところがあるのでしょうか。


<距離感のむずかしさ>


30年ほど看護職として働いてきて、仕事上のケアでももちろん「十分にできなかった」「少し雑な対応をしてしまった」「苛立つ気持ちが伝わってしまった」など自責の念を感じる事は日常茶飯事なのですが、仕事上のケアと家族へのケアとは違うものなのかもしれないといつもこころの疼きとともに思い出すことがあります。


それは今から十数年ぐらい前、祖母の入院の時に一晩付き添った時のことです。
認知症もあったことと、長いこと会っていなかったので、祖母は私が誰かもわからないようでした。
一人で歩く事はできなくなっていましたが体を動かす事はできたことと、入院という環境の変化で不穏になっていましたので家族の付き添いが必要でした。


ベットの側に簡易ベッドを置いて、祖母を見守っていました。
仕事がら夜間の観察も慣れていましたから、付き添い自体は苦痛ではありませんでした。


夜中に、祖母が私の方へそっと手を伸ばしてきました。
きっと人寂しくて、手を握ってほしかったのだと思います。
看護職として仕事中だったら、しばらく手を握ってあげたり体をさすってあげたと思います。


その瞬間、私は自分でも予想もしない行動をしました。
祖母の手を払いのけたのです。


「あ、なんてことを」と思ったのですが、申し訳ない事をしたと思うまではもうしばらく感情の波がありました。
祖母への嫌悪感でした。


遠方に住んでいたので何年かごとに夏休みに会う程度で、最後にあったのは中学生の頃でした。
親しみを感じていた祖父に比べて、小言が多くて少し近寄り難かった記憶があります。


その感情が、まさか自分の「看護のプロ」とは別の行動を起こさせた事のほうがショックでした。


私のその行動が認知症の祖母にどのような不安を与え、どのような気持ちにさせたのかと客観的に省みるまでに時間がかかりました。


家族へのケアというのは距離感の難しさがある。
それを直視した方がよいのか、考えないようにしたほうがよいのか。
いまだに逡巡しています。