目から鱗 4 <終わってみないと正常かどうかわからない>

「助産師の『開業権』とは何か1」に書いたように、私が助産師になった二十数年前、「正常なお産は医師がいなくても助産師だけで介助できる」ということを助産師の誇りであるかのように教わりました。


1980年代から90年代に私が働いた総合病院では、経過に問題がなければ助産師の判断で入院の時期から赤ちゃんの誕生、そして胎盤娩出までまかされていました。
時に産科医の立ち会いが間に合わなくても、特に問題にはなりませんでした。


同じ頃に、「正常なお産は医師がいなくても助産師だけで介助できる」は、医師のいない施設(助産所)での分娩を復活させるための根拠としてよく耳にするようになりました。


この二つは、実は全く異なることを意味しているのですが、当時の私はあまり深く考える事もありませんでした。


2004年頃の産科崩壊と言われた時期に、たくさんの医師ブログを読むことではっとさせられたのが、こちらに書いたように、「終わってみないと正常かどうかわからないのが出産」であるという一文でした。


「正常なお産」というのは結果論であって、進行中の分娩に使える言葉ではないという当然のことに気づかないほど、「正常なお産は助産師で介助できる」という思い込みにとらわれていた自分に怖さを感じました。
20年近くもその言葉に囚われていたのですから。


<思い込みは新たな「虚像」の言葉を作り出す>


私だけでなく周囲の助産師を見ても、「正常なお産は・・・」と思っても実際にはお産の怖さを知っているので、医師のいないところで分娩介助をしようとは思っていない人が大半だと思います。


ところが「終わってみないと正常かどうかわからない」という本質を伝えるべき助産師が、まるで「正常なお産」があるかのような思い込みに囚われてしまっているので、世の中にさまざまな言葉を広げてしまう事になったのではないかと思います。


「自然なお産」「私らしいお産」など。
まるで何かをすれば手に入れられるかのような虚像を。


一度広がった言葉のイメージを消すのは容易ではありません。
思うような結果が得られなければ、「何かがいけなかった」と原因を探そうとしてしまいます。
思うようにならないこともあるというリアリズムを失わせてしまい、虚像の世界に人を導き込んでしまう可能性があります。


「終わってみないと正常かどうかわからない」
これは助産師教育で真っ先に教えるべき本質の部分だと思います。


<「母乳育児推進」も似ているかもしれない>


「母乳育児推進」の動きにも、この「思うようにならないこともある」という結果を受け止めにくくさせてしまう、「正常なお産」と同じような思い込みを感じてしまうのです。


母乳だけで頑張ってみたいとお母さんが思っても、赤ちゃんが黄疸が続いたり思うように体重が増えないこともあります。
反対に混合にしたいと思っても、ミルクをがんとして受けつけてくれない赤ちゃんもいます。


お母さんの気持ちだけではどうしようもない現実がたくさんある。
まずはそのあたりを私たちが広く知っていなければ、単に「何ヶ月まで」とか「母乳とミルクの割合」といった数値目標に囚われてしまうことになります。


そして目の前の赤ちゃんが無事に生き延びて元気に育っていても、そのもっとも大事なことに喜びを感じられなくなるような方向にお母さんを追い込む可能性があります。


そして別の方法ならそれが実現可能だったかのような、虚像の世界をお母さんたちに広げてしまうことでしょう。


そのような理想に酔っていると、時にがつんと頭をなぐられるような目から鱗の言葉に出会うのかもしれません。


自分たちの理想を掲げるより先に、リアリストになるほうがよいと思います。
そこにある事実に淡々と向き合えるリアリストに。




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