記憶についてのあれこれ 61 <秩序のある空間>

30年以上前、看護学生として精神科の閉鎖病棟に実習に行った時の記憶はうっすらとしかありません。
たしかリクリエーションで患者さんたちとソフトボールの試合をしたことと、受け持ちの患者さんのそばで話の聞き役になることでした。


私の受け持ちはルービックキューブがすごく上手な大学生でした。
その大学生の方からラブレターをもらいました。もちろん、診療上の重要な記録としてそのラブレターもカルテに保存されました。


実習前に感じていた緊張よりも、むしろ静かに時間が流れて行く空間という印象が残りました。
学生は軽症の患者さんにしか接していないので、一面でしかありませんが。


閉鎖病棟という空間>


父の面会に行くと、まず病棟の鍵を渡されます。面会に来た家族はその鍵でドアを開けて、病棟に入ります。
認知症療養病棟は、基本的に閉鎖病棟のようです。


父が以前生活していたグループホームも基本的には施錠をしていましたが、外観上は民家ですから、普通に訪問して家に招き入れてもらうのと同じ感覚です。


それに比べて、鍵を渡されて病棟のドアを開けるという作業が一つ入るだけで、まるで川の向こう岸に行くかのような、「精神の正常と異常の境界線」を超えて行くかのような気持ちが最初はありました。


ドアを開けて病棟に一歩入ると、いつも大きな声を出している人や、同じ所を何度も往復して歩いている人、車いすや廊下のソファに座ったまま無表情のままの人など、独特の雰囲気です。


目が合ったので挨拶をしても何も反応が無い人もいれば、私を見つけるなりにこやかにしゃべりかける人、あるいは文句を言う人などさまざまです。


身内の面会に行って、見ず知らずの入院患者さんから攻撃的な対応をされたら普通はビビってしまうのではないかと思いますが、こんな時に看護の経験があってよかったと思います。
感情的な動揺はまったくなく、むしろ「相手はどうしてこういう行動をしているのだろう」と観察しています。


何度か面会に行くうちに、入所している方々の個別性がわかるようになりました。


<生活の秩序がある空間>



父の面会に行くと、車いすを押して陽があたるところで二人でぼーっとして過ごします。


3ヶ月ほど、週に一回こうしてぼーっと過ごしているうちに、認知症の方々の生活も他者を意識した秩序が作られているのではないかと感じるようになりました。


60人の入所者のうち半数以上が車いすを使っています。
広い廊下をけっこう自由に行き来されているのですが、不思議と車いす同士の衝突がないのです。


脳梗塞で半身麻痺になった父もすぐに車いすの運転に慣れ、切り返しをしながらバックしているのを見て驚いたのですが、それは父の運転技術という記憶があるからだと思っていました。


ところが、それだけではなさそうです。


それぞれの方が、相手との車いすとの距離を保っている行動があるようです。
どちらかがバックして道を譲ったり、行くのを待っているのです。
それでも接触しそうになると、どこからか歩ける人がそっときて車いすを押して、事故を回避するように配慮している場面をしょっちゅう目にします。


一見、無表情で、他の人を認識していないと思っていたのですが、そうではなさそうです。


ここにはここの生活の秩序が作られていることを発見して、なんだか感動するのでした。
閉鎖病棟」という言葉のイメージでは伝わりにくい、生活の場があることに。





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