最近、とっても不思議な感覚に襲われることがあります。
昔は、タレントとか歌手というと生活感がないことが大事で、どこか現実離れした存在でした。
たとえば人気グループなども、おしゃれな街で食事をしたりお忍びで旅行にいったりという話題がスクープされることはあっても、実際にどんな生活を送っているのかは伝わらないし、あえて生活感を出さないようにしている感じでした。
生活感が伝わるとそのイメージが崩れる、だからなんだか非現実的な存在だったのだと思います。
最近は等身大がかえって好感を持つ時代なのかもしれません。
反対にごく普通の人たちの方が、ブログやfacebookでまるでかつてのモデルや芸能人のようにちょっと気取った写真や生活を公開していることがあって、なんだか現実味を感じないことが増えました。
<学ぶこと>
「相葉マナブ」は偶然見つけた番組だったのですが、嵐のメンバーという昔ならそれこそ、食べていることも寝ていることも感じさせないような生活感のない存在に仕立て上げられていただろう人気グループのメンバーが、農家や工場に行って、いろいろなことを学んでくる番組です。
この番組を見て初めて「嵐」とか「相葉君」を知ったのですが、気取らずになんだかのびのびしていていいなと相葉君に好感を持ちました。
番組の最後の方で、共演した地元の方々との食事の場面などがあるのですが、すっかりとけ込んでいる感じでありながら、決して偉そうでもなく相手への尊敬の念が感じられて、素直な青年だなあと、すっかりこの番組が気に入ったのでした。
「知らなかった」「すごい」と、初めて学ぶことを受け止めていることも臆せずに表現しているのも、演技ではなく心から関心を開いているのだろうなという印象です。
そして、相葉君はけっこう器用でいろいろとこなせるのですが、だからこそ、相手の熟練度が積み重ねられて来たことがわかるのかもしれません。
「学ぶ」のはいくつになっても大事だなと、この年になって「世界が広がる」楽しさを感じているので、毎週この番組を楽しく見ています。
<学びとなると、なんだか違う世界へ>
「学ぶ」なのにちょっと違うニュアンスになる言葉に、「学び」があるかもしれません。
世の中には似て非なる言葉が、現実的ではないイメージで広がっているかのようです。
「学び」に似たニュアンスの言葉に「気づき」があって、いつごろからかよく耳にするようになりました。
なんだか違和感を感じる言葉でした。
2009年ごろから読み始めたkiklogのコメントかどこかで、「気づき」と言う言葉が使われていることに警戒が必要なことが書かれていることがありました。
ああ、やっぱりなんだかゾワッとくるこの「気づき」には注意が必要だなと直感しました。
それはなぜなのだろうと、今も考えているのですが、以前書いた自分が大事あたりもそのひとつかもしれません。
「学び」とか「気づき」に酔いしれているうちに、等身大の自分を越えたイメージの自己ができあがる。
モデルのような雰囲気の写真をアップしている人に感じるような、ちょっと気恥ずかしい感覚。
「等身大」と言う言葉が聞かれ始めたのが、自己啓発という言葉が広がり出した時代だったのも何か関係があるのでしょうか。
「マナブ」君は、マナブのままでいてほしいですね。
「事実とは何か」まとめはこちら。