境界線のあれこれ 71 <妄想の見分け方>

人口密度が高いと電車や人混みの中にもいろいろな人がいて、ちょっと緊張することもあります。


携帯電話がスマホに変わり始めた頃だったのでしょうか、スマホの操作をしながら一人でしゃべっている人を見かけるようになりました。病的な独語なのかと、ちょっとびっくりしましたが、だんだんと「独語」の人が増えて、あれはスマホを操作しながら電話で会話しているのだと理解したのでした。
今でも、なんだかイヤホンを通じて電話でしゃべっている人を見るのは慣れないのですが、まあそれは気持ちの問題ですね。



本当に、人混みや電車の中で罵声や怒鳴り声をあげている人が時々います。
誰にともなく怒鳴っているので、周囲の人も独語であることを察していて、誰もその人の傍を避けたりはせずに受け止めています。


先日、べてるの家の妄想大会についての放送がありました。
こうしたアプローチが精神科的にどういう議論があるのかについては、全くの専門外でよくわからないのですが、ある女性の様子に「なるほど、そういう意味がある場合もあるのか」と初めて知りました。


家の周りを怒鳴りながら歩いている女性の姿は、こちらに緊張感を与えるものでしたが、実は「この家の皆を守るため」という目的があるというのです。
もしかしたらあの電車の中で怒鳴っている人も、そういう気持ちがあったのかもしれません。
妄想と独語については、まったくといって無知でした。



<善意と正義感と妄想の境界線>



その女性の妄想と独語は人助けが目的であることに、私自身が善意と正義感に燃えて社会と闘っていたつもりになっていた時とどう違うのだろうと考え込んでしまいました。


あの「社会は間違っている」「真実はこれだ」といきりたっていたのも、妄想となんら変わらないではないかと。
現実味がないし、ちょっと知っただけで全てがわかったかのように思考が飛んでいましたからね。


よほど、その女性のほうが真摯に人助けをしようとしているのではないかと思えてしまいました。


彼女には、自分を大きく見せる必要もないし、その人助けで名声や地位、あるいは金銭的な利益を得ようとはしていないわけですし。


同じ「妄想」でも、無理に理論化したり、資格をつくって商売にしたり、そちらのほうがよほど不健康かもしれないですね。
でもそれが現実という、またまた理想と現実の間でなんとかしていかなければいけないわけで。


彼女と私と、どちらが異常なのだろうかとわけがわからなくなりそうです。




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