観察する 20 <子どもにとって、経験が少なく非日常的な状況>

「電車や公共の場所で大泣きする乳幼児」といっても、状況はさまざまではないかと思います。


ああ、惜しいと思う状況はたくさんあります。


電車の中で、月齢数ヶ月ぐらいの赤ちゃんがベビーカーの中で大泣きしていました。
赤ちゃんはドアに向き合う方向です。
親御さんは、ベビーカーをゆらゆら揺らしてあやしているのですが、おそらくその月齢だと、まず親御さんの姿が見えるようにベビーカーの位置を変えるか、抱っこすれば泣き止むのではないかと思います。
赤ちゃんの視界に、日常的ではない風景があることへの不安もあるかもしれませんからね。


ある日、プールの更衣室の床に座り込んでずっと泣いている幼児がいました。
プールに入れるぐらいですからオムツが取れた年齢だけれど、言葉ではまだ伝えられないようです。
先に着替えをしているお母さんは突然、音楽の出るおもちゃを取り出してかけ始めました。そして歌い始めたのです。
幼児はもっと泣き出しました。
お母さんはおろおろして、「何で泣くの?泣かないで」と繰り返しています。


きっと家では、そのあやし方で泣き止むこともあったのでしょう。
でももしかしたらその子は、濡れている体の不快感とか寒さとか、プールという非日常の経験への不安を伝えようとしているように私には聞こえました。
正解はわからないですけれどね。


もう少し年齢がいった4〜5才ぐらいの男の子が電車の中でぐずり始めました。
お父さんがそばにいましたが、本に夢中になっています。
ぐずる声から泣き声に変わりました。
お父さんはひと言「うるさい」と言って、また本を読んでいます。
とうとう男の子の泣き声はマックスになりました。
お父さんがその時にボソッと言った言葉を、男の子は聞き逃しませんでした。
「今、めんどくさいっていったでしょ!」と、大泣きしながら電車の中で叫びました。


子どもはよく観ていますよね。





私にとって乳幼児の泣き声にはまず、「なにか本人にとっては危険を伝えようとしているのではないか」と捉えています。
それは赤ちゃんが突然亡くなることに書いたように、私自身の失敗が元になっているのですが。



大人にとっては危険な状況では無いように見えても、自分の世界を徐々に広げている子どもにとっては不安な状況に囲まれているのだと思います。


電車という空間で、見知らぬ人に囲まれるだけでも苦痛だった時期の記憶が私にもかすかにあります。


大人が「子どもにも楽しいだろう」と連れて行こうとした場所が苦痛で、幼稚園の頃に不機嫌になった記憶もあります。
あれはよほど嫌だったのでしょう。帰宅してからもふくれっ面の写真が残っています。
そんな経験が、あの水族園で「怖ーい」と泣いている子どもではないかと感じた理由かもしれません。


その記事で、こんなことを書きました。

子どもの泣き声や叫び声というのは、まだまだ観察もあまりされていない部分で、その本質は、自分にとって危険なことを伝えることではないかと、日々啼き方が変化する新生児を見ていても思います。

「電車や公共の場所で泣く乳幼児に社会が不寛容か」の前に、泣いて何かを訴えている子ども側のさまざまな理由も汲み取る必要があるのではないかと思います。
あるいは乳児から幼児への幅広い発達段階で、どのようなことを不安あるいは危険に感じるのか、どれだけ大人側はわかっているのかどうかという、反対側からの視点も必要でしょう。



それは、「この子はよく泣くタイプ」「よく泣く子もいる」という思いこみを捨てなければ見えて来ないことでしょう。
だって、子どもは日々成長し変化していますからね。
新生児でさえ、生後2〜3日までの激しい啼き方は数日でなくなり、新たな成長の課題に取り組んでいますからね。
「昨日までは泣いて伝えていたけれど、今日はもう大丈夫」と言っているかのように。




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