記録のあれこれ  24 <日々、何を書き留めるか>

来年のカレンダーはどうしようか、手帳や日記帳はどうしようかと思い悩む季節ですね。
最近は手帳売り場がやや縮小された印象がありますが、パソコンに記録を残すのは何かと不安なことが多く、やはり紙に書くという方法は根強い人気があるのではないかと思います。


ここ十数年、日記がわりに記入してきた手帳なのですが、とうとう来年のものが手に入らないという時がやってきました。
棚の奥にしまってあるのを引っ張り出すと、2004年から使い始めていたので今年も合わせると15冊になります。
シンプルで書きやすかったのですが、「永遠」はこの世にないことをまたひとつ痛感させられる事態でした。


この手帳は、主に「何をした」「どこへ出かけた」「何を購入した」「誰から連絡がきた」といったことを淡々と書き留めるためのものです。
なので、どんなデザインでも構わないといえばそうなのですが、やはり書きやすさというのはそれなりにありますね。
久しぶりに、手帳売り場で何冊も手に取りながら、似たようなデザインのものを購入しました。


<書き留めたことが事実として残る>


母に会いに行くと、母方の祖父母や曾祖父母について父方の祖父母や曾祖父母について聞き出そうとするのですが、どうも記憶が曖昧で、誰がいつ頃まで生きていたかという事実でさえ聞き出すのが大変なことばかりです。
もしもう少し正確な両家の年表のようなものがあれば、母方は干拓と移民、父方は北海道屯田兵についての壮大な歴史話が浮き上がってくるのですが、なんとも残念です。


最近になって、父が遺してくれた手帳のようなものを知りました。
私にとって曾祖父母にあたる人たちまでが、いつ亡くなったかだけが書き留められたものです。
そこに書かれているのはわずか数名の死亡日なのですが、母の記憶もこれを辿ることで、また新たな記憶が蘇ってくるようです。


母は数人の兄弟姉妹がいましたが、ここ20年ほどの間に二人が他界しています。
ところが「叔父さんが亡くなったのはいつだった?」と尋ねても、記憶は曖昧になっています。
いえ、母だけでなく、私も祖父母がなくなったのは何年だったか明確ではなくなっています。


「誰がいつ亡くなったか」これをどこかに書き留めるだけで、記憶だけではないより正確な事実になることを、父の手帳から実感しています。
将来の誰かが、過去を遡るときに貴重な資料にもなる可能性がありますね。



私自身は死後にも、そして現世にも執着がないので、お墓やら遺品やらを遺したいという気持ちはないのですが、最近は「当時の生活を垣間見るような記録」になるようなものを書けたらいいなという気持ちがあります。でも、やっぱり自分とともにこの世から消えてもらいたい気持ちもあります。


どんなに些細なことでも、記録に残すときにはまず時系列がぶれないことが大事かもしれない。
そんなことを最近思うので、「今日、何があった」ことを淡々と残すことにも意味があるのかもしれませんね。



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