医療介入とは 57 <明治から昭和の出産と風習>

引き続き「叢書いのちの民俗学1 出産」(板橋春夫著、近代評論社、2012年9月)から、明治以降の出産に伴う「血のケガレ」からくる風習について紹介してみたいと思います。


 この夜詰めと関連して、明治中期の通過儀礼を報告した井上頼寿『改訂京都民族史』には「上京区北野では、産婦は藁の上に正座する。どの家庭でも梅干を作るが、そのとき梅を干した俵をほどいて莚(むしろ)風にし、その上で産むのである。梅干の藁は安産の呪いだという。・・・産後は産婦を1週間は眠らせない。傍らには、産婦が目を開いているように番をしている女性がいる。(中略)左京区大原では・・・正座して産み1週間は目をつむらない。姑がこわくて、少しまどろんでも激しく叱られる」(井上 1968 3)とある。(p.90)

この産後に眠らせない夜詰めという風習がいつまでどのように続けられたのかはわからないようですが、7日間家族と離れて生活する風習は各地にあったようです。


「枕引(まくらびき)」という習俗について以下のような説明があります。

昭和22年(1947)に刊行された『大銀杏』には、「マクラビキとは坐産の際に枕としてもられている三方の藁束などを一束ずつ下げて、この日をもって引き終わり、あるいは完全に枕を下げて横臥することからの名である」と説明している(青森県環境生活部権史編さん室編、1999)。(p.89)

 出産後一週間くらいは産婦を座ったままにさせておく慣行と枕引は大いに関連がある。産後七日目に産婦は湯を使って着物を着替え、簀(す)を取り除いて畳を敷いて布団の上に初めて横になることが許されるのであるが、(以下略)

青森県八戸市では昭和17年まで夜詰めや枕引と同じようなことが行われていた記録があるようです。

津軽地方にはサントノスという習俗がある。サント(産婦のこと)は藁で作った鳥の巣状の中で出産をするが、そこで七日間を過ごすという。時代が下ると、産んでからサントノスに籠るという変化が見られるという(松岡 1970 224)。産後七日間の血のケガレと忌みの強さも手伝って、産婦はもちろん家族も別火で食事をし、産婦は外出も制限された八戸市尻内町大仏では、昭和17年(1942)に出産した女性はサントノスの中で一週間を過ごしている例が報告されている。


このように出産を「血のケガレ」ととらえる風習を考えれば、明治以降の近代産婆たちが「仰臥位で産ませるようにした」という意味もまた大きく違ってくると思います。


どのような場所で産んでいたのか。
それは自由なお産だったのか。
近代産婆が取り入れたことは、産婦の「主体性を奪う医療介入」だったのでしょうか。