医療介入とは 56  <「血のケガレ」とさまざまな風習>

1980年代以降の「自然なお産」の動きの中では、昔の産婆の聞き語りがよく用いられていました。


出産を取り仕切ってきたのは女性であったこと、医師(男性)が介入する現代のお産ではなく助産婦(女性)に出産の介助の主導権を取り戻せば、昔のような温かいお産になるという主張を強めるために、そうした聞き語りは利用されてきたといえます。


今思い出しても、産婆さんの話の中には温かいお産というよりは昔に戻りたくはないと思わせる話もたくさんあったのですが、なぜかその頃の私も古きよき時代があったかのように受け止めていました。


どの文献に書かれていたのか手元にはもうないのですが、特に産後、1週間ぐらい褥婦(じょくふ、お産を終えた女性)さんが体を横たえることもできすになにかに寄り掛かって座って過ごしていたことは驚きでした。
「悪露(おろ)がでやすいように」とか「裂傷を自然に癒合させるため」という理由だったと記憶しています。


「医療介入とは 53 」以降、たびたび引用している「叢書いのちの民俗学1 出産」(板橋春夫、社会評論社、2012年9月)に、その風習の由来になることが書かれていました。


<「産椅(さんい)」とヨトギ>


「産椅(さんい)」というのは座産のために使う分娩用の椅子のことではなく、産後に使うものであったことが書かれています。

 産室で産婦と赤子を守るために夜を徹する人々がいた。それは産婦にとっては近しい身内の女性たちである。夜通し誰かが産婦に話かけて寝かせないようにしたのである。これをヨトギともいう。
 ヨトギに関わるものに江戸時代に流行した「産椅(さんい)」がある。主に上流階級の女性に用いられた用具で、出産後に七日間、産婦を寝かせないようにするために考えだされた。この座椅子は関西では「産椅」と呼ばれ、関東では「産籠」と呼ばれていた。形状は産婦が寄りかかれるもので、背が高く、座部には畳が敷かれ、産婦が座ると布団を掛ける。その状況が鳥の巣篭もりに似ているところから、この産椅は「鳥の巣」などと呼ばれた。民間でス(巣)というのがそれに当たると思われる。この産椅の機能はひとえに産婦を眠らせないためのものである。(p.92)


ヨトギについては以下のように説明されています。

ヨトギとは、睡魔放逐の手段として産婦にとって身近な女性が産室で火を焚いて一緒に一夜を過ごすものである。火を焚くのは単に暖をとるというものではない。夏場でも火を焚くのであるから当然別の意味があると思われる。出産が済んだばかりの産室には獣を始め、目に見えない魔物たちが、誕生したばかりの赤子を狙う。火はその襲来から除ける機能を持つとされる。この火のまわりに座った女性たちが夜語りをするのがヨトギであった。


<「産椅(さんい)」と血のケガレ」>


誕生したばかりの赤子を獣や魔物から守る。


この場合の「魔物」というのは、現代でいえば早期新生児期の母胎外への適応のためのさまざまな変化なのではないかと推測できます。
出生直後の新生児の呼吸や体温が安定しないことも、哺乳力が不十分で体重減少が激しいことも、あるいは黄疸や感染その他の異常により胎外の生活に適応できずに病気になったり亡くなったりすることも、昔は「魔物によるもの」として諦めざるを得なかったことでしょう。


現代でも新生児というのは生後7日までの早期新生児期と生後28日までの後期新生児期に分けて捉えられていますが、私たちにとっては生後数日の赤ちゃんというのはなにか無事に乗り越えたというような安堵感を感じさせるものです。


このように「赤子を獣や魔物から守る」はずのヨトギが、産椅では別の意味に変ります。

「出産後七昼夜の間、眠って首を傾くことを許さない。この際、看視人を代わる代わる付けて朝まで見守らせる。少しでも傾いていれば叱ってこれを改めさせる。七日たって始めて、この苦しみから免れることができる」となる。さらに続けて、「今日では、上は天子の后妃から、下は武士や庶民の妻妾まで、皆この厳しい責苦を受けることに甘んじないものはいない。幸いにしてこの苦しみを免れるものは、山野海浜に住む樵や漁師の妻のみである」(産科文献読書会編 2008 130〜131)と書かれる。


なぜこのように出産直後の女性の心身に多大な負担をかける習慣ができたのか、著者は以下のように書いています。

眠らせない行為は現代の感覚では拷問のように見える。しかし、当時はそうしなければ産婦は血のケガレから逃れられないと信じられていたのである。


また上流階級は産椅を使用し、それに対して一般農民などは藁を束ねてよりかかれるようにしたものを利用していたようです。

産婦は七日間はじっと動かさずにしていたことだけは間違いない。それが夜詰め慣行の主目的であったと思われるからである。そうすると、俵や稲藁を積んで囲いをして、それに寄り掛かれるようにした設え(しつらえ)は機能的に産椅と同じであり、産椅を用意できるかどうかは経済力の問題であって、問題の本質とは変らないのである。


この出産と血のケガレという考え方から産婦を7日間動かさない風習が、地方によっては1940年代(昭和10年代)頃までの記録に残っていることが書かれています。


昔の産婦さんは、本当に自由にお産の時にも動いていたのか。
自由とはどういうことであったのか、そんなことを考えながらもう少し続きます。