30数年前に看護学生の実習で初めて新生児を抱っこした時に何を感じたのだろうと思い返してみるのですが、両手に力が入って抱っこするだけで精一杯だった様子が浮かんでくるのですが、これは本当の記憶なのかそれともなんとなくできあがったイメージなのでしょうか。
いずれにしても「怖い」という気持ちがほとんどだったように思います。
「かわいい」よりも「怖い」が上回ったのは、人様の大事な赤ちゃんを抱っこしていることや、実習という緊張感もあると思います。
それに対して、直前までおなかの中で動いて、一緒に生きていた別の人が目の前に現れたときのお母さん方の気持ちはどんなものなのでしょう。
「わー」と言葉にならない方が多いようです。
「かわいい!」とおっしゃる方もいれば、「猿みたい」という方もたまに。
出生直後の新生児というのは、おなかの中では同じ顔をしていたのではないかと思われるぐらい造作の違いははっきりしていないので、かわいいと感じるか猿と感じるか、あるいは言葉にならないそれぞれの思いはどこからくるのだろうといつも興味深く感じています。
少しずつ時間がたって、新生児の体の小さな部分をひとつひとつ確認するかのようにみつめながら、だんだんと「かわいい」に近い感情が高まってくるのかもしれません。
そしてそこからはだんだんと何をしてもかわいいと感じ、「世界で一番かわいい」と親ばかになっていくわけですが(笑)、なかに「かわいそう」と表現される方がいらっしゃいます。
<かわいそうという思いはどこから>
新生児のしぐさをみて「かわいそう」という言葉が出てくるのは、たいがい初めてのお母さんです。
生まれてしばらくすると新生児のうんちとの闘いが始るのですが、その目を輝かしていきんでいるようなタイミングでお母さんの側へ連れて行くことをこちらの記事で書きました。
人生の始まりは胎便を出すために腸が大きく動くことを説明するだけで、「かわいそう」という受け止め方になるのです。
おむつ交換の時に赤ちゃんが泣くと「かわいそう」と感じ、顔のひっかき傷や皮膚がぼろぼろむけるといった新生児ではよくみられることでも「かわいそう」という思いが強いが強くなるようです。
なにか我が身を引き裂かれるようなきもちなのでしょうか?
それとも、つらいことも代わってあげられないという葛藤なのでしょうか?
<一心同体から別の人生へ>
「かわいそう」と表現される方はそれほど多いわけではありません。
またそう表現する方に何か問題があったわけでもありません。
ただ、うまく言えないのですがこの「かわいそう」と感じたことを見逃してはいけないように、最近思うのです。
これから先には、たとえば予防接種や病気などわが子を「かわいそう」と思う機会があることでしょう。そんなかわいそうな体験をさせるよりは何かほかの方法(代替療法)が効果があるのであれば、そちらを準備してあげたいという気持ちに向いてしまいやすいのではないかと。
「かわいそう」という言葉が出てきた方には、できるだけ側へ行って赤ちゃんが泣いて伝えていることや状況を通訳するようにしています。
「今は何度も何度も腸が大きく動いて、今日は移行便から母乳便に変わるのでかなりおなかが活発に動いているのを伝えようとしているみたい。つらいといっているのではなく、危険だから見守ってねといっているのかもしれませんね」と。
子どもはすでに別のひとつの人生が始っていて、子ども自身で乗り越えていかなければいけないこともあることでしょう。
お母さんは見守ることしかできないけれど、それが大事なことかもしれないと。
「出産育児とリアリティショック」まとめはこちら。