帝王切開のケアを考える 4 <自己効力感の強い母親像を誰が求めているのか>

半世紀前、私が幼稚園児だった頃の写真は、なぜかぷいっと横を向いた写真ばかりです。
カメラを向けられると恥ずかしさが先にたってこういうしぐさになっていたらしいのですが。
家庭にカメラが普及し、家族のアルバムが手軽につくれるようになった時代でした。


今でも写真をとられるのは苦手なので、20代頃を最後にほとんど私自身の写真はありません。


ちょうどその頃、1980年代終わりごろでしょうか、家庭用のビデオ機が広がり始めました。
私は写真だけでも勘弁という感じなのに、映像として自分の姿が残されることが好きな人が多いことにちょっとびっくりしました。


まあ、これは好き好きの気持ちの問題


ただ、それまではテレビで街頭インタビューされても恥ずかしさと照れでしどろもどろだった人が多かったのに、最近は堂々と子どもたちまでテレビカメラに向かって自分の感想を述べている場面が増えて、内心、私とは違う世界だとちょっとびびってしまうほどです。


自分に自信を持った人が増えたのかなあ・・・と。
のびのびしていいなあと思う反面、ちょうど、自己啓発セミナーなどで自分が大事、すごい自分といった認識が広がった時代とも重なるのではないかと感じるのです。


でもテレビの向こうで堂々と「普通の人」が、その場の雰囲気にあわせた表情で求められた役割を演じているように見えてしまって、なんだかリアリティがないようにも思えてしまうのはなぜなのでしょうか。


さて、「産後の休養」から「自己効力感」の時代へ」で、何か万能感にあふれた母親像が広がっているのではないかということを書きました。


もう少しそのあたりを考えてみようと思います。


<代理判断によるパターナリズム



こんさんのこちらのコメントに書かれている師長さんの感じ方は、毎日、同じように産後のお母さんと赤ちゃんを見ている私とはずいぶん違いました。

看護師長は「赤ちゃんを預けられたお母さんは眠ったりしない(赤ちゃんといる限り安全なもの)」「添い寝なら窒息の危険はない」「1〜2時間おきに授乳しても、お母さんは合間に十分な休憩が取れる」「他の赤ちゃんがどんなにうるさくとも我が子とは区別できるので、眠ることができる」「母乳の会などで助産師は最新の情報を学んでいる」と考えていました。

「添い寝なら窒息の危険はない」についてはまた別の機会に考えてみようと思いますが、それ以外の部分は、なるほどこういう受け止め方があるから出産直後からお母さんだけで新生児の世話をする母子同室に疑問を持たない人が増えたのかとわかりました。


「母子同室」
たしかに、1960年代に出産が医療機関で行われるようになる前は、母と新生児はいつも一緒にいたことでしょう。
でも2人だけではなかったはず。
誰かが泣く赤ちゃんをあやしたり見守ってくれて、お母さんも赤ちゃんへずっとアンテナを向けている緊張感から解放されていたのではないかと思います。特に、新生児の活発な夜間には。
そんなことをヨトギのあたりで書きました。


現代の母子同室は、ほとんどお母さん1人で新生児を見守っています。
これだけでも人類始まって以来の、過酷な状況だと思えるのですが。


さらに帝王切開という「周囲への無関心」にさせるほどの侵襲を受けている時に、母子同室も当然と考える人たちが出現したことはどうしてなのでしょうか。


そのコメントで、こんさんが「帝王切開後の患者は『期待されるような母親』ではないこと、『お母さんと赤ちゃんの不思議な力』に頼るのは危険であること」と表現されているあたりが的を得ているのかもしれません。


「ケアする側の声はイデオロギーになりやすい」で紹介した、上野千鶴子氏の「代理判断によるパターナリズム」という考え方がこうした自己効力感の強い母親像の広がりにも当てはまるように思います。

私たちは介護される経験についてはほとんど何も知っていないことに呆然とする。

その理由のひとつに、誰も被介護者にその経験をたずねてこなかったという事実がある。

相手に何が必要かを介護の与え手が代理判断するパターナリズムのおかげで、被介護者はニーズの当事者になってこなかった。

被介護者自身が、「介護される経験」を、ことにそれが否定的な経験である場合には言語化してこなかったという事情がある。


帝王切開後のケアについて、まさにあてはまるものではないでしょうか。
さらに「これが理想的な育児」とされれば、どんなにつらくても異議を唱えることはむずかしいことでしょう。


周産期看護スタッフは、頭の中で描いたケアのゴールを押し付けているのではないかという視点で、もう一度帝王切開後のケアを見直す必要があるのではないかと思います。