今回も「帝王切開のケアを考える」の続きなのですが、内容的には産後ケア全体に言える話なので久しぶりの「産後ケアとは何か」です。
こんさんが病院側との再発防止策の話し合いの中で、「双方で最も認識が違った点」を以下のように書かれています。
病院は「(日中は)赤ちゃんとずっと一緒にいたから、夜間も一緒で問題なかった。授乳後に赤ちゃんを連れ戻すのを忘れた訳ではない」。
私は「日中は家族もいて部屋も明るく、助産師も時々覗きにきてくれて眠らずに見ていられた。夜間は授乳の時だけつれてきていたので、事故の時もしばらく耐えれば誰か来ると思った」。
病院は「何かあったらナースコールをするよう伝えて離れた。他のお母さん達はそうしていたので事故はなかった」
この「日中」というのは手術室から戻ってすぐの話ですから、そこで「赤ちゃんと一緒にいられたから、もう任せて大丈夫」と判断したとしたら、それはあまりに拙速すぎるのではないかと感じるのですが、病院側はその点を深く掘り下げようとはしていないようです。
でも私にはこのあたりに、こんさんのような帝王切開術後のケアだけでなく経膣分娩後のケアでも足りない何かが隠されているように日頃から感じています。
<相手へのレッテルを張りやすい>
ケアの中では、ケアの対象に対して一面から捉えた人物像を描きやすいのではないかと思います。
たとえば患者さんが鎮痛剤を希望すると「痛みに弱い人」「痛がり」と断定した言い方をするスタッフが、どこの施設でも必ずいるのではないかと思います。
「(私だって痛い時には鎮痛剤をすぐ欲しいし・・・)」と思っても、そういう断定的なスタッフの声には反論したくないので、なんとなく「あの患者さんはすぐに痛み止めを欲しいと言ってきます」の雰囲気になることがあるのではないでしょうか。
産科以外の病棟であれば、基本的には疾患の治療やリハビリですから、患者さんがいろいろと「弱音」を吐いても精神的な看護として受け止めてもらえることでしょう。
ところがお産や産後のケアになると、対象に対して厳しい見方が根強いと感じることが多々あります。
疲れた時に赤ちゃんを預けに来ると、なぜどのような状況でそのお母さんが預けようと思ったのかまで理解しようとせずに、「すぐに預ける人」と捉えるスタッフがいます。
ずっと気が張っていて頑張り、今夜少しぐっすり眠ればまた明日から頑張れそうと思ったかもしれないのに、相手の全体像のようなものが見えていないのかもしれません。
あるいは、「何度も教えたけれど授乳がヘタなので、もう一度ラッチとポジショニングを教えました」のような言い方もそうですね。
初産婦さんであれば赤ちゃんをリラックスして抱っこできるようになるまで時間が必要ですし、赤ちゃんもなかなか吸おうとしないこともあります。あるいはお母さん自身が体を動かすだけで精一杯、だったりご自身の排泄や傷の大変さもあって、赤ちゃんを抱っこして数分ぐらい座っているだけでも大変なこともあります。
やはりそのお母さんの全体像や個別性が見えずに、「ラッチ、ポジショニング」をお題目のように唱えているのではないかと感じます。
産科ではこういう対象の見方が多くあるように感じられるのはなぜなのか、気になっていました。
交流分析の記事で書いた、「I'm OK, but you are not OK」のような視線。
「私たちはちゃんと説明(指導)したのに、まったく何でできないの?」という感じ。
やはり、スタッフ側に万能感にあふれた強い母親像があるからではないかと思えるのです。
それは理想というようりはリアリティのない虚像なのですが。
だから、冒頭のようなお母さんと施設側の認識の違いもうまれてくるのかもしれません。