行間を読む 28 <「積みすぎた方舟」>

こちらの記事で、上野千鶴子氏の「ケアの社会学」(太田出版、2011年)から引用した部分に、「積みすぎた方舟」という言葉があります。


検索すると、「積みすぎた箱船」と「積みすぎた方舟」のふたつがあって、前者はイギリスの動物学者による西アフリカでの観察日記のようです。


「積みすぎた方舟」はマーサ・アルバートソン・ファインマン氏の著書で、上野千鶴子氏が監訳したものが2003年に学陽書房から「家族、積みすぎた方舟:ポスト平等主義のフェミニズム法理論」として出版されたものを指しているようです。


その書評が公開されていて、それを読むと以下のような内容のようです。
(直接リンクできないので、本名で検索してみてください)

婚姻制度の廃止と「母子」対に体現されるケアの担い手と受け手の関係を家族の核とするという、セットになった二つの提案である。

婚姻制度を廃止するからといって、家族はなくならないし、なくなる必要もない。家族の社会的役割は育児や介護のケアを提供することにあると論じた上で、ファインマンは二つめの提案として家族の親密性の範囲を「母子」に体現されるケアの担い手と依存者の関係とし、この関係を家族の単位として政策的に支援することを主張している。
「母親」とはケアの担い手であり、「子ども」は病人、高齢者などの「必然的な依存のあらゆる形態を代表」する、身体的ケアの必要を体現した象徴的な存在である。

「家族の中に封じ込められたケア(『依存の私事化』)を可視化させる」「脱家族化」と、「家族の社会的役割は育児や介護のケアを提供することにある」という部分が、書評を読んだだけではどのようにつながるのかが見えてきませんが、いずれにしても「積みすぎた方舟」というタイトルから私が受けた印象からは少し違う内容のようです。


本を購入して読む気力がないので、今回の記事は「積みすぎた方舟」という言葉から浮かんだとりとめのない話です。


<複雑になった「家庭」のマネージメント>


40年ぐらい前の小学生の頃を思い返しても、家の中のことがとても複雑になりました。


物が少ないのでゴミも少ないし、電気製品なども単純な作りだったので使うのも修理もそれほど難しいことはありませんでした。


先日、今まで使っていたパソコンを処分したのですが、処分する前のデーター消去だけでもいろいろと調べて実際に消去するまでに何日もかかりました。
パソコンだけでなく、家中にあふれている電化製品や通信機器の使用方法や故障、あるいは買い替えだけでも、30年前でも想像もしていなかったほど知識やマネージメント能力、そして時間が求められています。


家計の管理も、複雑になりました。


1980年代初め、働き始めた時はまだ給与は現金が支給されていて、公共料金は銀行の窓口で直接支払いに行っていました。当時はまだ銀行のカードもなくて、手書きで申込書に毎回書いていました。
じきに銀行のカードが導入されて、引き落としや入金がカードでできるようになりました。

その後、口座からの自動引き落としが増えて手間が省ける反面、カードでの支払いなどいろいろなIDやパスワードが増えて、「今自分が死んだらどうなるのだろう」といつも不安に思うぐらいもう何がなんだかの世界です。


小学校・中学校で習った頃の家庭科、言い替えると生活のマネージメントではたちうちできないほど「家庭」は複雑になったと思います。


さらに、何にしてもプロ級のことが暗黙のうちに要求されているように感じます。


たとえば料理も、世界中のさまざまな料理から一流の味まで家庭でつくれることも不可能ではないと日本では料理熱があがっているように思います。
東南アジアに暮らした時は、よく市場などで総菜をビニール袋に入れて持って帰っていました。
複雑な料理どころか料理も自宅ではあまりしない国が世界中にはあるのとは対称的ですね。


そしてケア、育児も介護も家庭の中でプロになることが期待されている。


もしかしたら、一人一人が背負いすぎている社会になってしまったのではないかと。


そんな雰囲気を「積みすぎた方舟」という言葉から、私は考えたのでした。





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