記憶についてのあれこれ 90 <「すももがとれたからあげる」>

父の面会に行くと、病棟の長い廊下を何往復も歩いている女性がいます。
端の非常口のドアをカチャカチャとまわして、それからまた戻っていきます。
あの行動は彼女にとって散歩であり、ドアノブはランドマークなのでしょうか。


時々、美しい歌声で歌いながら歩いている日があって、思わず声をかけたら、それ以来少し私のことを覚えてくれたことを<認知症になっても歌を忘れない>に書きました。


透きとおるようなソプラノの声でもっと聴いていたいなあと思うのですが、突然パタリとやめると、また黙々と歩いています。


先日、そばを歌いながら通って行かれたので、「本当にきれいな歌声ですね」と声をかけました。いつものようなうれしそうな表情を予想していたら、泣きそうな表情になって「お姉さんに会えてよかった」と抱きしめられました。


「お姉さん」というのは、年上のお姉さんの意味ではなく、年下の女性という意味だと思います。


時々歌声を褒めたり、目があうと挨拶をしていたので、私のことを覚えてくださったのかなとうれしくて、「私も(よかった)」としばし、二人で抱き合ったのでした。


そして「すももがたくさんとれたの。こんどすももをあげるね」と。
なんだかわからなかったのですが、私も思わず「楽しみにしていますね」と答えました。
彼女はとても満足した表情で、また散歩に戻りました。


また廊下の端まで行って、私の前に戻って来た時には、あの熱い抱擁もすももの話もまるでなかったかのような表情でしたが。


70代ぐらいなのでしょうか。
彼女の人生のなかで、なにかすももが記憶の扉を開かせるような言葉なのでしょうか。
「人生の重み」というありきたりの言葉では表現したくないような、彼女がどんな風に生きてこられたのかを知りたいという思いが強くなっていきます。


認知症の方の介護療養病棟に面会に通うようになって1年。
長い廊下のあちこちにあるベンチに座っていると、ふと、私もここで生活をしているかのようになじんだ感覚になるのですが、もしかしたらこの女性のように、「私」を認識して覚えてくれていることもそのひとつの理由かもしれません。


忘れていくという悲しい方向だけではない、常に新たな人間関係がそこにはできていくようです。





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