記憶についてのあれこれ 97 <見送る>

ふだん当たり前のようにしている行動が、やはり記憶があるからこそできていることが、父をみているとわかるようになりました。


知人と会って別れる時に、「じゃあ」とか「さようなら」と一歩を踏み出します。
名残惜しいと、何度も振り返ってみては手を振ったりおじぎをして見送ったり。


急いでいると、振り返るのも忘れてそのまま行ってしまうこともありますが、まあ忙しいのだろうくらいにしかお互いに気にしないことでしょう。


1年半前まで、グループホームで生活していた頃の父は、私が玄関を出てからも30mほど先の角を曲がるまで手を振りながら見送ってくれていました。
振り返るたびに、まだ父の手を振ってくれる姿がありました。


2度目の脳梗塞で半身麻痺になり介護病棟に移ってしばらくしたころから、父からは「見送る」という行為がなくなりました。


私が面会に行くと、今でもぱっと笑顔になってうれしそうな顔をしてくれます。
最初は「(誰だったっけ?)」という表情ですが、「と一緒に食べるのはおいしい」とだんだんと記憶をたどっていくようです。


1時間程で面会を終える理由には、父が記憶をたどることにつかれてしまわないようにという思いもあります。


別れ際は、「じゃあ、買物に行ってきますね」とあえて「さようなら」と言わないのはグループホームにいた頃からなのですが、「ああ」と言ったきり私の方はもう見ません。


私の方が何度も振り返ってみるのですが、父は違うところを見ています。
ほんの十秒前に私が目の前にいたことも記憶にないかのようです。


切ないとか、寂しいという感情は不思議とありません。
それよりは、見送るという一つの行動にも記憶の積み重ねが必要なのだと感慨深いものを感じています。


というのも日々接している新生児も、当たり前ですが、「じゃあね」と言っても誰も気にしてくれません。
新生児の目の前から私の存在が消えたら、それでおしまい。


お預かりした赤ちゃんをひと晩中、どんなに親身にお世話してもその記憶はないことでしょう。
それはお母さんやお父さんでも同じ。
目の前からその存在がいなくなっても、「見送る」という行動にはならない。


そのうちに部屋から人の気配がなくなると泣き出したり、見よう見まねでバイバイをするようになったり、自分とは別の存在が目の前にいることといなくなることを連続して記憶するようになるのでしょうか。


乳児期に長いこと複雑な過程で得た「見送る」という行動を、だんだんと失っていく段階を父を通してみている、と言えるのかもしれません。





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