行間を読む 55  <1950年代の女性はどのように生きていたのか>

「時代の反動で揺れること」で、「母乳育児支援のポイント」の中に書かれていた一文を紹介しました。


昭和30(1955)年代に母乳育児は壊滅的に減少した。それはその時代の風潮が工業製品こそ優れているという意識を深く植え付け、人工乳の発達は母親を子育ての苦労から解放すると幻想を与えたことだといわれる。


「特集 母乳育児のすべて」(「小児内科」、2010年10月号、東京医学社)より

ずっとこの一文が気になっていました。
この場合の「母乳育児」の定義はどういうことだろう。「壊滅的」とはどのレベルなのだろう。
そしてこの時代の女性はどのように生きていたのだろう、と。


前回の記事で1975年当時の女性に関する話題を拾ってみましたが、同じく「日本の女性史年表」の1950年から1955年までを見てみようと思います。


終戦後の混乱が続く社会であり、女性の労働環境が過酷だった時代>



1950年の年表を見ると、終戦直後の混乱の中で生活の糧を求め、安定した仕事や労働環境を求めた運動が活発になっていったようです。
「未亡人」という言葉もところどころ見られます。

2月25日ー職安への登録を求めて200人座り込み、主婦半数以上。


不況で増大する失業者のため職安への登録が数ヶ月待ちとなり、登録を認められるまで動かない、と失業者200名が座り込んだが、その半数以上が婦人。企業整理で失業した労働者の妻、不況にあえぐ商店の主婦、生活保護を受けている未亡人、夫が病気で働けない妻など。

4月ー婦人週間「家庭や職場から封建性をなくしましょう。私たちの権利と義務を知りましょう」

5月4日、生活保護法公布、未亡人のために教育扶助・住宅扶助が始まる。

10月7日(中略)少年少女の人身売買・地方婦人労働者の酷使などの問題について実態調査・法律相談・訴訟・啓蒙活動などを行った。

その後も1951年の三越ピケや喫茶店不二コロンバン労働組合結成、1953年の松崎製糸争議など、働く女性が労働条件改善を求めていったことが書かれています。


1954年の近江絹糸の「人権スト」は、「仏教の強制反対・結婚の自由を認めよ・別居生活強制反対・外出の自由を認めよ・信書の開封や私物検査反対・工場長に強制して行わせる月例首切反対、など封建的な労務管理の撤廃を求めたもの」と書かれていますが、戦前に戻ったかのような状況もあったようです。


1950年代からの年表を見ると、ところどころに「人身売買」とあります。
たとえば1951年の年表の最後の部分には以下の文章が書かれています。

人身売買が激増、5月だけで売られた子は644人で、前年の3倍、厚生省の推定では、ここ1年間に約5000人、売られた女子の大部分は売春に従事した。


また1952年には「農村子女の人身売買上半期、7652名、前年同期の2倍」とあり、この年に久布白落実(くぶしろおちみ)氏らによって売春禁止法制定促進委員会が結成され56年の制定に向けて大きく動き始めたようです。


年表から読み取れるのは、生きていくための現金収入を得るために女性も男性も働かざるを得ない時代で、とりわけ女性は劣悪な労働条件の中で働いていたのではないかということです。


ちなみに産前産後6週間の休業が認められたのは、1956年でした。


ただ、劣悪な労働条件や人権までもなおざりにされた状況で生きていた人たちがいる反面、年表には「1952年 電気洗濯機普及」「1953年 男女高校生のダンスホール通いが流行」など、生活の格差が垣間見えることも書かれています。


社会の階層のどこから見るかによって、冒頭の文章のような解釈には差がでてくるのかもしれません。



私には、当時の人工乳が女性を何かから解放するとすれば、「子育ての苦労」というよりは「生活上の苦労」ではないかという印象を受けました。






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