母乳育児という言葉を問い直す 17 <1975年の3つのスローガン>

前回の記事で引用した抄録の中に、「1975年に厚生省は、母乳育児推進を推進するために3つのスローガンを掲げた」と書かれています。



そういえば、どこかで聞いたことがあるなと思い出しました。


え?助産師なのに厚生省が出したスローガンも知らないのかと驚かれるかもしれません。


1975年といえば、私は中学生から高校生ぐらいでしたから、当時そういうニュースがあった記憶が全くありません。
ただ、1970年代終わり頃に看護学生として「母性看護」か「小児看護」の中で聞いたような気がします。
本当に記憶は曖昧で頼りないものなのですが。



1980年代後半に入学した助産婦学校やその後、就職した病院でもあまりこのスローガンを意識した記憶がないのです。


気になって助産婦学校時代の教科書を読み返してみましたが、WHO/UNICEFの「母乳育児成功のための10か条」やその動きを後押ししたラ・レーチェリーグやラマーズ・インターナショナルなどの団体の影響が感じられる記述はあるのですが、その1975年の3つのスローガンについては全く記述がありません。



どういうことなのだろう、と気になりました。


<1975年の3つのスローガンとは>


その3つのスローガンがどのような経緯から作られたのか、その影響はどうだったのかなど検索してみましたが、個人のレベルでは見つけることができませんでしたが、妊娠・出産・赤ちゃん Dear Momというサイトの「母乳栄養と人工栄養の時代のながれ」に、以下のように書かれていました。
(「新生児・赤ちゃん」→「母乳とミルクの子育て」とたどってみてください)


昭和〜現在の赤ちゃんの授乳


その後、粉乳は改善、開発され、乳児の身体発育や罹病率、死亡率でも、母乳栄養と比べ遜色のないものが販売されるようになりました。
さらに、粉乳に関する規格が定められ、乳業会社で製品の改良がおこなわれ、より母乳に近いもの、乳業各社独自性を打ち出した育児用粉乳として進歩してきました。
育児用粉乳の進歩に伴い、乳業会社の宣伝活動もあって人工栄養率は急激に増加し、「赤ちゃんが母乳授乳後にすぐ泣く」「おっぱいがあまり張らないように感じる」「周囲の人が薦める」などのことから育児粉乳を用いる母親が増え、母乳栄養は減少しました。


さらに当時のアメリカではほとんどが人工栄養であったということもあって、日本の社会の中にミルク栄養が近代的でスマートで人前で胸を開き授乳するのは野蛮であるなどという風潮が広がり始め、1970年代前半には母乳栄養の比率が最低となり、それまで母乳栄養の比率が60〜70%あったものが30%そこそこにまで減少しました。

最後の一文は日本とアメリカの統計が混乱していますし、母乳育児推進とひとり歩きする統計という印象ではあるのですが、その続きの部分に3つのスローガンと影響について書かれています。

その頃、母乳栄養が少なくなったのは、日本だけではなく先進国においても減少傾向が強く、これを憂慮したWHOは1974年WHO、国連で母乳育児推進についての勧告を出しました。
わが国においてもWHOの「乳児栄養と母乳哺育」の決議を受けて、昭和50年から次の3つをスローガンとして掲げ、母乳推進運動が展開されました。


1) 出生後1.5ヶ月までは母乳のみで育てよう。
2) 3ヶ月まではできるだけ母乳のみで頑張ろう。
3) 4ヶ月以降でも安易にミルクに切り替えないで育てよう。
この結果、母乳哺育がまた増加の傾向を示すようになりました。
この母乳推進運動の効果は予想以上でその後、母乳哺育は日本に定着し、母乳第一主義の傾向は強まりました。
その反面、母乳の出ない母親は怠慢、母親失格などと母親を追い詰めるゆき過ぎの風潮もおこりました。
やむをえず人工栄養、混合栄養にせざるを得ない母親は強いコンプレックスと子どもの健康についても強い不安感をもち、なかにはノイローゼの状態になる人がいました。
これが現在も続いていて、最も憂慮する点となっています。

この3つのスローガンで母乳哺育率が「改善」されたのであれば、母乳推進運動の幕開けとしとして助産師向けの教科書に記載されてもおかしくないもののはずですが、私が持っている教科書にはそのスローガンのことが何も書かれていないのはなぜなのだろう。


もしかしたら、この3つのスローガンは母乳育児推進運動の失敗学としての教訓を得られる何かがあったのかもしれません。


それにしても、当時の母親、あるいは女性はそんなに母乳かミルクかということだけを考えて生活をしていたのでしょうか?
そのあたりも気になります。




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