母乳育児という言葉を問い直す 18 <「母乳哺育率」の後ろにあること>

前回の記事で「人工乳の発達は母親を子育ての苦労から解放するという幻想を与えたことだといわれる」という小児科医が書かれた一文を考えてみました。


同じような違和感を感じた文章が、「産後ケアと出稼ぎ1」で紹介した、岩手県のへき地を対象にした「母子健康センターのあり方」という1975(昭和50)年の資料の中の文章です。


住民、とくに若妻達は競うように誘致工場に就労しているため(生活が貧困なためではない)、育児は祖母の仕事として受け止められている。所得倍増、経済優先の志向が住民の心を占めており、この志向を一人一人の住民の健康増進に結びつけるためには関係者の一層の努力と長い年月が必要と思われる。

この資料が作られた10年前、「日本の女性史年表」の1965年にはこんな話題があります。

第10回 全国農協婦人大会 「なぜ出稼ぎに出なければならないのか 兼業農家の主婦の労働過重」

こちらの記事の「1980年代までの付き添い婦さんと派出看護婦」に書いたように、私が看護師として働きだしてからもしばらくは、病院に長期に寝泊まりして患者さんの身の回りの世話をする女性たちがいました。
あまり身の上話を直接伺うことはなかったのですが、東北からの出稼ぎの女性が多いという話はありました。


そうした付き添い婦以外にも、現金収入を求めて家を長い間空けて働きに行った女性が農村には多かったのでしょう。そしてもちろん男性の出稼ぎも。


1975年当時は、家を離れずに仕事につける時代が来たと喜んだ人もいたのはないでしょうか。


冒頭で引用した文章は、この一文の後に結論のように書かれています。

乳児健診については、受診の際の同伴者は母親が少なく70%は祖母であり、母乳栄養児17%、人工栄養児64%、混合栄養児19%(各々生後6ヶ月令まで)であった。


たしかに「母乳哺育率」を見ると、医療関係者には納得し難いものがあったのかもしれません。
折しも、厚生省の母乳推進の3つのスローガンが出された年ですし。


でも同じ資料の中で、昭和50年に「クル病は軽症例もほとんどなくなり」とあり、これは人工乳の恩恵でもあったのではないかと思います。


おそらく「常時離乳している」に書かれているように、それまでは栄養的には不十分だった食品を母乳とともに与えていた方法が、人工乳に置き換わったのではないかと。


現金で人工乳を乳児の栄養のために購入することを大事だと思うようになったというのは、大きな価値観の変化ではないかと思えるのです。


それは、育てられなければ子どもを売ってしまう、あるいは捨てて誰かに育ててもらうことを期待するという時代が終わったことも意味しているのではないでしょうか。


生活や健康が改善し、子どもや家族とともに居られるようになったこうした農村地域の女性にとって、「3つのスローガン」はどう映ったのでしょうか。






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