思い込みと妄想 31 <ざっくりした歴史の切り口>

1990年代、「自然なお産」や「正常なお産は助産師だけで」といった流れの中で、時々この「GHQが・・・」という書き方を目にした記憶があります。


看護師だった時にはむしろ、戦後の看護制度の根幹をGHQが築いたことでさえ聞いた記憶がなかったほどです。すでに、「先進国として自立した国の看護」であって、終戦の時の変化は遠くになりにけりといった感じだったのでしょうか?


なぜ助産師の世界は未だにGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のことを話題にするのだろうと気になりましたが、当時はまだ調べようにも本や資料は見つかりませんでした。
2000年代に入ってから「論文」にそういう内容の記述があるのを見つけ、ああ、助産師の世界は本気なのだと驚いたのでした。


同じ頃からでしょうか、「母乳育児が衰退したのはGHQのせい」という書き方を見つけたのは。



<母乳育児とGHQについてどんなことが書いてあるのか>



検索すると、まず「新生児医療と看護専門紙のネオネイタルケア1997年12月号の特集"母乳を科学する"に「母乳育児ーその文化と科学ー」と題して寄稿」された文章がありました。


戦前の様子を「わが国の子どもは、生まれるとすぐ両親の間に川の字になって寝かされ、両親の肌の温もりを感じ、匂いを満喫していました。おっぱいが欲しい時、だっこして欲しい時、何時でも即座にその望みは叶えられ、両親との絆は深められました」と書かれています。
まあ、産椅とヨトギの風習とか、1970年代ぐらいまで地域によっては産屋があったことを知った今は、この書き出しからしてどこからか作られたイメージに過ぎないと思えるのですが。


さて、その「戦後、そして母子分離」には以下のように書かれています。

わが国がはじめて体験する第二次大戦の敗北は、赤ちゃんにとっても育児環境激変の始まりを告げるものでした。当時、抗生物質療法は未だ黎明期にあり、戦後の劣悪な生活環境のもと、わが国の新生児、乳児の死亡率は極めて高率でした。その対策として、GHQの指導のもとに、赤ちゃんを出生直後から母親と隔離して、新生児室に収用する新生児管理法が導入されましたが、これは哺乳動物の掟を破って、人類のみが初めて体験する、出生直後からの母子分離でもありました。しかし、当初は問題視されなかった事ですが、この母子分離というシステムは、ボデイーブローのように徐々に、しかも確実に母乳育児に打撃を与え、今日に至っています。


GHQが日本の医療政策にどのような影響を与えたかについての専門的な知識は全くないのですが、私の世代(1960年代初頭)でも、まだ半数が病院ではなく自宅で産婆や無介助で生まれていたことを考えると、新生児の管理法に対するGHQの影響はほとんどなかったのではないかと思います。
GHQが撤収したのは1952(昭和27)年ですし、その後、1961年の国民皆保険制度がなければ国民のほとんどが医療機関で生まれるようにはならなかったわけですから。


ネットで資料を検索しやすくなった2000年代から、時々、GHQが現在の周産期医療にどのような影響を与えたのか何か資料はないか検索してみるのですが、相変わらずでてくるのはこの「助産婦とGHQ」「母乳育児とGHQ」だけです。


1945(昭和20)年から1952(昭和27)年の時代の変化には、いくつものうねりが重なり合ってひとつの流れになっていったのだろうなと想像しています。


当時の医療政策の変化についてはさまざまな視点からの研究段階のようで、全体像が見えてくるのにはまだ時間が必要なのではないかと思います。


その中で、「GHQが医療政策として何をしたのか」が少し明確に書かれている文章を見つけました。
GHQによる占領期医療制度改革に関する史的考察 ー医学制度・病院管理制度を中心としてー」(堀籠 崇氏、2008年、医療経済研究)の、「注8」の箇所です。

竹前・笹本(1988)による医療福祉年表によれば、1945年9月から1946年12月の時期における医療政策の中心は占領軍の安全確保を目的としたものであり、医療政策に関する政策では、占領軍による医療機関の接収が見られる程度である。この時期以降、占領期全般を通じても、GHQによる直接的かつ具体的な医療機関の整備・普及策は見られない。またPHW編纂のPublic Health and Welfare in Japanにおいても、そもそも結核予防、上下水道対策、港湾検疫、といったPreventive Medical Careの項目に関する記述がその大半を占め、Medical Careの項目では医学教育および免許制度に関する記述が中心であり、病院に関しては本稿で後に扱う国立メデイカルセンターについての記述が目につく程度である。


まあ、そうだろうなと思います。


当時の日本人にはGHQに占領されたことがよほど堪え難い屈辱だったのかもしれませんが、自分の理想が叶えられなかったことの理由をそこに求めるには無理があるのではないかと思います。
そしてGHQが何かの折りに引き合いに出されるたびに、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの心境なのかもしれないと感じています。



そしてどこかで気持ちに折り合いをつけないと、過去の歴史もそして現実も見えなくなってしまうのではないかと思います。




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