行間を読む 59 <どちらが先見の明があったか>

こちらで紹介した「産み育てと助産の歴史」ですが、ざっと斜め読みした中でひっかかった表現で、この本は助産の歴史についての学問的な本ではなく、あくまでもあるイデオロギーの表明なのだろうというのが感想です。


「ひっかかった表現」についてはまた次回に考えてみようと思いますが、この本の中で「GHQ」がどのように書かれているのかまず紹介しようと思います。


<「GHQ公衆衛生局の助産婦『民主化』政策」>


GHQが日本の産婆に与えた影響や当時の状況について、もう少し研究が進んだ内容を期待したのですが、書かれていたのは繰り返し目にする内容でした。

日本の教育制度は第二次大戦敗戦後のGHQ/SCAP(連合軍最高司令官総司令部)占領下において、昭和22(1947)年4月に公布された学校教育法により新制度に変わった。新学制のもとで、助産婦視覚の制度的枠組みは、GHQ公衆衛生福祉局(PSW)の設置および医療福祉政策によって決定づけられた。GHQ公衆衛生福祉局長に就任したC・F・サムスは看護課長にG・オルト少佐を迎え「看護改革」に乗り出した。サムスの問題関心は、当時の日本の医療や看護をいかに改革するかにあり、それはいかにして米国の医療モデルを日本社会に根付かせるかという方法に直結していた。サムスのとった方法は、占領期以前の日本の医療や看護を徹底して前近代的と捉え、米国の医学教育や看護教育および病院組織を参照し、これをモデルとして日本の医療や看護を「民主化」するというものであった(サムス 1986)。この看護制度改革の象徴であり助産婦教育の根拠法となったのが保助看法であった(名称は2002年4月から保健師助産師看護師法に変わった)。


この保助看法が戦後の助産婦の業務を縮小させた元凶であり、そしてひいては「自然なお産」や「主体的なお産」までできなくなったという論拠でしばしば使われるものです。


なぜ「」付きの民主化なのか。
そのあたりに、助産婦あるいは産婆の気持ちがありそうです。


<看護婦にとっての民主化は産婆にとっては「民主化」になる理由>


私が看護師になった1980年代初頭でも、まだ看護師が配膳の時に汁物をよそっていたことは以前書きました。
ベッド数数百床の、当時では最先端の近代的な病院でした。


バリバリと術後の患者さんのケアをする外科系の看護を思い描いていた私には、日本の看護の中に前近代的な部分が残っていることのギャップにおおいにとまどいました。
じきに看護助手さんが導入され始めて、私達はもう少し専門的なケアに集中することができるようになりました。


それから20年ほどたって産科診療所に勤務するようになって驚いたのが、経営者である医師と看護職の距離の近さでした。よくいえば「家族的」なのですが、看護業務以外の経営者の家庭のことまで頼まれたりするのです。
でも「それは私達の仕事ではない」とはなかなか言えませんでした。


こちらの記事で紹介したGHQ看護課のスタッフがみた当時の日本の看護職の状況を読んで、世の中が変化するのには半世紀とか1世紀といった時間が必要なのだと改めて思ったのでした。

彼らが見た日本の看護の実態とは、看護婦は医師の診療の補助をしながら、実務を離れても下働きをし、肝心の患者は付き添っている家族が世話をしており、それは彼らが考える看護とはほど遠いものだった。


看護の世界では、GHQの関わりを改革として肯定的にとらえている資料が大半を占めている印象です。


片や助産師の世界では、なぜ「」つきの民主化と揶揄されてしまうのでしょうか?


おそらく、戦前の産婆はすでに独立して営業する権利を得て、お産で稼いで貧乏から脱出することができる当時の女性にとっては特権的な立場であったのでしょう。


当時小学校か中学卒業後の年齢で1年程で産婆資格を取り、そして出産の責任を担っているというプライドは、私の想像以上に強かったのかもしれません。


いまさら医師の下で働く看護婦と一緒にされてはたまらない、そういう気持ちが強かったのではないでしょうか。


でもGHQの「民主化」がなかったとしても、どの国でも経済状態がよくなり医療が進歩すれば、早晩、出産の安全性を求める声は高まり、助産師にも正常から異常まですべての分娩に対応できる知識と技術が求められる時代になっていくことでしょう。


GHQの改革は、やはり先見の明があったと思います。


忙しすぎた産婆たちにも、また、自分たちの活動や役割、日本固有の文化や歴史的な価値観をGHQに十分に伝えるチャンスもありませんでした。
「GHQに対する気持ち」


あれから70年以上たっても、「忙しさ」を理由に自分たちが理解されずに無理矢理看護職に組み込まれたという思いを持ち続ける一部の助産師がいること自体、助産師の世界は医療に関する長期的な展望を持てない集団だと思われても仕方がないのかもしれませんね。




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