行間を読む 69 <「インシデントを認め、報告する」歴史>

1990年代から医療現場でも医療安全対策の中でインシデントレポートが導入され始めました。
当時は、まだ目の前の医療事故を防ぐことに精一杯だったので、インシデントレポートとかリスクマネージメントの歴史にまで思いを馳せる余裕がありませんでした。
また、医療系のリスクマネージメントの本を読んでも歴史はさらっとしか書かれていないものが多く、書店に行くたびに探していました。


2011年3月の原発事故のあと、リスクマネージメントについて社会との理解の相違を感じることが増えたのですが、そのこともあってますます歴史を知りたいと思っていたところ、「医療におけるヒューマンエラー なぜ間違える どう防ぐ」(河野龍太郎氏、医学書院、2014年)の中に見つけました。


少し長いのですが、全文紹介しようと思います。

 まず、インシデント報告システムがどのように生まれたかについて説明しまず。この誕生のプロセスを理解すると、インシデント報告システムの活用について基本的な考え方(特に、設計思想design philosophy)が理解できると考えます。

 ここでも、航空機の話が登場します。1974年12月1日、ダレス国際空港に向かっていたトランスワールド航空514便(以下、TWA514便)が空港手前の山に墜落し、乗員7名を含む92名全員が死亡する事故が起きました。
 TWA514便は、ダレス国際空港に近づいたので管制官とコンタクトしました。すると管制官が、「アプローチを許可する」と連絡してきました。その直後、TWA514便は、首都ワシントンの50マイル手前にある標高1,670フィートのウエザー山に、緩やかな降下姿勢で墜落してしまったのです。原因はパイロットが高度を下げすぎたことでした。ただし、アプローチ開始位置(initial approach fix)の高度は1,800フィートでしたので、もし、当該機が1,800フィートを維持していれば事故を回避できたかもしれません。しかし、操縦を担当していた副操縦士の技量と乱気流に遭遇したことが重なって、さらに視程も50〜100フィートであったため、飛行機の降下を食い止めることができませんでした。

 後の事故調査において、航空管制官パイロットの間で大論争となりました。
 航空管制官の第一のタスクは航空機の衝突防止であり、他の飛行機等の安全間隔を考慮し、1,800フィートから始まるアプローチを許可したのでした。管制官は空港周辺のチャートに書いてある最低安全高度である3,400フィートを維持して山を避け、その後アプローチ開始高度である1,800フィートに降下するだろうと考えていました。一方、パイロットは管制官がアプローチを許可したので、その開始高度の1,800フィートまで直ちに降下してもよいと解釈しました。原因は、管制用語である「アプローチを許可する」が管制官パイロットで異なった解釈をされていたことでした。

 この教訓から、航空管制システムでは、パイロットと管制官の言葉の解釈の違いをなくすために、半年ごとにAIM(Aeronautical Information Manual)を発刊して、言葉の定義、言葉の解釈、基本的な用語の解釈をするようになりました。この事故から空の安全性を向上させるためにたくさんの改善点が引き出されました。管制官が使う用語についての定義はもちろんのこと、チャートの表示方法、さらに、米国に登録している航空機には対地接近軽視装置(GPWS:Ground Proxyimity Warning System)の設置が義務づけられました。

 ただし、この事故は言葉の解釈の問題が重要であると認識されただけではありませんでした。実は、この事故の起こる2ヶ月前(1974年10月)、ユナイテッド航空機(以下、UA機)が同じ様な経験をしていたことがわかったのです。UA機は、TWA514便と同じようにアプローチ開始地点の遥か手前で管制官からアプローチを許可されました。そこで1,800フィートまで高度を下げて行ったところ、目の前に山が迫ってきました。幸い天気がよかったので、危うく山への衝突を避けることができました。
 UA機を操縦していたパイロットは、この経験を会社に伝えました。さらに、この情報は連邦航空局(FAA:Fedral Aviation Agency)に伝えられました。しかし、その情報は他の航空会社には伝えられませんでした。もし伝わっていたら、TWA514便の事故は避けることができたかもしれないと考えられました。

 このことから、空のさらなる安全のためには、日常の運行に携わっている航空関係社に、自分の経験したヒヤリ:ハット情報を報告してもらい、それを共有化すれば航空完全が一層高まる、と考えられました。そして、 1975年にFAAにより航空完全報告システム(ASRS:Aviation Safty Reporting Sydtem)がスタートしました。


この大改革ともいえる一件がなかったら、世界中の安全に対する認識は変わらなかったのかもしれないと思うと、すごい歴史的な変化だと改めて思いました。


<安全対策が始まってわずか45年>


この知りたかった歴史の部分を読むだけでも、私は医療安全対策が導入された時代を経験できたことが本当に幸運だったと思えます。
わずか45年前には、航空機の重大事故でも「ヒヤリ」とした他の人の経験が生かされていなかったわけですから。


それ以前の時代となると、「慟哭の谷 北海道三毛別・史上最悪のヒグマ襲撃事件」の著者が昭和30年代について語っていた箇所が、分野は違っても「リスクマネージメント」という言葉すらない時代の雰囲気だったのだろうと思って読みました。
「職業柄、林務官というのは、熊の棲息地域で活動する機会が多いわけですが、林務官に対してヒグマ対策のような教育はされているのですか?」という質問に対して、こう答えています。

それが私も驚いたことに、少なくとも当時はほとんどなかったんです。「ヒグマに出くわすと危ないから気をつけろ」ぐらいは言われますね。どう気をつければいいのか、までは教えてくれなかった。実際に、私は林務官として、何度かヒグマに遭遇して、肝の冷える思いをしました。ですから本書を書くにあたっては、林務官はもちろんですが、この事件の真実を追求して、ヒグマというものの習性を明らかにして、二度とこのような悲惨な事件が起こらないように、多くの人に知って欲しいという思いでした。


三毛別羆事件から半世紀ほどたって、木村盛武氏が事実を掘り起こそうとするまで、あの事件から再発防止の教訓を得ようとする動きがなかった。


やはり1970年代に始まったリスクマネージメントの考え方というのは、20世紀の中でも5本の指に入るほどの人間の進歩だったのではないかと、勝手に思っています。
5本の指の根拠はいい加減なのですけれど。


もう少し続きます。



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