アイリッシュハープのコンサートでは、演奏家の方々のプロフィールを見ると、こういう場合には「錚々(そうそう)たる」とつけるのだろうと思われるような音楽大学を卒業された方々ばかりで、ちょっと驚きました。
アイリッシュ・フルートの豊田耕三氏のプロフィールも、大学院も卒業されていることが書かれています。
音楽の素養がほとんどない私には、音楽大学というのはどういうところなのか全くもって見当がつかなかったのですが、「のだめカンタービレ」で少しイメージができました。
そうか、ただ楽器や歌ができるというのではなく、歴史などさまざまな学問的な知識が土台にあることが音楽には必要なのだと。
<私にも音楽で「食べて行く」可能性があった>
いえ、私も音楽と全く無縁だったわけではなく、こちらの記事に少し書きましたが、小学生の頃から始めた和楽器で高校を卒業する頃には師範までもう一歩というところまでいきました。
和楽器の場合、今でもそういうシステムが多いのではないかと思いますが、家元制度で独自の認定システムがあるのではないかと思います。
年齢や学歴に関係なく、素質があるかどうか、真面目に研鑽し続けるかどうかあたりが大事なのかもしれません。
そして、師範になると家元の元で、人を教えて生活の糧としていく自営業になるシステムとでもいうのでしょうか。
たぶん、両親が私に師範までならせたかったのは、「お嫁に行っても、人を教えることで小遣い稼ぎぐらいはできる道」を持たせたかったのではないかと思っています。
ところが当時の私は、これから女性が生きて行くためには、一人できちんと経済的に自立することが大事であるという強い思いがありました。
どこからそういう気持ちがわき出したのかはわかりませんが、やはり当時の社会の雰囲気に影響を受けていたのだと思います。
正直なところ結婚願望がほとんどなかった私ですが、もし万が一結婚することになってしまっても、自分がしたい仕事を続けて経済的に自立することは絶対条件でした。
ですから、高校を卒業した程度の年齢で師範になって「人に教える」立場になることの怖さとともに、それだけでは一人で生きて行く経済力を持てないのではないかという不安があったのでした。
その点、看護職や助産師は安定した仕事でもあり、女性の中では高収入を得られる道でしたから、結果的に海外医療活動や市民運動などと二叉をかけながら比較的自由に生活をしてこれたのだと思っています。
<路頭に迷う可能性>
さて、年末に「題名のない音楽会」という番組で、ケルト音楽特集があり、番組表で予約をしておきました。
まだ、アイリッシュハープのコンサートに行く前だったので、もちろん豊田耕三氏のことも知らなかったのですが、コンサートで舞台に立つその方が出演予定だと知り、 重なる偶然に鳥肌が立ちました。
後日観たその番組の中で、冒頭でリンクしたプロフィールにあるように、豊田耕三氏が大学院時代につくった東京芸術大学ケルト音楽研究部から日本の中にケルト音楽あるいはアイルランド音楽ブームをうみだして来た人たちが広がったことが紹介されていました。
なるほど、1980年代半ばに私がNightnoiseに出会ったころは、まだ日本ではほとんど知られていなかったアイルランド音楽でしたが、エンヤなどの活動で世界的に広がり出しただけでなく、実際に楽器を演奏する日本人が増えたことで身近な音楽になっていったのかもしれませんね。
年末に行ったアイリッシュパブでも、日本人の演奏家だけでしたが、本当に素晴らしい演奏でした。
アイルランド音楽に出会ってわずか30年ほどで、日本で日本人による演奏を気軽に聴くことができる時代が来るとは想像もしていませんでした。
ただ、心配したのは、皆さん演奏で食べて行けるのだろうかということでした。
豊田耕三氏のそのプロフィールの中でも、「今日ではたくさんの学生を路頭に迷わせる方向で猛威を振るっている」とあり、くすっと笑ってしまいました。
公務員で実直そのものの父から「年金だけは続けた方がいい」と言われ、けっこう堅実に生きて来たのですが、安定していると思っていた医療現場もいつ病院が閉鎖して路頭に迷うか先が見えない時代になりました。
路頭に迷うかもしれない不安もありつつ、アイルランド音楽を奏で、聴く人に充実した時間を生み出すのは何と素敵な仕事だろうとうらやましく思いました。
女性だけでなく男性もまた、迷いつつ、やってみたい事に挑戦できる時代になってきたのだと思います。
いろいろな仕事がこの世にはありますよね。
ほんと、「縁の下の力持ちと適材適所」で世の中は成り立っているのだいう思いが強くなっています。