水のあれこれ 75 <洪水によって袂を分かつ>

一時期、多摩川まで徒歩10分ぐらいの所に住んでいたり、多摩川を頻繁に渡って神奈川方面を行き来していたことがありました。
ですから、私にとって多摩川というのは都県境だけでなく、多摩川を越えると我が家に戻って来たような安堵感があるのです。


日常的に多摩川を眺めていたのですが、案外、荒ぶる様相を見た記憶がありません。
大雨の時に鉄橋を通過すると、水量が増えて怒濤の流れになっていることはありますが、数時間もするとだいぶ水が引いている印象です。
一度だけ、大型台風の翌朝に、まだ河川敷が見えないくらいの濁流が流れているのを見た記憶があるくらいです。


ふだんの多摩川下流は、野球場などのある河川敷の方が川幅よりも広く、申し訳なさそうに水が流れているイメージです。


<分断された地名>


さて、電車で多摩川を行き来していると、その多摩川をはさんで「二子」や「丸子」がついた駅名がいくつかあることが気になっていました。
その答えが、「先人の表現に出会う」で紹介した「武蔵野・江戸を潤した多摩川」(安富六郎氏、農文協、2015年)の、「河川合流と洪水により分断された地名」(p.16〜)に書かれていました。

 二子玉川付近には多摩川へ合流する2河川がある。二子橋下流左岸からは野川、もう一つは、右岸からの平瀬川である。この2つの川はやや上流に架かる新二子橋付近で多摩川に合流している。多摩川の河川敷に緑地が広がるようになるのは、このあたりからである。
 野川は国分寺市内(日立中央研究所敷地内)を源流とした小川であるが、途中で仙川と合流して、多摩川に注ぐ時にはかなりの水量となる。一方、平瀬川は右岸上流にある二ヶ領用水(20ページ「武蔵野の水利開発の先駆け」参照)の排水河川である。この2河川の合流が多摩川に洪水を引き起こす一因となって、地域の分断が進んだ。

確かに地図を見ると、二子玉川の辺りでは、野川と仙川だけでなく川崎方面から平瀬川が合流しています。
それでも現在は、特に二子玉川近辺で怒濤のように水量が増えるわけではなく、穏やかな流れに見えます。


<いつ頃、分断されたのか>


現在の多摩川からは想像がつかないのですが、川がその流れを変え、村の範囲を大きく変えるほどの洪水は、どれくらいの範囲でいつ頃まで続いていたのでしょうか。


たとえば、多摩川を挟んで別れている宇奈根である。これは昔は一つの村で、当時は左岸の世田谷側を本町、右岸の川崎側を山野あるいは山谷と称していた。今は行政区画として、左岸は東京都世田谷区、右岸は川崎市高津区に属している。川を隔てての同じ地区名は、明らかに河川氾濫の名残である。

宇奈根のほか、等々力(東京都世田谷区と川崎市中原区)、野毛(東京都世田谷区上野毛川崎市高津区下野毛)、布田(東京都調布市川崎市多摩区)などに見られる町名分断は、みな同じ理由からである。


「等々力」が川崎側にもあるとは知りませんでした。
印刷されたタイプの地図では目にしたことがなかったのですが、Macの地図を指でびよ〜んと拡大してみたら本当にありました。


このあたりはもともと洪水が起こりやすい地域だったそうですが、「明治時代の1907年(明治40)と1910年(明治43)の二大水害では、川全体が破堤」したそうで、この水害がきっかけで河川改修が進んだことが書かれていました。

 このような所には多くの「渡し」があったが、村の飛び地の維持管理には、かなりの不便さと財政的負担もあったので、1911年(明治44)に関係3カ村民による「東京府神奈川県町村区域変更に関する請願書」によって、府県境は変わった。分断された町名だけは、今もそのまま引き継がれている。

その多摩川下流の「渡し」が行われていた付近では橋をかけても何度も流され、近代的な橋ができたのが1925年だそうです。


今、当たり前のように多摩川を電車や車で行き来していますが、わずか一世紀前には本当に夢のような世界なのだと改めて思いました。




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