米のあれこれ  7 <干拓地の歴史>

祖父の田んぼの歴史を知りたくなって岡山に向かいました。
岡山駅に近づく頃からなんとなく空気が霞んでいて、晴天にも関わらず空も青くないのはどうしてだろうと思いました。
岡山駅からバス停で待っている間も、バスで市内を走っている時も、まるで1970年代から80年代ぐらいの都内の排気ガスによる大気汚染を彷彿とさせる霞み方です。
児島湾締切堤防が近づいてきて、その原因がわかりました。干拓地の水田のあちこちで行われている野焼きでした。
私が祖父の家に行くのは夏休みか冬休みだったので、11月ごろにこんなに岡山市倉敷市全体が霞むような広範囲の野焼きが行われていることは知らなかったのです。


90年代ごろからの環境問題への関心から、きっとこの干拓地の野焼きについても議論があるのかもしれません。その是非は私にはわからないのですが、あの稲の香りとともにどこか懐かしい香りでした。



<「農地保全の研究」より>


干拓地では広大な範囲で野焼きが行われているのかと気になって検索していたら、「農地保全の研究第22号」(2001年)が公開されていて、野焼きについては詳しいことは見つけられなかったのですが、その中に干拓地の歴史が簡潔にまとめられていました。
ここ1年ほど、ネットで検索したり書店をまわっているのですが、干拓地についての歴史が書かれたたものは案外見つからないものです。


「農業土木が検証する干拓地の汎用化利用と展望」(岡山大学名誉教授 長堀金造氏)の「干拓の歴史的変遷」を自分の覚書のために、書きうつしておこうと思います。


 わが国の干拓事業は約1400年前に有明海の北端、今の佐賀県が最初であると伝えられている。わが国の代表的な干拓地は有明海沿岸、児島湾沿岸、木曽川下流があげられ、それらの合計はおよそ27万haに及んでいる。その後も藩の財政確保のため干拓による新田開発が行われてきた。明治時代に入ってからも1,000ha規模の干拓地として神野新田(愛知県)藤田新田(岡山県)郡築新田(熊本県)らが代表的である。特に藤田新田開拓は明治10年に来日したオランダ人ムルドルエ技師の計画を参考にしている。
 大正7年には全国的に米騒動が起こり、耕地拡大のために大正8年に開墾助成法が改められ、国営干拓事業第1号として巨椋池干拓(京都)600haが着工された。さらに、児島湾第2期干拓(三・五・六区)と印旛、手賀沼八郎潟の実施調査が行われ、国営干拓の起源となった。その後、農地開発営団によって計画された干拓予定地25ヶ所、総面積約4,400haとなったが、開墾によってわずか580ha完成して頓挫した。
 昭和20年(終戦)11月、政府は、「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、湖面開拓75,000ha、海面干拓25,000haの干拓を国営直轄で実施する方針を打ち出した。昭和21年から干拓事業は順次実施され、昭和32年には国営代行補助事業地区は約100にも達した。全国分布をみると有明海不知火海、伊勢湾、ならびに渥美湾など古くから干拓が行われてきた地域と言える。湖面干拓では印旛沼手賀沼、琵琶湖、霞ヶ浦周辺に集中している。昭和29年にはオランダのヤンセン、フォルカー両氏の助言を生かした大規模な八郎潟干拓事業が前進し、昭和32年に着工の運びとなった。
 昭和30年代に入ると高度経済成長期を迎え農業と他産業との所得の格差が増大し、零細農家が顕在化の背景もあって土地改良事業の目的とした食糧増産から食糧生産性の向上へと政策転換が図られた。昭和36年には農業基本法が制定された。しかし、農業、農村は低迷を続け、昭和40年代にはいるとわが国の経済や農業を取り巻く環境が激変する。その一つは農産物貿易の自由化で食糧輸入拡大という内外からの強い背景があり、さらに昭和42、43年の米の大豊作による米の供給過剰と財政負担の増大という背景があって、昭和44年、遂に稲作転換政策が決定される。このような状況から稲作中心で進められてきた干拓開田政策が全面的に改正せざるを得ない事態となった。すなわち、開田を目的とした干拓は一切認められない方針が打ち出され、すでに計画されている干拓、着工されている干拓地でも計画変更し、開畑造成の干拓事業となったのである。
 この計画変更で、直接事業変更されたのは当時大規模干拓事業として着工中であった河北潟干拓(昭和38年着工)、笠岡湾干拓(昭和41年着工)、中海干拓(昭和43年着工)であった。その後も米は生産過剰基調にあり、米の生産調整、水田の休耕政策から水田の汎用化利用への基盤整備が緊急を要する問題となり、昭和46年から水田の汎用化のための技術開発研究が行われ、昭和51年に「汎用耕地化のための技術指針」がまとめられた。さらに、昭和53年に水田利用再編対策が閣議了承され、従来から水田として利用されてきた干拓地帯の水田でも畑作転換をしなければならなくなった。昭和61年には優良農地(畑)の造成と防災対策のために諫早湾干拓が着工され現在、事業が進行している。


今回、倉敷を歩いてみて、曽祖父・祖父の田んぼは江戸時代頃の干拓地であるらしいことがわかりましたが、明治末期生まれの祖父は、この大正・昭和の農業の激動の時代を生きていたのだと改めて思いました。
この干拓の歴史の行間をもっと知りたいと思うのですが、資料は素人の手には届かないようです。
あるいはまだ歴史としてまとめられるには、時間が経っていないのでしょうか。


この「農地保全の研究」のバックナンバーは農地保全研究部会のサイトで全て読めるようです。




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