諫早干拓資料館は、「干拓の里」という馬事公園やむつごろう水族館などの複合施設の中にありました。
帰宅してから改めてこの干拓資料館の歴史を探してみましたが、「干拓の里」のホームページが最も詳しく書かれている公式のもののようです。
諫早干拓資料館は、昭和62年、国のモデル木造施設建設事業で建てられた施設です。柱を使わないフレーム架構式の構造で、16cm×60cmの大断面集成材を長尺物(16m)として用いています。
諫早市は、東に有明海(諫早湾)、西に大村湾、南に橘湾と三方を海に接しています。ここは長崎街道の主要地点で長崎半島、島原半島、西彼半島への分岐点として、早くより交通の要衝であったところです。
江戸時代には新しい知識を求めて、長崎を目指した遊学の志や、維新の志が頻繁に立ち寄った所でもあります。
諫早というと平成9年の潮受け堤防の締め切りにより、干拓で有名になった所ですが、諫早での干拓の歴史は古く、鎌倉時代までさかのぼり、西暦1330年あたりを開始の時期としています。以来、今日までその伝統を引き継いでいるもので、その営みの結果が、長崎県内最大の穀倉地帯・諫早平野となっています。
(「干拓の里」ホームページより)
面白い建て方だなと思ったのですが、柱を使わない、しかも木造建設だったのですね。
*干拓の歴史が学べる場所だった*
展示の内容は、まさに私が知りたいと思っていた干拓の歴史の行間が網羅されているものでした。
「ガタの生成要因」「潟土の利用」「干拓地土壌の特性」「干拓地土壌の変化」「埋立と干拓」「日本の干拓と手法」「干潟の生い立ち」「干拓の歴史」「干拓の歩み」「江戸時代後期以前の干拓堤防」「江戸時代後期以降の干拓堤防」「昭和の干拓堤防」「平成の潮受け堤防」「諫早湾岸の近現代干拓地」「底井樋廻水」「排水樋門」「干拓地の水利」「塩沼地植物の群落」「米価の変遷」「干拓地のくらし」「干拓地の食べ物」「海苔の一生」「諫早湾の魚類」「干潟の漁労法」「諫早湾の浸水区域調査概図」「昭和32年7月25日 諫早大水害の記録」「昭和32年の水害」「昭和2年の水害」「諫早の災害史」
写真を撮っても良いようでしたから、全てのパネルを記録しました。
今、読んでも圧倒される内容です。
小学生の社会科見学などにも利用されるのでしょうか。専門的な知識でありながら、理解しやすい内容でした。
自分が住む地域の歴史を学べるなんて、なんて羨ましい現代の小学生でしょうか。
最寄りの駅は「干拓の里駅」ですが、1911年(明治44年)に開業した小野駅と森山駅の間に1995年(平成5年)に新設された駅だったようです。
そして、この諫早干拓資料館はてっきりあの潮受け堤防ができたあとに造られたのだろうと思ったのですが、それよりも10年ほど前のようです。
おそらく、この地域の干拓の歴史や生活がきちんと記録され集められてきたからこその資料館だったのだろうという印象を受けました。
諫早湾干拓事業を読むと、1952年(昭和27年)に発案された後、1957年(昭和32年)に諫早大水害、そして37年後の1989年(平成元年)に着工、1997年(平成9年)に潮受け堤防が締め切られ、2007年(平成19年)に完工とあります。
1989年の着工の2年前に造られた干拓資料館のようですが、現在の展示をみるとおそらく着工以降に追加された展示は、「平成の潮受け堤防」と「諫早湾岸の近現代干拓地」の二つのパネルだけではないかと思われます。
私が想像していたようなどちらか一方の考え方を是とするような内容でもなく、1300年代からの気が遠くなるような長い干拓の歴史から将来を考える展示でした。
あの関屋分水資料館や信濃川大河津資料館と同じく、その歴史の前に立ちすくむような感覚に陥りました。
「米のあれこれ」まとめはこちら。