米のあれこれ 22 邑知潟の干拓の歴史

邑知潟を見に行く前に、なんどもなんども邑知地溝帯のあたりを地図で眺めました。

邑知潟の真ん中を日本海へと流れている羽咋川ですが、頼みの綱のWikipediaのまとめがありません。

 

JR良川駅の先で東側の方から小さな川が流れていて、しだいに周辺の川を集めて羽咋川になっているようです。

ところが、その東側からの小さな流れと200mほどしか離れていない場所に、もう一本小さな川があり、その流れは途中から北へと向きを変えて能登二宮駅のそばを通って、正反対の能登湾へと流れています。分水嶺というには、あまりにも高低差がない場所に見えます。

さらに、羽咋川の途中から、日本海の河口とは反対側に水路があって、その水路も能登湾へと流れているのです。

邑知地溝帯では、どのあたりから能登湾、日本海へと水が流れを変える場所になるのだろう。

それが気になって車窓を眺め続けたのですが、あっという間にすぎてしまいわかりませんでした。

 

水田を作るのには水があることも大事ですが、水の流れがなければそれはそれで難しそうということは素人ながらに感じます。

 

帰宅してから邑知潟について検索していたら、「水土の礎」というサイトの「白鳥が舞う美しい田園をめざして」に邑知潟の歴史が書かれていました。

 

*邑知潟を水田にする*

 

この歴史を読むと、縄文時代前・中期(約5000年前)は深い入り江だった場所が氷河期以降、周辺の川から土砂が運ばれて入り江をふさいで邑知潟ができたようです。

最初の頃は潟の周辺の限られた場所で稲作が行われていたのが、近世に入って埋め立てを行い干拓地が広がって行ったことが書かれています。

特に、江戸時代行われた川流しという方法について書かれていました。

 川流しは、吉野屋村の彦助の事跡として有名です。

 飯山(いのやま)川の流域には地すべり地が多く、洪水時には大量の土砂が河口に流れ込んで浅瀬を造って来ました。ここに着目した彦助は、飯山川を東折させ、上流の神小原、菅池の崖を切り崩して飯山川に流し込み、潟縁に施した粗朶囲いの中に導いて埋め立てしました。今日でいう「流水客土」の方法です。

 彦助の 川流しによる開発は、万治2年(1659)に着手以来、生涯で780石余りにおよび、土地への憧れが極めて強かった農民らの開発意欲を盛り上げ、その後いくつかの全面埋め立て計画が出されていますが、例えば、文化13年(1816)には鳳至郡道下村の丹治が郡奉行に全面埋め立てを願い出ました。藩も食指を動かしましたが、あまりにも規模が大きかったためか計画倒れに終わっています。また、大正2年(1913)には羽咋郡中荘村の田辺又五郎らから全面埋立願が出され、県は邑知潟沿岸集落や漁業組合等の意見を聞いて調整し、計画の修正を始動しました。県の指導に基づいて邑知潟水面の1/3(120ha)埋立て計画に修正した田辺らは、大正10年(1921)に認可をえましたが、工期延期を提出した後、自然消滅しています。こうした農地を広げたいという農民の夢は、後の国営干拓事業で叶えられることになるのです。

 

一世紀前は、今とはまったく違う風景だったようです。

 

*「排水との闘い」*

 

高低差がない場所に川が流れていることが気になったのですが、この資料では「排水との闘い」として書かれていました。

 羽咋川は、下流部で北に向かって大きく湾曲し、洪水のたびに変動していました。このため潟の水がスムーズに流れず、河口付近で合流する子浦川が潟へ逆流することもあって、潟周辺は常習的な水害に見舞われていました。加えて、日本海が満潮になると邑知潟に海水が逆流し、これが洪水時に潟縁の田畑を襲い、塩害で作物が赤く枯れてしまう「赤開き」が3年に一回は発生したそうです。また今のように堤防らしいものがない潟縁農業は、排水が悪いため腰まで浸かっての農業でした。稲刈りは水中での手探りで、刈り取った稲は「田づり」や舟に乗せて洪水のない高台の「はぞかけ場」まで運んでいました。 

 

写真でも昭和28年ごろの、泥に浸かりながら歩いている様子が写っています。

「赤開き」とか「稲刈りは水中での手探り」「刈り取った稲は舟に乗せる」とか、現代からは意味がまったく想像できないような中でお米を作っていたようです。

 

*国営邑知潟干拓建設事業*

 

現在の邑知潟地溝帯に広々と続く水田の風景、冬には白鳥が飛来する風景は、1948年(昭和23)〜1968年(昭和43)に行われた干拓事業によるものでした。

 邑知潟沿岸住民の強い願いは、終戦直後の経済安定と食糧増産が叫ばれていた時期でもあり、水害の解消と水没した干拓地の復旧、さらに耕地の拡大を図る一石二鳥の方法として「国営邑知潟干拓建設事業」が実施されました。 

 

 潟面積の縮小と既耕地の排水改良による洪水位の上昇に対しては、干拓堤防に併せて流入河川堤防の嵩上げを行うとともに、羽咋川流路の回収や断面面積によって対処しました。さらに逆水止樋門の拡幅や鉄道橋の嵩上げにより排水の円滑化を図っています。また、用水源は残存水域に依存することとし、羽咋川に設置した用水調整水門で潟の水位を調節し、工区ごとに自然取入または機械揚水で取水することにしました。

 

「羽咋のお米」、こんな干拓の歴史があったことを知りました。

 

 

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