諫早干拓資料館の展示では干拓についての基本的な知識が書かれていて、だいぶ頭の中が整理されました。
とくに「日本の干拓地と手法」がわかりやすい説明でした。
◇干拓のはなし
干拓ということばは大正3年の耕地整理法の改正から用いられました。
干拓は水面や低湿地などを堤防で締め切ったあとで排水し、干上がった土地を新たに陸地とするもので、海面干拓と湖面干拓に分けられます。
干拓は古くから積極的に行われていましたが、太平洋戦争後は食料増産対策としてその事業が進められ、近年では優良農地の造成や高度利用などの観点から、干拓事業が推進されています。
「籠(ごもり)」「搦(からみ)」「開(びらき)」から、「干拓」という言葉へのも大正時代だったのでしょうか。
それまでの「家のため」「子孫のため」から、人類の為という感覚がで始めた時代は、やはり驚異的に変化した時代だったのかもしれません。
「干拓の手法」には有明干拓(佐賀干拓)や笠岡干拓(岡山県)のように「海(湖)面を直接堤防で囲み、内部を排水して干陸化するもの」(単式干拓)と、児島湾干拓(岡山県)、八郎潟干拓(秋田県)、諫早干拓(長崎県)そしてゾイデル海干拓(オランダ)のように「海湾(潟)の全部または一部を堤防で仕切り、人造湖を造成したうえで内部堤防を築き、その内側を干陸化する」(複式干拓)があることが説明されていました。
複式干拓とは、「水源としての淡水湖を合わせて造成する」ために締め切り堤防が造られるようです。
諫早湾の干拓地は942ha(農用地681ha)で、児島湾は4,470ha、笠岡は1,810haだそうです。
展示のパネルには、諫早湾の特徴に「高潮や洪水への対策という防災機能も合わせもっている」と書かれていますが、諫早湾干拓事業が発案された数年後に起きた諫早大水害の影響もあったのでしょうか。
Wikipediaの「諫早湾干拓事業」の構想には以下のように書かれています。
干拓によって広大な干拓地が得られるとともに、農地の冠水被害(塩害)が防がれ、農業用水も確保されるとされた。諫早を流れる本明川は数年に一度の頻度で氾濫し、住民は水害に悩まされてきた。1957年には500人以上が犠牲になる諫早大水害が起こっている。諫早市内には水害を防ぐために多数の水門が備えられており、見張り役が立って水門の開け閉めをしていたが、危険を伴う作業であった。
(強調は引用者による)
こういう一文を読むにつけ、あのもう一回こまかな事実をきちんと出していくことが重要なので、慌てて理論とか構造とかを立てる必要はないと、感情移入という自分中心主義の手法におちいらないようにと戒めた鶴見良行氏の文章が思い浮かんできます。
「干拓地」と一言では言い尽くせない、それぞれの地域の生活史があるのですね。
その説明のパネルの「主な干拓地」では、上記以外に、十三潟干拓、河北潟干拓、印旛沼干拓、木曽岬干拓、大中之島干拓、中海干拓、西国東干拓、三池干拓、横島干拓、不知火干拓、羊角湾干拓が書かれていましたが、いつの間にか歩いた干拓地が増えてきました。
次は、どの干拓地を歩き、どのような歴史を知る機会があるでしょうか。
「米のあれこれ」まとめはこちら。