「看護の本質」というタグをつくってみます

いつの間にか「医療介入とは」で始まるタイトルが50近くになってしまいました。
ブログを訪れてくださる方も、「あれ?まだやっている」とタイトルを見ただけでお腹がいっぱいになられているかもしれないとひそかに心配しています。


「医療介入とは」は、まだまだ書いてみたいことがあるので続きます。すみません。
おそらく200とか300ぐらいまでいくのではないかと。
でも正直、自分でもちょっと気分転換をはかりたくなりましたので、「医療介入とは」は不定期に入れていこうかと思います。



そしてあらたに「看護の本質」というタグをつくってみようと思います。


私は看護論や看護研究には疎いし不勉強なことが多いのですが、自分の臨床経験を通しての観察や考えから何か普遍的なもの、本質的なことに近づいてみたいという思いがあります。


たとえば前回の記事のように、アクティブ・バースやフリースタイル分娩といった言葉が何を意味しているのか定義さえも明確でないことが出産・育児の周辺にはたくさんあります。


出産は医療という視点だけでなく、もちろん歴史的文化的背景やその時代の価値観や流行など社会的な側面に大きく影響されます。
あるいはどこまで医学を出産に取り入れるかも、社会が決めていくことでもあります。


そういう意味では、社会の中でアクティブ・バースやフリースタイル分娩がどのように語られているかは、「言葉の意味」というタグの中で考える内容だといえるでしょう。
社会が求めていることは何か、出産に関わるものとして理解していく姿勢は必要です。


ただし助産師あるいは産科勤務の看護師がそれをそのまま取り入れるのではなく、社会が求めているものは何かつきつめて考えていけばおのずと看護の本質の部分に到達し、看護をよりよいものにできたのではないかと思います。


よりよいものにできたのではないか・・・と過去形で書いているのは、あまりにも助産師の世界は世の中の流れに敏感に反応しすぎて、そういう看護の本質を考えることが遅れてしまったのではないでしょうか。


ホメオパシー助産師の中に広がり社会的な問題にまでなった時に、あのナイチンゲールの「看護覚え書」の中にホメオパシーを批判した部分があったことを知りました。
30年以上前の看護学生の時代に読んだ時には、当然ホメオパシーなんて知りませんでしたから読み飛ばしていたのでしょう。

ホメオパシー療法は素人女性の素人療法に根本的な改善をもたらした。というのは、その用薬法はまことによくできており、かつその投薬には比較的害が少ないからである。その「丸薬」は、どうしても何か善行を施して満足したいひとたちが必要とする一粒の愚行なのであろう。というわけで、どうしても他人に薬を与えたいという女性には、ホメオパシーの薬を与えさせるとよい。さしたる害とはならないであろう。
(「看護覚え書」14.おわりに、p.220)


ああ、何と古くて新しい本だったのでしょうか。
なんと本質を見抜く鋭い観察力なのでしょうか。


ナイチンゲールホメオパシーについてこのように書いていたことを知り、私は震えるような感動を覚えました。
そして一度は捨ててしまった「看護覚え書 −看護であること、看護でないことー」(現代社)を再び購入したのでした。


残念ながら、ナイチンゲールは現代のようにネットや出版物で不確かな情報が広がりやすく人を翻弄する時代がくることまでは想像できなかったのだと思います。
「さしたる害とはならない」はずだったものが、助産師が勧めたことで乳幼児を適切な医療から遠ざける大人を生み出してしまいました。


看護は看護職のものだけではありません。
もともと家庭看護から始まった、長い歴史のある医療の一部でもあります。
親が、大人が子どもの健康を守るのも看護です。


もうひとつ、これからの助産師の方向性として考えるべき部分を紹介したいと思います。

 人々の看護についての考え方は二通りある。ひとつは、看護とは煩わしく無益な干渉であって(確かに、そういうことが多すぎる)、できるだけ避けたいという考えであり、もうひとつは、看護は「神秘」だという考えである。
患者を導いて何かをさせようとしたところ、ほかの看護師にはどうしてもできなかったのに、ある優秀な看護師の手にかかると患者は喜んでするようになった。こんなとき、人々はこれを「天才」とみたり、何年か前にロンドンでよく実施されていた生物学を応用した手品の一種ではないかと考えたりする。
(13.病人の看護、p.196)

お産の時にそばについてマッサージをしたり、おっぱいのトラブルに対応すると「すごい、神の手だ」と喜ばれることがあります。
ほめられると正直にうれしいですが、助産師なら皆経験があるかと思います。
「神の手」はそこらじゅうにいるわけです。
その「神の手」として喜ばれたのはどういう部分であるか、どのスタッフもできるように標準化したものが看護技術になるはずです。

 ところで、看護については「神秘」などはまったく存在しない。良い看護というものは、あらゆる病気に共通するこまごまとしたこと、および一人ひとりの病人に固有のこまごましたことを観察すること、ただこれだけで成り立っているのである。(13.病人の看護、p.197)

「看護」を「助産」に、「病気」を「出産」に置き換えてみればよいでしょう。
良い看護あるいは良い看護技術は、やはり対象の観察から始まる。
看護を志す人が最初に学ぶことだと思います。


ところが効果が十分に検証されていない代替療法や出産・育児に関する療法的なものを積極的に取り入れたり、誤った観察方法による誤ったケア方法を独自に作り出すことで、出産の中の助産師の役割に神秘性を強く持たせようとしたこの30年ほどの流れは、結局は看護の本質から大きく離れてしまったといえるのではないでしょうか。


看護の本質、私にはあまりに大きすぎる課題ではありますが、挑戦してみたいと思います。